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第七章
停戦交渉3
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気づけば、チェイカは降下をはじめていた。飛行距離は一ギロにも満たなかったと思う。
着陸に備えて体に力を入れると、ほどなくして衝撃が伝わってきた。どこかは不明だが、目的地に到着したのだ。
ルツィエを背負う鉄兜団員が操縦悍を離し、慎重な動作で地面に降り立ったのがわかった。下を見れば、舗装された石畳が敷きつめられている。辺りに眼を向けると、そこは多目的につくられた広場のような場所だった。
いったい敵軍はどこにいるのだろうか。
ルツィエが薄い眼を凝らしたとき、暖かい匂いのする声が耳をくすぐった。
「殿下、降りられますかな?」
大丈夫とは言い切れなかったが、「問題ないわ」と答えた。実際、不安を振り払いながら手を離したが、地に足をついても脇腹に激痛は走らず、ピリッと骨に響く程度で済んだ。
そうなると、気持ちに余裕ができる。
彼女はさらに周囲を見渡し、遠目に人だかりを発見した。民衆もいるようだが、傍観者だろう。いずれにしろあそこに敵軍がいるのだとルツィエはあたりをつけた。
――案内しなさい。
彼女の口から部下への命令が出かかった。しかしそれは声にはならなかった。
おもむろに振り返ろうとしたとき、目に入ったのだ。地上に待機していた鉄兜団員たちが、たちまち一直線の列をつくり、儀仗兵のように整列した様が。
戦闘で疲れ、あるいは傷ついた者もいたはずである。それがあまりに機敏な動きを見せ、命令を待つ態度をとった。その無言の意図をルツィエは察した。
――妾に先導しろということか。
停戦交渉とは、パッと判を押して済むような安直なものではなく、たとえ敗軍と言えど尊厳を失うことがあってはならない。特に将帥たる者、泥にまみれても名誉を体現すべきだった。
団員は一人としてそんな忠告をしなかったが、きっと王族である自分に配慮したのだと思う。あえて口にしなくても、人の上に立つ人間なら一人前の仕事をやってのけろというわけだ。
怪我人の一人でもあるルツィエだが、いまはさっきまでと違い、部下に甘えられる状況でないことを瞬時に悟った。
彼女は小さく息を吐き、頭を切り替えた。そして灼け焦げた上着を払って背筋を伸ばし、「ついて来い」と指で合図を送りながら、しかめっ面をして歩き出した。
高くなりがちな鼻を下げ、数十メーテル先にある人だかりにルツィエは向かった。それでいて威厳を失わないよう、悠然と歩を進めた。部下たちはきっと安心したと思う。その佇まいにはやはり、特別な者だけが放つ高貴さが漂っていたからだ。
とはいえ彼女の内面は、実際のところ完全無欠とは言いがたかった。気持ちは立て直せたが、交渉という舞台が近づけば近づくほど、一抹の不安が脳裏をよぎったのだ。
スターリン時代、彼女には不得意な分野があった。それは外交交渉である。
タフな駆け引きが必要な場は外務人民委員であるモロトフに任せきりだった。ドイツと結んだ不可侵条約などはその典型である。
なぜ苦手としたか、一応自己分析はできている。他国から見たスターリンは、ソ連を支配する超然とした独裁者だった。しかし実際に会ってみると想像との落差は否応なく生じる。
偉大な指導者としての像に反し、実際は器の小さい人間だな――。
交渉相手の大物政治家にそうやって見くびられるわずかな隙も、スターリンは許せなかった。だから舞台の袖に引っ込み、出番を減らすことで自分を偉く見せようと腐心したわけだ。
しかしいまこの瞬間、代理を任せられたモロトフはいない。《魔王》の子女として、ビュクシ防衛軍の臨時司令官として、重責をこなしてみせねばならない。自分に代わる人物は他に一人もいないのだ。
そんなふうに腹を固めると、なぜか不思議と笑みが湧いてきた。
異世界に来て、スターリンは二度めの人生を得た。その過程でルツィエとして生き、何らかの変化が起きているのは確実である。何しろ彼女は、病的なほどの高所恐怖症を克服できたのだ。苦手な外交交渉も同じように乗り越えられる。いや、乗り越えねばならない。
