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第一章
少年期6
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この異世界セクリタナ、とりわけ中央大陸カルヴィナの人々が信仰する聖隷教会の教えには、天賦説というものがある。ひと言でいえば、人間の運命は《主》が最初から決定しており、なかでもどんな仕事に就くかは天職として《主》から授かるのだという考えだ。
当然のように、ここには自由という概念はない。しかし院長先生は、以前から天賦説を否定するようなことを口にし、たとえばきょう行った授業の最後にもこんなことを言っていた。
――君たちは手にした自由の範囲で、大いに夢を育みなさい。
夢というのは、近代社会を生きた前世のアドルフにとってごく自然に見るものだった。だがこの異世界では、天賦説によって夢が阻害されている。
彼が書物から学んだもっとも重要な点は、亜人族は天賦説に反する夢を大事にする人種であること。そして院長先生の話を踏まえれば、おそらくはそのせいで亜人族以外の人種から信仰のあり方に疑念をもたれ、不心得者として差別されるに到ったこと。
大げさに聞こえるかもしれないが、聖隷教会にとって夢を尊ぶことは危険なのだ。それは教会が《主》の代理人として権力を振るう余地をなくし、人間と《主》がより直接的に結びつくための理論なのである。
言葉にすれば長いけれど、アドルフにとってこれらの思考は一瞬だった。
しかし直後に抱いた感情は不安である。なぜなら強い願望としての夢は、ときに無謀の裏返しとなる。まだ幼い子供であればなおさらだ。
したがってここまでの流れにアドルフは名状しがたい憂慮を覚え、はたせるかなフリーデは、彼の抱く危惧をものの見事になぞる願いをこぼした。
「僕は軍人になりたいと思っている。〈開拓〉の先導者として辺境を征服したエミーリアを知ってるか? 僕は彼女の成功譚を本で読み、自分も同じような人生を送りたいと思った。何しろエミーリアは他ならぬ吸血鬼なんだ。まるで僕のために存在する道標のようじゃないか」
わずかに興奮した様子で、フリーデはちらりとアドルフを見た。
エミーリアの伝説はむろん、彼も知っていた。それは一五〇年近く前の実話をもとにした物語であり、くわえて院長先生の語った話が本当なら、彼女の生き様はまさに時代の変化に取り残された夢物語に相当する。
そんな夢物語に触発されたフリーデの気持ちを否定し、諦めを説くのは簡単だろう。自分らは二級市民で、差別された存在だから、仕方ないと言い返せば済む。
しかしアドルフはどういうわけか、それを口にするのをためらった。かわりに彼は、前世に体験したある出来事を思い起こした。
アドルフ・ヒトラーが第一次大戦に従軍したのは有名な話だが、敗戦の報を聞き、失意のなか戻ったミュンヘンで、彼はある印象深い出来事に遭遇した。
あてもなく街をふらつくアドルフは、薄汚れたアパートから飛び出してきた少女と、それを追いかける母親の姿を目にした。
騒々しい声をあげているので、ふたりの会話は嫌でも耳に入ってきた。少女は泣き喚き、父親の名を叫んでいた。その嘆きからは、大戦で戦死した父親を悼み、あるいはその現実を受け入れられず、少女が自棄になっている様子が手にとるようにわかった。
そんな聞き分けのない娘を抱きしめ、母親はこう言って諭すのだった。「お父さんは国のために一生懸命戦ったわ。これは仕方ないことなの」
戦争の最前線にいたアドルフは、積み上がる死体の山を見て何も思わなかったわけではないが、段々現実感が麻痺していき、人の死を当たり前と思うようになり、悲しみを前にしても涙の一滴も流せないような人間になっていた。
しかしそれは錯覚だったのだ。国に帰れば、戦死した兵士にも家族がいる。
見れば母親も一緒に涙を流しはじめ、娘と抱き合いながらともに父親の名を呼び、その姿はアドルフの心に生涯忘れえぬ印象を焼きつけた。
