緋黒の焔〜ヒトラー異世界戦記〜

影山ろここ

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第八章

戦勝式典2

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「ジークハイル! ジークハイル!」

 兵士たちが腹から声を絞り出しているのはわかる。しかし問題は、それがナチス式の唱和である点だ。

 ゲルト語とドイツ語の間にあった共通性に着目し、軍事指導に取り込んだはいいが、得体の知れない押しつけと思われたゆえに採用を見送られた一種の儀礼。それがなぜか、当の兵士たちにより、式典の場で再現されはじめた。何の前ぶれもなくだ。

 しかしそれは元々勝利を祝す言葉で、意味は単純である。
 だから同じことを真似るのは実に簡単だった。馴染みのない台詞でないというだけで、群衆のヒト族も一度は抑えた高ぶりを再び溢れさせる。敵の打倒を目撃した歓喜の色をともなって、兵士の叫びに自分の声を同調させていく。

「ハイル! ハイル! ハイル!」

 だが、真に驚くべきことは他にあった。群衆は「万歳」を叫びながら、右腕を斜め上に掲げていった。どうしてそんな真似をはじめたのか。アドルフが後ろを振り返ると、兵士たちは同じポーズをとりながら「ジークハイル!」を連呼しているではないか。

 事情を汲んで封印したものの、アドルフの指導自体は彼らの間に浸透していた。そう考えれば、辻褄は合う。

 さらに戦勝という実績を勝ち取ったことで、アドルフへの忠誠心が高まったのだろう。同じ奇妙な動きでも、偉い振り付け師が仕込めば、とんでもなく芸術性の高い踊りに見えてくるものだ。
 ごみクズだった株がピカピカの人気銘柄に生まれ変わったのを目の当たりにした気分で、アドルフは思わず吹き出してしまう。それは半分は失笑だったが、もう半分は群衆と同様に歓喜の笑いだった。

 そして意識を内側に向けると、急に感慨深くなった。前世の彼を包んでいた懐かしい高揚感。転生寸前には忘れかけていたことだった。目をつむれば、寒々しい冬服を着込んだ大衆が脳裏に浮かぶ。彼らは口々にアドルフを讃える言葉を唱え、喉を涸らし叫んでいた。

 ――ハイル・マイン・フューラー我らが総統万歳

 聞こえないはずの声を聞き取り、彼はここで思い出に浸るのをやめた。なぜなら目を開ければ、かつてベルリンの街路を埋め尽くしたのと同じ人の群れが、行政府庁舎前を埋め尽くしている。いま自分が向き合うべきは過去のドイツではない。新たな人生を刻んだセクリタナの民だ。

 感傷を断ち切ったアドルフは演壇にのぼって腕を組み、静かに気持ちを入れ直した。聴衆はもう十分に暖まっているから、あとはタイミングを待つのみである。

 うねり狂う「万歳」の絶叫が途切れ、群衆が右腕を自然と下ろす頃を見計らい、彼は自分を待ちわびた人々にむけて優美な音色の第一声を送り込んだ。

「我々はここビュクシから、魔人族の軍を駆逐した。一五〇年は続いたやつらの独裁に穴が空いたのだ。手にしたのは自由である。諸君らはもうやつらの代官に色目を使う必要はない。自分たちが選んだ統治者によってこの街を治めることができる。我はこの街の統治権を手にしたが、その権利はいずれ諸君らに返還しようと思う」

 今回アドルフは、大事なことを最初に述べるスタイルをとった。そして出だしのトーンをあえて下げるのは、彼の声に人々の意識を集中させることが目的だ。もちろん、興奮した者が騒げば邪魔になるものの、なぜか群衆のほとんどは静まり返っている。

 一流の演説家は自分のリズムに聴衆を同調させることができる。その秘密はアドルフの声質にあった。粗野と上品が同居したその独特な声は、後者を強調すれば、聞き手の心を優しく撫でてくるのだ。
 紳士的にしてエレガント。そんな彼の美しい側面は、すぐさま群衆に冷や水を浴びせた。

「諸君らは自由となった。これは歓迎すべきことだ。しかし、全てから解き放たれたわけではない。どういうことかわかるかね?」

 群衆は瞬時に息をのんだ。その表情一つひとつを眺めやり、アドルフは声色こそ変えないが急ピッチで話を進める。

「諸君らは難題を抱えている。まずは商業的なことだ。長らく景気が冷え込み、生活苦が蔓延しておる。この問題を解決せぬことには、どんなに自由でも立ち行かない。戦勝に酔う今日でなく、不況と向き合う明日に目を向けよ」

 のっけから不都合な真実を告げたことで、群衆に困惑の色が見えた。もっともアドルフにとってそれは予想どおりであり、期待どおりの反応だ。

「次の難題。それは軍事的な問題である。体よく追い払った魔人族だが、いつまでも指をくわえているとは思えん。何らかの理由をこじつけ、ビュクシの奪還を図る可能性が高い。それもかなり近い未来にだ。諸君らはやつらの反撃に対応せねばならん」

 まるで問題を丸投げするような口ぶり。突き放したような物言い。アドルフは流暢に話すが、静まり返っていた群衆はざわつきはじめた。
 それは動揺と不安の表れである。演説がとんとん拍子に進むため、冷淡に問題点ばかりを口にするアドルフへの不満より、目に見えない現実への懸念が彼らに取り憑いたのだ。
 解放者であるアドルフは、いまこの時点が発言力の頂点にある。大げさに言えば、彼の言葉は神のごとき畏怖をまとっていたのだ。不満など抱きようがなく、その重みに人々は左右される。

