17 / 44
二章 残響
【3】甘露
しおりを挟む
その日、夕暮れの空の裾は薄紅に染まっていた。
黒い影が街道を歩いている。影は一人の少年の姿をしていた。
少年の名は甘露〔かんろ〕という。華奢な体つきだが、背中は真っ直ぐに伸びていた。左肩に麻袋を担いでいる。父親に頼まれて、隣町で買い物をした帰り道である。
天辺の藍から紫を経て紅となる空を見上げる。しばし見入りながら歩みを緩めた甘露は、常にない胸騒ぎを覚えて立ち止まった。
空は美し過ぎた。甘露と年の近い村の子供たちならば、この空を見ても今の甘露のように畏れを感じることはなかっただろう。だが、美しさの裏側に潜む異変の兆しを見落とすほど甘露は愚鈍ではなかった。愚鈍どころか、ややもすると本人が持て余すほどの才気を生まれながらにして備えていた。
何かが起ころうとしている。人の力の及ばぬ高みで。あるいは、誰も辿り着くことのできない深みで。
ぐっと唇を引き結ぶと、形の良い鼻から深く息を吸った。
肩の荷物を揺すり上げると、再び家路を辿り始める。
家へ続く道の途中で、甘露は姉の出迎えを受けた。
「お帰りなさい」
姉の声は慈しみに満ちていた。甘露は喜びを隠すことなく、姉の手を取って甘える。
「ただいま戻りました」
二人はどちらからともなく歩き出した。姉を見上げた甘露は、いつになく強張った姉の横顔に怪訝な顔をする。
「姉さん?」
「あのね、家に赤ちゃんがいるのよ」
「えっ」
「あなたが出かけている間に、うちに来たの。捨て子なんですって」
「お母さんの子供じゃないの?」
「ええ。でも、きっと母の子供だということにするんでしょうね。あなたにも、きっとそう云うでしょう。私が本当のことをあなたに話したことを、誰にも話してはだめよ」
「うん……」
甘露は肯いた。姉は、時々こうして大人たちが甘露に告げることとは真逆のことを甘露にこっそりと伝えてくれる。どちらが真実か、甘露が迷うことはなかった。姉は決して甘露に嘘をつかなかったからだ。生きてゆく上で、それがいかに困難なことか、甘露は幼いながらに知っていた。
「甘露。私と約束してほしいの」
「何を……?」
甘露は訊いた。
「もうすぐ、お祭りの日が来るの。分かる?」
「うん」
「いい? お祭りには行かないで。どんなに誘われても行ってはいけない」
「これから、ずっと?」
甘露は不安そうに訊き返した。
「ううん。今年だけよ。来年はいいの。山の光を見ないで。その日は、両目を布で塞いで、どこかに隠れているのよ」
姉の顔には血の気が無かった。
「いいわね? 約束して。甘露」
「やくそく。……うん」
甘露は聡い子供だった。姉のただならぬ様子が、これが遊びでする口約束ではないのだと甘露に感じさせていた。この頃から既に、彼の洞察力と理解力は非常に優れていた。
「甘露、私を捜してはだめよ」
「……?」
「私は、あなたの心の中にいるの。ずっと。だから、どこにも私を捜しに行かなくていいの。覚えていて……」
「姉さん」
「私は、あなたを愛しているの」
ふわりと姉が笑う。それは甘露がこれまで見た中で、最も気高く美しい笑顔だった。
数日後、甘露は祭の芝居の主役に選ばれた。喜び勇んで姉に話すと、姉は微笑みながら驚くべき言葉を甘露に投げかけた。
「私と約束したでしょう?」
「えっ」
「あなたは、お祭りには行ってはいけません。明日、皆の前で私を『雨乞い』にすると話してちょうだいね」
「……」
姉が腰を屈めて甘露に目線を合わせる。琥珀色の瞳を覗き込んだ甘露は言葉を失った。それは、花盛りの二十一の娘に相応しい眼差しではなかった。数え切れない涙で洗われた瞳だと甘露は思った。手を伸ばして、姉の肩を小さな手で抱き寄せると、姉は声を上げて笑った。
「あなたの役を私にちょうだい。甘露」
「いいよ。あげる」
姉の両腕が甘露を抱きしめる。細い腕は震えていた。
「私がこの役をもらうのは、これで二度目なの」
「一度目は?」
「七年前の夏に。だけど、私も今のあなたのように、他の人に役を奪われてしまった」
「……かなしかった?」
「ええ。とても」
姉が肯く。
「でも、だから私は今ここにいるの。いい? 甘露」
「なに?」
「私は今、七年後のあなたに話しているの。七年後の今日、どうか私を思い出して。私があなたに話したことの全てを」
甘露が姉を『雨乞い』として指名した時の、村人たちのざわめきを今でも鮮やかに覚えている。甘露の両親は安堵の表情をしていた。特に母親は喜びを隠しきれないでいた。それを見て甘露は思ったのだ。
『雨乞い』の役は、どうやら楽しいばかりではないようだ――と。稽古には加わらずに一人で過ごす甘露を、誰も咎めはしなかった。
姉は、時折冷ややかな目つきで甘露の父を眺めていることがあった。侮蔑しているようにすら見えた。それを見ても、姉を煙たく思いはしなかった。それどころか、父に対して理由のない憎悪を感じることさえあった。清廉な姉に比べると、掟のみに縛られて生きる両親は暗愚なようにしか見えなかった。
ある日、夕食の席で決定的な出来事が起こった。父が姉に向かって「誰に喰わせてもらっていると思っているんだ」と云った時だ。それまで言葉少なに食事をしていた姉が顔を上げた途端、甘露は目の前に稲妻が奔るのを見た思いがした。
「忘れられるって、幸せなことね」
感情を押し殺した声が姉の唇から吐き出される。
「勘違いしないでちょうだい。あなたたちのためにこうする訳じゃない。七年後に誰が選ばれるか、知っているでしょう」
「……」
父は答えなかった。それが答えだった。
「七年後のために、今の私に出来ることをするわ。残念ながら、私は七年後に誰が選ばれるのか見ることは出来ないの。あの人が私に与えてくれたものは、消えたりはしない。伝わってゆくわ。決して途切れることなく」
母は暗い顔で姉を窺っている。卑屈な顔つきだと甘露は思った。村を統べる長の家に住んでいるのは、卑小な大人二人と、神の使いのような娘、不意に現れた赤子、そして甘露なのだ。崩壊という言葉などでは追いつかない、絶望的な荒廃だった。
「七年後に選ばれた子供は、一体誰を選ぶのかしら。忘れないでちょうだい。七年後にあなたたちが味わうかも知れない苦痛を、これまで誰が肩代わりしてきたのかを」
姉は薄く笑っていた。寒気がするような美貌だった。それでいて、姉は誰とも娶(めあわ)されずに生きている。他家から申し出があるごとに、姉が頑として拒んでいるからだ。
大祭の最後の日。甘露は姉との約束を守り、代償として姉を失った。
やがて甘露は、姉が人々から忘れ去られたことを思い知る。だが、彼は姉を捜しはしなかった。
姉は、甘露の心の中にいたからである。
* * *
結論から云おう。
甘露は最早、人の姿をしていない。
迸る光の乱舞の中で、彼は思い返している。
あの夏。全てを知り、全てを手放した夜に至るまでの軌跡を――。
弟が甘露の部屋で寝入ってしまったので、甘露は読みさしの本を開いたまま机に伏せた。蒸し暑い空気を少しでも和らげようと、目の前の窓を開けて風を通す。季節は初夏だ。梅雨が明けて、まだ間もない。
中空に月が浮かんでいた。月は満ちていた。
突然誰かに呼ばれでもしたかのように肩を震わせて、甘露は目を覚ました。窓の外は薄暗い。それを一瞥して、すらりと伸びた体を起こした。
繰り返される夏を六度通り過ぎ、甘露は十四になっていた。
寝台を降りて部屋を出る。隣にある弟の部屋の扉は開いており、中で安らかに寝息を立てる弟の姿が見えた。廊下を裸足で進み、階段を降りた。
外履きを履いて玄関から外に出る。夜明け前の墨色の空が甘露を迎えた。
甘露はどこに行くともなく歩き出した。蝉の声は聞こえなかった。夏の半ばを過ぎれば、きっとうるさいくらいに鳴き始めることだろう。
ふと、彼の姉のことを思った。
姉を失ってから、甘露は誰よりも寡黙になった。
姉は、この村を出てどこへ行ったのだろうか。その答えを甘露は努めて追うまいとした。なぜなら――答えは既に彼の胸の内にあった。闇を侵しながら燃える青白い炎のように。
ここ数年の間、甘露は秋から冬までを都で過ごしている。学校には年上の友人の家から通っている。村では望むべくもない高度な教育を受けて、甘露は多くのことを学んだ。村に戻ると野良仕事に精を出した。彼は己の手を汚すことを厭わなかった。河川から水を引く大人たちを手伝い、田畑の実りを祈り続けた。自分に出来ることは、精一杯に今を生きることでしかないと分かっていた。
甘露は知っていた。知りながら、目を逸らし続けた。
それでも炎は消えなかった。今も燃え続けている。頼りなく揺らめきながら。
大祭の準備は着々と進んでいた。
太鼓の音。混じり合う笛の不吉な響きが甘露を導いてゆく。
次の日。仕事を終えてから、甘露は弟に漢字の書き取りを教えていた。弟は楽しげな様子で、甘露が声に出す言葉を次々に漢字で綴ってゆく。時折、分からない文字を仮名で書くのが微笑ましかった。
陽が落ちた頃、父と母は村の集まりに出かけた。弟に先に風呂に入るように云う。弟は鉛筆と紙を机に置いたまま、甘露の部屋を出て行った。
残された甘露は、くたびれた体を寝台に投げ出すように寝転がった。
昨日から、ずっと心のどこかで姉のことを考えていた。図柄合わせの最後のかけらが、甘露の内側から彼に呼びかけている。気づけ。気がつかないと、間に合わなくなる。だから早く。早く!
