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一章 秋一屋の叉雷
【7】アンダルシア
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柔らかな風が、青々とした草地を波のように揺らしている。素朴な木造の家屋に囲まれた円形の広場があり、地面のそこかしこで、キャベツやレタスなどが育っている。それらは市場で売られるためではなく、ある生き物たちの日々の糧として作られている。
広場の中央近くに、何かふわふわとしたものが沢山集まっている。飛竜の群れだ。その数は、ゆうに二十を超えている。飛竜の色は様々だが、毛並みの色味はどれも淡い。薄水、灰、薄紫、薄い橙、遠浅の海の碧を薄くしたような色の飛竜もいる。羽毛が風にそよそよとなびく様子には、幻想的な美しさがあった。
少し離れた場所から、一人の男が飛竜たちを見守っている。両腕を胸の前で組み、片足に重心をかけて立っている。男は赤い髪をしていた。短く刈り込まれた髪は、それでも巻き毛のそれと分かる。口元に皮肉気な笑みを浮かべている。
男は名をアンダルシアという。姓は無い。親しい友人たちは、おおむね彼を「アンディ」と呼ぶ。
アンダルシアは彩楼の西側の外れに住んでいる。貧民窟の東出口を出て、真東に向かい、いくつかの農村を過ぎた所に彼の家はある。倭国風の古びた木造の家屋は、周囲からは「飛竜の家」と呼ばれている。家をぐるりと囲む広大な庭の中で、大勢の飛竜たちが歩き回ったり飛び回ったりしているからだ。
この場所は、アンダルシアが農村から借り上げている敷地の一部である。毎朝と毎夕、ここで飛竜たちに食事をさせている。
飛竜たちは首を屈めて野菜を食んでいる。飛竜の大きさはまちまちだ。大型のものから、アンダルシアの膝までの背丈しかないものまでいる。
アンダルシアの足元には、薄桃色の毛並みが美しい雌の飛竜が眠たげな様子で蹲っていた。
「ラーラ。飯だぞ」
低い、朗々とした声だ。だが若くはない。かといって老いてもいない。外見は三十くらいに見えるが、奇妙に老成した風情がある。
「起きろ」
ラーラと呼ばれた飛竜の頬を、アンダルシアの手が軽く叩く。ラーラは目を開けずにキューンと応えた。一向に体を起こそうとしない。
「寝汚いな」
アンダルシアは呆れ声で云った。その間にも、腹を満たした飛竜たちが次々にアンダルシアの元へと向かってくる。入れ替わり立ち替わり現れる飛竜たちは、主たるアンダルシアと朝の挨拶を交わそうとしているのだ。押し合いへし合いしながら押し寄せる飛竜の鼻先や額に手で触れてやりながら、アンダルシアは一匹一匹に声をかけてゆく。
曰く――。「お前、大分羽根が汚れてるな。後で水浴びして来い」、「何だって、お前らは同じ体格の相手の背中に乗ろうとするんだ? 無駄な努力はやめろ」、「食欲が無いのか? 喰わんと死ぬぞ」、「ナナッ! 俺の服を伸ばすな」……等々。
「もうやめろ。俺は家に戻る」
飛竜の海に溺れそうになりながら、アンダルシアは、円周上に並んだ家々を縫うようにして走る道の一つに向かって歩き始めた。途端に、彼の薄灰のジーンズを捕まえようと、いくつもの口が襲いかかってくる。
「こらっ」
舌打ちして向き直る。キュイキュイと喧しく鳴いているのはラーラである。
「飯が先だ。後で遊んでやる」
片手でラーラの額を小突く。ラーラは、なおもキューキューと鳴き続けている。そこに、姉貴分らしい薄茶の飛竜がトットッと歩み寄って来た。薄茶の飛竜の顔つきは明らかに怒っている。ラーラに向かって羽根を振り上げると、「ホァーッ!」と怒鳴りながら、薄桃色の小さな頭をしたたかに横殴りにした。人間で例えるならば、裏拳で殴りつつ「うるっさい! 黙れ」と叫んだといったところか。反動でラーラが地面に投げ出される。
「……キュゥ」
今まさに絞め殺される獣のように一声洩らしたのを最後に、ラーラはようやく口を噤んだ。
アンダルシアは、笑うべきか怒るべきか迷ったような目つきで二匹を見下ろし、結局どちらも選べずに氷のような無表情を選んだ。但し、その口元は堪えきれない笑いに緩んでいたのだが。
「全員食べ終わるまで、大人しくしてろ。勝手に行動するなよ」
踵を返して歩き出す。後ろでは、めそめそしているラーラが薄灰の大型の飛竜に慰められていた。
「アンディさーん」
五、六歩進んだところで名を呼ばれる。アンダルシアにとっては聞き慣れた声だ。視界を巡らす。近隣の農家の次男坊が駆け足で近づいてくるのが見えた。
「どうした」
「トトが、肩に怪我しちゃって」
息を切らせたまま云う。年の頃は十二、三だろうか。肌寒い空気に抵抗するかのような薄着だ。アンダルシアとは旧知の仲である。
「血は?」
「少し出てる。歩いてる途中で転んだみたい。どうしたらいい?」
「看てやるから、お前は先に戻れ。湯を沸かして、要らない布を用意しておいてくれ」
「分かった。うちで待ってるから」
「待て。一匹貸してやる。乗って行け」
「いいの?」
「ジジ、行け」
先ほどラーラをしばき倒した薄茶の飛竜に、親指で合図を送る。ジジは満足げに喉を鳴らすと、頭を下げて腰を屈めた。少年は「ありがと」と云いながら、ジジの背に乗り上げる。
「お先に」
軽い会釈をして、ジジの項に両手を置く。薄茶の羽根が広がったかと思うと、ジジは少年を乗せて高く舞い上がった。アンダルシアと飛竜たちが見守る中、ジジは大空を横切って丘の向こうへと消えてゆく。
「さて」
残されたアンダルシアは思案顔で飛竜たちを見た。
「俺を乗せてくれる奴はいるか?」
云った後で、アンダルシアはさっそく後悔した。
「……」
そこにいる全ての飛竜が、スラリと優雅に両羽根を広げていたからである。つぶらな瞳は一様に輝いていた。アンダルシアは苦笑いを見せる。
「分かった、分かった。ついて来い。人に迷惑をかけるなよ」
ラーラの背に跨ると、アンダルシアは一呼吸で空へと駆け上って行った。
* * *
「大した怪我でなくて、良かったな」
ラーラの項を、とんとんと右手で叩きながら云う。薄桃色の飛竜は「キューン」と鳴いて賛同の意を表した。
地上には、アンダルシアの屋敷が小さく見えている。上下左右で滑空する飛竜たちは、それぞれに好みの場所を目指して着陸の準備を始めていた。アンダルシアの赤茶の目が細められる。玄関口の正面で、一人の娘が彼を待っていた。
「ラーラ、ここで降ろしてくれ」
軽く首を下げて、ラーラが急降下する。ふわりと地面に降り立つのを待たずに、アンダルシアは草地に飛び降りていた。足早に娘の元へと向かう。
目尻の下がった、大人しげな娘である。長い髪は白に近い銀で、瞳は鮮やかな赤だ。肌の色は、アンガルス人のそれよりも、さらに白い。年の頃は十七、八だろうか。すらりと伸びた細い体は、濃紺の着物と浅黄色の羽織に包まれている。両頬が薄紅に染まっているせいか、娘は童女のようにあどけなく見えた。両手に、紫の布にくるまれた細長いものを抱えている。
「夕凰〔ゆうおう〕」
娘の傍近くに立って、静かに呼ぶ。アンダルシアの声からは感情が抜け落ちている。娘――夕凰が小さな会釈を返した。
扉の鍵を開けたアンダルシアは、夕凰を促して家の中へと招き入れた。
「適当に座ってくれ」
云いながら、椅子を引いて座る。
「失礼します」
夕凰はアンダルシアの正面の椅子へ腰を下ろした。続いて、両手に抱えていた荷物を机に置く。娘の身のこなしは洗練されていて無駄が無く、優美そのものと云えた。
「その姿で、ここまで来たのか」
「いいえ」
白い面が横に振られる。
「途中まで、旦那様と一緒でしたの。私を置いた後で、西へ」
「あいつ、俺に会わずにどこへ?」
「存じません」
「塔に寄らなかったのか。お前たち、あの方には会ったのか?」
「いいえ」
アンダルシアは懐の煙草に手を伸ばした。灰皿を引き寄せ、煙草に火を点ける。ろくに吸わずに唇の端で煙草を押さえた。
「本当のところはどうなんだ」
「云えませんの」
アンダルシアの眉間に皺が寄る。対する夕凰は、僅かに首を傾げて微笑んで見せた。
「不便なものだな。俺と同族なら、お前が何を考えているのか手に取るように分かるんだが」
苛ついた様子を隠そうともせず、鋭い目で夕凰を睨む。
「私、人ではございませんもの。もちろん、あなたもそうでしたわね」
「わたし」ではなく、「わたくし」と名乗る。夕凰の声は慎ましさに溢れていたが、一音ずつ明瞭に発音するためか、幾分間延びして聞こえた。
「……」
暫しの沈黙の後、夕凰は懐かしむように辺りを見回す。
「お一人ですの?」
アンダルシアに問う。
「ああ」
「お淋しいこと」
「そうでもないさ」
アンダルシアは苦笑している。
「それより、用件は何だ」
「これですわ。お預かりしていたものを、お返ししに来ましたの」
夕凰は筒状の紫の布の端を開け、中から一振りの太刀を取り出した。直線ではなく、優美な反りを持つ刃物の形は、倭国のものだ。刀は鞘に収まっていた。鉛で作られた鞘には、翼を広げた鳳の図案が見事な彫りで施されており、両羽根の部分に金銀の箔が貼られていた。銀色の鍔を間に挟んで、刀身を支える柄は黒い。アンダルシアはくわえ煙草を口から外して、灰皿の底で火を消した。
「有り難う」
両手で受け取る。そのまま席を立ち、居間から廊下へと消えた。
ややあって、手ぶらで戻って来る。
「助かったよ。手入れは無事済んだのか?」
「刀身は磨いてありますの。これで、しばらく保つと思いますわ」
「俺に返して良かったのか? お前たちが持っていても構わなかったんだが」
「あれは人のために打たれた刀ですもの。お好きなように使って下さって構いませんの。でも……そうですわね。あの刀が、人のために使われることを願っております。取り扱いには、充分お気をつけて。人を選ぶ刀ですわ」
「ああ、そうだな」
素っ気なく応える。
「何か飲むか?」
「いいえ。私、もうお暇しなくては」
「久し振りに会ったのに、随分と忙しないな」
「仕方ありませんの。今はかき入れ時ですもの」
「五月祭の紅白餅か。まあ、頑張ってくれ」
アンダルシアは二本目の煙草に火を点けた。
「前にくれた餅は美味かったよ」
「当然ですわ」
誇らしげな声で応える。
「ねえ、アンディ。あなた、あの方は今でも生きてらしてると思って?」
「当然だろう」
アンダルシアが負けじと応える。夕凰は満足そうな笑みを浮かべた。
「信じていらっしゃるのね。もちろん、私も同じ思いです。だけど、そうね――。あなたにも、相応しい方が見つかるといいのに」
「人間に囲まれて暮らす変わり者に、嫁いで来るような女はいないさ。そんなことより、気をつけて帰れよ。お前に何かあったら、俺はお前の旦那に八つ裂きにされるだろうよ」
「ありがとう。気をつけます」
夕凰が立ち上がるのを見て、アンダルシアが後に続く。夕凰は滑らかな足取りで玄関へと向かう。
「またお会いしましょう」
扉の前で振り返り、淑やかに会釈をする。アンダルシアは無言で肯いた。白い手が扉を開け、するりと外へ抜け出してゆく。
残されたアンダルシアは、扉が閉まるのを待たずに背を向けた。直後、とてつもなく大きな音と風が扉を揺らす。それはまさしく、羽ばたきのそれであった。喰いしばった歯の隙間から、獣の唸り声が上がる。吸いかけの煙草は、彼の手の中で握り潰されていた。
「……生きているか、だと? ふざけるな」
アンダルシアの目は怒りに燃え上がっている。
「くそ生意気な金翅鳥(こんじちょう)どもが。塔を囲む結界の意味に、この俺が気づかないとでも思っているのか」
吐き捨てるように云うと、足音も荒く廊下の奥へと向かって行った。
* * *
漆黒の空に一点の光が瞬いている。やがて、光は別の風を選んで軌道を変えた。高度を下げて近づいてくる。光の正体は絽々の翼である。
「そろそろ降りるよ」
予告する声は捺夏のものだ。見下ろした地面の上には、飛竜たちの姿があった。一匹残らず翼をばたつかせ、キュウキュウと歓声を上げて、歓迎の意を表している。絽々は嬉しそうに鼻息を吹き上げた。
「荷物持った? 下に着いたら、すぐ降りて」
ふわりと着地する。希莉江は、軽やかな身のこなしで絽々の背から飛び降りた。叉雷と捺夏が後に続く。
「うーわ」
小走りに絽々から離れた捺夏が、どことなく悲しげな声音で云った。