自分がもっと精強な兵士なら、あるいはすぐれた将軍なら、運命を変えられたのではないか。思い上がりかもしれないが、彼はこのとき自分を強く責めた。
芸術家くずれのアドルフ・ヒトラーを変えたのは第一次大戦の従軍経験だとよくいわれる。しかし彼を本当の意味で変えたのは、敗戦を父親の死という形で受けとめた、この少女と母親のような存在だったのだ。
悲しみに暮れる同胞のために尽くしたい。そう一念発起してからもう数十年の時が経ち、当時の記憶はぼろ雑巾のように擦り切れている。だが転生してもなお、その残滓はのこっていた。
だからこそ彼は、亜人族というだけで迫害に遭い、本来許されるべき夢を願うフリーデの意志と涙に、自分の原点を見つけだしたのだ。
ドイツ帝国の敗北と崩壊を前にした彼は、やがて少女の母親が口にした〈仕方ない〉という言葉を覆すべく、政治活動に身を投じた。なぜならあらゆる災いには戦犯がおり、それが同胞のあるべき姿を歪めるのならば、その戦犯を打ち砕き、何としても真の姿を取り戻さねばならないからだ。
前世の若かりしヒトラーはやがて、戦犯がだれであるか、そしてドイツ復活のシナリオをはっきりと見据えるようになった。
同じシナリオをいま、フリーデにも示せるだろうか。〈仕方ない〉という諦めの言葉のかわりに。
――むろんできる、この我ならば。
走馬灯のような速さで過去を振り返ったアドルフは、その短い微睡みから醒め、きょう知ったばかりの亜人族差別の詳細と、自分が手にしている多くの情報を付き合わせ、彼にしてはずいぶん長い黙考に入った。
それでも時間にすれば、たった一分にも満たなかったと思う。フリーデも自分の抱く夢を正直に語ったことで、恥ずかしさを押し隠せず黙りこくっていた。そうした沈黙をアドルフは、物陰から顔を覗かせるシャム猫のような声で破った。
「まず言いたいのは、現時点で亜人族の差別をなくし、お前が軍人になる道を拓くのは不可能だ。物事は一足飛びに進まない、必ず段階を経ねばならん。夢は諦めずに隠し持っておけ。それより、お前がいまやるべきなのは、目の前の差別、亜人族だからと言ってヒト族の子供らに見下される現状の改善に他ならん。このことについては納得して貰えるか?」
現実論でもなく、理想論でもなく、その中間に位置する考えを提示すると、その主張の妥当性を理解したのかは定かではないが、フリーデは怪訝な顔となり、低い声音で応じた。
「僕もそこまで愚かじゃない」
「よし、いいだろう」
ふたりの会話が噛み合ったことで、アドルフは少しだけ微笑を見せる。だが彼の提案はここからが本番だった。
実のところアドルフは、不自由な脚が治っているだろう三年後にむけ、自分が亜人のなかでも劣位に置かれた状況を変えるべく〈計画〉を練っていくつもりでいた。それはまさに、このトルナバでの社会的地位を高め、やがて《勇者》になるための第一歩を意味していた。
そのプランの作成を、前倒しする。アドルフの下した決断は、フリーデの涙にほだされた部分はあれど、彼自身の出世と密接に結びついているため、戯れの要素はなく、真剣な気持ちでなされた。
それでも彼は笑顔を忘れない。フリーデの警戒心を解くように穏やかな口調で言う。
「フリーデ、お前は容易に信じぬかもしれんが、我には透明な水晶のごとき未来を見通す眼がある。本来、三年後に昇るはずだった変革の階段をたったいまから踏破しよう。我の提案に乗ってくれるか?」
出し抜けな発言のわりに、アドルフの言葉尻には説得力があった。
同じことを凡庸な人間が言っても通用しないだろう。けれどもどういうわけか、アドルフが口にすると真実の響きが宿るのだ。
こればかりは才能というしかない。その証拠にフリーデは、どこか誇張気味だった台詞に眉をしかめたものの、即座にかえした返答は表情とは裏腹に前向きなものであった。
「ずいぶん傲慢に聞こえるが、ふざけているわけではないんだよな?」