なぜ僕は姉を捜さなかったのだろうか。
それは、思い出だけを暖めて生きてゆこうと思っていたからでも、単に諦めていたからでもなく、甘露が全ての答えを知っていたからではないだろうか。
甘露に与えられた役を、譲ってほしいと姉は云った。甘露が差し出した時、姉は何と云った? その役を与えられるのは二度目だと姉は云った。
僕は何と云った? 一度目は、と訊いた。姉は――。
七年前の夏と答えた。
一度目は他の者に奪われたと姉は云った。奪われたからこそ、今ここにいると云った。悲しかったかと甘露は訊いた。姉は肯いて答えた。とても悲しかったと。それから……。
七年後の甘露に話しているのだと云った。
甘露は弾かれたように起き上がった。姉の声が耳元で囁いている。甘露は震える唇で言葉を紡いだ。
「七年後の今日、どうか私を思い出して。私があなたに話したことの全てを」
ああ、そうだった。今日がその日だ。
「七年前――」
悲しかったのは、姉が失ったからだ。甘露が姉を失ったように。
姉もまた誰かを喪ったのだ。
なぜ大祭は七年ごとなのか。なぜ毎年行われる祭で子供たちが芝居を打つのか。なぜ、芝居の演目は数百年前から変わらないのか。
なぜ、その芝居の配役を大人たちの投票によって決めるのか。
七年前、主役である「雨乞い」の役を担っていたのは誰だったか。
「姉さん!」
絶叫が耳に届いた瞬間、甘露はおののきながら両耳を手で塞いだ。それが苦鳴としか云いようのない声だったからだ。
七年ごとの大祭。その最中に、一人の子供が死ぬ。何かに殺される。そうして、家族からも友達からも忘れ去られる。人々は忘れるのだ。おそらくは、姉が見るなと懇願していた「光」によって。
甘露が演じる筈だった役は姉に奪われた。だから姉は姿を消した。甘露は姉に救われたのだ。あの日、姉は晴れがましい舞台に立ったのではなかった……。
「あなたは、殺されに行ったのか」
甘露は呻いた。それは最早、嗚咽ですらなかった。全身を貫く悲しみが、灼けつくような怒りへと変わる。
姉は知っていたのだ。甘露が選ばれることを。なぜ姉がそれを知り得たのか、理由は分からない。分かっているのは、姉が甘露を生かしたという事実だけだ。それで充分だった。
姉は姉自身の優しさに殉じたのだ。ただ甘露を生かすためだけに。
「今年は? 今年の大祭は」
あの謎めいた夏から七年が経った。今年もまた、大祭が執り行われる。
今年死ぬのは誰だ? 姉がそうされたように、全てに見捨てられて逝くのは誰だ。
「『――』!」
甘露は弟の名を叫んだ。だが今はもう、弟の名前が思い出せない。
「僕は馬鹿だ」
何ということだ。この日この時まで、大祭と姉の失踪との因果関係に気がつかぬとは。甘露は己の愚かさに呆れ果てる思いだった。
「誰かが村人を騙しているのか?」
大祭の夜に子供が消える。それを裏づけるものは?
見つけなければならない。そして捩じ曲げるのだ。定められた未来など無い。甘露が証拠だ。姉は変えて見せた。僕には、それに応える義務がある。
衝動に突き動かされるままに、甘露は家を飛び出した。走った。怒りに燃え上がる琥珀の瞳が記憶の底から甦る。
忘れることを幸せだと姉は云った。つまり姉は忘れなかった。甘露が姉を忘れなかったように。姉は、姉を生かした者のことを忘れることが出来なかった。
甘露は、父や長老たちが古い文書や村人の記録を保管している場所を目指した。そこは朋の社と呼ばれていた。
「朱が塗られてる。判子の日付は……七年前の大晦日だ」
姉の名前は血のような朱色で隠されていた。村の外への移住を表す黄色でも、死を表す黒でもなく。
この朱色こそ、姉が村を出て流れ者になったとされた証だ。この日付の時点で村にいない者は、全て「流れ者となって去った」として処理されている。
甘露は推理する。事実はこうだ。
この村民帳を管理していた人間が姉の存在そのものを忘れたために、姉は「移住者」でも「死者」でもなく、「流れ者」となった。おそらく、この朱を塗った人物は、甘露の姉がこの村の住人であったことなど記憶に無いと云い張るだろう。そしてそれは事実なのだ。
大祭でなければ、芝居は芝居は寄り合い所の前の広場で行われる。山頂で芝居を打つのは大祭の時だけだ。
祭の最後に打ち上げられる花火。その後で、大祭の時だけは、さらに大きな花火が特別に打ち上げられるのだと教えられてきた。甘露が目にしたことのない光、姉が甘露から遠ざけた光が頂から溢れ出る。それは篝火だ。永遠に大人になれない死者を送るための――。その光こそが、村人たちに犠牲者の記憶を忘れさせるのだとしたら、全ての辻褄が合う。
甘露は年を遡り、過去の村民帳にも目を通した。姉以外にも、同じ日付で村から流れたとされた者たちがいた。七年ごとの大晦日に、必ず人が流れている。いずれも名前を朱で塗りつぶされていた。
七年前。十四年前。二十一年前。二十八年前。三十五年前。四十二年前。四十九年前。五十六年前。甘露の目が、朱色で汚された人々の名前をなぞってゆく。
「宗柳、鈴、花氷、朝霧、沫、滝、飛白、『――』」
流れた者の屋号は、半数以上が伽羅屋〔がらや〕だった。この中では、姉だけが甘露と同じ屋号を持っている。だが、姉の屋号は記されていない。朝霧と沫も名だけが記されていて、屋号は無い。屋号が記されるべき場所には、何も書かれていなかった。眼前に立ち現れた不気味な作為に慄然とする。
「伽羅屋……。懐かしい屋号だな。よく昔話に出てくる」
幼い頃から繰り返し聞かされた昔話の中で、悪人の屋号はいつも伽羅屋だった。いつだったか、長老から聞いた話を姉に話した時のことを思い出す。姉は嫌悪も露わに云った。そんな馬鹿げた昔話を信じられたなら、私はもっと幸せに生きられたのではないかしら、と。
今、村には伽羅屋という屋号を持つ者は一人もいない。なぜだろうか。
飛白。この人が伽羅屋の「最後の一人」なのだろうか。
甘露には、記されなかった屋号の名が分かっていた。彼の家が持つ屋号だ。屋号を持たない者たちは、姉と同じように拾われて殺されたのだろう。――いや、違う。
拾われて殺されたのではない。殺されるために拾われたのだ。
甘露は最も新しい村民帳を棚から取り出した。頁を捲り、馴染みのある名前の羅列を確認する。
それを目にした瞬間、甘露は息を呑んだ。
次の頁を捲り、甘露は眩暈を覚えた。
そこには、甘露の名が屋号とともに記されていた。隣には弟の名がある。
だが、弟の名の上には何も無かった。無い。何度見返しても無い。本来そこに記されるべき屋号が。
だとしたら、あれは誰なのだ。毎朝毎夜、常に甘露の近くで生きているのは誰だ。無条件に甘露を信じてやまない、あの幼い少年は誰だというのか。
「あぁ……」
世界が壊れてゆく。これが僕の愛した世界の真実なのだろうか。だとすれば、あまりにも惨い。
「僕のせいなのか?」
お前が拾われたのは、僕のためなのか。お前は僕を生かすための贄として、これまで生かされて来たのか。
甘露は、姉が姉を生かした相手から受け継いだものの正体を知った。それは命だった。消えたりはしない、伝わってゆくと姉は云った。
そうだ。命は続く。決して途切れることなく。
「僕が繋げる」
家に帰ると、弟が甘露を待っていた。どこに行っていたのかと尋ねられて、甘露は曖昧に微笑む。
