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八章 明日を生きる力
☆【1】比類なき者
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アンダルシアと暮らし始めて、三ヶ月が過ぎた頃である。
風の暖かな昼下がりだった。希莉江は、アンダルシアから彼女自身の正体を聞かされた。
たった三日前のそれは、激震とも呼べる出来事だった。
「希莉江」
素っ気なく呼ばれて、「はい?」と応える。希莉江が振り返ると、彼女の師は端正な顔に珍しく緊張の色を浮かべていた。
「そろそろ、お前に話しておきたいことがある」
「何でしょうか」
にこやかに笑い、正面の椅子に座る。希莉江はアンダルシアに対して、すっかり心を許していた。
「お前は人じゃない」
眉を歪め、薄い唇から嫌々押し出された言葉を聞く。希莉江は僅かに首を傾げた。
「お前は人に触れてはいけない」
「……なぜ?」
「お前を愛する者の命を、お前が貪るからだ」
声も出ない。視界が赤に染まる。
「それは本能で、お前自身にもどうすることも出来ない。お前に寄せられる好意を、お前は相手の生きる力ごと吸い寄せる。心を交わした者と肌を合わせ続ければ、やがてお前は相手の命さえも奪う」
がつんと頭を殴られたような、それでいて、心のどこかで納得し得る宣告だった。アンダルシアは、憂いに満ちた表情で希莉江を見つめている。
――母さん。あたしは、あなたの命を貪ったの?
冬花は、誰に対しても惜しげもなく愛を分け与えた。冬花の愛は、希莉江が憎んだ主にすら向けられていた。それは男女の愛ではなかった。慈愛や人間愛などと称することが陳腐に思われるほどの深さと強さを以て、希莉江の母は全てを許し愛したのだ。
希莉江と同じ立場の奴隷たちの中では、希莉江はまさに泥中に華ひらく蓮花も同様だった。泥土に根を下ろし、天に向かって茎を伸ばし、清らかな白い花は水面に咲く。
母親譲りの美貌と希莉江自身の愛らしさは、彼女の崇拝者たちにとって生きる力の一助となっていた。こまっしゃくれていて、生意気で、やんちゃな眼差しをした娘だった。同時に、都中を探しても、そうそう見当たらぬほどの愛らしさを生まれもった娘でもあった。洗濯女たちは、言葉を尽くして希莉江の容貌を褒めそやした。その子供たちもまた、希莉江にまとわりついて離れようとしなかった。
だが、そんな幼い暮らしを送る希莉江に、冬花は一つの枷を与えていた。
あれは、いつの夜だったか。母の膝頭を、希莉江の背丈が越えた頃だったろうか。
「いい? 希莉江は、私以外の人にくっついてはだめなの」
今なら、母の言葉の本当の意味が分かる。
人の肌に、己の肌で触れてはいけない。母はそう云っていたのだ。
なぜ人に触れてはいけないのか、希莉江には分からなかった。ただ、そう云い聞かせる母の顔つきがあまりにも哀れで寄る辺なく、それを見る度に希莉江は疑問を抱くことを己に禁じた。だから希莉江は知らなかったのだ。母が死ぬまで。死んでも、なお。自分こそが母を殺したのだとは分からなかったのだ。
「あたし、誰かを好きになっちゃ……いけないんですね」
云った瞬間、ある想いが色鮮やかに蘇る。流星のように脳裏を過ぎるのは、忘れようもない二つの面影だった。冬花と、名を思い浮かべることさえ喜びと痛みを伴う青年の記憶だ。
「そうじゃない」
「だって、そうでしょう。あたしの――母を、殺したのは」
涙さえ出てこない。そうだ。あたしには泣く資格もない。
「俺がお前を傍に置いているのは、なぜだと思う」
「……」
希莉江は応えない。
続く沈黙は長かった。考えに考えたが、ついに分からなかったのだ。