「むろんである。最適なタイミングが訪れた、ならばそれに従うより他あるまい」
神は瞬間に宿る。これもまたアドルフが前世から持ち越した鉄則だ。
「……わかった、話を聞こうじゃないか」
一度俯いたフリーデが、再び瞼をあげた。そこにはもう、疑いの色は浮かんでいなかった。
当然のように、ここには自由という概念はない。しかし院長先生は、以前から天賦説を否定するようなことを口にし、たとえばきょう行った授業の最後にもこんなことを言っていた。
――君たちは手にした自由の範囲で、大いに夢を育みなさい。
夢というのは、近代社会を生きた前世のアドルフにとってごく自然に見るものだった。だがこの異世界では、天賦説によって夢が阻害されている。
彼が書物から学んだもっとも重要な点は、亜人族は天賦説に反する夢を大事にする人種であること。そして院長先生の話を踏まえれば、おそらくはそのせいで亜人族以外の人種から信仰のあり方に疑念をもたれ、不心得者として差別されるに到ったこと。
大げさに聞こえるかもしれないが、聖隷教会にとって夢を尊ぶことは危険なのだ。それは教会が《主》の代理人として権力を振るう余地をなくし、人間と《主》がより直接的に結びつくための理論なのである。
言葉にすれば長いけれど、アドルフにとってこれらの思考は一瞬だった。
しかし直後に抱いた感情は不安である。なぜなら強い願望としての夢は、ときに無謀の裏返しとなる。まだ幼い子供であればなおさらだ。
したがってここまでの流れにアドルフは名状しがたい憂慮を覚え、はたせるかなフリーデは、彼の抱く危惧をものの見事になぞる願いをこぼした。
「僕は軍人になりたいと思っている。〈開拓〉の先導者として辺境を征服したエミーリアを知ってるか? 僕は彼女の成功譚を本で読み、自分も同じような人生を送りたいと思った。何しろエミーリアは他ならぬ吸血鬼なんだ。まるで僕のために存在する道標のようじゃないか」
わずかに興奮した様子で、フリーデはちらりとアドルフを見た。
エミーリアの伝説はむろん、彼も知っていた。それは一五〇年近く前の実話をもとにした物語であり、くわえて院長先生の語った話が本当なら、彼女の生き様はまさに時代の変化に取り残された夢物語に相当する。
そんな夢物語に触発されたフリーデの気持ちを否定し、諦めを説くのは簡単だろう。自分らは二級市民で、差別された存在だから、仕方ないと言い返せば済む。
しかしアドルフはどういうわけか、それを口にするのをためらった。かわりに彼は、前世に体験したある出来事を思い起こした。
アドルフ・ヒトラーが第一次大戦に従軍したのは有名な話だが、敗戦の報を聞き、失意のなか戻ったミュンヘンで、彼はある印象深い出来事に遭遇した。
あてもなく街をふらつくアドルフは、薄汚れたアパートから飛び出してきた少女と、それを追いかける母親の姿を目にした。
騒々しい声をあげているので、ふたりの会話は嫌でも耳に入ってきた。少女は泣き喚き、父親の名を叫んでいた。その嘆きからは、大戦で戦死した父親を悼み、あるいはその現実を受け入れられず、少女が自棄になっている様子が手にとるようにわかった。
そんな聞き分けのない娘を抱きしめ、母親はこう言って諭すのだった。「お父さんは国のために一生懸命戦ったわ。これは仕方ないことなの」
戦争の最前線にいたアドルフは、積み上がる死体の山を見て何も思わなかったわけではないが、段々現実感が麻痺していき、人の死を当たり前と思うようになり、悲しみを前にしても涙の一滴も流せないような人間になっていた。
しかしそれは錯覚だったのだ。国に帰れば、戦死した兵士にも家族がいる。
見れば母親も一緒に涙を流しはじめ、娘と抱き合いながらともに父親の名を呼び、その姿はアドルフの心に生涯忘れえぬ印象を焼きつけた。
自分がもっと精強な兵士なら、あるいはすぐれた将軍なら、運命を変えられたのではないか。思い上がりかもしれないが、彼はこのとき自分を強く責めた。