ほど良い緊張感に包まれつつ、鉄兜団員を率いて、人だかりのほうへと近づいていくルツィエ。やがて彼女は、敵兵の集団をその視界に収める。
中央に陣取るのは、国民服を着た敵の将帥である若い男だった。
自然体と言えば聞こえはいいが、男はひどくリラックスしており、軍隊式の厳めしさはない。また仲間の多くは冒険者風情で、まるで近所の八百屋が武装したような者も含まれている。
そんな中、特に注意を引いたのは、将帥を含む何人かが防塵マスクを装着していた点だ。戦闘中からそのいでたちだったが、考えうる理由は城壁等の破壊で生じる粉塵から呼吸器を保護するためだろう。
随分慎重な連中だったのだな、と今さら意識が働くも、次第にこみあげる違和感をルツィエは無視できなかった。なぜなら一糸乱れぬ自軍の隊列に比べ、彼らのダラけぶりは威厳もくそもなかったからだ。
――こんな連中に妾は負けたのか。
人数も全員揃ったのだとすれば非常に少なく、軍隊と呼ぶのもおこがましいほどの素人集団に見える。
せめてもの救いは、敵の将帥にどこか品格のようなものが感じられたことだ。姿勢こそ崩しているが、軽く腕を組み、黒髪をなびかせながらの立ち姿は様になっている。下賎の者ではあるだろうが、前世でいうところの映画俳優を彷彿させる佇まいだ。
注意深く歩を進めていくと、二つの軍勢はようやく広場の隅で対面した。
部下によれば、停戦の段取りはすでについている。そのことを思い出すと、残された仕事は微々たるものではないか、という思いがルツィエに湧いた。外交慣れしていないぶん曖昧に感じる点はあったが、敵軍とのやり取りは相手主導で進んだ。
「ローゼよ、始めてくれ」
敵の将帥が短く言って、隣に立つ女性を促した。その女性にルツィエは見覚えがあった。ビュクシの行政官、ヴァインベルガーの娘だった。
ローゼと呼ばれた女が引っ張りだしてきたのは子供の背丈ほどの机だ。そして椅子が二脚。その無抵抗な対応ぶりを見て、今朝まで味方だった者さえ敵に取り込まれ、立場を中立化したことをルツィエは感じとる。
なぜか失望感を抱きかける彼女をよそに、敵将帥が忙しなく椅子を引き、着席した。場の流れに遅れまいとルツィエも椅子によじ登ったが、脇腹が痛みだし、思惑とは裏腹に汗をかくほどひと苦労となる。鉄兜団員の助けを借りて、どうにか腰を落ち着かせた。
やはり本調子が出ないルツィエだが、敵の将帥はしばらく目もくれなかった。隣に顔を寄せた側近と何やらぺちゃくちゃ会話をくり広げている。注意力散漫もいいところだが、聞き耳を立てずとも内容は向こうから飛び込んでくる。
「リッドだけでは心配だ。僕たちも手伝ったほうがよかったんじゃないか?」
将帥に文句をぶつけたのは、短い銀髪の女だ。
その風貌は、緒戦でルツィエを苦しめた魔導師をどことなく想起させたが、同一人物と言えるだけの証拠はない。
むしろ気になったのは彼らの会話だ。敬語抜きの意見に敵将帥は肩をすくめて答える。
「案ずるな、街の消火活動は水属性をもつリッドに任せたのだ。兵の半数を預けておるし、お前たちはこの正統なる手続きの見届け人である。敵兵を見習い、堂々としておればよい」
若い亜人族のわりに威厳のある言葉遣い。けれど組織における上下関係などないかのように、海軍帽を被った若い女が退屈そうに絡んでくる。
「何かだりぃんだよ。俺はこんな堅苦しい場所にいたくなかったぜ」
体裁こそ軍隊を装っているが、規律のあり方はやはり素人同然。いくらゲルト語に敬語表現が乏しいと言っても限度がある。相手に軽蔑すら抱き、ルツィエは呆れ返った。
ところがその態度は、彼女の癖で下卑た薄笑いとなってしまう。性格の悪さが否応なく滲み出た格好だが、無自覚な反応は軽い怒りを買った。国民服に身を包んだ敵の将帥が、胡乱な目を向けてきたのだ。
「そこのこわっぱ、何が可笑しくて死神のような顔で笑っておるのだ。お前たちが街を灼いたせいで我々は大迷惑をこうむっておる。負け犬は負け犬らしく、反省くらいしてみせよ」