甘露は弟を見た。弟もまた、あどけない顔で甘露を見上げる。甘露を信じきっている眼差しを見返した時に、甘露は思った。この命を姉に返そう。
「お前に、どうしても頼みたいことがあるんだ」
弟が驚いたように声を上げる。何でも云って、と云う。甘露は、弟を心の底から愛しいと思った。弟の瞳は春の海のように光り輝いていた。
「お前の役を僕にくれないか。どうか、お願いだから」
弟は迷いもせずに応えた。
いいよ、あげる――と。
夜の闇を目に映しながら、甘露は弟の傍らに横たわっていた。弟は眠っている。
長い夢から醒めたような気分だと思う。甘露の心は凪いでいた。
今なら分かる。なぜ姉が、あれほどまでに必死だったのか。強張った顔つきで、痛いほどに甘露の肩を抱いていた。死にたくない。確かにその思いもあっただろう。
だが、死の恐怖を越えた向こう側に、姉は人として真に正しいものを見ていた。
自分よりも、より若い者を生かす。自らの命を擲ってまで。そして云うのだ。
どうか、私を覚えていてほしい――と。
私は生きて命を知った。命の喜びを知った。
私を忘れないで。けれど、あなたは生きなさい。姉が甘露に願ったのは、死にゆく自分を少しでも長く覚えていてほしいということだった筈だ。
弟は姉のことを知らない。七年前に拾われた弟は、甘露とは血が繋がっていない。流浪の女が産み、切り立った崖の淵に捨てた赤子だ。だが、それが何だというのか。
甘露は弟を生かして死ぬ。姉が甘露を生かしてくれたように。
甘露はさらに考える。姉自身もかつて誰かに救われたのだ。甘露が姉の犠牲によって生きながらえたように。
甘露は思う。簡単なことだ。弟に与えられた役目を奪う。ただそれだけのことだ。但し代償に払われる対価は、甘露の命だった。
いつからか。誰かがこのからくりに気づいて行動を起こした。それは、一人の少年――あるいは少女だったのだろう。大祭の夜に目を閉じていた子供が、仲間の一人が消えたことに気づく。だが、周囲の誰もが、その子供は気が触れたと思っただろう。いもしない者のために嘆き、その行き先を探し歩く子供を、心ない者たちは狂人扱いしたに違いない。
たった一人の決意が、どこかで生まれた。そうして、幾人もの子供たちが命を落としていったのだろう。誰かを護る為に。死ぬことを定められた子供を生かす為に。
姉は、その中の一人だった。甘露もやがてそこへ加わるのだ。
それはまさしく、人にしかできない行為だと甘露は思う。誰かに命を救われ、堅く閉ざされた秘密という名の扉の陰から、忌まわしい儀式の存在を覗き見た者たち。『雨乞い』の芝居に隠された真実を知った者は、例外なく次の大祭で己の命を誰かに繋げた。だからこそ、甘露は今ここにいるのだ。
私の代わりに生き長らえなさい。そう祈りながら、愛する者に命を預けて逝った者たちの声が聞こえてくるかのようだ。残された命の期限は七年。この秘密を抱いたまま、生きろ。生きて繋げ。それは半ば義務であり、同時に切なる願いだった。
「……深いな」
呟いて、甘露は少し笑った。甘露に託された多くの魂の祈りを、どうして無視できようか。
弟と弟の親友――彼の名も忘却の彼方だ――を伴って畦道を歩き、自作の凧を空に上げる際に、目を射らんとばかりに飛び込んでくる夏の陽光。弟が笑い、親友の背を押して走り出す。途中で振り返って、甘露にも笑いかける。その輝きが甘露にもたらすものは、大いなる喜びに他ならなかった。見よ。世界は美しい。
よし。僕は死ぬ。この地上に確かに生きた歓喜を抱きながら。
この頃には、甘露は己が何によって命を落とすのか――朧気ながらではあったが――理解していた。
甘露は弟に云わなかった。己が死ぬ、とは。
いつか弟も気がつくかも知れない。この村で行われてきた、忌まわしい儀式の秘密に。だが、もし弟が甘露の真意に気がつかぬまま生きてゆくことができたなら。それこそが、甘露の切なる願いが達せられた証となる。
大祭が始まる前日、甘露は都へと飛んだ。大祭に隠されたおぞましい真実を、ある人物に語るために。
甘露が訪ねたのは、数年前から、野菜の買いつけのために村に頻繁に通って来ていた青年である。青年の名は忘れた。ただ、短い赤の巻き毛だけを覚えている。
青年を遠巻きに見るだけの村人たちとは違い、甘露は進んで彼と言葉を交わした。なぜ彼と関わろうとしないのかと友人の一人に訊ねると、訛り言葉で話して笑われるのが嫌だという答えが返ってきた。だが、実際に青年と関わりを持った甘露には、彼が他人の訛りを聞いて笑ったりする筈がないと分かっていた。
今思えば、甘露の話す言葉は村には全く馴染まなかった。甘露の訛りのない言葉使いは、赤子の頃から甘露を見守っていた姉から受け継いだものだった。姉も、甘露の知らない兄か姉から話し方を学んだのだろう。母には訛りがあったが、父にはほとんど無かった。つまり、それだけ村の外から人は流れてきたということだ。あるいは、父は都で暮らしたことがあったのかも知れない。都では、訛り言葉を聞く機会はほとんどなかった。それほど、都と周辺の村々との断絶は深いのだ。
青年の家を最初に訪れたのは、学校の下見を兼ねて都に出た時だ。都を案内してくれた上、彼が育てている美しい飛竜に乗せてくれた。いつからか、都で過ごす間は青年の家で暮らすようになっていた。
青年の家には、甘露の他にも少年や少女が住んでいた。いつも活気に溢れており、青年の友人たちが彼を慕って訪ねてくる。中でも、一人の女性を甘露は心待ちにしていた。美しい黒髪を一つに束ねた、化粧気のない中年の女だ。異様なほどの美貌が、姉の面影に重なることが度々あった。物腰は穏やかだったが、掛け値のない威厳に満ちていた。何気ない仕草に畏怖を感じることさえあった。
都に行くことは、甘露にとっては容易なことだった。青年から教えを受けて、彼の飛竜を呼び寄せる術を知っていたからである。
甘露の顔を見て、青年は云った。聞きたくない。甘露は取り合わず、これまでに知り得た全てを話した。
僕が選んだ道がどこへ通じるのか、僕はもう知っています。結論から云うと、おそらく僕は消えるのでしょう。
聞き終えた青年は酷く取り乱した様子で、甘露に思い留まるように云った。なぜ、お前なんだ。他の誰かでは駄目なのか。それこそ、村人が選んだ者をお前が諦めれば済むことじゃないのか。だが、甘露の心は変わらなかった。
もし、あなたが僕と同じ立場だったら、どうしますか? 選ばれたのが僕で、あなただけが僕を助けられるのだとしたら。
青年が答える。お前を助けるに決まっているだろう。
甘露は顔を綻ばせて応える。そうでしょう。あなたはきっと僕を助けてくれる。つまり、そういうことです。
ついに青年は甘露の強情の前に屈した。ばかやろう、と云われた。煙草の匂いが漂う部屋の主は、あの時、声を押し殺して泣いていたように思う。
「一つだけ、あなたに頼んでも良いでしょうか?」
声もなく青年が肯く。安堵の笑みとともに甘露は伝えた。
「もしも僕を哀れだと思って下さるのなら、どうか、七年後の大祭を執り行わないようにして下さい。それ以降の大祭もです。もう二度と、あの山で人が殺されないことを僕は望みます。
そして、どうか探して下さい。なぜ多くの人々が殺されなければならなかったのか。その理由を……。