芸術家くずれのアドルフ・ヒトラーを変えたのは第一次大戦の従軍経験だとよくいわれる。しかし彼を本当の意味で変えたのは、敗戦を父親の死という形で受けとめた、この少女と母親のような存在だったのだ。
悲しみに暮れる同胞のために尽くしたい。そう一念発起してからもう数十年の時が経ち、当時の記憶はぼろ雑巾のように擦り切れている。だが転生してもなお、その残滓はのこっていた。
だからこそ彼は、亜人族というだけで迫害に遭い、本来許されるべき夢を願うフリーデの意志と涙に、自分の原点を見つけだしたのだ。
ドイツ帝国の敗北と崩壊を前にした彼は、やがて少女の母親が口にした〈仕方ない〉という言葉を覆すべく、政治活動に身を投じた。なぜならあらゆる災いには戦犯がおり、それが同胞のあるべき姿を歪めるのならば、その戦犯を打ち砕き、何としても真の姿を取り戻さねばならないからだ。
前世の若かりしヒトラーはやがて、戦犯がだれであるか、そしてドイツ復活のシナリオをはっきりと見据えるようになった。
同じシナリオをいま、フリーデにも示せるだろうか。〈仕方ない〉という諦めの言葉のかわりに。
――むろんできる、この我ならば。
走馬灯のような速さで過去を振り返ったアドルフは、その短い微睡みから醒め、きょう知ったばかりの亜人族差別の詳細と、自分が手にしている多くの情報を付き合わせ、彼にしてはずいぶん長い黙考に入った。
それでも時間にすれば、たった一分にも満たなかったと思う。フリーデも自分の抱く夢を正直に語ったことで、恥ずかしさを押し隠せず黙りこくっていた。そうした沈黙をアドルフは、物陰から顔を覗かせるシャム猫のような声で破った。
「まず言いたいのは、現時点で亜人族の差別をなくし、お前が軍人になる道を拓くのは不可能だ。物事は一足飛びに進まない、必ず段階を経ねばならん。夢は諦めずに隠し持っておけ。それより、お前がいまやるべきなのは、目の前の差別、亜人族だからと言ってヒト族の子供らに見下される現状の改善に他ならん。このことについては納得して貰えるか?」
現実論でもなく、理想論でもなく、その中間に位置する考えを提示すると、その主張の妥当性を理解したのかは定かではないが、フリーデは怪訝な顔となり、低い声音で応じた。
「僕もそこまで愚かじゃない」
「よし、いいだろう」
ふたりの会話が噛み合ったことで、アドルフは少しだけ微笑を見せる。だが彼の提案はここからが本番だった。
実のところアドルフは、不自由な脚が治っているだろう三年後にむけ、自分が亜人のなかでも劣位に置かれた状況を変えるべく〈計画〉を練っていくつもりでいた。それはまさに、このトルナバでの社会的地位を高め、やがて《勇者》になるための第一歩を意味していた。
そのプランの作成を、前倒しする。アドルフの下した決断は、フリーデの涙にほだされた部分はあれど、彼自身の出世と密接に結びついているため、戯れの要素はなく、真剣な気持ちでなされた。
それでも彼は笑顔を忘れない。フリーデの警戒心を解くように穏やかな口調で言う。
「フリーデ、お前は容易に信じぬかもしれんが、我には透明な水晶のごとき未来を見通す眼がある。本来、三年後に昇るはずだった変革の階段をたったいまから踏破しよう。我の提案に乗ってくれるか?」
出し抜けな発言のわりに、アドルフの言葉尻には説得力があった。
同じことを凡庸な人間が言っても通用しないだろう。けれどもどういうわけか、アドルフが口にすると真実の響きが宿るのだ。
こればかりは才能というしかない。その証拠にフリーデは、どこか誇張気味だった台詞に眉をしかめたものの、即座にかえした返答は表情とは裏腹に前向きなものであった。
「ずいぶん傲慢に聞こえるが、ふざけているわけではないんだよな?」
「むろんである。最適なタイミングが訪れた、ならばそれに従うより他あるまい」
神は瞬間に宿る。これもまたアドルフが前世から持ち越した鉄則だ。
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