こちらを射抜くような瞳を向け、年齢不詳なしゃがれ声を敵将帥が放つ。しかもうっかり聞き流してしまうところだったが、男が口にしたのはセルヴァ語だった。そのうえで男はあえて敬語表現を使わず、自分を魔人族と対等に置いたわけだ。
運良く解放された程度の亜人族が生意気な態度ではないか。ルツィエは支配人種としての偏見を呼び起こされたが、その一方で不思議と、敵将帥の振る舞いに強がりを感じなかった。いくら戦勝を収めたからと言っても、彼の落ち着きは完全に板についていたからである。
いったいそれはどこから湧いてくるのか。敵将帥は面倒くさそうに黒髪をかきあげたが、ルツィエは彼の動きを目で追ってしまう。
その漠然とした注意はしかし、長続きしなかった。行政官の娘ローゼが静かにかしずいてきたからだ。意識を向ける間もなく、ルツィエは上品な声で耳打ちをされる。
「姫殿下、こちらの書類にサインをお願い致します」
このときルツィエは、ついに現実と対面することになった。自軍が敗北したという現実と。
しかし最初のうち彼女は、無意識にそれを避けた。停戦の下交渉は済んでいるのだから、あとは自分が裁可を下し、合意文書にサインをするのみ。状況を余すところなく理解していながら、臣下のごとく付き添うローゼに何となく従った。
ルツィエは手渡された羽ペンを握り、椅子にふんぞり返った。敵の将帥に遅れをとるまいとする心が働いたのだろう。
そうすることで亜人族を見下す気になれたかもしれないが、机上に置かれた一枚の書類へ眼を注いだ途端、現実はたちどころに彼女の幻想を打ち砕いた。
――統治権委譲書。
さらりと書かれた最初の文言が、これ見よがしに踊っている。
戦略地点を強奪されただけなら、後で奪い返すという名分が立つ。事実、ルツィエたちが火を放ったのはそれが敵の占領を麻痺させる一時的措置であるからだ。
しかし、停戦の見返りに相手が要求してきたのは、法的な正統性をもつ統治権だったのだ。それが「統治権委譲」と記された文書の意味。ビュクシを奪われることさえ耐えがたい屈辱なのに、法的根拠まで与えてしまったら簡単には奪還できなくなる。つまりこのとき、ルツィエは二重の屈辱を受けたに等しい。
あてが外れた彼女は打ちのめされ、小声で呪詛をつぶやいた。とはいえそれは、表にぶちまければ負け犬の遠吠えに過ぎず、残りわずかな名誉すら投げ捨てる行為。だから彼女は必死になって唇を噛み、おのれの感情を押し殺した。
痛恨の一撃を食らいながら、なぜ堪えられたのか。さすがに自己分析などできる余裕はなかったが、想像以上に肝が据わっていたことは疑いない。心の弱さを上まわる何かがあったのだろう。
直近の出来事で言えば、兄パベルを謀殺したことで吹っ切れた部分があった。それと意外に聞こえるかもしれないが、屈辱で我を忘れるような人間は独裁者になれない。彼らは思いの外、いやほぼ全ての例において計算高く、どんなときでも論理的な思考を手放さない人種だ。
心が衝撃を受け、現実逃避をはじめても、論理に立ち返ること。それはすなわち事実にもとづくことである。戦勝に乗じて敵がふっかけてきたという一点を除くと、状況はそれほど悪化しておらず、冷静に考えれば想定内のことも多い。
延焼した街の被害は大きく、とりわけ穀物倉庫の火災はビュクシ住民の生活基盤を甚大に破壊する。統治権を握った以上、それらの対処は占領軍どもの仕事だ。
そう、この停戦協定が持つ本質は、山積する難題を敵側に贈りつけることだった。公平な評価にもとづけば、サインを拒む理由は何ら存在せず、やがてルツィエは普段にも増して高らかに宣した。
「イェドノタ魔導評議会連邦第四王女として、この文書の発効を認めるわ。ただし、わかっていると思うけど、街は大変に荒れ果てている。その復興もまた、貴方の責務よ。そういう条件つきの統治権委譲であることをお忘れなく」
「当たり前だ、最初からそのつもりである」
敵の将帥は多くを語らず、防塵マスクに手を当てた。そんな煩わしいものをいつまで着けているんだ、と彼女は思っていたが、いまも首をめぐらせると各所で炎が吹き上げており、煙と粉塵で息苦しいことこの上ない。つまりマスクの装着は依然有効な措置なのだ。