あなたに頼むべきことではないかも知れない。でもなぜか、あなたに話せば僕の願いが叶うような気がしたんです。だから、どうか――」
青年が嗄れた声で答える。
分かった。俺が何とかする。だから、お前はもう何も心配しなくていい。
最後の夜、甘露は宿屋で働いている娘を訪ねた。娘は甘露の幼馴染みである。村の誰とも違う風変わりな訛りのある話し方は、まるで甘露のために歌っているかのようだ。
娘が煎れてくれた紅茶を楽しみながら思う。多分、僕はこの人を好いている。狂おしいほどに。こうなるまでは気がつかなかった。甘露は少しだけ悔やんだ。もう遅い。もっと多くの話をしたかった。二人だけで他愛のない話を交わして、この娘といくつもの夜を明かしたかった。
甘露は幾度か言葉を紡ごうとして、その度に唇を噤んだ。伝えるのは簡単なことに思えた。その後に何が起こるかが問題だった。
明日を終えた時、甘露は消える。文字通り消える。僕には明日はあるが、明後日は無い。永遠に無い。全てが終わることを僕は知っている。
娘の上気した頬を見つめる。甘露の知らない昔話を語る唇に触れたいと思った。机に手をかけて、体を寄せる。娘は驚きもせずに目を伏せ、わずかに顔を傾けた。甘露は触れるだけの口吻けを娘に贈った。それは甘露が自らに許した最後の甘えだった。これくらいは許されるだろう。甘露の世界は明日で終わるのだから。
何も告げずに消えてゆく甘露を、娘が思い出して懐かしむことはおそらく無い。それでも、この瞬間だけは生々しい現実だった。体を離すと、甘露は満足そうに微笑む。娘は奥二重の愛らしい瞳を細めて微笑み返した。
さようなら。あなたをとても愛しく思っています。そう、声には出さずに思う。
人の命は火花のようだ。あっという間に弾けて闇に溶ける。
大祭の最終日を、甘露は一睡もせずに迎えた。
小鳥たちの囀りが甘露に告げている。
――さあ、行きなさい。舞台の幕は上がった。
陽が陰り始めた。
弟に持たせる荷物を確認してから、甘露は弟を呼んだ。
「行こう」
弟は肯き、手にしていた本を甘露の本棚に戻した。
階下に降りると、居間の肘掛け椅子に座る母の姿が目に入った。母の顔は哀れなほどに窶れて見えた。甘露は弟に外で待つように促し、母の前に膝を折って座った。母はあやふやな笑みを浮かべて云った。記憶が消えても、遺された物は消えないのよ。いくつもの命を忘れたことは分かるの。見覚えのない娘の晴れ着や、あなたの足には合わない靴を見る度に、私は自分を罪深いと思った。でも、まさか、こんな日が来るなんて思わなかった。
「お母さん。あなたは山を登って下さい」
甘露は母の両目から流れる涙を見つめていた。
「僕は選びました。誰のためでもない、僕自身のために。僕のために泣く必要はありません」
甘露は一礼すると、凛とした微笑を母への最後の贈り物とした。
「さようなら。お世話になりました」
外に出る。待っていた弟が、首を伸ばして甘露の顔を見上げる。
「ごめん。遅くなって」
甘露は弟の手を引き、弟の親友の家へと向かった。
弟の親友は不在だった。昨日の芝居で台詞を忘れたと云っていたから、大人たちに稽古をさせられているのだろうと弟が云う。
「かわいそうに」
甘露は正直な感想を述べた。あの芝居には何の意味もないことを、彼は知ってしまっていた。昨日までの二日間、山頂から花火が上がることはなかった。今夜は花火が上がる。打ち上げられる花火は七発。芝居の山場で「雨乞い」が天へ両手を差し伸べた時をきっかけに、打ち上げが始まるのだと聞かされていた。
「やっぱり、最終日なんだな」
呟いた甘露を、弟が怪訝そうに見やる。
「何でもないよ」
甘露は微笑んだ。白い包帯を握る弟の両手に、自らの両手で触れる。
「昨日はどうしてた?」
弟は得意気に答えた。どこにも行かず、ここに隠れていたこと。両眼を包帯で覆い、決して目を開けずに夜明けを待ったこと。途中で寝入ってしまい、明け方に戻った親友が驚きのあまり大声で叫んだこと。それから二人で朝食を食べて、家に戻ってきたこと。
「ありがとう。約束を守ってくれて」
甘露は弟を抱き寄せた。
「今日で祭も終わる。決して、山頂の光を見てはいけないよ」
甘露の両腕は震えていた。
「僕のことを忘れないでいてほしい。……お前だけには」
弟は答えた。絶対に忘れない、と。甘露はそれを信じたいと思った。それが叶わないかも知れないと思うからこそ、弟の言葉を信じたかった。
甘露は弟の両眼を包帯で覆った。覆いながら、甘露は初めて自分のためだけに泣いた。嗚咽も無く。言葉も無く。
「生きなさい」
僕の分まで、とは云わない。お前の命はお前だけのものだから。
「お前には、その資格がある――」
どうか許してほしい。もう、お前を守れなくなってしまう僕を。
弟はじっとしていた。小さな手が、甘露の背におずおずと回される。甘露は小さく笑った。
命は何て暖かいんだろう。
光が溢れる。脳も体も、もう無い。
魂だけがある。感じる。あたたかい。
弟に呼ばれたような気がした。それに応えて、忘れた筈の弟の名を幾度となく叫ぶ。
失われてゆく。何もかもが。
思考できたのはそこまでだった。
甘露の意識の下には悠久の大河が流れ、彼の全てを押し流してゆく。
――解けてゆく。
黒い影が街道を歩いている。影は一人の少年の姿をしていた。
少年の名は甘露〔かんろ〕という。華奢な体つきだが、背中は真っ直ぐに伸びていた。左肩に麻袋を担いでいる。父親に頼まれて、隣町で買い物をした帰り道である。
天辺の藍から紫を経て紅となる空を見上げる。しばし見入りながら歩みを緩めた甘露は、常にない胸騒ぎを覚えて立ち止まった。
空は美し過ぎた。甘露と年の近い村の子供たちならば、この空を見ても今の甘露のように畏れを感じることはなかっただろう。だが、美しさの裏側に潜む異変の兆しを見落とすほど甘露は愚鈍ではなかった。愚鈍どころか、ややもすると本人が持て余すほどの才気を生まれながらにして備えていた。
何かが起ころうとしている。人の力の及ばぬ高みで。あるいは、誰も辿り着くことのできない深みで。
ぐっと唇を引き結ぶと、形の良い鼻から深く息を吸った。
肩の荷物を揺すり上げると、再び家路を辿り始める。
家へ続く道の途中で、甘露は姉の出迎えを受けた。
「お帰りなさい」
姉の声は慈しみに満ちていた。甘露は喜びを隠すことなく、姉の手を取って甘える。
「ただいま戻りました」
二人はどちらからともなく歩き出した。姉を見上げた甘露は、いつになく強張った姉の横顔に怪訝な顔をする。
「姉さん?」
「あのね、家に赤ちゃんがいるのよ」
「えっ」
「あなたが出かけている間に、うちに来たの。捨て子なんですって」
「お母さんの子供じゃないの?」
「ええ。でも、きっと母の子供だということにするんでしょうね。あなたにも、きっとそう云うでしょう。私が本当のことをあなたに話したことを、誰にも話してはだめよ」
「うん……」
甘露は肯いた。姉は、時々こうして大人たちが甘露に告げることとは真逆のことを甘露にこっそりと伝えてくれる。どちらが真実か、甘露が迷うことはなかった。姉は決して甘露に嘘をつかなかったからだ。生きてゆく上で、それがいかに困難なことか、甘露は幼いながらに知っていた。