四方八方から、飛竜たちがちょこちょこと走り寄り、あるいは上空から駆けつけて来る。まるで打ち寄せる波のようだ。中央で揉みくちゃにされている絽々は、両羽根を高く挙げ、誇らしげな顔をしている。
「うぅっ。絽々がいろんな色の毛玉だらけになる。後で洗ってあげないと」
「行こう」
叉雷が希莉江を促す。
「ねえ。あれ皆、ロロの家族なの?」
「うん、親戚。家族は、ここにはいない」
後ろから応えたのは捺夏である。
「ただいまー」
捺夏は、ノックも無しに玄関の扉を開けた。鍵はかかっていない。
「大胆ね」
「おれにとっては、自分の家みたいなもんだからね」
「土足で入って大丈夫なの?」
「うん。靴で平気」
居間は暗い。灯りが点いていないのだ。捺夏は迷いのない足取りで左の壁に向かい、スイッチを押した。途端に部屋が明るくなる。
「アンディ、どこだろ?」
振り返って捺夏が問う。その後ろに、廊下に続く扉が見えた。扉は開け放たれている。
「寝室で寝てるよ。真夜中だぞ」
「じゃあ、起こしてきて」
「お前なあ……」
叉雷が苦笑する。
「その必要はない」
幾分眠たげな声が、居間に漂っていた和やかな空気を凍りつかせた。叉雷と捺夏が一斉に声の方向を見る。希莉江は目を丸くして、声の主を見つめていた。
アンダルシアは、一体いつからそこにいたのだろうか。叉雷たちには全く気配を感じさせずに、寝室から移動したようである。
「先生」
いち早く平静を取り戻した叉雷が呼びかける。
「ご無沙汰してます」
「何だ。まだ生きていたのか」
「お陰様で」
「最後に会ったのは、いつだ。去年の暮れか」
「そうですね」
「その娘は? どこから攫ってきた」
「後で、詳しくお話します。今夜は、ここに泊めて頂いても宜しいでしょうか?」
「いいよ。どこも空き部屋だ。好きに使ってくれ」
「捺夏。彼女を案内してくれ」
「分かったよ。ついてきて」
後半は希莉江に向けられた言葉である。捺夏と希莉江は、アンダルシアと擦れ違いながら廊下の奥へと向かった。
居間に沈黙が落ちる。
足音が遠ざかってもなお、二人は何も話さない。アンダルシアは疲れたように壁に凭れている。
「何だ、あれは。お前、自分が何を連れてきたのか分かっているのか?」
ようやく、アンダルシアが口を開く。その声は掠れていた。
「新しい生贄ですよ。弟子が全員いなくなって、先生が寂しがってるんじゃないかと思って」
赤茶の瞳に動揺を見て取り、叉雷は内心驚いていた。努めて表情には出さずに、冗談めかして応える。
「余計なお世話だよ」
アンダルシアの手が食器棚を開け、中から煙草を箱ごと取り出す。
「あの娘の名は?」
「キリエです」
「あれは危ないぞ」
「なぜ?」
「妖の血が入ってる。あれは人妖(じんよう)だ」
「やっぱり」
驚いた様子もなく応える。
「それなら、先生と同じですね」
「だったら何だ」
「おれ、旅に出るんですよ」
「勝手にしろ」
「あの子を預けます。育ててあげて下さい」
「嫌だよ。なぜ俺が」
手の内で弄んでいた煙草の箱から一本取り、火を点した。
「先生なら、あの子を助けることができる。かつて、おれにそうしてくれたように」
「俺は、お前を育ててなどいない。ただ放っておけなかっただけだ。お前のことも、捺夏のことも」
アンダルシアは苛立たしげに語る。
「お願いします」
叉雷は深々と頭を下げた。
「やめろ。そんなことはしなくていい」
白煙を吐き出しながら云う。対する叉雷は、未だ礼の姿を保ったままであった。
「分かった。しばらく預かってやる」
「有り難うございます」
ようやく面を上げた叉雷が破顔する。
「先生。あの子は、おれの心を読みました」
「だから何だ。人妖なら当然だろう」
「それだけじゃありません。彼女には、人を惹きつける不思議な力がある」
「前にも云ったろう。人妖は人を魅了する。人の心を引き寄せ、生きる力を吸い取るために、人妖の姿はおしなべて美しい。桁外れの美貌を持つ者がいたら、まず妖の血が入っていると思っていい」
「あの子を無給で働かせていた主人は、異常なほどあの子に執着していたそうです」
「そうか。両親は健在なのか?」
「いえ。父親はいないと。母親に育てられたと云っていました。その母親も、二年前に亡くなったそうです」
「ということは、父親が妖か」
「……なぜ?」
「そう簡単に人妖が死ぬ筈がない。母親が死んだ真似でもしたというなら、話は別だが。おそらく本当に死んだのだろうよ。あの娘は、勘の利きそうな顔つきをしていたからな」
机に近寄り、灰皿に灰を落とす。再び口に銜えると、アンダルシアは叉雷に背を向けたまま声を発した。
「俺がなぜ、伴侶を持たずに生きているか分かるか?」
「いえ」
「叉雷。お前は『特別』だ。忘れるなよ。あの娘と毎夜肌を合わせたとしても、お前は死にはすまい。だが、並みの人間であれば数年で昇天することだろう」
「どういうことですか」
「人妖は、己に対して好意を持つ人間の精気を吸い取る。人妖であれば誰でもそうだ。本能を制御することは出来ない。人が食物を摂らずには生きられないのと同じく、人妖は己を愛する者から命を奪う。あの娘の父親は、あの娘が生きているとも知らずに、今もどこかを彷徨っていることだろうよ。もし知っていたなら、母親の元に残しておく筈がない。人妖同士は互いの命を奪い合うことは出来ないからな」
「――あなたは、だから一人でいるんですか」
「くだらない話をした。忘れてくれ」
火を消した煙草を灰皿に捨てる。少ししてから、アンダルシアは叉雷に向き直った。
「あの娘は俺が預かる。お前はもう、何も心配しなくていい」
「はい。有り難うございます」
赤茶の瞳からは感情の揺らぎが消えていた。冷徹とさえいえる表情で叉雷を見ている。
「腕は誰にも見られていないだろうな」
「もちろん」
「誰にも見せるなよ。捺夏にもだ」
「見られてませんよ。だけど、なぜこうまでして隠さなきゃならないのか、分からなくなる時があります」
「この国にお前がいる。だからこそ、俺は何度でも云う。他国ならいざ知らず、この国では決して他人に腕を見せるな。俺が許した相手以外にはな」
「なぜ?」
「その話は明日にしよう。今日は俺も疲れた。あの娘に挨拶したら寝るよ」
「分かりました」
アンダルシアは椅子の背凭れから大振りの白い毛布を取り上げると、それをばさりと肩にかけた。
廊下を真っ直ぐに進み、突き当たりの裏口から外へ出る。
「あ、先生」
正面に、銀のボウルを抱えた捺夏が立っていた。
「一足遅かったか。ここだと思ったんだが。あの娘は、どこへ行った?」
「惜しかったね。ついさっきまで、ここにいたよ。もう中に入った。『寒い、寒い』って云いながら。シェールの部屋にいるよ」
「まったく。お前は、目上に対する口の利き方がまるでなっちゃいないな」
嘆息しつつ云う。捺夏を招き入れて扉を閉めた。
「おれの分まで、叉雷が行儀よくするから」
云い訳とも開き直りとも取れる答えを返してくる。
「それに、アンディはおれの家族みたいなもんだし。だいたいアンディだって、おれより叉雷のことばっか気に掛けてたくせに」
「……確かに。お前のことで心配した記憶は無いな」
「だよね」
廊下は途中で二股に分かれている。アンダルシアは居間の方向ではなく、右に曲がろうとした。捺夏が手を伸ばして、アンダルシアの肘を掴んで引き止める。
「何だ」
「あのさ、ルールーはどこに行ったの? あの子だけ見つからなかった」
「お前、まさか全員に挨拶したのか。凄い体力だな。ルールーは囲いの中にいるよ」
「あーあー、そうだったのか。去年来た時には、全然気づかなかったよ」
顔を綻ばせて肯いている。
「無理もないさ」
「うわー、おめでとう! じゃあね、お休み」
銀のボウルを掲げて挨拶をする。
「お休み」
ノックの音は、さほど大きくはなかった。返事が無ければ、明日にするつもりだったのかも知れない。
「――サライ? それとも、ダッカ?」
「残念ながら、どちらも違う」
「……!」
慌てる気配の後、扉は勢い良く向こう側から開いた。蝶番が軋む音が廊下に響く。
「あっ、あの……、お邪魔してます」
希莉江が云う。背の高いアンダルシアの顔を、爪先立ちになって見上げている。
「俺はアンダルシアという。お前の名は?」
「あたしは、希莉江です」
「入っていいか?」
「はい」
部屋に入ると、アンダルシアは希莉江に一脚しかない椅子を勧めて、自身は閉じた扉に背中を預けた。希莉江は背筋を伸ばして、アンダルシアの言葉を待っている。
「叉雷からは、どんな話を聞いた?」
「あなたが、サライたちの先生だと聞きました。それから、あたしがここで働けるように、あなたに頼んで下さるって」
「キリエ。お前は、どうしたい?」
「どうって――」
「本当に、ここで暮らしたいのか?」
「はい」
「よし分かった。お前は今日から、この家の居候だ」
きっぱりと口にする。アンダルシアは薄く笑っているようにも見える。
「えっ! ……いいんですか?」
応える希莉江はしどろもどろである。実のところ、彼女は全く期待していなかったのである。それだけに驚きは大きなものだった。
「ここで働きたいんだろう。思う存分働けばいい」
「どんなことを……?」
不安の色が希莉江の瞳を翳らせた。忌まわしい記憶が、夏の終わりの花火のように激しく弾けながら脳裏に浮かび上がり、音もなく消えてゆく。
――寝入りばなに目に入る、五本の指。ほんの少しだけ開けられた扉の陰から、希莉江を凝視している男の顔。温い闇の中で男が呟いている。「お前は私のものだ。可愛い子」「私の希莉江」と。あの粘っこい視線。ねっとりと絡みつく蛇のような声。希莉江に対する主の歪んだ愛情は、今なお重い鎖となって彼女を苛んでいるのだった。
「自分で考えろ」
アンダルシアが返事を返す。
「俺は、お前に一切指図はしない。掃除でも炊事でも洗濯でも洋裁でも踊りでも勉強でも虫取りでも、何でも好きにやれ。自分がやりたいと思うこと、やるべきだと思うことを。これまで、この家で暮らしていた奴らも、皆そうして来た」
「……」
「お前は自由だ」
アンダルシアは当然のように云った。希莉江は目を見瞠いたまま固まっている。
「ただ、次の三つのことだけ守ってくれれば、それでいい」
「――何でしょうか?」
アンダルシアの右手が希莉江に向かって差し出された。その拳は、ゆるく握られている。
「一つ。人の物を盗らないこと」
親指だけがひょいと上がる。
「二つ。約束を破らないこと」
次いで人差しが上がった。
「三つ。自分に嘘をつかないこと」
最後に中指を上げて云う。
希莉江はじっとしている。ひたむきな瞳がアンダルシアを見つめている。
「これだけ守れれば、お前はもう一人前の人間だ。俺はお前に何かを強制しない代わりに、お前をどこかへ導いたりもしない」
「……!」
何かが啓けたような気がした。希莉江の心を包んでいた堅い鎧が、音もなく崩れ落ちてゆく。
「あたしは……」
茫然としながら、希莉江が呟く。
「自分がどこから来て、どこへ行くのかは、お前自身が決めることだ。俺は、お前に『あっちへ行け』だとか『そっちは駄目だ』などとは、口が裂けても云わん。なぜなら、云っても無駄だからだ。
お前が進むべき道の始点は、ここにある」
右手の掌を下へ向ける。
「お前の下に横たわる、この傷だらけの床が出発地点だ。人は、どこからでも始めることができる。何度でも。自分がそれを望みさえすればな。そしてまた、どこでも好きに終わることができる。『もう疲れた』『ここで終わりだ』と云って己自身を見限ってしまった者は、そう口にした時点で、すっかり気の抜けた廃人になっている。そんな姿をいくつも見てきた。
ここからどこへ行くか。今から何を為すのか。それは、お前以外の誰にも決められない。誰一人として、お前の代わりにはなり得ないのと同じ理由で。お前が決めなければ、選択は永遠に保留され続ける」
圧倒的な眩さを伴って、アンダルシアの言葉が希莉江の心へと呑み込まれてゆく。長い間、胸の中に立ちこめていた霧が晴れてゆくようだと思った。
目に映る全てのものが、これまでとは違って見える。なんて眩しい。心に射し込んだ一縷の光は膨張し、無限に拡散してゆく。
希莉江は、己の心が震える音を聞いたような気がした。アンダルシアは、希莉江に選択を迫っている。彼は、希莉江が彼女自身の魂に従うことを望んでいるのだ。これを自由と呼ばずして、何を自由と呼べよう。