どこまでも周到なやり方に見え、内心面白くないルツィエだが、腹はもう決まっていた。穀物倉庫が灼け落ちたせいで、住民が飢える日は必ずや訪れる。
――その日が来るのが楽しみでならないわ。
心の奥底で邪悪な願望をつぶやいたルツィエは、気味の悪い笑みさえ浮かべ、書類の末尾にサインを走らせようとした。
しかしその瞬間、ペンを握った手が止まった。
末尾のスペースに信じがたい一文があったことを、彼女は署名の段になってはじめて気づいた。こんなに予期せぬ偶然が存在するだろうか。そこに書き込まれた文字をルツィエは眼を凝らして見た。もう一度、いや何度でも。
不条理な停戦条文があったのではない。その一文は、敵将帥の姓名に関わるものだった。
彼女は、行政府に難癖をつけてきたトルナバ町長の名前は関知しておらず、したがって敵の将帥が何者かも知らずにいた。ザコには興味を持てず、現場で戦う軍人には無関係な情報だし、何の疑いもなく放置してきたのである。
だが、それは完全な落ち度だった。書類の署名は見て、ルツィエはおのれの怠慢をなじった。
――アドルフ・ヒトラー。
その達筆な綴りは一字一句間違いなく、かつての宿敵ドイツ国総統のものであったからだ。
着陸に備えて体に力を入れると、ほどなくして衝撃が伝わってきた。どこかは不明だが、目的地に到着したのだ。
ルツィエを背負う鉄兜団員が操縦悍を離し、慎重な動作で地面に降り立ったのがわかった。下を見れば、舗装された石畳が敷きつめられている。辺りに眼を向けると、そこは多目的につくられた広場のような場所だった。
いったい敵軍はどこにいるのだろうか。
ルツィエが薄い眼を凝らしたとき、暖かい匂いのする声が耳をくすぐった。
「殿下、降りられますかな?」
大丈夫とは言い切れなかったが、「問題ないわ」と答えた。実際、不安を振り払いながら手を離したが、地に足をついても脇腹に激痛は走らず、ピリッと骨に響く程度で済んだ。
そうなると、気持ちに余裕ができる。
彼女はさらに周囲を見渡し、遠目に人だかりを発見した。民衆もいるようだが、傍観者だろう。いずれにしろあそこに敵軍がいるのだとルツィエはあたりをつけた。
――案内しなさい。
彼女の口から部下への命令が出かかった。しかしそれは声にはならなかった。
おもむろに振り返ろうとしたとき、目に入ったのだ。地上に待機していた鉄兜団員たちが、たちまち一直線の列をつくり、儀仗兵のように整列した様が。
戦闘で疲れ、あるいは傷ついた者もいたはずである。それがあまりに機敏な動きを見せ、命令を待つ態度をとった。その無言の意図をルツィエは察した。
――妾に先導しろということか。
停戦交渉とは、パッと判を押して済むような安直なものではなく、たとえ敗軍と言えど尊厳を失うことがあってはならない。特に将帥たる者、泥にまみれても名誉を体現すべきだった。
団員は一人としてそんな忠告をしなかったが、きっと王族である自分に配慮したのだと思う。あえて口にしなくても、人の上に立つ人間なら一人前の仕事をやってのけろというわけだ。
怪我人の一人でもあるルツィエだが、いまはさっきまでと違い、部下に甘えられる状況でないことを瞬時に悟った。
彼女は小さく息を吐き、頭を切り替えた。そして灼け焦げた上着を払って背筋を伸ばし、「ついて来い」と指で合図を送りながら、しかめっ面をして歩き出した。
高くなりがちな鼻を下げ、数十メーテル先にある人だかりにルツィエは向かった。それでいて威厳を失わないよう、悠然と歩を進めた。部下たちはきっと安心したと思う。その佇まいにはやはり、特別な者だけが放つ高貴さが漂っていたからだ。
とはいえ彼女の内面は、実際のところ完全無欠とは言いがたかった。気持ちは立て直せたが、交渉という舞台が近づけば近づくほど、一抹の不安が脳裏をよぎったのだ。
スターリン時代、彼女には不得意な分野があった。それは外交交渉である。
タフな駆け引きが必要な場は外務人民委員であるモロトフに任せきりだった。ドイツと結んだ不可侵条約などはその典型である。