アンダルシアは希莉江に何も求めない。ただ傍にいて、時々仕事を手伝ってほしいと言うだけだ。逆に、希莉江の頼みに応じて、彼女の勉強や遊びにつき合ってくれることの方が多かった。だから分からない。机の上で握られたアンダルシアの拳が、微かに震えている理由など。
「俺が、お前と同じものだからだ」
両眼に力を込めて、まるで睨むようにアンダルシアは語る。
「――あぁ」
希莉江は、泣こうか笑おうか迷うように首を振る。だが、彼女は結局泣かなかった。
「あたし、たぶん本当は知ってたんです。二年前から。母が、あたしを守るためだけに生きていたこと。あたしを捨てられなかったから、……死んでしまったことを」
努めて明るく告げる。アンダルシアは無言で立ち上がると、机を回り込んで希莉江の後ろへ立った。そっと差し延べられた右手に、希莉江は傾けた頬を寄せた。涙は出なかった。気怠い溜め息が出るばかりだった。
「先生、有り難う」
「お前は俺を責めていい」
「いいえ。遠慮しておきます」
「なぜ」
「先生が、あたしに責められたがってるから。あえて言わないし、しません。責めたいとも思わないし。第一、養われてる立場で、そんなこと出来る訳がありません」
「俺が了見の狭い男じゃないと証明するために、どうか俺を責めてくれ」
「それ、何か間違ってません?」
希莉江は声を上げて笑う。
「お前を引き取ったのは、お前を育てるためだけじゃなかった」
「正直なんですね。でも、先生はあたしに指一本触れませんでしたね。そういう意味では。夜中に部屋の扉を開けて、あたしを覗いたりもしなかった」
「……お前のこれまでの暮らしぶりがどんなものだったのか、あまり考えたくないな」
「どこへ行く?」
「借りていた物を返しに」
希莉江は猫のように笑っている。
「夜までには戻れ。莉々の夜間飛行は危ない」
「分かってます。先生、お土産は何がいいですか?」
「どこへ行くかも分からないのに?」
「南の方です。まあ、云ってみれば地元ですねー」
アンダルシアは新聞の陰から希莉江を見る。
「気をつけろよ」
「全てお返しします」
呆気に取られた顔が希莉江を見上げる。
「お金は少し足りないけど、お給金は頂いてませんでしたからね。これで充分でしょう」
不敵に笑って見せる。その姿は気高さと誇りに満ちていて、何よりも美しい。
「これを持っていることで、あたしはずっとあなたに縛られているような気がしていました。本当は、誰にもあたしを縛ることなど出来ないって、ちゃんと知っていた筈なのに」
希莉江は顔を上げて空を見た。白い頬には涙が伝っていたが、彼女は笑っていた。
あたしは嵐。人とは違うけれど、人を愛することだってできる。
母さん。あなたはあたしに命をくれた。そう、文字通り。
だから、あたしは生きなければ。頂いた命の中で、精一杯生きて、生きて、生きる。そうして、ようやく無償の愛に報いられるのだ。
「捺夏か。どうした」
「どうもしないけど、アンディに云いたいことがあって」
「そうか」
「叉雷は、やっとおれを手放せたよ」
「……そうか」
「アンディ。前におれに云っただろ。おれたちはお互いに寄っかかってるだけで、ちっちゃい頃から何にも変わってないって」
「今はどうだ」
「変わったよ。おれも変わったし、叉雷も変わった」
「ほう」
「守るものができたんだ。お互いをじゃなくて、別のものを」
「もう籍は入れたのか?」
「ぶっ。さすがにそれはねー。おれも、ちゃんとした仕事に就かないと、相手に申し訳ないから」
「相手の名は」
「郁っての。可愛い名前だろ?」
「そうだな」
(空の上で出逢う捺夏と希莉江)
「あっ」
「キリエ、久し振りだねー」
「お久し振り。絽々も」
「その子、あんたの?」
「あたしの飛竜よ。莉々っていうの」