魂の自由。これこそ希望そのものだ。希莉江が望み続け、ついに今この瞬間まで得られなかったものだ。
「素敵……」
そう云って、希莉江は微笑む。ここにいるのは、宛てもなく彷徨う流れ者などではない。強い眼差しをした少女だった。じわじわと拡大してゆく静かな嵐を内に秘め、瞳を白く光らせて笑っている。
「あたしは、自分の命を自分で選ぶことができるのね」
希莉江の命。希莉江の人生。希莉江の心。それらは全て希莉江のものだ。希莉江は、全身を燃やすような強さで願う。
あたしは自由だ。もう二度と、あたしの自由を誰にも買わせてなるものか。
この先どうなるのかなんて、誰にも分からない。どれほどの苦しみを――あるいは喜びを?――味わうことになるのかなど、分かる筈がない。だが希莉江はもう、不可視の未来自体を心待ちにしている己を悟っている。
希莉江は椅子を引いて立ち上がった。
「お世話になります」
腰を折り、深く頭を下げる。顔を上げると、アンダルシアの目元が笑っていた。
「さっそくで悪いが、少しつき合ってくれ」
後ろの扉を顎で示す。
「上着は持っているか?」
「あ、あります」
「着た方がいい」
「はい」
裏口から外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。壁沿いに歩くアンダルシアの背中を、希莉江が追う。大きく張り出した屋根の軒下には、三枚の竹塀で作られた衝立が立っていた。おそらく風除けのためだろう。
アンダルシアが衝立の内側に入り、希莉江が続く。そこには、ほっそりとした体つきの飛竜が横たわっていた。毛並みの色は菫色である。
「具合はどうだ」
白い毛布を肩から下ろし、芝生の上に広げる。
「ルールー、この上に寝ろ」
呼びかけられた飛竜が、億劫そうに首を伸ばした。少し間を置いて、のろのろと寝返りを打って移動する。希莉江は、アンダルシアの隣にしゃがみ込んだ。
「もしかして、身ごもってるんですか?」
「よく分かったな。七ヶ月目だ」
「いつ生まれるんですか?」
「あと一月もすれば生まれる」
希莉江は不思議そうに目を瞬いて、ルールーを見下ろしている。長い睫毛が上がり、希莉江と同じ紫色の瞳が彼女を見返した。
「仔が生まれるまで、こいつの世話を手伝ってほしい」
「はい」
ルールーと目を合わせたまま肯く。
「これも何かの縁だ。生まれた仔は、お前にやる。名前を考えておいてくれ」
「えっ」
「但し、使える音は一つだけ。同じ音の繰り返しが含まれていなければ駄目だ」
「なぜ?」
「そうでないと、名前だと分からないのさ。飛竜には、俺たちの言葉は分からない」
「嘘。捺夏は絽々と会話していたわ」
「それは、あいつらの心が互いに繋がっているからだ」
「……」
希莉江は、無言でアンダルシアの横顔を見上げた。細い鼻梁と、高く吊り上がった目が目に入る。叉雷のような甘さは無いが、並み外れて整った顔立ちをしていることに気づかされる。だが、それだけでは、希莉江の胸のざわめきを説明しきれない。
「あの――」
「何だ」
「おかしいと思われると思うんですけど、あたし、あなたが他人のような気がしないんです」
アンダルシアは何も応えなかった。手を伸ばして、ルールーの額を指先で撫でる。希莉江が視線をルールーへ戻すと、紫の瞳は既に閉じられていた。
「お前の直感は、お前を正しく導くだろうよ。だが、それだけに支配されて生きるのは、勿体ないことだと思う」
「どういう意味ですか?」
「お前には目があり、口も頭もある。手もある。足もある。すぐに答えを出そうとするな。悩むことも考えることも、決して無駄じゃない。長い人生の中では」
「……分かりました」
こくりと肯く。この頃には、ルールーは穏やかな寝息とともに眠りに就いていた。
がたがたと扉を開ける音が聞こえたかと思うと、派手な足音がばたばたと近づいてくる。衝立の陰から、捺夏がひょいと顔を出した。
「何だ、ここにいたのか。探し回っちゃったよ」
「どうした?」
「ご飯にしようよ。おれと叉雷が用意したスペシャルディナーだよ」
「ふざけるなよ。目玉焼きにフレンチトーストのどこがディナーだ。せめて肉ぐらい焼いてから云え」
「よく分かったね」
「匂いで分かる。勿体ない。あの卵は、生で使えたのに」
「悪かったよ。そんなにお金に困ってるとは思ってなかった。いくらか貸す?」
「馬鹿にするな。飛竜のレンタル代は高額だぞ」
「唯一の収入源だもんね。おれたちから授業料を取っておけば、貯えも増えたのにねえ」
「出世払いだからな」
「あ、じゃあおれだめだ。まだ一人前じゃないし」
「村に土地を買ったらしいな」
「買ったんじゃないの。もらったの」
捺夏は得意気に云い返す。
「大体、こんな時間に夕飯でもないだろう」
「腹が減ったんだよ。アンディだって、よく夜食作ってくれたじゃんかー」
「お前らが、ギャーギャーうるさいからだ」
「ほら、行って。おれはルールーと挨拶してから行くから」
捺夏は希莉江の右隣に腰を下ろした。
「もう寝てるぞ」
アンダルシアが立ち上がる。
「分かってるよ。見てるだけ」
「そうか。俺は先に戻る」
アンダルシアは、言葉が終わる前に歩き出していた。
「――あの人、せっかちなのかしら」
「かなりね」
「展開が早過ぎて、ついていくので精一杯。でも、気分は悪くないわ」
「ここで暮らすの?」
「ええ。そうしても良いって」
「良かった。安心した」
「たぶん……あたしは、運が良かったのね」
「どういうこと?」
「あの村に着いた時には、随分嫌な思いもしたのに、あたし、あなたたちに助けられたんだわ。有り難う。本当に感謝してるわ」
「耕作機が買えるくらいの金額と、おれたちの仕事が釣り合ったかどうかは分からないけど。キリエが辛くなくなったんなら、良かったよ」
「辛くないわ。今は全然。それどころか、何だか、体が内側から燃えてるみたいな感じ」
「そうだね。そんな感じだ。悪くないね。最初に見たキリエより、おれは、今のキリエの方がずっと好きだよ」
「ふ、ふ……っ」
希莉江の笑い声は湿り気を帯びていた。
「器用だね。泣きながら笑えるなんて。――まあ、キリエは良く頑張ったよ。おれたちは、キリエをここに置いてゆくけど……。あんたは、ここでゆっくり休んで、好きなことをしていればいい。いつか独り立ちするまで、アンディと喧嘩したり、仲直りしたり、遊んだり、学んだりするといいよ」
「ダッカも喧嘩したの?」
「しょっちゅう。くだらないことで。アンディなんか、酷いよ。なるべく人前では煙草を吸わないようにしてるんだけど、お説教の時とかは、歯止めが利かなくなるらしくって、灰皿に山盛りになるまで吸うわけ。でも、さすがにおれたちが煙そうにしてるのは嫌みたいで、窓を全開にするわけ。冬とか、余裕で凍え死ねるから。冬場に悪いことするのはお勧めしないね」
「そう……」
「叉雷が酒に溺れるみたいに、アンディも煙に燻されたいみたいだ。たぶん理由があるんだよ。おれには分からないし、分かりたくもないけど」
「ダッカ。あなたたちがいなくなった後、あたしは、また二人に会える?」
「もちろん。盆暮れには、おれたちだけじゃなくて、アンディの弟子がたくさん戻ってくるよ」
「それを聞いて、安心したわ」
「頑張ってね。おれも、おれなりに頑張るから」
「うん」
力強く肯く。その顔には、輝かしい笑みが浮かんでいた。
* * *
翌朝。叉雷は、飛竜たちが呼び交わす声を聞きながら目覚めた。
洗面所で顔を洗って居間へと向かう。扉を開けると、奥の台所に立つアンダルシアの背中が目に入った。
「おはようございます」
「おはよう」
アンダルシアは振り向きもせずに応える。
「捺夏とキリエは?」
「もちろん寝てます」
「だろうな。ちょうどいい。昨日出来なかった話をしよう」
「はい」
「食器を出してくれ」
叉雷が肯き、食器棚から皿を何枚か見繕って机に並べる。
「先生。紅茶でいいですか?」
「冷蔵庫に冷えてるのがある」
「あ、はい」
アンダルシアが用意した朝食を二人で平らげると、叉雷は机の上を綺麗に片づけた。
「ちょっと先生に見てもらいたいものがあるので、取って来ます」
「はいよ」
眠たげな顔つきでアンダルシアが応える。
居間に戻った叉雷は、再びアンダルシアの正面に腰を下ろした。
「これを」
一通の手紙を差し出す。アンダルシアは煙草の箱に手をかけてはいたが、まだ火を点けてはいなかった。煙草の箱を手放して、手紙を受け取る。
「何だ? これは」
「ある女性から送られた手紙です」
「恋文か?」
「まさか」
「ふうん。……予想外の人物からの手紙だな、これは」
「凄いでしょう」
「別に、お前が威張るこたあない。あの降魔師と手紙をやり取りしているなんて、知らなかったよ」
「云ってませんでしたっけ」
「聞いてません」
冗談めかして応える。
「すみませんでした。先生のご紹介で出会った方だったので、てっきり連絡を取り合っているものだと――」
「別にいいよ。俺は、あの塔とは合わない。こちらから出向いたりはしない」
アンダルシアは封筒を開いた。
「読んでもいいのか?」
「はい」
折り畳まれていた上質な紙をアンダルシアの手が広げてゆく。便箋は二枚だ。一枚目に目を通し、二枚目へと続く。
「何とも曖昧じゃないか。『龍について詳しく知る人物をご紹介致します』。あいつ自身は知らないとでも?」
「おれだって知りません。何も。ただ、一度だけ見たというだけで」
「一度見られれば充分だろう。俺は見たこともない」
「本当に?」
「嘘をついて、俺に何の得がある?」
「……無いでしょうね」
「まあいい。そんな話はどうだっていいんだ。お前、アルカードという名に聞き覚えはないか?」
「いえ」
アンダルシアは瞼を半分落として、遠くを見るような顔つきで言葉を続ける。
「かつて、西欧の地にドラクーラと呼ばれる者たちがいた。太古の昔に滅んだとされる妖たちだ」
「ドラクーラ? まるで……」
「龍のような名だろう。ドラコーンが訛ってドラクーラになったのかも知れない」
「それで?」
叉雷が目を輝かせて先を促す。
「俺の師が遺した、古い文献を読み漁っていて気がついた。この名が初めて記録に現れたのは四百年ほど前のことだ。だが、以後数百年を経てもなお、そこかしこにアルカードという名が記されている」
アンダルシアは卓上の小物入れに手を伸ばし、中から真っさらな紙を一枚引き出した。筆立てから一本のペンを取り、叉雷に差し出す。
「アンガルス語でドラクーラと書いてみろ」
ペンを受け取った手が文字を綴る。筆記体で書いた字を、紙ごと逆向きにしてアンダルシアに見せた。
「その綴りを逆さに読むとどうなる?」
「――アルカード」
「そうだ。文献にはこう書いてあった。『人の生き血を啜り、人の生気を奪って生き長らえてきた種族。その名はドラクーラ。』アルカードという男は何十年を経ても同じ姿を保ち、さながら不老不死のようであった、と」
「その男は龍だったと? 龍は、人の姿に変化できるんでしょうか?」
「そんなことは分からん。ただ、お前が、龍のことを何かとてつもなく神々しく尊い存在だと思っているのなら、俺が見聞きした知識を伝えておくべきだろうと思っている」
叉雷の書いた文字を見ながら、アンダルシアは呟くように言葉を洩らした。
「この国には龍はいない」
視線を上げる。叉雷の瞳は、真っ向からアンダルシアを凝視している。
「いや、正確には『いてはならない』んだ」
赤茶の瞳が叉雷を見返した。
「この国の名前は?」
「彩流泰籠帝国<さいりゅうたいろうていこく>」
「そうだ。お前が気が触れたように探し回っている龍が、この国の名に記されている。彩流とは、この国を縦横無尽に流れる川のことだ。おそらく、沿岸の海のことも含むんだろう。帝国も文字通りだな。では、泰籠とは何か」
「竹冠は籠という意味ですか? それとも檻? 龍は檻の中にいる」
竹によって編まれた籠。その中には、龍が囚われている。
「そんなところだ。では、なぜそれを奉る? 帝の別名は『彩龍王』だ。いてはならないものを現人神として崇めながら、同時に、龍の存在自体を否定しなければならない理由とは?」
「この国の成り立ちに、龍が深く関わっていたから?」
「当たらずとも何とやらだ」
「遠くはない。ということは、肯定と思って良いんですね」
「俺にだって分からない。何が真実かなんてことは。これは、ただの憶測でしかない」