なぜ苦手としたか、一応自己分析はできている。他国から見たスターリンは、ソ連を支配する超然とした独裁者だった。しかし実際に会ってみると想像との落差は否応なく生じる。
偉大な指導者としての像に反し、実際は器の小さい人間だな――。
交渉相手の大物政治家にそうやって見くびられるわずかな隙も、スターリンは許せなかった。だから舞台の袖に引っ込み、出番を減らすことで自分を偉く見せようと腐心したわけだ。
しかしいまこの瞬間、代理を任せられたモロトフはいない。《魔王》の子女として、ビュクシ防衛軍の臨時司令官として、重責をこなしてみせねばならない。自分に代わる人物は他に一人もいないのだ。
そんなふうに腹を固めると、なぜか不思議と笑みが湧いてきた。
異世界に来て、スターリンは二度めの人生を得た。その過程でルツィエとして生き、何らかの変化が起きているのは確実である。何しろ彼女は、病的なほどの高所恐怖症を克服できたのだ。苦手な外交交渉も同じように乗り越えられる。いや、乗り越えねばならない。
ほど良い緊張感に包まれつつ、鉄兜団員を率いて、人だかりのほうへと近づいていくルツィエ。やがて彼女は、敵兵の集団をその視界に収める。
中央に陣取るのは、国民服を着た敵の将帥である若い男だった。
自然体と言えば聞こえはいいが、男はひどくリラックスしており、軍隊式の厳めしさはない。また仲間の多くは冒険者風情で、まるで近所の八百屋が武装したような者も含まれている。
そんな中、特に注意を引いたのは、将帥を含む何人かが防塵マスクを装着していた点だ。戦闘中からそのいでたちだったが、考えうる理由は城壁等の破壊で生じる粉塵から呼吸器を保護するためだろう。
随分慎重な連中だったのだな、と今さら意識が働くも、次第にこみあげる違和感をルツィエは無視できなかった。なぜなら一糸乱れぬ自軍の隊列に比べ、彼らのダラけぶりは威厳もくそもなかったからだ。
――こんな連中に妾は負けたのか。
人数も全員揃ったのだとすれば非常に少なく、軍隊と呼ぶのもおこがましいほどの素人集団に見える。
せめてもの救いは、敵の将帥にどこか品格のようなものが感じられたことだ。姿勢こそ崩しているが、軽く腕を組み、黒髪をなびかせながらの立ち姿は様になっている。下賎の者ではあるだろうが、前世でいうところの映画俳優を彷彿させる佇まいだ。
注意深く歩を進めていくと、二つの軍勢はようやく広場の隅で対面した。
部下によれば、停戦の段取りはすでについている。そのことを思い出すと、残された仕事は微々たるものではないか、という思いがルツィエに湧いた。外交慣れしていないぶん曖昧に感じる点はあったが、敵軍とのやり取りは相手主導で進んだ。
「ローゼよ、始めてくれ」
敵の将帥が短く言って、隣に立つ女性を促した。その女性にルツィエは見覚えがあった。ビュクシの行政官、ヴァインベルガーの娘だった。
ローゼと呼ばれた女が引っ張りだしてきたのは子供の背丈ほどの机だ。そして椅子が二脚。その無抵抗な対応ぶりを見て、今朝まで味方だった者さえ敵に取り込まれ、立場を中立化したことをルツィエは感じとる。
なぜか失望感を抱きかける彼女をよそに、敵将帥が忙しなく椅子を引き、着席した。場の流れに遅れまいとルツィエも椅子によじ登ったが、脇腹が痛みだし、思惑とは裏腹に汗をかくほどひと苦労となる。鉄兜団員の助けを借りて、どうにか腰を落ち着かせた。
やはり本調子が出ないルツィエだが、敵の将帥はしばらく目もくれなかった。隣に顔を寄せた側近と何やらぺちゃくちゃ会話をくり広げている。注意力散漫もいいところだが、聞き耳を立てずとも内容は向こうから飛び込んでくる。
「リッドだけでは心配だ。僕たちも手伝ったほうがよかったんじゃないか?」
将帥に文句をぶつけたのは、短い銀髪の女だ。
その風貌は、緒戦でルツィエを苦しめた魔導師をどことなく想起させたが、同一人物と言えるだけの証拠はない。
むしろ気になったのは彼らの会話だ。敬語抜きの意見に敵将帥は肩をすくめて答える。
「案ずるな、街の消火活動は水属性をもつリッドに任せたのだ。兵の半数を預けておるし、お前たちはこの正統なる手続きの見届け人である。敵兵を見習い、堂々としておればよい」