「甘露。私と約束してほしいの」
「何を……?」
甘露は訊いた。
「もうすぐ、お祭りの日が来るの。分かる?」
「うん」
「いい? お祭りには行かないで。どんなに誘われても行ってはいけない」
「これから、ずっと?」
甘露は不安そうに訊き返した。
「ううん。今年だけよ。来年はいいの。山の光を見ないで。その日は、両目を布で塞いで、どこかに隠れているのよ」
姉の顔には血の気が無かった。
「いいわね? 約束して。甘露」
「やくそく。……うん」
甘露は聡い子供だった。姉のただならぬ様子が、これが遊びでする口約束ではないのだと甘露に感じさせていた。この頃から既に、彼の洞察力と理解力は非常に優れていた。
「甘露、私を捜してはだめよ」
「……?」
「私は、あなたの心の中にいるの。ずっと。だから、どこにも私を捜しに行かなくていいの。覚えていて……」
「姉さん」
「私は、あなたを愛しているの」
ふわりと姉が笑う。それは甘露がこれまで見た中で、最も気高く美しい笑顔だった。
数日後、甘露は祭の芝居の主役に選ばれた。喜び勇んで姉に話すと、姉は微笑みながら驚くべき言葉を甘露に投げかけた。
「私と約束したでしょう?」
「えっ」
「あなたは、お祭りには行ってはいけません。明日、皆の前で私を『雨乞い』にすると話してちょうだいね」
「……」
姉が腰を屈めて甘露に目線を合わせる。琥珀色の瞳を覗き込んだ甘露は言葉を失った。それは、花盛りの二十一の娘に相応しい眼差しではなかった。数え切れない涙で洗われた瞳だと甘露は思った。手を伸ばして、姉の肩を小さな手で抱き寄せると、姉は声を上げて笑った。
「あなたの役を私にちょうだい。甘露」
「いいよ。あげる」
姉の両腕が甘露を抱きしめる。細い腕は震えていた。
「私がこの役をもらうのは、これで二度目なの」
「一度目は?」
「七年前の夏に。だけど、私も今のあなたのように、他の人に役を奪われてしまった」
「……かなしかった?」
「ええ。とても」
姉が肯く。
「でも、だから私は今ここにいるの。いい? 甘露」
「なに?」
「私は今、七年後のあなたに話しているの。七年後の今日、どうか私を思い出して。私があなたに話したことの全てを」
甘露が姉を『雨乞い』として指名した時の、村人たちのざわめきを今でも鮮やかに覚えている。甘露の両親は安堵の表情をしていた。特に母親は喜びを隠しきれないでいた。それを見て甘露は思ったのだ。
『雨乞い』の役は、どうやら楽しいばかりではないようだ――と。稽古には加わらずに一人で過ごす甘露を、誰も咎めはしなかった。
姉は、時折冷ややかな目つきで甘露の父を眺めていることがあった。侮蔑しているようにすら見えた。それを見ても、姉を煙たく思いはしなかった。それどころか、父に対して理由のない憎悪を感じることさえあった。清廉な姉に比べると、掟のみに縛られて生きる両親は暗愚なようにしか見えなかった。
ある日、夕食の席で決定的な出来事が起こった。父が姉に向かって「誰に喰わせてもらっていると思っているんだ」と云った時だ。それまで言葉少なに食事をしていた姉が顔を上げた途端、甘露は目の前に稲妻が奔るのを見た思いがした。
「忘れられるって、幸せなことね」
感情を押し殺した声が姉の唇から吐き出される。
「勘違いしないでちょうだい。あなたたちのためにこうする訳じゃない。七年後に誰が選ばれるか、知っているでしょう」
「……」
父は答えなかった。それが答えだった。
「七年後のために、今の私に出来ることをするわ。残念ながら、私は七年後に誰が選ばれるのか見ることは出来ないの。あの人が私に与えてくれたものは、消えたりはしない。伝わってゆくわ。決して途切れることなく」
母は暗い顔で姉を窺っている。卑屈な顔つきだと甘露は思った。村を統べる長の家に住んでいるのは、卑小な大人二人と、神の使いのような娘、不意に現れた赤子、そして甘露なのだ。崩壊という言葉などでは追いつかない、絶望的な荒廃だった。
「七年後に選ばれた子供は、一体誰を選ぶのかしら。忘れないでちょうだい。七年後にあなたたちが味わうかも知れない苦痛を、これまで誰が肩代わりしてきたのかを」
姉は薄く笑っていた。寒気がするような美貌だった。それでいて、姉は誰とも娶(めあわ)されずに生きている。他家から申し出があるごとに、姉が頑として拒んでいるからだ。
大祭の最後の日。甘露は姉との約束を守り、代償として姉を失った。
やがて甘露は、姉が人々から忘れ去られたことを思い知る。だが、彼は姉を捜しはしなかった。
姉は、甘露の心の中にいたからである。
* * *
結論から云おう。
甘露は最早、人の姿をしていない。
迸る光の乱舞の中で、彼は思い返している。
あの夏。全てを知り、全てを手放した夜に至るまでの軌跡を――。
弟が甘露の部屋で寝入ってしまったので、甘露は読みさしの本を開いたまま机に伏せた。蒸し暑い空気を少しでも和らげようと、目の前の窓を開けて風を通す。季節は初夏だ。梅雨が明けて、まだ間もない。
中空に月が浮かんでいた。月は満ちていた。
突然誰かに呼ばれでもしたかのように肩を震わせて、甘露は目を覚ました。窓の外は薄暗い。それを一瞥して、すらりと伸びた体を起こした。
繰り返される夏を六度通り過ぎ、甘露は十四になっていた。
寝台を降りて部屋を出る。隣にある弟の部屋の扉は開いており、中で安らかに寝息を立てる弟の姿が見えた。廊下を裸足で進み、階段を降りた。
外履きを履いて玄関から外に出る。夜明け前の墨色の空が甘露を迎えた。
甘露はどこに行くともなく歩き出した。蝉の声は聞こえなかった。夏の半ばを過ぎれば、きっとうるさいくらいに鳴き始めることだろう。
ふと、彼の姉のことを思った。
姉を失ってから、甘露は誰よりも寡黙になった。
姉は、この村を出てどこへ行ったのだろうか。その答えを甘露は努めて追うまいとした。なぜなら――答えは既に彼の胸の内にあった。闇を侵しながら燃える青白い炎のように。
ここ数年の間、甘露は秋から冬までを都で過ごしている。学校には年上の友人の家から通っている。村では望むべくもない高度な教育を受けて、甘露は多くのことを学んだ。村に戻ると野良仕事に精を出した。彼は己の手を汚すことを厭わなかった。河川から水を引く大人たちを手伝い、田畑の実りを祈り続けた。自分に出来ることは、精一杯に今を生きることでしかないと分かっていた。
甘露は知っていた。知りながら、目を逸らし続けた。
それでも炎は消えなかった。今も燃え続けている。頼りなく揺らめきながら。
大祭の準備は着々と進んでいた。
太鼓の音。混じり合う笛の不吉な響きが甘露を導いてゆく。
次の日。仕事を終えてから、甘露は弟に漢字の書き取りを教えていた。弟は楽しげな様子で、甘露が声に出す言葉を次々に漢字で綴ってゆく。時折、分からない文字を仮名で書くのが微笑ましかった。
陽が落ちた頃、父と母は村の集まりに出かけた。弟に先に風呂に入るように云う。弟は鉛筆と紙を机に置いたまま、甘露の部屋を出て行った。
残された甘露は、くたびれた体を寝台に投げ出すように寝転がった。
昨日から、ずっと心のどこかで姉のことを考えていた。図柄合わせの最後のかけらが、甘露の内側から彼に呼びかけている。気づけ。気がつかないと、間に合わなくなる。だから早く。早く!