「龍が人の治世に干渉したりするなんて、考えてもみませんでした。だけど――捺夏と二人で各地を旅していた時に、気がついたことがあります」
「何だ」
「龍を奉る社や偶像は、彩泰以外の至る所で目にしました。それなのに、この国にだけ、それらが無い。でも、そんな筈はないんです。だって、この国が西稜と呼ばれていた時代には、東稜や南稜、北稜との文明差は全く無かったんですから。
考えてもみて下さい。稜国全ては、かつて「倭の国」として統一されていた。そこから東西南北に国が分かれ、さらに、西稜のみが宗香と彩泰とに分かれた。宗香では、龍への信仰が今でも残ってます。もちろん鳳凰についても。つまり彩泰は、為政者が変わった際に、それまでの信仰や風習を捨てた。捨てざるを得なかったんだと、おれは思ってます」
「そうだな。彩泰の戦のやり口を見ていると、新興の成り上がりが、古き良き友を懸命に調伏しようとしているように感じるよ。降魔師たちを塔に囲って、飼い殺しにしているのも、同じ理由だろう。彩流神宮<さいりゅうじんぐう>の祭主や神官どもは、本心じゃ降魔主ごと降魔寮を潰したくてたまらんのだろうな。そうしない理由は、流石に稜国全ての降魔師を相手に戦うのは得策じゃないと分かっているからだ。何たって、降魔主は龍すら殺せる力を持っている」
「人が龍を殺すんですか? なんて畏れ多いことを」
「おいおい。神殺しは、人間にのみ許された特権だぞ」
「あんな美しいものを殺すなんて、考えられません」
「なあ。なぜ、お前がそれを見ることになったのかな」
ごく小さな声で云う。叉雷は不思議そうにアンダルシアを見つめている。
「何でもないよ」
アンダルシアは口元に苦い笑いを浮かべている。煙草の箱に伸びようとした指先を制するように、叉雷が声をかける。
「先生」
「うん?」
「おれの腕のことについては? そろそろ、隠すのもつらくなってきてるんですが」
「何を云ってるんだ。一生隠し通せ」
「冗談ですよね?」
「あー分かった、分かった。情けない声を出すな。いいよ。お前が心底信じた者にだけ、お前の腕を見せてみろ」
「えっ。いいんですか?」
「俺がいいと云ったら、いいんだと云ったろう。お前に初めて会った時にも、俺は同じことを云ったぞ。何度も云わせるな」
「それは覚えてます。でも、本当にいいんですか?」
「くどい。いいものはいい。お前が何もかも晒け出したいと思える相手にそれを見せることができれば、お前の道が拓かれる。まあ、これは俺の願望であって、実際そうであるかどうかは、その時になってみなければ分からない」
「仮定の話ですか」
「俺の勘だ。但し、見せる相手は一人だけだぞ。その相手と生涯をともに出来ると確信した場合に限る。下手な相手を選んだ場合、お前は自らの命を失うかも知れん。せいぜい覚悟してから打ち明けることだな」
「つまり、それは――。女性限定ってことですね」
「お前が男と生涯添い遂げたいなら、別に止めはせん。だが、お前は都で流行りの同性愛好者たちとは違うだろうに」
「まあ、そういう趣味はあまり」
「そこは否定しなくていいのか?」
「じゃあ全否定します。無いです」
「捺夏は駄目だぞ」
「なぜですか?」
「あいつはお前の弟であって、伴侶じゃない。これ以上、お前の不運に巻き込みたくないだろう」
「そうですね。既に充分巻き込んでいる気もしますが」
「たった一人だ。よく考えて選べよ」
「分かりました」
「全くお前は……。相変わらず決まった女もいないんだろうな」
「何で分かったんですか?」
「顔を見りゃ分かる」
「探していない訳じゃないです」
「見つからないだけだと?」
「まあ、――そうです」
「頼むから、一本だけ吸わせてくれ」
「別に、喫煙禁止なんて云ってないじゃないですか」
「顔が云ってるんだよ」
「……なるほど」
「俺に禁煙しろと勧めるなら、先にお前が禁酒しろ。そうしたら、考えてやらんでもない」
「酒無しで、生きてゆける自信がありません」
「安心しろ。おれも煙草無しで生きてゆく気はない」
いそいそと煙草を取り出し、素早く火を点けて口に銜える。目を細めて煙を吐き出す仕草は、日向で微睡む猫のように幸福そうだ。
「キリエを燻さないで下さい」
「分かってる」
「本当に?」
「……」
アンダルシアの眉が下げる。ついでのように両肩を落として項垂れた。
「俺の引き取った子の中で、一番生意気なのはお前だ」
「光栄です」
叉雷は、してやったりという顔で笑っている。
煙草を三本灰にした後で、アンダルシアはおもむろに立ち上がった。
「お前に渡す物がある。ちょっと待ってろ」
云い置いて廊下へ出て行く。叉雷は腰を浮かせて急須を取り、中の茶葉が萎れているのを見て立ち上がった。
台所の流しに茶葉を捨てて、新しいものに替えているうちに、アンダルシアが戻って来る。流し台に急須を置いて振り向いた叉雷は、アンダルシアが手にしているものを見て目を丸くした。
「太刀ですか?」
歩み寄って問う。
「ああ。俺の師匠からの預かり物だ。刃こぼれさせるなよ」
叉雷の両手が太刀を受け取る。鞘から刀身を半ばまで抜き、根本に彫られた二つの文字に目を落とした。
「銘入りですね。飛天、ですか」
「斬れ味はいいぞ。ただ斬れすぎる。無闇矢鱈に抜くような物じゃない」
「お借りします」
「使えそうか?」
「何とか。……太刀に触るのは久し振りだな。でも、こんな大事な物をお借りして、本当にいいんでしょうか。おれには型が無いです。色々教えてもらいましたけど、結局我流で終わりましたね。拳闘と同じで」
「型にはまらないのは、お前の美徳だ。頭で考えるより、体が先に動くのは悪いことじゃない。お前には、刃物は持たせたくなかったんだがな。いずれ、これが必要になるだろうと思った」
「有り難うございます」
「喉元に突き立てられる刃をかわすために、自ら前へ踏み出すしかない時もある。求めているものがあるならば、探して来い。諦めの悪いお前のことだ。きっと見つけられるだろうよ」
「はい」
叉雷は明瞭な声で応えた。鞘と柄を握る手に、自然と力がこもる。
「一つだけ約束してくれ」
「何でしょうか?」
「必ず生きて帰れ。それだけでいい。お前が捜すべきものを見つけたとしても、その代償に、お前の命を捧げたりは、決してしないでくれ。お前が戻らなかったら、俺の吸う煙草の本数が、今よりもさらに増えることを忘れるなよ」
「……」
叉雷は無言で肯く。肯いてから、ふと口元を歪めた。噛み殺せない心の揺らぎが、碧の瞳に溢れている。
「どうした?」
「先生。あなただけは、忘れていないでしょう?」
「忘れるものか」
アンダルシアの応えは素っ気ない。だが、叉雷には分かっていた。それこそが、アンダルシアなりの無感情の装い方なのだと。
「――良かった。大丈夫です。おれはまだ、捜しものを見つけていませんから」
* * *
『血を啜る少年の話』
「いつ」とも、「どこ」とも分からないのですが……。
昔々。ある所に一人の少年がいました。その少年は、人とは少しだけ違っていました。
少年が生まれた国には、いつも白い霧がたちこめていて、人々は皆、寒そうに背を丸めて歩いていたものです。少年は人とは少しだけ違っていたので、いつまで経っても大人になれませんでした。だから誰にも怪しまれないように、数年ごとに住む場所を変えなくてはならなかったのです。
少年は血が好きでした。赤ワインの比喩などではありません。本物の人の血です。錆びた味のする赤い液体なしでは生きられなかったのです。それも、冷えたものでは駄目で、人の体温と同じくらいがちょうど良かったのです。彼は己の腕の中で人が息絶える瞬間にこそ、生きる喜びを感じていました。
少しずつ、本当に少しずつ背が伸びて、いつしか少年は青年になりました。見た目が大人になっても、彼は血を啜ることをやめられませんでした。それどころか、ますます多くの血を必要とするようになっていたのです。
その頃には、数年ごとに住む場所を変えたりはしなくなっていました。数日ごとに、新たな生け贄を探さなければならなかったからです。
飢えを癒やすために、彼は世界中を巡りました。それは、まさしく血塗られた旅でした。色で例えるならば、どろりと濁った赤としかいいようがありません。彼の旅は、景色を楽しむ喜びではなく、地方によって微妙に異なる血の味を愉しむ悦びのためにありました。彼は飽きることなく血を求め続け、彼と出会ってしまった人を片っぱしから殺してゆきました。人々との出会いは、彼にとって食料との出会いに等しかったのです。さながら彼は、不吉な渡り鳥でした。
――でも、幸福な日々などというものは、えてして長続きはしないものです。
ある夏の夜のことです。彼は言葉の通じない国で、大勢の人に襲われて捕らえられました。人々は怒り狂っていました。彼が、人ならざるものであると本能で感じ取っていたからです。大きな十字架に磔にされた彼は、夜明けを待たずに灼き殺される運命にありました。
いくつもの篝火が焚かれました。沢山の火が、彼の周りを取り巻いていました。その眩しさ、その熱さは、白い霧の国で生まれた彼にとって、どれほどに怖ろしいものだったでしょう。私には到底分かりません。
ばちばちと燃える焔に呑み込まれそうになる、まさにその時。彼は足元に迫る炎よりも、もっと大きな光を天に見ました。彼を取り巻く多くの人々も、同じものを見ました。世界の終わりの光景とは、かくも美しいものなのかと感じた人もいたかも知れません。
彼は、頭のてっぺんから足の先まで呑み込まれてしまいました。
光が彼を食べてしまったのです。彼の視界は闇に閉ざされ、彼の意識もぼんやりと霞んでゆきました。
それからの彼は、長い間眠っていました。長い、長い間――。
死んでいるようでもあったし、生きているようでもありました。
……ところが、七百年ほど経った頃でしょうか。彼は突然飛び起きて、こう云ったのです。
「おれは化け物に喰われて、化け物になっちまった!」
彼の言葉が真実だったとしたら、大変なことです。何しろ、彼は化け物に喰われる前から化け物だったのですから。
化け物以上の化け物になった彼は、一体どうなってしまったのでしょう。
それは誰にも分かりません。
だけどもしも、あなたのそばにいつまで経っても年を取らない男の人がいたら。
そしてもしも、彼の名前のイニシャルがA=Zだったなら。
――あなたは、今すぐ全ての荷物をまとめて、どこか遠くへ逃げた方が良さそうです。
* * *
夜空が輝いている。
闇を疾る閃光。鋭く枝分かれする稲光に続いて、轟音が耳を襲う。青白い光に眼を奪われる。紛れもない歓喜とともに、希莉江は思う。
……あぁ、何て美しいのかしら。
「そんなに雷が好きか」
アンダルシアが呆れ声で呟く。どうやら思っただけではなく、声に出していたらしい。振り返ると、アンダルシアは笑っていた。
「だって、美しいもの」
唇を尖らせて云う。
「まったく、お前は嵐の子だな」
「ラーラたちは大丈夫かしら?」
「平気だろう。裏庭には屋根がある。夏の水浴びでもあるまいし、お前みたいに豪雨の中へ飛び込んでゆくような奴はいない」
「でも、ちょっとだけでしたよ。すぐ戻りました。お風呂にも入ったし」
黒く染め直した髪が、タオルをかけた両肩を覆うように垂れている。所々に、金茶の名残が見え隠れしていた。
「ルールーにも会ってきました。彼女、びっくりしてたわ。莉々〔りり〕が寒そうにしていたから、毛布を取りに戻って、また行ったんです。廊下がびしょ濡れなのは、あたしのせいです。後で拭いておきますね」
「放っとけ。朝には雨も上がる。裏口の扉を開けておけば、昼までに乾くよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて放置します」
「楽しかったか?」
「ええ。凄く」
悪戯っぽく笑う。
「そうか」
希莉江の逆側に顔を向けて、赤毛の生え際をアンダルシアの右手が掻く。
「そいつは良かった」
「先生?」
「飯にしよう。腹が減ったよ」
「あたし、作ります」
「分かった。ノルマは一人二品だ」
「先生は何を作るの?」
「肉と豆のスープ。アボカドのサラダ」
「サラダに魚のお刺身入れてもいいですか?」
「ドレッシングはオリーブオイルなんだが」
「お醤油で行きましょう。山葵も入れて。きっと美味しくなるわ」
「……好きにしろ」
灰皿の底で煙草の火を消して、アンダルシアが台所へと向かった。後に続いた希莉江は、ふと立ち止まって振り返り、窓の向こうを見つめる。
獣の咆哮のような雷鳴の音が聞こえる。光の乱舞に見とれる横顔は、穏やかに微笑んでいた。
広場の中央近くに、何かふわふわとしたものが沢山集まっている。飛竜の群れだ。その数は、ゆうに二十を超えている。飛竜の色は様々だが、毛並みの色味はどれも淡い。薄水、灰、薄紫、薄い橙、遠浅の海の碧を薄くしたような色の飛竜もいる。羽毛が風にそよそよとなびく様子には、幻想的な美しさがあった。
少し離れた場所から、一人の男が飛竜たちを見守っている。両腕を胸の前で組み、片足に重心をかけて立っている。男は赤い髪をしていた。短く刈り込まれた髪は、それでも巻き毛のそれと分かる。口元に皮肉気な笑みを浮かべている。
男は名をアンダルシアという。姓は無い。親しい友人たちは、おおむね彼を「アンディ」と呼ぶ。
アンダルシアは彩楼の西側の外れに住んでいる。貧民窟の東出口を出て、真東に向かい、いくつかの農村を過ぎた所に彼の家はある。倭国風の古びた木造の家屋は、周囲からは「飛竜の家」と呼ばれている。家をぐるりと囲む広大な庭の中で、大勢の飛竜たちが歩き回ったり飛び回ったりしているからだ。
この場所は、アンダルシアが農村から借り上げている敷地の一部である。毎朝と毎夕、ここで飛竜たちに食事をさせている。
飛竜たちは首を屈めて野菜を食んでいる。飛竜の大きさはまちまちだ。大型のものから、アンダルシアの膝までの背丈しかないものまでいる。
アンダルシアの足元には、薄桃色の毛並みが美しい雌の飛竜が眠たげな様子で蹲っていた。
「ラーラ。飯だぞ」
低い、朗々とした声だ。だが若くはない。かといって老いてもいない。外見は三十くらいに見えるが、奇妙に老成した風情がある。
「起きろ」
ラーラと呼ばれた飛竜の頬を、アンダルシアの手が軽く叩く。ラーラは目を開けずにキューンと応えた。一向に体を起こそうとしない。
「寝汚いな」
アンダルシアは呆れ声で云った。その間にも、腹を満たした飛竜たちが次々にアンダルシアの元へと向かってくる。入れ替わり立ち替わり現れる飛竜たちは、主たるアンダルシアと朝の挨拶を交わそうとしているのだ。押し合いへし合いしながら押し寄せる飛竜の鼻先や額に手で触れてやりながら、アンダルシアは一匹一匹に声をかけてゆく。
曰く――。「お前、大分羽根が汚れてるな。後で水浴びして来い」、「何だって、お前らは同じ体格の相手の背中に乗ろうとするんだ? 無駄な努力はやめろ」、「食欲が無いのか? 喰わんと死ぬぞ」、「ナナッ! 俺の服を伸ばすな」……等々。
「もうやめろ。俺は家に戻る」
飛竜の海に溺れそうになりながら、アンダルシアは、円周上に並んだ家々を縫うようにして走る道の一つに向かって歩き始めた。途端に、彼の薄灰のジーンズを捕まえようと、いくつもの口が襲いかかってくる。
「こらっ」
舌打ちして向き直る。キュイキュイと喧しく鳴いているのはラーラである。
「飯が先だ。後で遊んでやる」
片手でラーラの額を小突く。ラーラは、なおもキューキューと鳴き続けている。そこに、姉貴分らしい薄茶の飛竜がトットッと歩み寄って来た。薄茶の飛竜の顔つきは明らかに怒っている。ラーラに向かって羽根を振り上げると、「ホァーッ!」と怒鳴りながら、薄桃色の小さな頭をしたたかに横殴りにした。人間で例えるならば、裏拳で殴りつつ「うるっさい! 黙れ」と叫んだといったところか。反動でラーラが地面に投げ出される。
「……キュゥ」
今まさに絞め殺される獣のように一声洩らしたのを最後に、ラーラはようやく口を噤んだ。
アンダルシアは、笑うべきか怒るべきか迷ったような目つきで二匹を見下ろし、結局どちらも選べずに氷のような無表情を選んだ。但し、その口元は堪えきれない笑いに緩んでいたのだが。
「全員食べ終わるまで、大人しくしてろ。勝手に行動するなよ」
踵を返して歩き出す。後ろでは、めそめそしているラーラが薄灰の大型の飛竜に慰められていた。
「アンディさーん」
五、六歩進んだところで名を呼ばれる。アンダルシアにとっては聞き慣れた声だ。視界を巡らす。近隣の農家の次男坊が駆け足で近づいてくるのが見えた。
「どうした」
「トトが、肩に怪我しちゃって」
息を切らせたまま云う。年の頃は十二、三だろうか。肌寒い空気に抵抗するかのような薄着だ。アンダルシアとは旧知の仲である。
「血は?」
「少し出てる。歩いてる途中で転んだみたい。どうしたらいい?」
「看てやるから、お前は先に戻れ。湯を沸かして、要らない布を用意しておいてくれ」
「分かった。うちで待ってるから」
「待て。一匹貸してやる。乗って行け」
「いいの?」
「ジジ、行け」
先ほどラーラをしばき倒した薄茶の飛竜に、親指で合図を送る。ジジは満足げに喉を鳴らすと、頭を下げて腰を屈めた。少年は「ありがと」と云いながら、ジジの背に乗り上げる。
「お先に」
軽い会釈をして、ジジの項に両手を置く。薄茶の羽根が広がったかと思うと、ジジは少年を乗せて高く舞い上がった。アンダルシアと飛竜たちが見守る中、ジジは大空を横切って丘の向こうへと消えてゆく。
「さて」
残されたアンダルシアは思案顔で飛竜たちを見た。
「俺を乗せてくれる奴はいるか?」
云った後で、アンダルシアはさっそく後悔した。
「……」
そこにいる全ての飛竜が、スラリと優雅に両羽根を広げていたからである。つぶらな瞳は一様に輝いていた。アンダルシアは苦笑いを見せる。
「分かった、分かった。ついて来い。人に迷惑をかけるなよ」
ラーラの背に跨ると、アンダルシアは一呼吸で空へと駆け上って行った。
* * *
「大した怪我でなくて、良かったな」
ラーラの項を、とんとんと右手で叩きながら云う。薄桃色の飛竜は「キューン」と鳴いて賛同の意を表した。
地上には、アンダルシアの屋敷が小さく見えている。上下左右で滑空する飛竜たちは、それぞれに好みの場所を目指して着陸の準備を始めていた。アンダルシアの赤茶の目が細められる。玄関口の正面で、一人の娘が彼を待っていた。
「ラーラ、ここで降ろしてくれ」
軽く首を下げて、ラーラが急降下する。ふわりと地面に降り立つのを待たずに、アンダルシアは草地に飛び降りていた。足早に娘の元へと向かう。
目尻の下がった、大人しげな娘である。長い髪は白に近い銀で、瞳は鮮やかな赤だ。肌の色は、アンガルス人のそれよりも、さらに白い。年の頃は十七、八だろうか。すらりと伸びた細い体は、濃紺の着物と浅黄色の羽織に包まれている。両頬が薄紅に染まっているせいか、娘は童女のようにあどけなく見えた。両手に、紫の布にくるまれた細長いものを抱えている。
「夕凰〔ゆうおう〕」
娘の傍近くに立って、静かに呼ぶ。アンダルシアの声からは感情が抜け落ちている。娘――夕凰が小さな会釈を返した。
扉の鍵を開けたアンダルシアは、夕凰を促して家の中へと招き入れた。
「適当に座ってくれ」
云いながら、椅子を引いて座る。
「失礼します」
夕凰はアンダルシアの正面の椅子へ腰を下ろした。続いて、両手に抱えていた荷物を机に置く。娘の身のこなしは洗練されていて無駄が無く、優美そのものと云えた。
「その姿で、ここまで来たのか」
「いいえ」
白い面が横に振られる。
「途中まで、旦那様と一緒でしたの。私を置いた後で、西へ」
「あいつ、俺に会わずにどこへ?」
「存じません」
「塔に寄らなかったのか。お前たち、あの方には会ったのか?」
「いいえ」
アンダルシアは懐の煙草に手を伸ばした。灰皿を引き寄せ、煙草に火を点ける。ろくに吸わずに唇の端で煙草を押さえた。
「本当のところはどうなんだ」
「云えませんの」
アンダルシアの眉間に皺が寄る。対する夕凰は、僅かに首を傾げて微笑んで見せた。
「不便なものだな。俺と同族なら、お前が何を考えているのか手に取るように分かるんだが」
苛ついた様子を隠そうともせず、鋭い目で夕凰を睨む。
「私、人ではございませんもの。もちろん、あなたもそうでしたわね」
「わたし」ではなく、「わたくし」と名乗る。夕凰の声は慎ましさに溢れていたが、一音ずつ明瞭に発音するためか、幾分間延びして聞こえた。
「……」
暫しの沈黙の後、夕凰は懐かしむように辺りを見回す。
「お一人ですの?」
アンダルシアに問う。
「ああ」
「お淋しいこと」
「そうでもないさ」
アンダルシアは苦笑している。
「それより、用件は何だ」
「これですわ。お預かりしていたものを、お返ししに来ましたの」
夕凰は筒状の紫の布の端を開け、中から一振りの太刀を取り出した。直線ではなく、優美な反りを持つ刃物の形は、倭国のものだ。刀は鞘に収まっていた。鉛で作られた鞘には、翼を広げた鳳の図案が見事な彫りで施されており、両羽根の部分に金銀の箔が貼られていた。銀色の鍔を間に挟んで、刀身を支える柄は黒い。アンダルシアはくわえ煙草を口から外して、灰皿の底で火を消した。
「有り難う」
両手で受け取る。そのまま席を立ち、居間から廊下へと消えた。
ややあって、手ぶらで戻って来る。
「助かったよ。手入れは無事済んだのか?」
「刀身は磨いてありますの。これで、しばらく保つと思いますわ」
「俺に返して良かったのか? お前たちが持っていても構わなかったんだが」
「あれは人のために打たれた刀ですもの。お好きなように使って下さって構いませんの。でも……そうですわね。あの刀が、人のために使われることを願っております。取り扱いには、充分お気をつけて。人を選ぶ刀ですわ」
「ああ、そうだな」
素っ気なく応える。
「何か飲むか?」
「いいえ。私、もうお暇しなくては」
「久し振りに会ったのに、随分と忙しないな」
「仕方ありませんの。今はかき入れ時ですもの」
「五月祭の紅白餅か。まあ、頑張ってくれ」
アンダルシアは二本目の煙草に火を点けた。
「前にくれた餅は美味かったよ」
「当然ですわ」
誇らしげな声で応える。
「ねえ、アンディ。あなた、あの方は今でも生きてらしてると思って?」
「当然だろう」
アンダルシアが負けじと応える。夕凰は満足そうな笑みを浮かべた。
「信じていらっしゃるのね。もちろん、私も同じ思いです。だけど、そうね――。あなたにも、相応しい方が見つかるといいのに」
「人間に囲まれて暮らす変わり者に、嫁いで来るような女はいないさ。そんなことより、気をつけて帰れよ。お前に何かあったら、俺はお前の旦那に八つ裂きにされるだろうよ」
「ありがとう。気をつけます」
夕凰が立ち上がるのを見て、アンダルシアが後に続く。夕凰は滑らかな足取りで玄関へと向かう。
「またお会いしましょう」
扉の前で振り返り、淑やかに会釈をする。アンダルシアは無言で肯いた。白い手が扉を開け、するりと外へ抜け出してゆく。
残されたアンダルシアは、扉が閉まるのを待たずに背を向けた。直後、とてつもなく大きな音と風が扉を揺らす。それはまさしく、羽ばたきのそれであった。喰いしばった歯の隙間から、獣の唸り声が上がる。吸いかけの煙草は、彼の手の中で握り潰されていた。
「……生きているか、だと? ふざけるな」
アンダルシアの目は怒りに燃え上がっている。
「くそ生意気な金翅鳥(こんじちょう)どもが。塔を囲む結界の意味に、この俺が気づかないとでも思っているのか」
吐き捨てるように云うと、足音も荒く廊下の奥へと向かって行った。
* * *
漆黒の空に一点の光が瞬いている。やがて、光は別の風を選んで軌道を変えた。高度を下げて近づいてくる。光の正体は絽々の翼である。
「そろそろ降りるよ」
予告する声は捺夏のものだ。見下ろした地面の上には、飛竜たちの姿があった。一匹残らず翼をばたつかせ、キュウキュウと歓声を上げて、歓迎の意を表している。絽々は嬉しそうに鼻息を吹き上げた。
「荷物持った? 下に着いたら、すぐ降りて」
ふわりと着地する。希莉江は、軽やかな身のこなしで絽々の背から飛び降りた。叉雷と捺夏が後に続く。
「うーわ」
小走りに絽々から離れた捺夏が、どことなく悲しげな声音で云った。
四方八方から、飛竜たちがちょこちょこと走り寄り、あるいは上空から駆けつけて来る。まるで打ち寄せる波のようだ。中央で揉みくちゃにされている絽々は、両羽根を高く挙げ、誇らしげな顔をしている。
「うぅっ。絽々がいろんな色の毛玉だらけになる。後で洗ってあげないと」
「行こう」
叉雷が希莉江を促す。
「ねえ。あれ皆、ロロの家族なの?」
「うん、親戚。家族は、ここにはいない」
後ろから応えたのは捺夏である。
「ただいまー」
捺夏は、ノックも無しに玄関の扉を開けた。鍵はかかっていない。
「大胆ね」
「おれにとっては、自分の家みたいなもんだからね」
「土足で入って大丈夫なの?」
「うん。靴で平気」
居間は暗い。灯りが点いていないのだ。捺夏は迷いのない足取りで左の壁に向かい、スイッチを押した。途端に部屋が明るくなる。
「アンディ、どこだろ?」
振り返って捺夏が問う。その後ろに、廊下に続く扉が見えた。扉は開け放たれている。
「寝室で寝てるよ。真夜中だぞ」
「じゃあ、起こしてきて」
「お前なあ……」
叉雷が苦笑する。
「その必要はない」
幾分眠たげな声が、居間に漂っていた和やかな空気を凍りつかせた。叉雷と捺夏が一斉に声の方向を見る。希莉江は目を丸くして、声の主を見つめていた。
アンダルシアは、一体いつからそこにいたのだろうか。叉雷たちには全く気配を感じさせずに、寝室から移動したようである。
「先生」
いち早く平静を取り戻した叉雷が呼びかける。
「ご無沙汰してます」
「何だ。まだ生きていたのか」
「お陰様で」
「最後に会ったのは、いつだ。去年の暮れか」
「そうですね」
「その娘は? どこから攫ってきた」
「後で、詳しくお話します。今夜は、ここに泊めて頂いても宜しいでしょうか?」
「いいよ。どこも空き部屋だ。好きに使ってくれ」
「捺夏。彼女を案内してくれ」
「分かったよ。ついてきて」
後半は希莉江に向けられた言葉である。捺夏と希莉江は、アンダルシアと擦れ違いながら廊下の奥へと向かった。
居間に沈黙が落ちる。
足音が遠ざかってもなお、二人は何も話さない。アンダルシアは疲れたように壁に凭れている。
「何だ、あれは。お前、自分が何を連れてきたのか分かっているのか?」
ようやく、アンダルシアが口を開く。その声は掠れていた。
「新しい生贄ですよ。弟子が全員いなくなって、先生が寂しがってるんじゃないかと思って」
赤茶の瞳に動揺を見て取り、叉雷は内心驚いていた。努めて表情には出さずに、冗談めかして応える。
「余計なお世話だよ」
アンダルシアの手が食器棚を開け、中から煙草を箱ごと取り出す。
「あの娘の名は?」
「キリエです」
「あれは危ないぞ」
「なぜ?」
「妖の血が入ってる。あれは人妖(じんよう)だ」
「やっぱり」
驚いた様子もなく応える。
「それなら、先生と同じですね」
「だったら何だ」
「おれ、旅に出るんですよ」
「勝手にしろ」
「あの子を預けます。育ててあげて下さい」
「嫌だよ。なぜ俺が」
手の内で弄んでいた煙草の箱から一本取り、火を点した。
「先生なら、あの子を助けることができる。かつて、おれにそうしてくれたように」
「俺は、お前を育ててなどいない。ただ放っておけなかっただけだ。お前のことも、捺夏のことも」
アンダルシアは苛立たしげに語る。
「お願いします」
叉雷は深々と頭を下げた。
「やめろ。そんなことはしなくていい」
白煙を吐き出しながら云う。対する叉雷は、未だ礼の姿を保ったままであった。
「分かった。しばらく預かってやる」
「有り難うございます」
ようやく面を上げた叉雷が破顔する。
「先生。あの子は、おれの心を読みました」
「だから何だ。人妖なら当然だろう」
「それだけじゃありません。彼女には、人を惹きつける不思議な力がある」
「前にも云ったろう。人妖は人を魅了する。人の心を引き寄せ、生きる力を吸い取るために、人妖の姿はおしなべて美しい。桁外れの美貌を持つ者がいたら、まず妖の血が入っていると思っていい」
「あの子を無給で働かせていた主人は、異常なほどあの子に執着していたそうです」
「そうか。両親は健在なのか?」
「いえ。父親はいないと。母親に育てられたと云っていました。その母親も、二年前に亡くなったそうです」
「ということは、父親が妖か」
「……なぜ?」
「そう簡単に人妖が死ぬ筈がない。母親が死んだ真似でもしたというなら、話は別だが。おそらく本当に死んだのだろうよ。あの娘は、勘の利きそうな顔つきをしていたからな」
机に近寄り、灰皿に灰を落とす。再び口に銜えると、アンダルシアは叉雷に背を向けたまま声を発した。
「俺がなぜ、伴侶を持たずに生きているか分かるか?」
「いえ」
「叉雷。お前は『特別』だ。忘れるなよ。あの娘と毎夜肌を合わせたとしても、お前は死にはすまい。だが、並みの人間であれば数年で昇天することだろう」
「どういうことですか」
「人妖は、己に対して好意を持つ人間の精気を吸い取る。人妖であれば誰でもそうだ。本能を制御することは出来ない。人が食物を摂らずには生きられないのと同じく、人妖は己を愛する者から命を奪う。あの娘の父親は、あの娘が生きているとも知らずに、今もどこかを彷徨っていることだろうよ。もし知っていたなら、母親の元に残しておく筈がない。人妖同士は互いの命を奪い合うことは出来ないからな」
「――あなたは、だから一人でいるんですか」
「くだらない話をした。忘れてくれ」
火を消した煙草を灰皿に捨てる。少ししてから、アンダルシアは叉雷に向き直った。
「あの娘は俺が預かる。お前はもう、何も心配しなくていい」
「はい。有り難うございます」
赤茶の瞳からは感情の揺らぎが消えていた。冷徹とさえいえる表情で叉雷を見ている。
「腕は誰にも見られていないだろうな」
「もちろん」
「誰にも見せるなよ。捺夏にもだ」
「見られてませんよ。だけど、なぜこうまでして隠さなきゃならないのか、分からなくなる時があります」
「この国にお前がいる。だからこそ、俺は何度でも云う。他国ならいざ知らず、この国では決して他人に腕を見せるな。俺が許した相手以外にはな」
「なぜ?」
「その話は明日にしよう。今日は俺も疲れた。あの娘に挨拶したら寝るよ」
「分かりました」
アンダルシアは椅子の背凭れから大振りの白い毛布を取り上げると、それをばさりと肩にかけた。
廊下を真っ直ぐに進み、突き当たりの裏口から外へ出る。
「あ、先生」
正面に、銀のボウルを抱えた捺夏が立っていた。
「一足遅かったか。ここだと思ったんだが。あの娘は、どこへ行った?」
「惜しかったね。ついさっきまで、ここにいたよ。もう中に入った。『寒い、寒い』って云いながら。シェールの部屋にいるよ」
「まったく。お前は、目上に対する口の利き方がまるでなっちゃいないな」
嘆息しつつ云う。捺夏を招き入れて扉を閉めた。
「おれの分まで、叉雷が行儀よくするから」
云い訳とも開き直りとも取れる答えを返してくる。
「それに、アンディはおれの家族みたいなもんだし。だいたいアンディだって、おれより叉雷のことばっか気に掛けてたくせに」
「……確かに。お前のことで心配した記憶は無いな」
「だよね」
廊下は途中で二股に分かれている。アンダルシアは居間の方向ではなく、右に曲がろうとした。捺夏が手を伸ばして、アンダルシアの肘を掴んで引き止める。
「何だ」
「あのさ、ルールーはどこに行ったの? あの子だけ見つからなかった」
「お前、まさか全員に挨拶したのか。凄い体力だな。ルールーは囲いの中にいるよ」
「あーあー、そうだったのか。去年来た時には、全然気づかなかったよ」
顔を綻ばせて肯いている。
「無理もないさ」
「うわー、おめでとう! じゃあね、お休み」
銀のボウルを掲げて挨拶をする。
「お休み」
ノックの音は、さほど大きくはなかった。返事が無ければ、明日にするつもりだったのかも知れない。
「――サライ? それとも、ダッカ?」
「残念ながら、どちらも違う」
「……!」
慌てる気配の後、扉は勢い良く向こう側から開いた。蝶番が軋む音が廊下に響く。
「あっ、あの……、お邪魔してます」
希莉江が云う。背の高いアンダルシアの顔を、爪先立ちになって見上げている。
「俺はアンダルシアという。お前の名は?」
「あたしは、希莉江です」
「入っていいか?」
「はい」
部屋に入ると、アンダルシアは希莉江に一脚しかない椅子を勧めて、自身は閉じた扉に背中を預けた。希莉江は背筋を伸ばして、アンダルシアの言葉を待っている。
「叉雷からは、どんな話を聞いた?」
「あなたが、サライたちの先生だと聞きました。それから、あたしがここで働けるように、あなたに頼んで下さるって」
「キリエ。お前は、どうしたい?」
「どうって――」
「本当に、ここで暮らしたいのか?」
「はい」
「よし分かった。お前は今日から、この家の居候だ」
きっぱりと口にする。アンダルシアは薄く笑っているようにも見える。
「えっ! ……いいんですか?」
応える希莉江はしどろもどろである。実のところ、彼女は全く期待していなかったのである。それだけに驚きは大きなものだった。
「ここで働きたいんだろう。思う存分働けばいい」
「どんなことを……?」
不安の色が希莉江の瞳を翳らせた。忌まわしい記憶が、夏の終わりの花火のように激しく弾けながら脳裏に浮かび上がり、音もなく消えてゆく。
――寝入りばなに目に入る、五本の指。ほんの少しだけ開けられた扉の陰から、希莉江を凝視している男の顔。温い闇の中で男が呟いている。「お前は私のものだ。可愛い子」「私の希莉江」と。あの粘っこい視線。ねっとりと絡みつく蛇のような声。希莉江に対する主の歪んだ愛情は、今なお重い鎖となって彼女を苛んでいるのだった。
「自分で考えろ」
アンダルシアが返事を返す。
「俺は、お前に一切指図はしない。掃除でも炊事でも洗濯でも洋裁でも踊りでも勉強でも虫取りでも、何でも好きにやれ。自分がやりたいと思うこと、やるべきだと思うことを。これまで、この家で暮らしていた奴らも、皆そうして来た」
「……」
「お前は自由だ」
アンダルシアは当然のように云った。希莉江は目を見瞠いたまま固まっている。
「ただ、次の三つのことだけ守ってくれれば、それでいい」
「――何でしょうか?」
アンダルシアの右手が希莉江に向かって差し出された。その拳は、ゆるく握られている。
「一つ。人の物を盗らないこと」
親指だけがひょいと上がる。
「二つ。約束を破らないこと」
次いで人差しが上がった。
「三つ。自分に嘘をつかないこと」
最後に中指を上げて云う。
希莉江はじっとしている。ひたむきな瞳がアンダルシアを見つめている。
「これだけ守れれば、お前はもう一人前の人間だ。俺はお前に何かを強制しない代わりに、お前をどこかへ導いたりもしない」
「……!」
何かが啓けたような気がした。希莉江の心を包んでいた堅い鎧が、音もなく崩れ落ちてゆく。
「あたしは……」
茫然としながら、希莉江が呟く。
「自分がどこから来て、どこへ行くのかは、お前自身が決めることだ。俺は、お前に『あっちへ行け』だとか『そっちは駄目だ』などとは、口が裂けても云わん。なぜなら、云っても無駄だからだ。
お前が進むべき道の始点は、ここにある」
右手の掌を下へ向ける。
「お前の下に横たわる、この傷だらけの床が出発地点だ。人は、どこからでも始めることができる。何度でも。自分がそれを望みさえすればな。そしてまた、どこでも好きに終わることができる。『もう疲れた』『ここで終わりだ』と云って己自身を見限ってしまった者は、そう口にした時点で、すっかり気の抜けた廃人になっている。そんな姿をいくつも見てきた。
ここからどこへ行くか。今から何を為すのか。それは、お前以外の誰にも決められない。誰一人として、お前の代わりにはなり得ないのと同じ理由で。お前が決めなければ、選択は永遠に保留され続ける」
圧倒的な眩さを伴って、アンダルシアの言葉が希莉江の心へと呑み込まれてゆく。長い間、胸の中に立ちこめていた霧が晴れてゆくようだと思った。
目に映る全てのものが、これまでとは違って見える。なんて眩しい。心に射し込んだ一縷の光は膨張し、無限に拡散してゆく。
希莉江は、己の心が震える音を聞いたような気がした。アンダルシアは、希莉江に選択を迫っている。彼は、希莉江が彼女自身の魂に従うことを望んでいるのだ。これを自由と呼ばずして、何を自由と呼べよう。
魂の自由。これこそ希望そのものだ。希莉江が望み続け、ついに今この瞬間まで得られなかったものだ。
「素敵……」
そう云って、希莉江は微笑む。ここにいるのは、宛てもなく彷徨う流れ者などではない。強い眼差しをした少女だった。じわじわと拡大してゆく静かな嵐を内に秘め、瞳を白く光らせて笑っている。
「あたしは、自分の命を自分で選ぶことができるのね」
希莉江の命。希莉江の人生。希莉江の心。それらは全て希莉江のものだ。希莉江は、全身を燃やすような強さで願う。
あたしは自由だ。もう二度と、あたしの自由を誰にも買わせてなるものか。
この先どうなるのかなんて、誰にも分からない。どれほどの苦しみを――あるいは喜びを?――味わうことになるのかなど、分かる筈がない。だが希莉江はもう、不可視の未来自体を心待ちにしている己を悟っている。
希莉江は椅子を引いて立ち上がった。
「お世話になります」
腰を折り、深く頭を下げる。顔を上げると、アンダルシアの目元が笑っていた。
「さっそくで悪いが、少しつき合ってくれ」
後ろの扉を顎で示す。
「上着は持っているか?」
「あ、あります」
「着た方がいい」
「はい」
裏口から外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。壁沿いに歩くアンダルシアの背中を、希莉江が追う。大きく張り出した屋根の軒下には、三枚の竹塀で作られた衝立が立っていた。おそらく風除けのためだろう。
アンダルシアが衝立の内側に入り、希莉江が続く。そこには、ほっそりとした体つきの飛竜が横たわっていた。毛並みの色は菫色である。
「具合はどうだ」
白い毛布を肩から下ろし、芝生の上に広げる。
「ルールー、この上に寝ろ」
呼びかけられた飛竜が、億劫そうに首を伸ばした。少し間を置いて、のろのろと寝返りを打って移動する。希莉江は、アンダルシアの隣にしゃがみ込んだ。
「もしかして、身ごもってるんですか?」
「よく分かったな。七ヶ月目だ」
「いつ生まれるんですか?」
「あと一月もすれば生まれる」
希莉江は不思議そうに目を瞬いて、ルールーを見下ろしている。長い睫毛が上がり、希莉江と同じ紫色の瞳が彼女を見返した。
「仔が生まれるまで、こいつの世話を手伝ってほしい」
「はい」
ルールーと目を合わせたまま肯く。
「これも何かの縁だ。生まれた仔は、お前にやる。名前を考えておいてくれ」
「えっ」
「但し、使える音は一つだけ。同じ音の繰り返しが含まれていなければ駄目だ」
「なぜ?」
「そうでないと、名前だと分からないのさ。飛竜には、俺たちの言葉は分からない」
「嘘。捺夏は絽々と会話していたわ」
「それは、あいつらの心が互いに繋がっているからだ」
「……」
希莉江は、無言でアンダルシアの横顔を見上げた。細い鼻梁と、高く吊り上がった目が目に入る。叉雷のような甘さは無いが、並み外れて整った顔立ちをしていることに気づかされる。だが、それだけでは、希莉江の胸のざわめきを説明しきれない。
「あの――」
「何だ」
「おかしいと思われると思うんですけど、あたし、あなたが他人のような気がしないんです」
アンダルシアは何も応えなかった。手を伸ばして、ルールーの額を指先で撫でる。希莉江が視線をルールーへ戻すと、紫の瞳は既に閉じられていた。
「お前の直感は、お前を正しく導くだろうよ。だが、それだけに支配されて生きるのは、勿体ないことだと思う」
「どういう意味ですか?」
「お前には目があり、口も頭もある。手もある。足もある。すぐに答えを出そうとするな。悩むことも考えることも、決して無駄じゃない。長い人生の中では」
「……分かりました」
こくりと肯く。この頃には、ルールーは穏やかな寝息とともに眠りに就いていた。
がたがたと扉を開ける音が聞こえたかと思うと、派手な足音がばたばたと近づいてくる。衝立の陰から、捺夏がひょいと顔を出した。
「何だ、ここにいたのか。探し回っちゃったよ」
「どうした?」
「ご飯にしようよ。おれと叉雷が用意したスペシャルディナーだよ」
「ふざけるなよ。目玉焼きにフレンチトーストのどこがディナーだ。せめて肉ぐらい焼いてから云え」
「よく分かったね」
「匂いで分かる。勿体ない。あの卵は、生で使えたのに」
「悪かったよ。そんなにお金に困ってるとは思ってなかった。いくらか貸す?」
「馬鹿にするな。飛竜のレンタル代は高額だぞ」
「唯一の収入源だもんね。おれたちから授業料を取っておけば、貯えも増えたのにねえ」
「出世払いだからな」
「あ、じゃあおれだめだ。まだ一人前じゃないし」
「村に土地を買ったらしいな」
「買ったんじゃないの。もらったの」
捺夏は得意気に云い返す。
「大体、こんな時間に夕飯でもないだろう」
「腹が減ったんだよ。アンディだって、よく夜食作ってくれたじゃんかー」
「お前らが、ギャーギャーうるさいからだ」
「ほら、行って。おれはルールーと挨拶してから行くから」
捺夏は希莉江の右隣に腰を下ろした。
「もう寝てるぞ」
アンダルシアが立ち上がる。
「分かってるよ。見てるだけ」
「そうか。俺は先に戻る」
アンダルシアは、言葉が終わる前に歩き出していた。
「――あの人、せっかちなのかしら」
「かなりね」
「展開が早過ぎて、ついていくので精一杯。でも、気分は悪くないわ」
「ここで暮らすの?」
「ええ。そうしても良いって」
「良かった。安心した」
「たぶん……あたしは、運が良かったのね」
「どういうこと?」
「あの村に着いた時には、随分嫌な思いもしたのに、あたし、あなたたちに助けられたんだわ。有り難う。本当に感謝してるわ」
「耕作機が買えるくらいの金額と、おれたちの仕事が釣り合ったかどうかは分からないけど。キリエが辛くなくなったんなら、良かったよ」
「辛くないわ。今は全然。それどころか、何だか、体が内側から燃えてるみたいな感じ」
「そうだね。そんな感じだ。悪くないね。最初に見たキリエより、おれは、今のキリエの方がずっと好きだよ」
「ふ、ふ……っ」
希莉江の笑い声は湿り気を帯びていた。
「器用だね。泣きながら笑えるなんて。――まあ、キリエは良く頑張ったよ。おれたちは、キリエをここに置いてゆくけど……。あんたは、ここでゆっくり休んで、好きなことをしていればいい。いつか独り立ちするまで、アンディと喧嘩したり、仲直りしたり、遊んだり、学んだりするといいよ」
「ダッカも喧嘩したの?」
「しょっちゅう。くだらないことで。アンディなんか、酷いよ。なるべく人前では煙草を吸わないようにしてるんだけど、お説教の時とかは、歯止めが利かなくなるらしくって、灰皿に山盛りになるまで吸うわけ。でも、さすがにおれたちが煙そうにしてるのは嫌みたいで、窓を全開にするわけ。冬とか、余裕で凍え死ねるから。冬場に悪いことするのはお勧めしないね」
「そう……」
「叉雷が酒に溺れるみたいに、アンディも煙に燻されたいみたいだ。たぶん理由があるんだよ。おれには分からないし、分かりたくもないけど」
「ダッカ。あなたたちがいなくなった後、あたしは、また二人に会える?」
「もちろん。盆暮れには、おれたちだけじゃなくて、アンディの弟子がたくさん戻ってくるよ」
「それを聞いて、安心したわ」
「頑張ってね。おれも、おれなりに頑張るから」
「うん」
力強く肯く。その顔には、輝かしい笑みが浮かんでいた。
* * *
翌朝。叉雷は、飛竜たちが呼び交わす声を聞きながら目覚めた。
洗面所で顔を洗って居間へと向かう。扉を開けると、奥の台所に立つアンダルシアの背中が目に入った。
「おはようございます」
「おはよう」
アンダルシアは振り向きもせずに応える。
「捺夏とキリエは?」
「もちろん寝てます」
「だろうな。ちょうどいい。昨日出来なかった話をしよう」
「はい」
「食器を出してくれ」
叉雷が肯き、食器棚から皿を何枚か見繕って机に並べる。
「先生。紅茶でいいですか?」
「冷蔵庫に冷えてるのがある」
「あ、はい」
アンダルシアが用意した朝食を二人で平らげると、叉雷は机の上を綺麗に片づけた。
「ちょっと先生に見てもらいたいものがあるので、取って来ます」
「はいよ」
眠たげな顔つきでアンダルシアが応える。
居間に戻った叉雷は、再びアンダルシアの正面に腰を下ろした。
「これを」
一通の手紙を差し出す。アンダルシアは煙草の箱に手をかけてはいたが、まだ火を点けてはいなかった。煙草の箱を手放して、手紙を受け取る。
「何だ? これは」
「ある女性から送られた手紙です」
「恋文か?」
「まさか」
「ふうん。……予想外の人物からの手紙だな、これは」
「凄いでしょう」
「別に、お前が威張るこたあない。あの降魔師と手紙をやり取りしているなんて、知らなかったよ」
「云ってませんでしたっけ」
「聞いてません」
冗談めかして応える。
「すみませんでした。先生のご紹介で出会った方だったので、てっきり連絡を取り合っているものだと――」
「別にいいよ。俺は、あの塔とは合わない。こちらから出向いたりはしない」
アンダルシアは封筒を開いた。
「読んでもいいのか?」
「はい」
折り畳まれていた上質な紙をアンダルシアの手が広げてゆく。便箋は二枚だ。一枚目に目を通し、二枚目へと続く。
「何とも曖昧じゃないか。『龍について詳しく知る人物をご紹介致します』。あいつ自身は知らないとでも?」
「おれだって知りません。何も。ただ、一度だけ見たというだけで」
「一度見られれば充分だろう。俺は見たこともない」
「本当に?」
「嘘をついて、俺に何の得がある?」
「……無いでしょうね」
「まあいい。そんな話はどうだっていいんだ。お前、アルカードという名に聞き覚えはないか?」
「いえ」
アンダルシアは瞼を半分落として、遠くを見るような顔つきで言葉を続ける。
「かつて、西欧の地にドラクーラと呼ばれる者たちがいた。太古の昔に滅んだとされる妖たちだ」
「ドラクーラ? まるで……」
「龍のような名だろう。ドラコーンが訛ってドラクーラになったのかも知れない」
「それで?」
叉雷が目を輝かせて先を促す。
「俺の師が遺した、古い文献を読み漁っていて気がついた。この名が初めて記録に現れたのは四百年ほど前のことだ。だが、以後数百年を経てもなお、そこかしこにアルカードという名が記されている」
アンダルシアは卓上の小物入れに手を伸ばし、中から真っさらな紙を一枚引き出した。筆立てから一本のペンを取り、叉雷に差し出す。
「アンガルス語でドラクーラと書いてみろ」
ペンを受け取った手が文字を綴る。筆記体で書いた字を、紙ごと逆向きにしてアンダルシアに見せた。
「その綴りを逆さに読むとどうなる?」
「――アルカード」
「そうだ。文献にはこう書いてあった。『人の生き血を啜り、人の生気を奪って生き長らえてきた種族。その名はドラクーラ。』アルカードという男は何十年を経ても同じ姿を保ち、さながら不老不死のようであった、と」
「その男は龍だったと? 龍は、人の姿に変化できるんでしょうか?」
「そんなことは分からん。ただ、お前が、龍のことを何かとてつもなく神々しく尊い存在だと思っているのなら、俺が見聞きした知識を伝えておくべきだろうと思っている」
叉雷の書いた文字を見ながら、アンダルシアは呟くように言葉を洩らした。
「この国には龍はいない」
視線を上げる。叉雷の瞳は、真っ向からアンダルシアを凝視している。
「いや、正確には『いてはならない』んだ」
赤茶の瞳が叉雷を見返した。
「この国の名前は?」
「彩流泰籠帝国<さいりゅうたいろうていこく>」
「そうだ。お前が気が触れたように探し回っている龍が、この国の名に記されている。彩流とは、この国を縦横無尽に流れる川のことだ。おそらく、沿岸の海のことも含むんだろう。帝国も文字通りだな。では、泰籠とは何か」
「竹冠は籠という意味ですか? それとも檻? 龍は檻の中にいる」
竹によって編まれた籠。その中には、龍が囚われている。
「そんなところだ。では、なぜそれを奉る? 帝の別名は『彩龍王』だ。いてはならないものを現人神として崇めながら、同時に、龍の存在自体を否定しなければならない理由とは?」
「この国の成り立ちに、龍が深く関わっていたから?」
「当たらずとも何とやらだ」
「遠くはない。ということは、肯定と思って良いんですね」
「俺にだって分からない。何が真実かなんてことは。これは、ただの憶測でしかない」
「龍が人の治世に干渉したりするなんて、考えてもみませんでした。だけど――捺夏と二人で各地を旅していた時に、気がついたことがあります」
「何だ」
「龍を奉る社や偶像は、彩泰以外の至る所で目にしました。それなのに、この国にだけ、それらが無い。でも、そんな筈はないんです。だって、この国が西稜と呼ばれていた時代には、東稜や南稜、北稜との文明差は全く無かったんですから。
考えてもみて下さい。稜国全ては、かつて「倭の国」として統一されていた。そこから東西南北に国が分かれ、さらに、西稜のみが宗香と彩泰とに分かれた。宗香では、龍への信仰が今でも残ってます。もちろん鳳凰についても。つまり彩泰は、為政者が変わった際に、それまでの信仰や風習を捨てた。捨てざるを得なかったんだと、おれは思ってます」
「そうだな。彩泰の戦のやり口を見ていると、新興の成り上がりが、古き良き友を懸命に調伏しようとしているように感じるよ。降魔師たちを塔に囲って、飼い殺しにしているのも、同じ理由だろう。彩流神宮<さいりゅうじんぐう>の祭主や神官どもは、本心じゃ降魔主ごと降魔寮を潰したくてたまらんのだろうな。そうしない理由は、流石に稜国全ての降魔師を相手に戦うのは得策じゃないと分かっているからだ。何たって、降魔主は龍すら殺せる力を持っている」
「人が龍を殺すんですか? なんて畏れ多いことを」
「おいおい。神殺しは、人間にのみ許された特権だぞ」
「あんな美しいものを殺すなんて、考えられません」
「なあ。なぜ、お前がそれを見ることになったのかな」
ごく小さな声で云う。叉雷は不思議そうにアンダルシアを見つめている。
「何でもないよ」
アンダルシアは口元に苦い笑いを浮かべている。煙草の箱に伸びようとした指先を制するように、叉雷が声をかける。
「先生」
「うん?」
「おれの腕のことについては? そろそろ、隠すのもつらくなってきてるんですが」
「何を云ってるんだ。一生隠し通せ」
「冗談ですよね?」
「あー分かった、分かった。情けない声を出すな。いいよ。お前が心底信じた者にだけ、お前の腕を見せてみろ」
「えっ。いいんですか?」
「俺がいいと云ったら、いいんだと云ったろう。お前に初めて会った時にも、俺は同じことを云ったぞ。何度も云わせるな」
「それは覚えてます。でも、本当にいいんですか?」
「くどい。いいものはいい。お前が何もかも晒け出したいと思える相手にそれを見せることができれば、お前の道が拓かれる。まあ、これは俺の願望であって、実際そうであるかどうかは、その時になってみなければ分からない」
「仮定の話ですか」
「俺の勘だ。但し、見せる相手は一人だけだぞ。その相手と生涯をともに出来ると確信した場合に限る。下手な相手を選んだ場合、お前は自らの命を失うかも知れん。せいぜい覚悟してから打ち明けることだな」
「つまり、それは――。女性限定ってことですね」
「お前が男と生涯添い遂げたいなら、別に止めはせん。だが、お前は都で流行りの同性愛好者たちとは違うだろうに」
「まあ、そういう趣味はあまり」
「そこは否定しなくていいのか?」
「じゃあ全否定します。無いです」
「捺夏は駄目だぞ」
「なぜですか?」
「あいつはお前の弟であって、伴侶じゃない。これ以上、お前の不運に巻き込みたくないだろう」
「そうですね。既に充分巻き込んでいる気もしますが」
「たった一人だ。よく考えて選べよ」
「分かりました」
「全くお前は……。相変わらず決まった女もいないんだろうな」
「何で分かったんですか?」
「顔を見りゃ分かる」
「探していない訳じゃないです」
「見つからないだけだと?」
「まあ、――そうです」
「頼むから、一本だけ吸わせてくれ」
「別に、喫煙禁止なんて云ってないじゃないですか」
「顔が云ってるんだよ」
「……なるほど」
「俺に禁煙しろと勧めるなら、先にお前が禁酒しろ。そうしたら、考えてやらんでもない」
「酒無しで、生きてゆける自信がありません」
「安心しろ。おれも煙草無しで生きてゆく気はない」
いそいそと煙草を取り出し、素早く火を点けて口に銜える。目を細めて煙を吐き出す仕草は、日向で微睡む猫のように幸福そうだ。
「キリエを燻さないで下さい」
「分かってる」
「本当に?」
「……」
アンダルシアの眉が下げる。ついでのように両肩を落として項垂れた。
「俺の引き取った子の中で、一番生意気なのはお前だ」
「光栄です」
叉雷は、してやったりという顔で笑っている。
煙草を三本灰にした後で、アンダルシアはおもむろに立ち上がった。
「お前に渡す物がある。ちょっと待ってろ」
云い置いて廊下へ出て行く。叉雷は腰を浮かせて急須を取り、中の茶葉が萎れているのを見て立ち上がった。
台所の流しに茶葉を捨てて、新しいものに替えているうちに、アンダルシアが戻って来る。流し台に急須を置いて振り向いた叉雷は、アンダルシアが手にしているものを見て目を丸くした。
「太刀ですか?」
歩み寄って問う。
「ああ。俺の師匠からの預かり物だ。刃こぼれさせるなよ」
叉雷の両手が太刀を受け取る。鞘から刀身を半ばまで抜き、根本に彫られた二つの文字に目を落とした。
「銘入りですね。飛天、ですか」
「斬れ味はいいぞ。ただ斬れすぎる。無闇矢鱈に抜くような物じゃない」
「お借りします」
「使えそうか?」
「何とか。……太刀に触るのは久し振りだな。でも、こんな大事な物をお借りして、本当にいいんでしょうか。おれには型が無いです。色々教えてもらいましたけど、結局我流で終わりましたね。拳闘と同じで」
「型にはまらないのは、お前の美徳だ。頭で考えるより、体が先に動くのは悪いことじゃない。お前には、刃物は持たせたくなかったんだがな。いずれ、これが必要になるだろうと思った」
「有り難うございます」
「喉元に突き立てられる刃をかわすために、自ら前へ踏み出すしかない時もある。求めているものがあるならば、探して来い。諦めの悪いお前のことだ。きっと見つけられるだろうよ」
「はい」
叉雷は明瞭な声で応えた。鞘と柄を握る手に、自然と力がこもる。
「一つだけ約束してくれ」
「何でしょうか?」
「必ず生きて帰れ。それだけでいい。お前が捜すべきものを見つけたとしても、その代償に、お前の命を捧げたりは、決してしないでくれ。お前が戻らなかったら、俺の吸う煙草の本数が、今よりもさらに増えることを忘れるなよ」
「……」
叉雷は無言で肯く。肯いてから、ふと口元を歪めた。噛み殺せない心の揺らぎが、碧の瞳に溢れている。
「どうした?」
「先生。あなただけは、忘れていないでしょう?」
「忘れるものか」
アンダルシアの応えは素っ気ない。だが、叉雷には分かっていた。それこそが、アンダルシアなりの無感情の装い方なのだと。
「――良かった。大丈夫です。おれはまだ、捜しものを見つけていませんから」
* * *
『血を啜る少年の話』
「いつ」とも、「どこ」とも分からないのですが……。
昔々。ある所に一人の少年がいました。その少年は、人とは少しだけ違っていました。
少年が生まれた国には、いつも白い霧がたちこめていて、人々は皆、寒そうに背を丸めて歩いていたものです。少年は人とは少しだけ違っていたので、いつまで経っても大人になれませんでした。だから誰にも怪しまれないように、数年ごとに住む場所を変えなくてはならなかったのです。
少年は血が好きでした。赤ワインの比喩などではありません。本物の人の血です。錆びた味のする赤い液体なしでは生きられなかったのです。それも、冷えたものでは駄目で、人の体温と同じくらいがちょうど良かったのです。彼は己の腕の中で人が息絶える瞬間にこそ、生きる喜びを感じていました。
少しずつ、本当に少しずつ背が伸びて、いつしか少年は青年になりました。見た目が大人になっても、彼は血を啜ることをやめられませんでした。それどころか、ますます多くの血を必要とするようになっていたのです。
その頃には、数年ごとに住む場所を変えたりはしなくなっていました。数日ごとに、新たな生け贄を探さなければならなかったからです。
飢えを癒やすために、彼は世界中を巡りました。それは、まさしく血塗られた旅でした。色で例えるならば、どろりと濁った赤としかいいようがありません。彼の旅は、景色を楽しむ喜びではなく、地方によって微妙に異なる血の味を愉しむ悦びのためにありました。彼は飽きることなく血を求め続け、彼と出会ってしまった人を片っぱしから殺してゆきました。人々との出会いは、彼にとって食料との出会いに等しかったのです。さながら彼は、不吉な渡り鳥でした。
――でも、幸福な日々などというものは、えてして長続きはしないものです。
ある夏の夜のことです。彼は言葉の通じない国で、大勢の人に襲われて捕らえられました。人々は怒り狂っていました。彼が、人ならざるものであると本能で感じ取っていたからです。大きな十字架に磔にされた彼は、夜明けを待たずに灼き殺される運命にありました。
いくつもの篝火が焚かれました。沢山の火が、彼の周りを取り巻いていました。その眩しさ、その熱さは、白い霧の国で生まれた彼にとって、どれほどに怖ろしいものだったでしょう。私には到底分かりません。
ばちばちと燃える焔に呑み込まれそうになる、まさにその時。彼は足元に迫る炎よりも、もっと大きな光を天に見ました。彼を取り巻く多くの人々も、同じものを見ました。世界の終わりの光景とは、かくも美しいものなのかと感じた人もいたかも知れません。
彼は、頭のてっぺんから足の先まで呑み込まれてしまいました。
光が彼を食べてしまったのです。彼の視界は闇に閉ざされ、彼の意識もぼんやりと霞んでゆきました。
それからの彼は、長い間眠っていました。長い、長い間――。
死んでいるようでもあったし、生きているようでもありました。
……ところが、七百年ほど経った頃でしょうか。彼は突然飛び起きて、こう云ったのです。
「おれは化け物に喰われて、化け物になっちまった!」
彼の言葉が真実だったとしたら、大変なことです。何しろ、彼は化け物に喰われる前から化け物だったのですから。
化け物以上の化け物になった彼は、一体どうなってしまったのでしょう。
それは誰にも分かりません。
だけどもしも、あなたのそばにいつまで経っても年を取らない男の人がいたら。
そしてもしも、彼の名前のイニシャルがA=Zだったなら。
――あなたは、今すぐ全ての荷物をまとめて、どこか遠くへ逃げた方が良さそうです。
* * *
夜空が輝いている。
闇を疾る閃光。鋭く枝分かれする稲光に続いて、轟音が耳を襲う。青白い光に眼を奪われる。紛れもない歓喜とともに、希莉江は思う。
……あぁ、何て美しいのかしら。
「そんなに雷が好きか」
アンダルシアが呆れ声で呟く。どうやら思っただけではなく、声に出していたらしい。振り返ると、アンダルシアは笑っていた。
「だって、美しいもの」
唇を尖らせて云う。
「まったく、お前は嵐の子だな」
「ラーラたちは大丈夫かしら?」
「平気だろう。裏庭には屋根がある。夏の水浴びでもあるまいし、お前みたいに豪雨の中へ飛び込んでゆくような奴はいない」
「でも、ちょっとだけでしたよ。すぐ戻りました。お風呂にも入ったし」
黒く染め直した髪が、タオルをかけた両肩を覆うように垂れている。所々に、金茶の名残が見え隠れしていた。
「ルールーにも会ってきました。彼女、びっくりしてたわ。莉々〔りり〕が寒そうにしていたから、毛布を取りに戻って、また行ったんです。廊下がびしょ濡れなのは、あたしのせいです。後で拭いておきますね」
「放っとけ。朝には雨も上がる。裏口の扉を開けておけば、昼までに乾くよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて放置します」
「楽しかったか?」
「ええ。凄く」
悪戯っぽく笑う。
「そうか」
希莉江の逆側に顔を向けて、赤毛の生え際をアンダルシアの右手が掻く。
「そいつは良かった」
「先生?」
「飯にしよう。腹が減ったよ」
「あたし、作ります」
「分かった。ノルマは一人二品だ」
「先生は何を作るの?」
「肉と豆のスープ。アボカドのサラダ」
「サラダに魚のお刺身入れてもいいですか?」
「ドレッシングはオリーブオイルなんだが」
「お醤油で行きましょう。山葵も入れて。きっと美味しくなるわ」
「……好きにしろ」
灰皿の底で煙草の火を消して、アンダルシアが台所へと向かった。後に続いた希莉江は、ふと立ち止まって振り返り、窓の向こうを見つめる。
獣の咆哮のような雷鳴の音が聞こえる。光の乱舞に見とれる横顔は、穏やかに微笑んでいた。
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