若い亜人族のわりに威厳のある言葉遣い。けれど組織における上下関係などないかのように、海軍帽を被った若い女が退屈そうに絡んでくる。
「何かだりぃんだよ。俺はこんな堅苦しい場所にいたくなかったぜ」
体裁こそ軍隊を装っているが、規律のあり方はやはり素人同然。いくらゲルト語に敬語表現が乏しいと言っても限度がある。相手に軽蔑すら抱き、ルツィエは呆れ返った。
ところがその態度は、彼女の癖で下卑た薄笑いとなってしまう。性格の悪さが否応なく滲み出た格好だが、無自覚な反応は軽い怒りを買った。国民服に身を包んだ敵の将帥が、胡乱な目を向けてきたのだ。
「そこのこわっぱ、何が可笑しくて死神のような顔で笑っておるのだ。お前たちが街を灼いたせいで我々は大迷惑をこうむっておる。負け犬は負け犬らしく、反省くらいしてみせよ」
こちらを射抜くような瞳を向け、年齢不詳なしゃがれ声を敵将帥が放つ。しかもうっかり聞き流してしまうところだったが、男が口にしたのはセルヴァ語だった。そのうえで男はあえて敬語表現を使わず、自分を魔人族と対等に置いたわけだ。
運良く解放された程度の亜人族が生意気な態度ではないか。ルツィエは支配人種としての偏見を呼び起こされたが、その一方で不思議と、敵将帥の振る舞いに強がりを感じなかった。いくら戦勝を収めたからと言っても、彼の落ち着きは完全に板についていたからである。
いったいそれはどこから湧いてくるのか。敵将帥は面倒くさそうに黒髪をかきあげたが、ルツィエは彼の動きを目で追ってしまう。
その漠然とした注意はしかし、長続きしなかった。行政官の娘ローゼが静かにかしずいてきたからだ。意識を向ける間もなく、ルツィエは上品な声で耳打ちをされる。
「姫殿下、こちらの書類にサインをお願い致します」
このときルツィエは、ついに現実と対面することになった。自軍が敗北したという現実と。
しかし最初のうち彼女は、無意識にそれを避けた。停戦の下交渉は済んでいるのだから、あとは自分が裁可を下し、合意文書にサインをするのみ。状況を余すところなく理解していながら、臣下のごとく付き添うローゼに何となく従った。
ルツィエは手渡された羽ペンを握り、椅子にふんぞり返った。敵の将帥に遅れをとるまいとする心が働いたのだろう。
そうすることで亜人族を見下す気になれたかもしれないが、机上に置かれた一枚の書類へ眼を注いだ途端、現実はたちどころに彼女の幻想を打ち砕いた。
――統治権委譲書。
さらりと書かれた最初の文言が、これ見よがしに踊っている。
戦略地点を強奪されただけなら、後で奪い返すという名分が立つ。事実、ルツィエたちが火を放ったのはそれが敵の占領を麻痺させる一時的措置であるからだ。
しかし、停戦の見返りに相手が要求してきたのは、法的な正統性をもつ統治権だったのだ。それが「統治権委譲」と記された文書の意味。ビュクシを奪われることさえ耐えがたい屈辱なのに、法的根拠まで与えてしまったら簡単には奪還できなくなる。つまりこのとき、ルツィエは二重の屈辱を受けたに等しい。
あてが外れた彼女は打ちのめされ、小声で呪詛をつぶやいた。とはいえそれは、表にぶちまければ負け犬の遠吠えに過ぎず、残りわずかな名誉すら投げ捨てる行為。だから彼女は必死になって唇を噛み、おのれの感情を押し殺した。
痛恨の一撃を食らいながら、なぜ堪えられたのか。さすがに自己分析などできる余裕はなかったが、想像以上に肝が据わっていたことは疑いない。心の弱さを上まわる何かがあったのだろう。
直近の出来事で言えば、兄パベルを謀殺したことで吹っ切れた部分があった。それと意外に聞こえるかもしれないが、屈辱で我を忘れるような人間は独裁者になれない。彼らは思いの外、いやほぼ全ての例において計算高く、どんなときでも論理的な思考を手放さない人種だ。
心が衝撃を受け、現実逃避をはじめても、論理に立ち返ること。それはすなわち事実にもとづくことである。戦勝に乗じて敵がふっかけてきたという一点を除くと、状況はそれほど悪化しておらず、冷静に考えれば想定内のことも多い。