なぜ僕は姉を捜さなかったのだろうか。
それは、思い出だけを暖めて生きてゆこうと思っていたからでも、単に諦めていたからでもなく、甘露が全ての答えを知っていたからではないだろうか。
甘露に与えられた役を、譲ってほしいと姉は云った。甘露が差し出した時、姉は何と云った? その役を与えられるのは二度目だと姉は云った。
僕は何と云った? 一度目は、と訊いた。姉は――。
七年前の夏と答えた。
一度目は他の者に奪われたと姉は云った。奪われたからこそ、今ここにいると云った。悲しかったかと甘露は訊いた。姉は肯いて答えた。とても悲しかったと。それから……。
七年後の甘露に話しているのだと云った。
甘露は弾かれたように起き上がった。姉の声が耳元で囁いている。甘露は震える唇で言葉を紡いだ。
「七年後の今日、どうか私を思い出して。私があなたに話したことの全てを」
ああ、そうだった。今日がその日だ。
「七年前――」
悲しかったのは、姉が失ったからだ。甘露が姉を失ったように。
姉もまた誰かを喪ったのだ。
なぜ大祭は七年ごとなのか。なぜ毎年行われる祭で子供たちが芝居を打つのか。なぜ、芝居の演目は数百年前から変わらないのか。
なぜ、その芝居の配役を大人たちの投票によって決めるのか。
七年前、主役である「雨乞い」の役を担っていたのは誰だったか。
「姉さん!」
絶叫が耳に届いた瞬間、甘露はおののきながら両耳を手で塞いだ。それが苦鳴としか云いようのない声だったからだ。
七年ごとの大祭。その最中に、一人の子供が死ぬ。何かに殺される。そうして、家族からも友達からも忘れ去られる。人々は忘れるのだ。おそらくは、姉が見るなと懇願していた「光」によって。
甘露が演じる筈だった役は姉に奪われた。だから姉は姿を消した。甘露は姉に救われたのだ。あの日、姉は晴れがましい舞台に立ったのではなかった……。
「あなたは、殺されに行ったのか」
甘露は呻いた。それは最早、嗚咽ですらなかった。全身を貫く悲しみが、灼けつくような怒りへと変わる。
姉は知っていたのだ。甘露が選ばれることを。なぜ姉がそれを知り得たのか、理由は分からない。分かっているのは、姉が甘露を生かしたという事実だけだ。それで充分だった。
姉は姉自身の優しさに殉じたのだ。ただ甘露を生かすためだけに。
「今年は? 今年の大祭は」
あの謎めいた夏から七年が経った。今年もまた、大祭が執り行われる。
今年死ぬのは誰だ? 姉がそうされたように、全てに見捨てられて逝くのは誰だ。
「『――』!」
甘露は弟の名を叫んだ。だが今はもう、弟の名前が思い出せない。
「僕は馬鹿だ」
何ということだ。この日この時まで、大祭と姉の失踪との因果関係に気がつかぬとは。甘露は己の愚かさに呆れ果てる思いだった。
「誰かが村人を騙しているのか?」
大祭の夜に子供が消える。それを裏づけるものは?
見つけなければならない。そして捩じ曲げるのだ。定められた未来など無い。甘露が証拠だ。姉は変えて見せた。僕には、それに応える義務がある。
衝動に突き動かされるままに、甘露は家を飛び出した。走った。怒りに燃え上がる琥珀の瞳が記憶の底から甦る。
忘れることを幸せだと姉は云った。つまり姉は忘れなかった。甘露が姉を忘れなかったように。姉は、姉を生かした者のことを忘れることが出来なかった。
甘露は、父や長老たちが古い文書や村人の記録を保管している場所を目指した。そこは朋の社と呼ばれていた。
「朱が塗られてる。判子の日付は……七年前の大晦日だ」
姉の名前は血のような朱色で隠されていた。村の外への移住を表す黄色でも、死を表す黒でもなく。
この朱色こそ、姉が村を出て流れ者になったとされた証だ。この日付の時点で村にいない者は、全て「流れ者となって去った」として処理されている。
甘露は推理する。事実はこうだ。
この村民帳を管理していた人間が姉の存在そのものを忘れたために、姉は「移住者」でも「死者」でもなく、「流れ者」となった。おそらく、この朱を塗った人物は、甘露の姉がこの村の住人であったことなど記憶に無いと云い張るだろう。そしてそれは事実なのだ。
大祭でなければ、芝居は芝居は寄り合い所の前の広場で行われる。山頂で芝居を打つのは大祭の時だけだ。
祭の最後に打ち上げられる花火。その後で、大祭の時だけは、さらに大きな花火が特別に打ち上げられるのだと教えられてきた。甘露が目にしたことのない光、姉が甘露から遠ざけた光が頂から溢れ出る。それは篝火だ。永遠に大人になれない死者を送るための――。その光こそが、村人たちに犠牲者の記憶を忘れさせるのだとしたら、全ての辻褄が合う。
甘露は年を遡り、過去の村民帳にも目を通した。姉以外にも、同じ日付で村から流れたとされた者たちがいた。七年ごとの大晦日に、必ず人が流れている。いずれも名前を朱で塗りつぶされていた。
七年前。十四年前。二十一年前。二十八年前。三十五年前。四十二年前。四十九年前。五十六年前。甘露の目が、朱色で汚された人々の名前をなぞってゆく。
「宗柳、鈴、花氷、朝霧、沫、滝、飛白、『――』」
流れた者の屋号は、半数以上が伽羅屋〔がらや〕だった。この中では、姉だけが甘露と同じ屋号を持っている。だが、姉の屋号は記されていない。朝霧と沫も名だけが記されていて、屋号は無い。屋号が記されるべき場所には、何も書かれていなかった。眼前に立ち現れた不気味な作為に慄然とする。
「伽羅屋……。懐かしい屋号だな。よく昔話に出てくる」
幼い頃から繰り返し聞かされた昔話の中で、悪人の屋号はいつも伽羅屋だった。いつだったか、長老から聞いた話を姉に話した時のことを思い出す。姉は嫌悪も露わに云った。そんな馬鹿げた昔話を信じられたなら、私はもっと幸せに生きられたのではないかしら、と。
今、村には伽羅屋という屋号を持つ者は一人もいない。なぜだろうか。
飛白。この人が伽羅屋の「最後の一人」なのだろうか。
甘露には、記されなかった屋号の名が分かっていた。彼の家が持つ屋号だ。屋号を持たない者たちは、姉と同じように拾われて殺されたのだろう。――いや、違う。
拾われて殺されたのではない。殺されるために拾われたのだ。
甘露は最も新しい村民帳を棚から取り出した。頁を捲り、馴染みのある名前の羅列を確認する。
それを目にした瞬間、甘露は息を呑んだ。
次の頁を捲り、甘露は眩暈を覚えた。
そこには、甘露の名が屋号とともに記されていた。隣には弟の名がある。
だが、弟の名の上には何も無かった。無い。何度見返しても無い。本来そこに記されるべき屋号が。
だとしたら、あれは誰なのだ。毎朝毎夜、常に甘露の近くで生きているのは誰だ。無条件に甘露を信じてやまない、あの幼い少年は誰だというのか。
「あぁ……」
世界が壊れてゆく。これが僕の愛した世界の真実なのだろうか。だとすれば、あまりにも惨い。
「僕のせいなのか?」
お前が拾われたのは、僕のためなのか。お前は僕を生かすための贄として、これまで生かされて来たのか。
甘露は、姉が姉を生かした相手から受け継いだものの正体を知った。それは命だった。消えたりはしない、伝わってゆくと姉は云った。
そうだ。命は続く。決して途切れることなく。
「僕が繋げる」
家に帰ると、弟が甘露を待っていた。どこに行っていたのかと尋ねられて、甘露は曖昧に微笑む。
甘露は弟を見た。弟もまた、あどけない顔で甘露を見上げる。甘露を信じきっている眼差しを見返した時に、甘露は思った。この命を姉に返そう。