「ぶは。なんか、パクリくさいよ。その名前」
「しょうがないじゃない。二つ以上の音を使っちゃいけないって先生が云うんだもの」
「そうなんだよねー。一つの音の繰り返しじゃないと、名前だって認識できないんだよ」
「叉雷は元気?」
「あんまし元気じゃないねー。いや、ある意味じゃ元気なのかな」
「どうしたの?」
「いろいろあったんだ。あんたと別れてから」
「あら、そうなの」
「キリエは背が伸びたみたいだね」
「少しだけね。叉雷は一緒じゃないの?」
「うん。残念ながら」
「別に、残念でもないけど」
「なんで?」
「時々葉書が来るわ。向こうが住所不定で、返事は書けないけど」
「筆まめだねー」
「叉雷がね。あたしは元気よ。彼に会ったら伝えてくれる?」
「いいよ」
「ただいま戻りました」
「お帰り」
アンダルシアが応えた。素早く立ち上がって希莉江を迎えに歩く。
「どうだった」
問われた希莉江は、唇を薄く開いたまま動かない。年相応の幼い表情に、いくつもの疑問符が浮かんでいる。
「先生。あたしが戻ってこないと思いました?」
「……」
黙っている。
「大丈夫。あたしは回遊する嵐だから。何度でも戻って来ます」
そう云って、鮮やかに笑う。自分が受け止めたものを、そっくりそのまま相手に返す。希莉江は偽らない。アンダルシアが頬を歪めて笑う。彼の思いが、新たな風となって希莉江を揺らす。
「お土産です」
「何だ?」
「ひよこ饅頭です」
「……有り難う」
力が欲しかった。何が起こっても、何を見ても、何を聞いても、決して揺らぐことのない心が欲しかった。
今はもう、希莉江は力を求めない。求める理由が無くなったからだ。力の代わりに、鮮やかに光る心を手に入れた。目の前で困ったように笑って見せる人に向かって、相手を慰めるための、あるいは、共感を表すための手を伸ばせるようになった。夏空に浮かぶ雲のように、大らかで強かな心が、希莉江を内側から支えている。その心はしかし、きらめきながら容易く揺らいで形を変える。それでいい。それがいいのだと、彼女は誇らしく思う。それこそが、幼い目をして彷徨いながら求めていた答えだった。人との関わり合いの中で生まれる、いくつもの嵐。そして凪。その揺らぎそのものが、生きるということなのだ。時に冷たく、時に泣き出したいほどの熱い思いが、希莉江を自ずから動かしてゆく。
「先生。ありがとう」
あたしは、これからも揺らぐだろう。何度でも。何度でも。
※希莉江とアンダルシアは、サキュバスとインキュバスだった、ということです
風の暖かな昼下がりだった。希莉江は、アンダルシアから彼女自身の正体を聞かされた。
たった三日前のそれは、激震とも呼べる出来事だった。
「希莉江」
素っ気なく呼ばれて、「はい?」と応える。希莉江が振り返ると、彼女の師は端正な顔に珍しく緊張の色を浮かべていた。
「そろそろ、お前に話しておきたいことがある」
「何でしょうか」
にこやかに笑い、正面の椅子に座る。希莉江はアンダルシアに対して、すっかり心を許していた。
「お前は人じゃない」
眉を歪め、薄い唇から嫌々押し出された言葉を聞く。希莉江は僅かに首を傾げた。
「お前は人に触れてはいけない」
「……なぜ?」
「お前を愛する者の命を、お前が貪るからだ」
声も出ない。視界が赤に染まる。
「それは本能で、お前自身にもどうすることも出来ない。お前に寄せられる好意を、お前は相手の生きる力ごと吸い寄せる。心を交わした者と肌を合わせ続ければ、やがてお前は相手の命さえも奪う」
がつんと頭を殴られたような、それでいて、心のどこかで納得し得る宣告だった。アンダルシアは、憂いに満ちた表情で希莉江を見つめている。
――母さん。あたしは、あなたの命を貪ったの?