延焼した街の被害は大きく、とりわけ穀物倉庫の火災はビュクシ住民の生活基盤を甚大に破壊する。統治権を握った以上、それらの対処は占領軍どもの仕事だ。
そう、この停戦協定が持つ本質は、山積する難題を敵側に贈りつけることだった。公平な評価にもとづけば、サインを拒む理由は何ら存在せず、やがてルツィエは普段にも増して高らかに宣した。
「イェドノタ魔導評議会連邦第四王女として、この文書の発効を認めるわ。ただし、わかっていると思うけど、街は大変に荒れ果てている。その復興もまた、貴方の責務よ。そういう条件つきの統治権委譲であることをお忘れなく」
「当たり前だ、最初からそのつもりである」
敵の将帥は多くを語らず、防塵マスクに手を当てた。そんな煩わしいものをいつまで着けているんだ、と彼女は思っていたが、いまも首をめぐらせると各所で炎が吹き上げており、煙と粉塵で息苦しいことこの上ない。つまりマスクの装着は依然有効な措置なのだ。
どこまでも周到なやり方に見え、内心面白くないルツィエだが、腹はもう決まっていた。穀物倉庫が灼け落ちたせいで、住民が飢える日は必ずや訪れる。
――その日が来るのが楽しみでならないわ。
心の奥底で邪悪な願望をつぶやいたルツィエは、気味の悪い笑みさえ浮かべ、書類の末尾にサインを走らせようとした。
しかしその瞬間、ペンを握った手が止まった。
末尾のスペースに信じがたい一文があったことを、彼女は署名の段になってはじめて気づいた。こんなに予期せぬ偶然が存在するだろうか。そこに書き込まれた文字をルツィエは眼を凝らして見た。もう一度、いや何度でも。
不条理な停戦条文があったのではない。その一文は、敵将帥の姓名に関わるものだった。
彼女は、行政府に難癖をつけてきたトルナバ町長の名前は関知しておらず、したがって敵の将帥が何者かも知らずにいた。ザコには興味を持てず、現場で戦う軍人には無関係な情報だし、何の疑いもなく放置してきたのである。
だが、それは完全な落ち度だった。書類の署名は見て、ルツィエはおのれの怠慢をなじった。
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何故こうなった…
突然 神様の手違いにより死亡扱いになってしまったオタクアラサー女子、
手違いのお詫びにと色々な加護とチートスキルを貰って異世界に転生することに、
だが転生した先でまたもや神様の手違いが‼︎
転生したオタクアラサー女子は意外と物知りで有能?
そして死亡する原因には不可解な点が…
様々な思惑と神様達のやらかしで異世界ライフを楽しく過ごす主人公、
目指すは“のんびり自由な冒険者ライフ‼︎“
そんな主人公は無自覚に色々やらかすお茶目さん♪
*神様達は間違いをちょいちょいやらかします。これから咲子はどうなるのかのんびりできるといいね!(希望的観測っw)
*投稿周期は基本的には不定期です、3日に1度を目安にやりたいと思いますので生暖かく見守って下さい
*この作品は“小説家になろう“にも掲載しています
グラティールの公爵令嬢―ゲーム異世界に転生した私は、ゲーム知識と前世知識を使って無双します!―
てるゆーぬ(旧名:てるゆ)
ファンタジー
ファンタジーランキング1位を達成しました!女主人公のゲーム異世界転生(主人公は恋愛しません)
ゲーム知識でレアアイテムをゲットしてチート無双、ざまぁ要素、島でスローライフなど、やりたい放題の異世界ライフを楽しむ。
苦戦展開ナシ。ほのぼのストーリーでストレスフリー。
錬金術要素アリ。クラフトチートで、ものづくりを楽しみます。
グルメ要素アリ。お酒、魔物肉、サバイバル飯など充実。
上述の通り、主人公は恋愛しません。途中、婚約されるシーンがありますが婚約破棄に持ち込みます。主人公のルチルは生涯にわたって独身を貫くストーリーです。
広大な異世界ワールドを旅する物語です。冒険にも出ますし、海を渡ったりもします。
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