「次に食糧問題だ」

 アドルフはここで人差し指を立て、しばらく動きを制止させた。視線をさまよわせつつ騒然としていく群衆たちは、何かにすがるような目つきでその指を追った。
 おそらく救いのようなものを求めたのだろう。けれどアドルフは、ここでも現実を突きつける。

「今日の戦闘で、魔人族らは食糧倉庫に火を放った。小麦の備蓄は一ヶ月分。これでは到底食いつなげん。ビュクシが飢える日までの秒読みはすでに開始されておる」

 この情報は本来、秘密にしておくべきだったはずだ。嘘が嫌いで誠実な政治家でも、隠し事をするという不誠実を選んだに違いない。
 余計な波風を立たせず、その間に問題解決を図りたい。だがどうやら、アドルフにそんな配慮は微塵もないようだった。結果群衆は、戦況を冷静に見守っていた一部の人間以外は言葉にならない声をあげ、顔面を蒼白にさせた。

 それらは、空気を震わせるほどのどよめきとなる。もちろん最悪に近い恐怖だ。人間にとって飢えほど恐ろしいものはない。アドルフにはその感情が手にとるようにわかる。

 やがて視界の片隅で、我慢しきれずにフリーデが動きだそうとしていた。行き過ぎた発言を諫めようと考えたのかもしれない。

 その動きは想定外であったが、アドルフはフリーデを右手で制し、逆に彼女が掲げた軍旗を「振れ」といわんばかりに合図を送った。何しろ彼にとって、群衆の恐怖を引き出すこと自体に意味があったからだ。

「諸君、慌てる必要はない!」

 まるで群衆の呼吸を読んでいたかのようなタイミングで、アドルフはついに声を荒げた。その隣でフリーデが軍旗をはためかせ、折からの強風がアドルフを襲う。

 前髪がひとふさ目の上に垂れてしまうが、彼はそんなことなどお構いなく、国民服の襟の辺りを親指で突きながら、一段と声高になって叫ぶ。

「不況、軍事、食糧、問題は山積である。だがそれらを解決するために我がおるのだ!」

 ここで群衆の半分近くが再びテラスを見あげた。ムチで打たれた犬のような顔つきである。依然として騒ぎをやめない者もいるが、アドルフへの抗議ではない。ただ単純にパニックに陥っているのだ。
 そんな人々の心を変えるには、人知を超えたものの力が必要だ。幸いにして、ヒト族のほぼ全ては聖隷教会の信徒である。彼らの創造主にたいする崇敬に訴えるべく、アドルフは拳を心臓の前に掲げた。

「我は日々祈りをくり返し、敬虔さを深めていった亜人族である。ゆえに昨晩、我は《主》より身に余る神意を授かった。完全なる勝利をめざし、戦後の諸問題を解決せよという宣託を。ごく控え目に言っても、我には《主》の加護がある。魔人族を駆逐し、勝利を得られたのがその証拠だ。次は《主》より託されし、諸問題を解決していく番である。栄誉に満ちた使命に我は全霊を捧げ忠誠を誓う!」

 彼をよく知る者にすれば、この発言はだいぶ話を盛っていた。アドルフ自身、《主》の宣託など受けた覚えもない。だが演説の本質は、聴衆に真実を理解させることではない。彼らを変え、新たな意志を植えつけることにある。そのためには、ときに虚偽だろうと必要悪だ。

 はたせるかな、《主》の名を連呼したことで、嘆き喚いていた人々が壇上に顔を向けた。混乱した無秩序な視線たちは、一〇メーテル以上高い位置に立つアドルフを凝視する。

 この高低差自体、舞台装置のひとつだった。仰ぎ見るような天に近い場所。そこに佇むだけで群衆は、アドルフと《主》の間につながりを見出だすのである。
 潮目は反転しはじめた。アドルフは譜面どおり進む演説に満足し、怒濤のごとく言葉を叩きつけた。

「これより我は、いま言った諸問題の解決を諸君らに約束しよう。まずは一ヶ月の間に食糧問題を。ついで経済を立て直すべく、大胆な政策を打ち出す。またその過程で、魔人族の矛先が諸君らに向かわないよう、新たな軍事行動も開始する。そしてこれらを連動しておこなうべく、行動の基盤となる〈党〉を設立する!」

 群衆の知識レベルはわからないが、少なくとも大人たちは、連邦の政党はたったひとつで、評議会を牛耳る統一党しかないことを知っている。

 ゆえに新しい党を立ちあげると言ったアドルフの言葉に、彼らは思わず息をのんだ。ビュクシを統べる新指導者は、魔人族の独裁的支配に一時的ではなく、それどころか徹底的に歯向かう気なのだと理解したのである。

 おそらくアドルフにとっても、ここが一番の賭けだったはずだ。反対される可能性がもっとも高かったからである。しかし自分たちを取り巻く現実を見つめた群衆は、それらを解決する救世主を求めていた。アドルフという断片は彼らの心の空白にぴたりとはまった。その音がかすかに聞こえた気がしたとき、群衆の方々から一斉に声があがった。

「――異議なし!」
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