冬花は、誰に対しても惜しげもなく愛を分け与えた。冬花の愛は、希莉江が憎んだ主にすら向けられていた。それは男女の愛ではなかった。慈愛や人間愛などと称することが陳腐に思われるほどの深さと強さを以て、希莉江の母は全てを許し愛したのだ。
希莉江と同じ立場の奴隷たちの中では、希莉江はまさに泥中に華ひらく蓮花も同様だった。泥土に根を下ろし、天に向かって茎を伸ばし、清らかな白い花は水面に咲く。
母親譲りの美貌と希莉江自身の愛らしさは、彼女の崇拝者たちにとって生きる力の一助となっていた。こまっしゃくれていて、生意気で、やんちゃな眼差しをした娘だった。同時に、都中を探しても、そうそう見当たらぬほどの愛らしさを生まれもった娘でもあった。洗濯女たちは、言葉を尽くして希莉江の容貌を褒めそやした。その子供たちもまた、希莉江にまとわりついて離れようとしなかった。
だが、そんな幼い暮らしを送る希莉江に、冬花は一つの枷を与えていた。
あれは、いつの夜だったか。母の膝頭を、希莉江の背丈が越えた頃だったろうか。
「いい? 希莉江は、私以外の人にくっついてはだめなの」
今なら、母の言葉の本当の意味が分かる。
人の肌に、己の肌で触れてはいけない。母はそう云っていたのだ。
なぜ人に触れてはいけないのか、希莉江には分からなかった。ただ、そう云い聞かせる母の顔つきがあまりにも哀れで寄る辺なく、それを見る度に希莉江は疑問を抱くことを己に禁じた。だから希莉江は知らなかったのだ。母が死ぬまで。死んでも、なお。自分こそが母を殺したのだとは分からなかったのだ。
「あたし、誰かを好きになっちゃ……いけないんですね」
云った瞬間、ある想いが色鮮やかに蘇る。流星のように脳裏を過ぎるのは、忘れようもない二つの面影だった。冬花と、名を思い浮かべることさえ喜びと痛みを伴う青年の記憶だ。
「そうじゃない」
「だって、そうでしょう。あたしの――母を、殺したのは」
涙さえ出てこない。そうだ。あたしには泣く資格もない。
「俺がお前を傍に置いているのは、なぜだと思う」
「……」
希莉江は応えない。
続く沈黙は長かった。考えに考えたが、ついに分からなかったのだ。
アンダルシアは希莉江に何も求めない。ただ傍にいて、時々仕事を手伝ってほしいと言うだけだ。逆に、希莉江の頼みに応じて、彼女の勉強や遊びにつき合ってくれることの方が多かった。だから分からない。机の上で握られたアンダルシアの拳が、微かに震えている理由など。
「俺が、お前と同じものだからだ」
両眼に力を込めて、まるで睨むようにアンダルシアは語る。
「――あぁ」
希莉江は、泣こうか笑おうか迷うように首を振る。だが、彼女は結局泣かなかった。
「あたし、たぶん本当は知ってたんです。二年前から。母が、あたしを守るためだけに生きていたこと。あたしを捨てられなかったから、……死んでしまったことを」
努めて明るく告げる。アンダルシアは無言で立ち上がると、机を回り込んで希莉江の後ろへ立った。そっと差し延べられた右手に、希莉江は傾けた頬を寄せた。涙は出なかった。気怠い溜め息が出るばかりだった。
「先生、有り難う」
「お前は俺を責めていい」
「いいえ。遠慮しておきます」
「なぜ」
「先生が、あたしに責められたがってるから。あえて言わないし、しません。責めたいとも思わないし。第一、養われてる立場で、そんなこと出来る訳がありません」
「俺が了見の狭い男じゃないと証明するために、どうか俺を責めてくれ」
「それ、何か間違ってません?」
希莉江は声を上げて笑う。
「お前を引き取ったのは、お前を育てるためだけじゃなかった」
「正直なんですね。でも、先生はあたしに指一本触れませんでしたね。そういう意味では。夜中に部屋の扉を開けて、あたしを覗いたりもしなかった」
「……お前のこれまでの暮らしぶりがどんなものだったのか、あまり考えたくないな」
「どこへ行く?」
「借りていた物を返しに」
希莉江は猫のように笑っている。
「夜までには戻れ。莉々の夜間飛行は危ない」
「分かってます。先生、お土産は何がいいですか?」
「どこへ行くかも分からないのに?」
「南の方です。まあ、云ってみれば地元ですねー」
アンダルシアは新聞の陰から希莉江を見る。
「気をつけろよ」
「全てお返しします」
呆気に取られた顔が希莉江を見上げる。