「お前に、どうしても頼みたいことがあるんだ」
弟が驚いたように声を上げる。何でも云って、と云う。甘露は、弟を心の底から愛しいと思った。弟の瞳は春の海のように光り輝いていた。
「お前の役を僕にくれないか。どうか、お願いだから」
弟は迷いもせずに応えた。
いいよ、あげる――と。
夜の闇を目に映しながら、甘露は弟の傍らに横たわっていた。弟は眠っている。
長い夢から醒めたような気分だと思う。甘露の心は凪いでいた。
今なら分かる。なぜ姉が、あれほどまでに必死だったのか。強張った顔つきで、痛いほどに甘露の肩を抱いていた。死にたくない。確かにその思いもあっただろう。
だが、死の恐怖を越えた向こう側に、姉は人として真に正しいものを見ていた。
自分よりも、より若い者を生かす。自らの命を擲ってまで。そして云うのだ。
どうか、私を覚えていてほしい――と。
私は生きて命を知った。命の喜びを知った。
私を忘れないで。けれど、あなたは生きなさい。姉が甘露に願ったのは、死にゆく自分を少しでも長く覚えていてほしいということだった筈だ。
弟は姉のことを知らない。七年前に拾われた弟は、甘露とは血が繋がっていない。流浪の女が産み、切り立った崖の淵に捨てた赤子だ。だが、それが何だというのか。
甘露は弟を生かして死ぬ。姉が甘露を生かしてくれたように。
甘露はさらに考える。姉自身もかつて誰かに救われたのだ。甘露が姉の犠牲によって生きながらえたように。
甘露は思う。簡単なことだ。弟に与えられた役目を奪う。ただそれだけのことだ。但し代償に払われる対価は、甘露の命だった。
いつからか。誰かがこのからくりに気づいて行動を起こした。それは、一人の少年――あるいは少女だったのだろう。大祭の夜に目を閉じていた子供が、仲間の一人が消えたことに気づく。だが、周囲の誰もが、その子供は気が触れたと思っただろう。いもしない者のために嘆き、その行き先を探し歩く子供を、心ない者たちは狂人扱いしたに違いない。
たった一人の決意が、どこかで生まれた。そうして、幾人もの子供たちが命を落としていったのだろう。誰かを護る為に。死ぬことを定められた子供を生かす為に。
姉は、その中の一人だった。甘露もやがてそこへ加わるのだ。
それはまさしく、人にしかできない行為だと甘露は思う。誰かに命を救われ、堅く閉ざされた秘密という名の扉の陰から、忌まわしい儀式の存在を覗き見た者たち。『雨乞い』の芝居に隠された真実を知った者は、例外なく次の大祭で己の命を誰かに繋げた。だからこそ、甘露は今ここにいるのだ。
私の代わりに生き長らえなさい。そう祈りながら、愛する者に命を預けて逝った者たちの声が聞こえてくるかのようだ。残された命の期限は七年。この秘密を抱いたまま、生きろ。生きて繋げ。それは半ば義務であり、同時に切なる願いだった。
「……深いな」
呟いて、甘露は少し笑った。甘露に託された多くの魂の祈りを、どうして無視できようか。
弟と弟の親友――彼の名も忘却の彼方だ――を伴って畦道を歩き、自作の凧を空に上げる際に、目を射らんとばかりに飛び込んでくる夏の陽光。弟が笑い、親友の背を押して走り出す。途中で振り返って、甘露にも笑いかける。その輝きが甘露にもたらすものは、大いなる喜びに他ならなかった。見よ。世界は美しい。
よし。僕は死ぬ。この地上に確かに生きた歓喜を抱きながら。
この頃には、甘露は己が何によって命を落とすのか――朧気ながらではあったが――理解していた。
甘露は弟に云わなかった。己が死ぬ、とは。
いつか弟も気がつくかも知れない。この村で行われてきた、忌まわしい儀式の秘密に。だが、もし弟が甘露の真意に気がつかぬまま生きてゆくことができたなら。それこそが、甘露の切なる願いが達せられた証となる。
大祭が始まる前日、甘露は都へと飛んだ。大祭に隠されたおぞましい真実を、ある人物に語るために。
甘露が訪ねたのは、数年前から、野菜の買いつけのために村に頻繁に通って来ていた青年である。青年の名は忘れた。ただ、短い赤の巻き毛だけを覚えている。
青年を遠巻きに見るだけの村人たちとは違い、甘露は進んで彼と言葉を交わした。なぜ彼と関わろうとしないのかと友人の一人に訊ねると、訛り言葉で話して笑われるのが嫌だという答えが返ってきた。だが、実際に青年と関わりを持った甘露には、彼が他人の訛りを聞いて笑ったりする筈がないと分かっていた。
今思えば、甘露の話す言葉は村には全く馴染まなかった。甘露の訛りのない言葉使いは、赤子の頃から甘露を見守っていた姉から受け継いだものだった。姉も、甘露の知らない兄か姉から話し方を学んだのだろう。母には訛りがあったが、父にはほとんど無かった。つまり、それだけ村の外から人は流れてきたということだ。あるいは、父は都で暮らしたことがあったのかも知れない。都では、訛り言葉を聞く機会はほとんどなかった。それほど、都と周辺の村々との断絶は深いのだ。
青年の家を最初に訪れたのは、学校の下見を兼ねて都に出た時だ。都を案内してくれた上、彼が育てている美しい飛竜に乗せてくれた。いつからか、都で過ごす間は青年の家で暮らすようになっていた。
青年の家には、甘露の他にも少年や少女が住んでいた。いつも活気に溢れており、青年の友人たちが彼を慕って訪ねてくる。中でも、一人の女性を甘露は心待ちにしていた。美しい黒髪を一つに束ねた、化粧気のない中年の女だ。異様なほどの美貌が、姉の面影に重なることが度々あった。物腰は穏やかだったが、掛け値のない威厳に満ちていた。何気ない仕草に畏怖を感じることさえあった。
都に行くことは、甘露にとっては容易なことだった。青年から教えを受けて、彼の飛竜を呼び寄せる術を知っていたからである。
甘露の顔を見て、青年は云った。聞きたくない。甘露は取り合わず、これまでに知り得た全てを話した。
僕が選んだ道がどこへ通じるのか、僕はもう知っています。結論から云うと、おそらく僕は消えるのでしょう。
聞き終えた青年は酷く取り乱した様子で、甘露に思い留まるように云った。なぜ、お前なんだ。他の誰かでは駄目なのか。それこそ、村人が選んだ者をお前が諦めれば済むことじゃないのか。だが、甘露の心は変わらなかった。
もし、あなたが僕と同じ立場だったら、どうしますか? 選ばれたのが僕で、あなただけが僕を助けられるのだとしたら。
青年が答える。お前を助けるに決まっているだろう。
甘露は顔を綻ばせて応える。そうでしょう。あなたはきっと僕を助けてくれる。つまり、そういうことです。
ついに青年は甘露の強情の前に屈した。ばかやろう、と云われた。煙草の匂いが漂う部屋の主は、あの時、声を押し殺して泣いていたように思う。
「一つだけ、あなたに頼んでも良いでしょうか?」
声もなく青年が肯く。安堵の笑みとともに甘露は伝えた。
「もしも僕を哀れだと思って下さるのなら、どうか、七年後の大祭を執り行わないようにして下さい。それ以降の大祭もです。もう二度と、あの山で人が殺されないことを僕は望みます。
そして、どうか探して下さい。なぜ多くの人々が殺されなければならなかったのか。その理由を……。
あなたに頼むべきことではないかも知れない。でもなぜか、あなたに話せば僕の願いが叶うような気がしたんです。だから、どうか――」
青年が嗄れた声で答える。
分かった。俺が何とかする。だから、お前はもう何も心配しなくていい。
