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第1章 クロッカスの咲く頃に
1-4 決意の時
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私は、小論文の方をとにかく頑張った。毎日夕方四時半ごろに、国語の坂川先生のところへ行き、小論文を提出しみてもらったのだ。その甲斐あってか、文章が少しずつ上手くなった、ように思う。毎日受験勉強に明け暮れる日々が続いた。それでも、叔母の家を訪ねることは忘れなかった。ただ、回数は減り、一週間に一回が二週に一回になった。その時に叔母と話をすることが、私の数少ない愉しみになっていた。
「今週末の小論文のテーマは、難しいのです。『夫婦別姓について、八百字でまとめるように』というテーマなのです」
私はその日、叔母である圭子さんのお家に来ていた。週明けまでの宿題を持って、遊びに来たのだ。
「今風のテーマね。『夫婦別姓』はちょっとそこの事典で調べるといいわ」
「これですか?」私は叔母が指さした、『現代用語事典』なる本を手に取った。
「そう、その本よ」
私はパラパラと本をめくり、夫婦別姓の項目を選び出した。私が本を読み始めると、圭子さんは、ちょっとお紅茶を淹れてくるね、と書架のたくさん並んだ部屋を出た。
しばらくして、叔母は焼き菓子とお紅茶をトレイに乗せて、部屋に入ってきた。
「あんずちゃん、はいどうぞ。お紅茶とお菓子よ」
「ありがとう、圭子さん。あの、私、文学の勉強をしたいと思っています。こんな勉強方法で良いのでしょうか?」
圭子さんは、少し考えてから答えた。
「あんずちゃんは、将来小説家にでもなるつもり?」
圭子さんはほほ笑みを浮かべていたものの、目は真剣そのものだった。
「いえ……、そういう訳ではないのです。将来は、販売員の仕事に就きたいと思っていたのですが、文学が面白くて……」
「それは、いいことね。何でも自分が気になったことにチャレンジすることが大事よ、若いうちは」
圭子さんはその先を、少し辛そうに続けた。
「私くらいの年になると、新しいことにチャレンジする勇気が薄れてくるの。でもね、あんずちゃんを見ていると、思い出すの。私が若かった日のことを」
「圭子さんは凄い人なのに、私を持ち上げないでくださいよ。圭子さんは何でも出来るじゃないですか」
私はそう言ったものの、圭子さんの言葉が素直に嬉しかった。私は「ウィンドミル」と書かれた、正方形の焼き菓子の封を開け、パクッと一口、焼き菓子を頬張った。甘さが口いっぱいに広がった。クルミの匂いがあたりに漂った。次いで、紅茶をすする。
「ねぇ、あんずちゃん。もし、小説家になりたいなら、いっぱい恋をしなさい。若いときは一生のうちの僅かな時間よ。いっぱい恋をして、いっぱいおしゃべりをして、いっぱい遊ぶのよ」
圭子さんは、にこやかだったが真剣な目をしていた。
「でも、勉強が……」私は言いかけて、口を閉ざした。どういう意味だろうか。勉強をしなくてもいいってことじゃなさそうだぞ。
「圭子さん、私、勉強しなくてもいいのですか?」
そう聞くと、圭子さんは大笑いした。
「そうじゃないのよ、あんずちゃん。恋は勉強のうちよ。シェイクスピア先生に恋をしたって、ゲーテ先生に憧れたって良いの。自分が『これが好きだ』というものを、たくさん見つけるのよ。それがあなたの財産になります。それが『恋をする』ってことなの」
私は、圭子さんの提示した「恋についての定義」の方が、「夫婦別姓」よりも随分と勉強になったのでした。だから私が遊びに行くのは、かずちゃんの家より、断然圭子さんの家の方が多いのでした。
第一章 クロッカスの咲く頃に (結)
「今週末の小論文のテーマは、難しいのです。『夫婦別姓について、八百字でまとめるように』というテーマなのです」
私はその日、叔母である圭子さんのお家に来ていた。週明けまでの宿題を持って、遊びに来たのだ。
「今風のテーマね。『夫婦別姓』はちょっとそこの事典で調べるといいわ」
「これですか?」私は叔母が指さした、『現代用語事典』なる本を手に取った。
「そう、その本よ」
私はパラパラと本をめくり、夫婦別姓の項目を選び出した。私が本を読み始めると、圭子さんは、ちょっとお紅茶を淹れてくるね、と書架のたくさん並んだ部屋を出た。
しばらくして、叔母は焼き菓子とお紅茶をトレイに乗せて、部屋に入ってきた。
「あんずちゃん、はいどうぞ。お紅茶とお菓子よ」
「ありがとう、圭子さん。あの、私、文学の勉強をしたいと思っています。こんな勉強方法で良いのでしょうか?」
圭子さんは、少し考えてから答えた。
「あんずちゃんは、将来小説家にでもなるつもり?」
圭子さんはほほ笑みを浮かべていたものの、目は真剣そのものだった。
「いえ……、そういう訳ではないのです。将来は、販売員の仕事に就きたいと思っていたのですが、文学が面白くて……」
「それは、いいことね。何でも自分が気になったことにチャレンジすることが大事よ、若いうちは」
圭子さんはその先を、少し辛そうに続けた。
「私くらいの年になると、新しいことにチャレンジする勇気が薄れてくるの。でもね、あんずちゃんを見ていると、思い出すの。私が若かった日のことを」
「圭子さんは凄い人なのに、私を持ち上げないでくださいよ。圭子さんは何でも出来るじゃないですか」
私はそう言ったものの、圭子さんの言葉が素直に嬉しかった。私は「ウィンドミル」と書かれた、正方形の焼き菓子の封を開け、パクッと一口、焼き菓子を頬張った。甘さが口いっぱいに広がった。クルミの匂いがあたりに漂った。次いで、紅茶をすする。
「ねぇ、あんずちゃん。もし、小説家になりたいなら、いっぱい恋をしなさい。若いときは一生のうちの僅かな時間よ。いっぱい恋をして、いっぱいおしゃべりをして、いっぱい遊ぶのよ」
圭子さんは、にこやかだったが真剣な目をしていた。
「でも、勉強が……」私は言いかけて、口を閉ざした。どういう意味だろうか。勉強をしなくてもいいってことじゃなさそうだぞ。
「圭子さん、私、勉強しなくてもいいのですか?」
そう聞くと、圭子さんは大笑いした。
「そうじゃないのよ、あんずちゃん。恋は勉強のうちよ。シェイクスピア先生に恋をしたって、ゲーテ先生に憧れたって良いの。自分が『これが好きだ』というものを、たくさん見つけるのよ。それがあなたの財産になります。それが『恋をする』ってことなの」
私は、圭子さんの提示した「恋についての定義」の方が、「夫婦別姓」よりも随分と勉強になったのでした。だから私が遊びに行くのは、かずちゃんの家より、断然圭子さんの家の方が多いのでした。
第一章 クロッカスの咲く頃に (結)
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