「お金は少し足りないけど、お給金は頂いてませんでしたからね。これで充分でしょう」
不敵に笑って見せる。その姿は気高さと誇りに満ちていて、何よりも美しい。
「これを持っていることで、あたしはずっとあなたに縛られているような気がしていました。本当は、誰にもあたしを縛ることなど出来ないって、ちゃんと知っていた筈なのに」
希莉江は顔を上げて空を見た。白い頬には涙が伝っていたが、彼女は笑っていた。
あたしは嵐。人とは違うけれど、人を愛することだってできる。
母さん。あなたはあたしに命をくれた。そう、文字通り。
だから、あたしは生きなければ。頂いた命の中で、精一杯生きて、生きて、生きる。そうして、ようやく無償の愛に報いられるのだ。
「捺夏か。どうした」
「どうもしないけど、アンディに云いたいことがあって」
「そうか」
「叉雷は、やっとおれを手放せたよ」
「……そうか」
「アンディ。前におれに云っただろ。おれたちはお互いに寄っかかってるだけで、ちっちゃい頃から何にも変わってないって」
「今はどうだ」
「変わったよ。おれも変わったし、叉雷も変わった」
「ほう」
「守るものができたんだ。お互いをじゃなくて、別のものを」
「もう籍は入れたのか?」
「ぶっ。さすがにそれはねー。おれも、ちゃんとした仕事に就かないと、相手に申し訳ないから」
「相手の名は」
「郁っての。可愛い名前だろ?」
「そうだな」
(空の上で出逢う捺夏と希莉江)
「あっ」
「キリエ、久し振りだねー」
「お久し振り。絽々も」
「その子、あんたの?」
「あたしの飛竜よ。莉々っていうの」
「ぶは。なんか、パクリくさいよ。その名前」
「しょうがないじゃない。二つ以上の音を使っちゃいけないって先生が云うんだもの」
「そうなんだよねー。一つの音の繰り返しじゃないと、名前だって認識できないんだよ」
「叉雷は元気?」
「あんまし元気じゃないねー。いや、ある意味じゃ元気なのかな」
「どうしたの?」
「いろいろあったんだ。あんたと別れてから」
「あら、そうなの」
「キリエは背が伸びたみたいだね」
「少しだけね。叉雷は一緒じゃないの?」
「うん。残念ながら」
「別に、残念でもないけど」
「なんで?」
「時々葉書が来るわ。向こうが住所不定で、返事は書けないけど」
「筆まめだねー」
「叉雷がね。あたしは元気よ。彼に会ったら伝えてくれる?」
「いいよ」
「ただいま戻りました」
「お帰り」
アンダルシアが応えた。素早く立ち上がって希莉江を迎えに歩く。
「どうだった」
問われた希莉江は、唇を薄く開いたまま動かない。年相応の幼い表情に、いくつもの疑問符が浮かんでいる。
「先生。あたしが戻ってこないと思いました?」
「……」
黙っている。
「大丈夫。あたしは回遊する嵐だから。何度でも戻って来ます」
そう云って、鮮やかに笑う。自分が受け止めたものを、そっくりそのまま相手に返す。希莉江は偽らない。アンダルシアが頬を歪めて笑う。彼の思いが、新たな風となって希莉江を揺らす。
「お土産です」
「何だ?」
「ひよこ饅頭です」
「……有り難う」
力が欲しかった。何が起こっても、何を見ても、何を聞いても、決して揺らぐことのない心が欲しかった。
今はもう、希莉江は力を求めない。求める理由が無くなったからだ。力の代わりに、鮮やかに光る心を手に入れた。目の前で困ったように笑って見せる人に向かって、相手を慰めるための、あるいは、共感を表すための手を伸ばせるようになった。夏空に浮かぶ雲のように、大らかで強かな心が、希莉江を内側から支えている。その心はしかし、きらめきながら容易く揺らいで形を変える。それでいい。それがいいのだと、彼女は誇らしく思う。それこそが、幼い目をして彷徨いながら求めていた答えだった。人との関わり合いの中で生まれる、いくつもの嵐。そして凪。その揺らぎそのものが、生きるということなのだ。時に冷たく、時に泣き出したいほどの熱い思いが、希莉江を自ずから動かしてゆく。
「先生。ありがとう」
あたしは、これからも揺らぐだろう。何度でも。何度でも。
※希莉江とアンダルシアは、サキュバスとインキュバスだった、ということです
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