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第一章

少年期14

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 おやつが出る日は、甘いもの好きのアドルフにとっても嬉しい時間だ。特にケーキが出るときなどは、院長先生の奥さんがみずから焼いた、ナッツやレーズン、リンゴをふんだんに使ったパウンドケーキが食卓に並ぶ。

 きょうがその日であることを願いながら、アドルフは食堂に急いでむかった。しかしそこに待っていたのは、大好物のパウンドケーキではなかった。

「やってくれたな、アドルフ」

 食堂の扉を開けると、入口を遮るようにしてディアナが立ち塞がっていた。脇を固めるような形でヨゼフとオレクをはべらせている。

 アドルフはこの瞬間、自分の身に何が起きたのかを稲妻のような速度で察したが、顔に出すと罪を認めるようなものなので、わずかに目を見開き、とぼけた調子でこう言った。

「……何の話だ?」

「しらばっくれんじゃねぇ。俺とヤーヒムの話を立ち聞きしたとかぬかして、市場でクソみてぇな噂をバラ撒きやがったな。偶然聞きつけたオレクに言われて調べてみたら、ノインとその従者が噂の出どころだってわかった。俺の情報収集能力なめんなよ、ネタはもうあがってんだ」

 声色こそ穏当だが、その表情を見る限り、ディアナはかなり怒っている。
 ドワーフだから背は小さいが、頭に血がのぼっているのか顔色は赤く、イライラを示すように靴は床板を神経質に叩いている。

 むろん、相手のペースに乗せられるアドルフではないから、ディアナが憤然とした様子を見せれば見せるほど、心は湧き水のように冷めていく。

 このとき、ひとつだけはっきりしているのは、偽情報の発信は敵であるディアナに察知され、しかも首謀者がアドルフだとバレてしまったこと。陽動作戦をとったくらいだから、アドルフは自分の存在を高確率で隠し通せると思っていた。けれど結果はそれが間違いだったと示している。

 自分たちに不備があったのかと疑念を抱いた直後、腹立たしげな顔でディアナが言った。

「ネタが割れた理由を知りてぇようだな。なに、簡単なことさ。お前の使ったオカマ野郎が誘導尋問に引っかかったんだ。だれに命令されたか口を割らねぇから、疑わしい野郎の名前を出すと顔色変えやがった。こっちとしちゃ、もうバレバレよ」

 その発言を聞き、アドルフは相手のやり口に少々感心した。

 彼は大胆かつ慎重に物事を進めたが、当然脆弱な部分は出てくる。ノインとその従者は、人間性から言ってアドルフを売るほど無責任な輩ではないが、トリックにかかればその限りではない。

 ディアナが仕掛けたという誘導尋問は、単純だが効果的なもので、それをすかさず実施できる点に彼女の有能さが垣間見える。

 つまり自分たちの〈計画〉が劣っていたのではない、相手が一枚上をいったのだ。

 けれどもアドルフは同時にこう思った。自分はなぜ、ディアナに疑われる立場に身を置いていたのかと。その疑問に彼女は、シンプルな答えを出してくれた。

「……にしても、本当にお前とはな。〈施設〉で俺にもつかず、ノインにもなびかない野郎はフリーデとお前のふたりだけ。大人がやる意味がわからねぇし、そのどっちかと踏んで正解だったぜ。さあ、罪を償って貰おうか、アドルフ」

 見事に謎を解き明かし、ディアナは鼻高々だった。しかしアドルフは、自分が窮地に陥ったにもかかわらず、一切動揺しなかった。黒幕がバレる最悪に近い流れではあるものの、彼はディアナの性格を見透かしつつ十分な対策を練っておいたからだ。

 悪ガキを束ねるディアナは、性質でいえば悪人である。そして人間は一般的に、善人より悪人のほうが能力的にすぐれている。

 普通の善人の歩くみちが平坦で障害も少ないのにたいして、本物の悪人はひとと違う行動をとるぶん、そのみちはつねに茨で、不安定このうえない。

 つまり凡人が音を上げるほどきつい重りを、悪人は普段から背負っているのだ。そんな連中が善人より格下なわけがない。しかしアドルフ自身、悪人の親玉のような存在だから、彼らの弱点をよく知っている。

「フン、阿呆らしい」

 彼はわざとディアナを相手にせず、食堂の奥へとむかうそぶりを見せた。杖を巧みに操り、滑らかな動きで突き進む。これを目にとめたディアナは、反射的に怒声を放った。

「ふざけやがって、止めろ!」

 その声に応じて、取り巻きのヨゼフとオレクがアドルフの進路を遮った。けれどアドルフは、「邪魔をしないで貰いたい」と馬鹿の一つ覚えのように言う。

 その狙いはいったい何か?

 悪人は自分の能力の高さゆえに自分より劣った人間になめられることを生理的に嫌う。何事もなければ柔軟な対処ができるところで、硬直した反応を示してしまうのだ。

 つまりアドルフはこのとき、ディアナをある場所へ巧妙に誘い込んでいた。狙いが成就するまで、あとわずかであった。

「無視すんじゃねぇぞ、コラ!」

 ついに辛抱堪らなくなったディアナが、アドルフの胸ぐらを横から掴み上げた。これ以上侮辱する真似をすると、一方的に殴られるだろう。

 だからアドルフにとって、ここが分岐点だった。彼はディアナたちの冷静さを奪い尽くしたことに満足し、驚くほど冷めきった声で朗々とつぶやいた。

「我はこの件で謝罪する気はない。もしそれを承服しかねるようなら、一対一で勝負せよ。このとおり、我は普通の殴り合いができる体ではないから、少々変則的なルールで戦うことになるが。負けたら金でも何でもくれてやる」

「金だと? 幾らだ?」
「一〇〇〇クロナほど用意がある」

 フリーデと持ち寄った金額を述べると、ディアナは思わず口笛を吹いた。
 その甲高い音を合図に、金の勢いで主導権を握ったアドルフが、精巧なオルゴールのような声色で対決のルールを説明しはじめる。

 勝負は相手を屈服させること。具体的には、地面に三秒間倒れたほうの負け。歩行器具が必要なので、アドルフは杖を使ってよいことにする。かわりにディアナも、何か武器を用いてよい。

 これらを、あたかも既成事実のように語り終えたアドルフだが、ディアナが拒むとは思えなかった。

 第一に、彼女は相当ヒートアップしているため、論戦に立ち戻る気はすでにない。第二に、この喧嘩は食堂の孤児たちが傍観しており、ディアナが拒めば臆病者だと見なされる。そして第三に、ディアナは体を張った戦いが大好きである。

 そう、アドルフが知るディアナは、狡猾な悪人の顔を持ちながら、同時に子供らしい天真爛漫さで喧嘩を楽しむようなやつなのだ。

 その証拠に彼女は、アドルフの提案を耳にした途端、顔をにんまりほころばせ、

「杖がハンデか? おもしれぇ、お前みてぇなヘナチョコが俺に喧嘩売るとはな。こっちは丸腰でいいぜ、開始三秒でへし折ってやる」

 どこまで状況を吟味したかわからないが、ディアナは二つ返事で対決を受け入れ、即興のルールに即し細部を詰めた。
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