最後の夜、甘露は宿屋で働いている娘を訪ねた。娘は甘露の幼馴染みである。村の誰とも違う風変わりな訛りのある話し方は、まるで甘露のために歌っているかのようだ。
娘が煎れてくれた紅茶を楽しみながら思う。多分、僕はこの人を好いている。狂おしいほどに。こうなるまでは気がつかなかった。甘露は少しだけ悔やんだ。もう遅い。もっと多くの話をしたかった。二人だけで他愛のない話を交わして、この娘といくつもの夜を明かしたかった。
甘露は幾度か言葉を紡ごうとして、その度に唇を噤んだ。伝えるのは簡単なことに思えた。その後に何が起こるかが問題だった。
明日を終えた時、甘露は消える。文字通り消える。僕には明日はあるが、明後日は無い。永遠に無い。全てが終わることを僕は知っている。
娘の上気した頬を見つめる。甘露の知らない昔話を語る唇に触れたいと思った。机に手をかけて、体を寄せる。娘は驚きもせずに目を伏せ、わずかに顔を傾けた。甘露は触れるだけの口吻けを娘に贈った。それは甘露が自らに許した最後の甘えだった。これくらいは許されるだろう。甘露の世界は明日で終わるのだから。
何も告げずに消えてゆく甘露を、娘が思い出して懐かしむことはおそらく無い。それでも、この瞬間だけは生々しい現実だった。体を離すと、甘露は満足そうに微笑む。娘は奥二重の愛らしい瞳を細めて微笑み返した。
さようなら。あなたをとても愛しく思っています。そう、声には出さずに思う。
人の命は火花のようだ。あっという間に弾けて闇に溶ける。
大祭の最終日を、甘露は一睡もせずに迎えた。
小鳥たちの囀りが甘露に告げている。
――さあ、行きなさい。舞台の幕は上がった。
陽が陰り始めた。
弟に持たせる荷物を確認してから、甘露は弟を呼んだ。
「行こう」
弟は肯き、手にしていた本を甘露の本棚に戻した。
階下に降りると、居間の肘掛け椅子に座る母の姿が目に入った。母の顔は哀れなほどに窶れて見えた。甘露は弟に外で待つように促し、母の前に膝を折って座った。母はあやふやな笑みを浮かべて云った。記憶が消えても、遺された物は消えないのよ。いくつもの命を忘れたことは分かるの。見覚えのない娘の晴れ着や、あなたの足には合わない靴を見る度に、私は自分を罪深いと思った。でも、まさか、こんな日が来るなんて思わなかった。
「お母さん。あなたは山を登って下さい」
甘露は母の両目から流れる涙を見つめていた。
「僕は選びました。誰のためでもない、僕自身のために。僕のために泣く必要はありません」
甘露は一礼すると、凛とした微笑を母への最後の贈り物とした。
「さようなら。お世話になりました」
外に出る。待っていた弟が、首を伸ばして甘露の顔を見上げる。
「ごめん。遅くなって」
甘露は弟の手を引き、弟の親友の家へと向かった。
弟の親友は不在だった。昨日の芝居で台詞を忘れたと云っていたから、大人たちに稽古をさせられているのだろうと弟が云う。
「かわいそうに」
甘露は正直な感想を述べた。あの芝居には何の意味もないことを、彼は知ってしまっていた。昨日までの二日間、山頂から花火が上がることはなかった。今夜は花火が上がる。打ち上げられる花火は七発。芝居の山場で「雨乞い」が天へ両手を差し伸べた時をきっかけに、打ち上げが始まるのだと聞かされていた。
「やっぱり、最終日なんだな」
呟いた甘露を、弟が怪訝そうに見やる。
「何でもないよ」
甘露は微笑んだ。白い包帯を握る弟の両手に、自らの両手で触れる。
「昨日はどうしてた?」
弟は得意気に答えた。どこにも行かず、ここに隠れていたこと。両眼を包帯で覆い、決して目を開けずに夜明けを待ったこと。途中で寝入ってしまい、明け方に戻った親友が驚きのあまり大声で叫んだこと。それから二人で朝食を食べて、家に戻ってきたこと。
「ありがとう。約束を守ってくれて」
甘露は弟を抱き寄せた。
「今日で祭も終わる。決して、山頂の光を見てはいけないよ」
甘露の両腕は震えていた。
「僕のことを忘れないでいてほしい。……お前だけには」
弟は答えた。絶対に忘れない、と。甘露はそれを信じたいと思った。それが叶わないかも知れないと思うからこそ、弟の言葉を信じたかった。
甘露は弟の両眼を包帯で覆った。覆いながら、甘露は初めて自分のためだけに泣いた。嗚咽も無く。言葉も無く。
「生きなさい」
僕の分まで、とは云わない。お前の命はお前だけのものだから。
「お前には、その資格がある――」
どうか許してほしい。もう、お前を守れなくなってしまう僕を。
弟はじっとしていた。小さな手が、甘露の背におずおずと回される。甘露は小さく笑った。
命は何て暖かいんだろう。
光が溢れる。脳も体も、もう無い。
魂だけがある。感じる。あたたかい。
弟に呼ばれたような気がした。それに応えて、忘れた筈の弟の名を幾度となく叫ぶ。
失われてゆく。何もかもが。
思考できたのはそこまでだった。
甘露の意識の下には悠久の大河が流れ、彼の全てを押し流してゆく。
――解けてゆく。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

三歳で婚約破棄された貧乏伯爵家の三男坊そのショックで現世の記憶が蘇る
マメシバ
ファンタジー
貧乏伯爵家の三男坊のアラン令息
三歳で婚約破棄され
そのショックで前世の記憶が蘇る
前世でも貧乏だったのなんの問題なし
なによりも魔法の世界
ワクワクが止まらない三歳児の
波瀾万丈

魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。

もう死んでしまった私へ
ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。
幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか?
今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!!
ゆるゆる設定です。
私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜
月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。
だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。
「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。
私は心を捨てたのに。
あなたはいきなり許しを乞うてきた。
そして優しくしてくるようになった。
ーー私が想いを捨てた後で。
どうして今更なのですかーー。
*この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。
スキルが【アイテムボックス】だけってどうなのよ?
山ノ内虎之助
ファンタジー
高校生宮原幸也は転生者である。
2度目の人生を目立たぬよう生きてきた幸也だが、ある日クラスメイト15人と一緒に異世界に転移されてしまう。
異世界で与えられたスキルは【アイテムボックス】のみ。
唯一のスキルを創意工夫しながら異世界を生き抜いていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる