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一章 秋一屋の叉雷
【2】淵沼の村
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かっこん、かこん、かこかこ……。楽しげに鳴る木の階段を下りる。
「ふぁー。だるい」
思わず欠伸が洩れた。
叉雷〔さらい〕に家は無い。実家は近くにあるのだが、今はそこを出て一人暮らしをしている。古びた木造の二階建ては、サトという老婆が旅人向けに営業している宿だ。叉雷は、ここの二階に生活の拠点を置いている。
木の扉を押して外へ出る。五月の空は綺麗に晴れていた。
「よっ」
叉雷が捺夏〔だっか〕に声をかける。
「オィーッス」
捺夏は待ちかねたように両手を挙げて叉雷を迎えた。
叉雷の仲間たちは既にそれぞれの場所へと散ったらしく、捺夏だけが件の少女とともに叉雷を待っていた。捺夏は相変わらず茫洋とした顔をしているが、隣に立つ少女はぶすーっとした顔で叉雷を睨みつけてくる。
「ようこそ。淵沼の村へ」
やや胡散くさい笑顔を作りながら云う。
「あたし、観光しに来たんじゃない」
少女は素っ気ない声で応える。
「なるほど。色々訳があってここへ来ているんだな」
叉雷は独り言のように云った。
「自己紹介しよう。おれは叉雷。屋号は秋一屋。叉雷と呼んでくれて構わない」
一気にくだけた調子で名乗る。
「で、君は?」
少女は数秒の間叉雷をまじまじと見つめていたが、やがて渋々唇を開いた。
「希莉江〔きりえ〕」
「キリエさんか。上の名前は?」
「いいでしょ、そんなこと」
少女――希莉江は苛々したように応える。
「あたし、騙されたの。ここの、この村の、いい加減な男どもにねッ!」
「分かった。その話は後でゆっくり聞こう。
おれはこの村の若長だ。君が村人に金品を支払ったと云うなら、その代価を求めるのは当然のことだからな」
「その言葉、忘れないから。あたし」
「……」
責任を感じているのか、捺夏は珍しく無口である。
「君の家はどこだ?」
叉雷は唐突に尋ねる。
「あたし? あたしの家は……」
希莉江は云い淀んだ。
「君、家出してきたんだろ」
叉雷は断定的に云ってのける。
「もう帰りなさい。この村には、君が楽しめるものなんか何一つないんだから」
「あたしは遊びに来たんじゃないッ!」
間髪入れずに希莉江が叫んだ。
「年は幾つだ?」
「十六」
十六才にしては幼い外見の少女が応える。もっとも、サバを読んでいないという保証はどこにもないが……。
「あれだな。君には、やりたいことがあるのかな?」
「あるわよッ! でなきゃ、なんで家を出たのか分かんないじゃない!」
「やっぱり流れ者だ」
捺夏が肯き――速攻で希莉江に睨まれた。
「うるさいッ!」
「おぉ、こわ」
叉雷の親友である捺夏という青年は、叉雷よりも少し背が高い。彼の性格を一言で云い表すならば、「致命的なまでの無邪気さ」と云うほかないであろう。さらに、捺夏は極度の面倒くさがり屋である。
短く刈り込んだ灰色の髪は、禅寺から逃げ出した若い僧のようでもある。だが実際は、捺夏があまりにも己の髪型に無頓着なので、定期的に叉雷が刈ってやっているだけなのだった。
毎月終わり頃、鋏を打ち鳴らしながら叉雷が捺夏の元を訪ねると、捺夏は多少億劫そうに、自身がどこからか拾ってきた新聞紙を床に広げて、その上に正座をする。叉雷は捺夏と他愛のない世間話をしながら、捺夏の髪を器用に整えてやる。そんな時、色白の捺夏は毛を刈られる羊のように大人しくしている。
今日の捺夏の服装は、色がぼやけつつある藍染めのシャツと乳白色のハーフパンツ――昨夜、風呂上がりの捺夏が寝間着として身につけたもの――である。くたくたの袖の辺りや、首から提げられた猫の顔を象った財布のいかにもなお下がり感が、明るい孤児である捺夏の暮らしぶりを如実に表していた。
「……」
叉雷は口元に手を翳して少女を見やった。何事かを考え込むような様子である。
「そうよ。あたしは家出したわよ。それで? あたし、そのことであんたたちに何か迷惑かけた? かけてないでしょ?」
捺夏に詰め寄る。完全なる逆ギレである。
「まあね」
捺夏は首を伸ばして上空を見上げる。
そこには彼の愛する飛竜がいた。爽やかな風に乗って、青い空を滑るように飛んでいる。真昼の日射しが絽々を照らしていた。逆光の中に、飛竜の姿が浮かび上がる。右へ、左へ――。
風向きに逆らわず、くるくると方向を変えてゆく。時々、捺夏に向けて合図をして見せたりもする。その仕草からは、人に馴れた飛竜に特有の穏やかさが見て取れる。
ホーィ。ホホーィ。ホホホーィ。
絽々は上機嫌で歌っていた。
「君は、宗香〈そうこう〉に乗り込んで何がしたい?」
叉雷は云いながら右手を下へ下ろした。
宗香とは、戦渦のただなかにある隣国の名である。
産業に乏しく、人口は減少の一途を辿る貧国だが、国としての歴史は古い。初代の大王は天文学の祖として崇められた学者であったという。当時、いくつかの村落の集まりでしかなかった牛込〈うしごめ〉地方をまとめ、一つの国とした。今から千年以上も昔のことである。
叉雷は二年前に宗香を旅したことがある。捺夏とともにあるものを捜しに行ったのだ。
春から夏まで、酪農を営む民たちと暮らしていた。朝は遅くに起きて、昼は牛を追い、夜には星を見る。逆側から見上げる白蓮山は美しく、二人は雄大な自然の中で楽しい時間を過ごした。残念ながら、叉雷の捜しものは一向に見当たらず、「もう帰ろうよ」と捺夏が急かすのを宥めながら半年近く待ったが、発見には至らなかった。
「答えによっては、おれが君を連れて行ってあげてもいい」
隙のない瞳が希莉江を正面から見据える。
「あ、あたしを?」
希莉江は己の顔を人差し指で示す。
「ああ。君は、あの竜には乗りたくないんだろ。だったら徒歩で行くしかないよ」
「宗香には入れないって云ってたじゃない。あれは嘘だったの?」
横からの風が希莉江の髪を舞い上げた。
「嘘じゃないさ。ただ、やってやれないこともない」
叉雷は冷静な声で応える。希莉江の後ろに立つ捺夏は、気遣わしげな顔で叉雷と希莉江を見比べていた。
「その代わり、命の保証はしないよ」
人を一気に突き放すような叉雷の言葉が、希莉江の表情を凍りつかせた。
「あたし……」
「君がやりたいことは何だ?」
「あたしは、人を助けたいの」
途方に暮れたように云う。
「はぁ?」
訝しげに捺夏が訊き返した。
「人助けなんてのはさあ、頼まれてもいないのによその国に押しかけてまですることじゃないよ。都人なら、都にうようよいる浮浪者を先に助けてやれば?」
無邪気な口調で云う。希莉江は捺夏に何か云い返そうとしたが、結局何も云えずに口を噤んでしまった。
「キリエさん。君が望むなら、おれが宗香に連れて行ってあげよう」
鋭い眼差しが少女を射抜く。
「……」
希莉江の瞳もまた、叉雷を見ている。
「どうする?」
「叉雷っ。またお前の悪い癖が出てるぞ」
「何のことだ?」
叉雷は捺夏を見つめ返した。
「そんな風に困ってる人を片っ端から助けて回ったら、いろんな人がお前にしがみついてくるよ」
「しがみつきたけりゃあ、しがみついたっていいよ」
叉雷が応える。それは、ある意味投げやりとも取れる言葉であった。
「どうする?」
さらに問う。希莉江は、ぐっと唇を噛んでいる。迷っているのかも知れなかった。
「叉雷ぃー」
捺夏が叉雷を咎めるような声を上げる。
「いきなりそんな風に云ったら、答えられる訳ないよ」
「安心しろ。本人に答えがないなら、連れては行かない。家に戻ってもらうだけさ」
「あたしは帰らない」
「家には帰りたくない? どうしても?」
「どうしても」
希莉江は何かを振り切るように応えた。
「しょうがないな。君の行き先を決めるのは君自身だ。さあ、どうする?」
真摯に問いかける。叉雷は全く揺らがない。
「あたし……」
紫の瞳は心なしか潤んでいた。
「ちょっと考えさせて。……明日の夜までに必ず決めるから」
やがて、己に云い聞かせるように応える。
「分かった。それでいいよ」
叉雷は軽く肯いて見せた。
「あのさぁ」
堪りかねたように捺夏が声を上げる。
「何だ?」
「おれは、二人とも行くべきじゃないと思う」
捺夏は強い調子で云い切った。
「捺夏」
「どういうこと?」
「だけど、叉雷はあんたを助けるって決めたみたいだから、おれもそれに従うよ」
唇をへの字に曲げながら云う。
「そいつはどうも」
応える叉雷は、声も上げずに笑っている。
「あと、あんたがどこに行くにしろ、あんたの金はもう返せないから」
「なんで?!」
金切り声が空を切り裂いた。この少女は、数秒で沸点に達することが出来るようだ。
「あんた、イフラに前金で渡したろ。あの金は、もう耕作機に化けちゃったんだ。だから返せない。ごめんよ」
申し訳なさそうに謝る。だが、そこはかとなくふてぶてしい態度なのが捺夏らしい。
「こうさくき?! 何それ!」
型番はRK5208。イマムラ電機が昨年九月に世に放った、最新型の耕作機である。
「……」
表現しがたい沈黙が三人の間をたゆたう。
「あんた、生まれはどこ?」
捺夏は無邪気に訊ねる。
「彩泰〈さいたい〉」
希莉江は迷わずこの国の名を挙げた。
「この国には、降魔学(こうまがく)と医学だけしかないとでも思ってたの?」
「何が云いたいの?」
「よく見てみなよ。あんたの後ろを」
混乱する希莉江が振り返る。今さらながらに背後の景色を見渡した。
「あっ」
……畑だ。青々とした田畑が所々に隙間を空けて無限に続いている。正面に見えていた家並みの少なさに比べて、緑の地の何と広大なことか――。
「彩泰は農業大国でもあるんだ。そんでもって、この村には田んぼと畑しかないんだよ。あれが来たから、みんなで大喜びしてる。今さら、『やっぱり返品します』なんて云えない空気だよ」
「あぁ、もう!」
希莉江はその場で地団駄を踏んだ。
「分かったわよ! あんたたちが、あたしに意地悪してた訳じゃないってことはねッ! あたしのお金で、稲でも何でも刈ればいいじゃないッ!」
「……ごめんね」
捺夏が笑う。邪気のない微笑みだった。
「もう、いいわよ」
「じゃあ、おれ行くよ。行き先が決まったら教えてね。だけどおれは、叉雷が行くのも、あんたが行くのも反対だからね」
片手をスタンバイさせながら云う。
「分かった、分かった」
叉雷が捺夏を追いやるような仕草をした。
「じゃあね。――絽々っ」
ヒューイッと指笛を鳴らす。
「帰るよー!」
絽々が捺夏の頭の高さまで下降してくる。
「おぉ、よしよし」
擦り寄せられる白い鼻面を捺夏の手が愛しげに撫でた。
「えいっ」
助走も無しにひらりと飛び乗る。痩身が背に落ちつく間もなく、主を乗せた飛竜は上空を指して舞い上がった。そのまま飛び去ってゆく。
「……」
飛竜の早さに驚いたのか、希莉江は呆気にとられた様子で捺夏たちを見送っていた。
「かわいいなあ」
感心しきった声音で叉雷が云う。
「あれがぁ?」
「君の目は曇ってるな」
柔らかな風が二人の髪を揺らしている。
「あたしダメ。ああいう、つぶらな目の生きものって」
希莉江は顔をしかめている。
「……珍しい子だね」
叉雷は苦笑した。
「そうかな?」
「おれはね、絽々を見る度に大福餅のことを考えるんだ」
「えぇ?」
「好物なんだ。どっちもね」
「ふーん……」
刺々しい空気は既にない。叉雷と希莉江は年の離れた兄妹のようにも見えた。
「今夜の宿は? もう決めたの?」
問いかける叉雷は、数分前とは別人のように優しげな顔をしている。
「決めてない」
希莉江は首をふるふると横に振った。
「それなら、おれの所においで。下宿させてもらってる家が宿屋をやってるんだ」
「……いいわ。これのことでしょ?」
目の前に建つ家を指で示しながら問う。
「そうさ」
「高いの?」
「安いよ。良心的な宿さ」
「じゃあ、ここにするわ」
希莉江はここで初めて笑顔を見せた。
「よし。行こうか」
叉雷が希莉江を促し、先に立って歩き出す。希莉江は小走りに叉雷の後を追った。
「ここじゃないの?」
「こっちは避難用の裏口だよ。ちゃんとした玄関は別にある」
家を回り込むように木の壁に沿って歩く。
左へ曲がると、宿屋の入り口が目に入った。
「忠屋の宿」と書かれた木の看板が庇から吊されている。
叉雷の手が両開きの扉を開いた。
一階にある客用の玄関は落ちついた佇まいで二人を迎えた。幅広の廊下が奥まで続いている。
扇状に並べられた赤いスリッパ群の一足を叉雷が拾い上げ、そのまま希莉江に手渡す。
「どうぞ」
「……ありがと」
叉雷は靴を脱いで裸足となり、慣れた足取りで廊下の右側についた扉へと向かった。
ととととん。軽いノックをして、返事を待たずに扉を開いてしまう。
「紗菜〔しゃな〕さん。ただいま」
そこは小さな部屋だった。広さは六畳ほどであろうか? 右隅には年季の入った本棚があり、棚の一つに大小の招き猫が並んでいる。
叉雷の視線の先には若い女性がいた。まだ三十には届いていないだろうが、叉雷よりは年上のようである。椅子に座り、何か仕事をしていたような様子だ。机上には帳簿らしきものがいくつか広げられている。
「お帰りなさい。何か?」
応える声には西の訛りがある。
黒い髪は長く、頭の後ろで馬の尾のように結ばれている。草色の着物をゆったりと身に纏っていた。薄化粧だが、奧二重の瞳からは女性らしい色気が感じられる。
「お客さん」
叉雷の言葉から少し遅れて、叉雷の脇から希莉江がひょっこりと顔を出した。
「あら。いらっしゃいませ」
紗菜はにこやかに笑う。立ち上がり、壁際の椅子を希莉江の前へと置いた。
「婆様は?」
叉雷が問う。
「お婆さま、まだ寝てはるの」
紗菜が応える。サトは、この宿の従業員である紗菜にとっては雇い主にあたる。
元の場所へと戻った紗菜が本棚に手を伸ばす。革表紙の宿帳を手に取り、それを開いた。
「お客様、こちらにお名前を」
希莉江が椅子に座る。毛筆ペンを手にして「慈恵希莉江」と記した。叉雷は、希莉江の肩越しにその文字を見つめている。
「書いたわ」
宿帳の向きを逆さにして紗菜へ返す。
「お泊まりは何泊のご予定でしょうか?」
希莉江がちらっと叉雷を見上げる。叉雷は「うん?」とだけ応えた。
「とりあえず今夜。明日以降は分からない」
「かしこまりました。お夕飯は六時になっております。では、お部屋にご案内しましょう」
宿帳をぱたりと閉じてから紗菜が云った。
* * *
紗菜が希莉江に宛った部屋は、希莉江自身の予想よりもずっと広かった。
木の床と白い壁が真新しい。設えられた家具類は使い古しのようだが、手入れは丁寧なようだ。何より、全体に清潔感がある。
叉雷と別れてから数時間が経つ。この間に希莉江は夕食を摂った。その時には、希莉江以外の客はいなかった。さらに、一階の奧にある浴室を使って旅の疲れを癒した。
服は花柄の寝間着に替わり、解いた髪が肩や背中へ流れ落ちている。
「……」
希莉江はぼんやりとした顔で考えている。
明日はどうしようか。どこへ行こうか?
窓枠に手をかけて窓の向こうを見る。
白い峰が遠くに見えた。山裾にあるこの村からはそう離れていない筈だが、あまりにも山が高いためにそう感じるのだろう。
「あたしは自由だ」
呪文のように呟く希莉江は、白い上掛けのかかった寝台の上で両足を投げ出している。叫び過ぎたせいか、希莉江の声は嗄れていた。
希莉江は、ある日突然住んでいた家を出た。
理由はあった。人知れず冷たくなって横たわる死体のような、無惨な理由が――。
この国の都の南側で、裕福な呉服商に仕える女がいた。それが希莉江の母である。母の名は冬花といった。
希莉江は使用人の娘として十四年前に生まれた。父親は異国からの流れ者だったとしか知らない。
幼い頃の暮らしぶりは悪くなかった。希莉江の母親は飴細工のように優しかった。彼女の期待に応えるためならば、苦手な勉強すら厭わなかったほどである。ただ、希莉江の父親が異国で名を馳せた拳闘士であったとか、喧嘩っ早く、気性は荒く、まるで野生の狼のようであったなどと母親から聞かされる度に、希莉江は母親と自身の違いに気づかざるを得なかった。年を追うごとに病弱になってゆく母親に代わり、希莉江が侍女として働き始めたのは七才の秋のことである。
母親の身分が実質的な奴隷であり、主人である呉服商が望めば体を許さなければならないと知ってから、希莉江は熱砂の上を彷徨う旅人のように自由を渇望した。
あたしは嵐でありたい。希莉江は、雷鳴の轟く日に、着の身着のままで外へと――殆ど衝動的に――飛び出していったりするような子供だった。
並外れた、とまでは行かないが、希莉江の器量は人並み以上のものであった。まだ年若い呉服商の若旦那は、希莉江が十才になる前から彼女を傍らに置いて離さなかった。幸い何かを奪われた訳ではないが、明らかにそれと分かる視線を浴び続けることは、希莉江にとって決して愉快なものではなかった。
呉服商には娘が二人いた。年は、それぞれ十一才と九才である。彼女たちが希莉江よりも平凡な容姿を持って生まれたことで、希莉江の立場はより厳しいものとなった。「奥方様」だけではなく、娘たち自身も希莉江を疎んじているのを肌で感じつつ、希莉江は悪意の中に全身を浸しながら生きてきた。
外出するのにも呉服商の許可が要った。何をするにも、主の機嫌を伺わなければ実現しない。九才で初等学校を出た後の希莉江は、中等学校にはやらされず、だだっぴろい屋敷の中に完全に囚われることとなった。
いつからか――と訊かれれば、生まれた時からとしか応えられない。希莉江の心は自由を求めていた。いつか、あたしはここを出て自由になる……。
希莉江の母親が病に倒れたのは数年前のことだ。看病も虚しく天に召された母親を発見したのは、ほかならぬ希莉江であった。
人知れず冷たくなって横たわる死体。それが希莉江に与えた衝撃は云うまでもない。
その日の夜に家を出た。希莉江は風になり、未だ全容を知らぬままの都から流れた。母親が残した金と、主から気まぐれに贈られた貴金属の全てを手にして。
……あたしはもう、誰にも縛られたくない。
これまで保身のために抑えてきた希莉江の本来の気性が開放され、彼女は文字通り嵐となって行き先のない旅を始めた。
しかし、あれほど望んだ自由の身になってから、初めて彼女は気がついたのである。
希莉江には、帰る場所などどこにもないのである。希莉江が愛する者もいなければ、愛してくれる者も既に亡い。
こうして少女は、自由とともに虚無を得た。
希莉江は、自分が考え得るありとあらゆる思いつきを実行することで、何とかこれまでの日々を乗りきってきた。
有名な理容室に行き、切ることを禁じられて腰の下まで伸びていた髪を切った。都風の服を買い込んで、若者たちの盛り場で注目を浴びたこともある。甘い菓子。色とりどりの氷菓を盛り合わせたデザート。流行の玩具や文具。目につく物は全て手に入れた。
だが、何をしても、何を買っても、希莉江の心が満たされることはなかった。
戦場に行きたいと思ったのは、死に場所を求めてのことかも知れない。だが、自ら死を選ぶことは怖ろしくてできなかった。貧民窟の住人ですら自殺するだけの覚悟があるのに、それが出来ない自身を希莉江は臆病だと感じていた。……実際には、希莉江が健やかな心を保っていられたというだけのことなのだが。
希莉江は今、アンバランスの極致にある。生と死の境が曖昧で、どちらにでもすぐに転がり落ちてしまえるのだろう。
こつ、こつ。乾いた音が希莉江を現実へと舞い戻らせた。
「……誰?」
億劫そうに応えながら体を起こす。
「おれ」
短い応えが帰ってくる。希莉江は丸い取っ手のついた扉の前まで歩き、内側からそれを開いた。
「サライ」
なぜか爽やかな石鹸の匂いがする。希莉江は驚いたように叉雷を見上げた。
「やあ」
叉雷はベージュの部屋着に着替えている。薄茶の髪の色が水に濡れて濃くなっていた。
「ちょっと出ようか」
「出るって、どこへ行くの?」
「散歩さ。村を案内するよ」
叉雷の声は人を安心させ、同時に浮き立たせるような不思議な響きをしている。
「行く?」
「うん。着替えるから、下で待ってて」
希莉江は迷わず肯いていた。
「じゃあね」
叉雷は外から扉を閉め、使い慣れた階段とは別の螺旋階段を下っていった。
「紗菜さん。ちょっと出てきます」
事務室に顔を出すと、紗菜はくつろいだ姿で本を読んでいた。
「あら。遅うなる?」
分厚い本に栞を挟んでから顔を上げる。
「いえ。一時間くらいかな?」
「そしたら、閉めておきますから。鍵は?」
「大丈夫です」
手に持つ鍵の束を示す。丸い銀の輪につけられた二つの鍵は、実家と宿のものだろうか。
「あっ。そうだ」
「何か?」
「紗菜さん。あの子の宿代、おれが半分持ちますから」
「あらっ」
紗菜は驚いたように目を丸くする。
「どうも、捺夏が迷惑かけちゃったみたいなんで。あの子には云わなくていいですから」
「うちはええですけど。はぁ、驚いてもうた」
「どうして?」
怪訝そうに叉雷が訊ねる。
「叉雷さんの恋人かしら、と」
「まさか。もしそうなら全額払いますよ」
叉雷は力無く笑う。寄りついてくる娘には不自由しない叉雷だが、実は、決まった相手と長続きした試しが無い。
「充分もててはるのに。ねぇ?」
「ははは」
叉雷の唇から虚ろな笑いが洩れた。
「おれは待ってるんですけど。なかなか」
包帯の巻かれた腕を上げ、頭を掻いている。
叉雷の背後で扉が開いた。
「サライ」
髪を後ろで一つにまとめた希莉江がそこに立っていた。荷物は無く、薄い黄緑色のワンピースだけを着ている。
「行こうか」
「行ってらっしゃい」
紗菜は胸の前で手を振って叉雷たちを送り出した。
スリッパを履いた希莉江と、裸足の叉雷は木の廊下をぺたぺたと歩いてゆく。
「あそこに何か置いてあるけど?」
希莉江は玄関の手前で何かを見つけたようである。
「パンフレットだね」
叉雷が応える。
「去年作ったんだ。中に村の地図が載ってるよ」
「一部もらうわ」
希莉江は手を伸ばして縱置きのラックから薄い冊子を抜き出した。
昼間通った玄関から外へと出る。空は既に暗くなっていた。
街道へと続く通りに並ぶ家々に灯りが点っているのが見えた。
希莉江は宿の前から見える風景をきょろきょろと見回している。
「どうしたの?」
叉雷はてれんとした部屋着の下のポケットに両手を突っ込んでいる。
「こっちの方が家が多いわ。灯りも多いし。裏口の方は畑ばっかりだったのに?」
「一応こっちが都側だからね。山に近づくと、どんどん建物が減るよ。君は、都から街道を通ってきたの?」
「そうよ。馬車を借りたわ」
「……贅沢な旅だなあ」
叉雷は嘆息している。
「じゃあ行こう。畑を見てもしょうがないから、こっち側を歩くよ」
叉雷が云う。希莉江は無言で肯き返した。
「虫が鳴くのを聞かせられなくて残念だよ」
希莉江の速度に合わせて歩き始める。
「虫? 何で?」
「梅雨を越えると凄いよ。大合唱。もう寝てられないくらい鳴くね」
希莉江は相槌の代わりに叉雷を見上げた。
「都はここから真南にあるんでしょ? 山は北の方角にあって、山の手前に大河があるわ」
「よく知ってるね」
「当たり前でしょ。あたしは、あの山を越えて宗香に行くつもりだったんだから」
この村から都までの道程は、馬の足で二日。人の足では五日ほどかかる。
「南側の畑や田んぼは、どこまで続いてるの?」
「河の手前まで。いや、待てよ。最近始めた茶畑は山の斜面を利用してるか」
「あんなにだだっ広い土地を誰が耕すの? 人はそれほど多くないように見えたけど。それとも、他の村から人を雇ってるとか?」
「ああ。出稼ぎに来てくれる人は多いよ」
「それにさっきから、全然人に会わないわ。夜には出歩かないの?」
「暗いからね。野良仕事でくたびれてるし」
「サライも?」
「おれは畑は耕さない」
「じゃあ、どうやってお金を稼ぐの?」
「蛇の道は蛇ってことさ。村の雑用係を請け負う代わりに、毎月給料がもらえる」
「いい身分じゃない」
「まあね。これでも苦労してるんだけど」
「分かるわ。なんか疲れてる感じがするもの」
「……」
叉雷はばつが悪そうな顔をする。
「おれ今日はちょっと調子が悪くて、当たりがきつかったかも知れないな。ごめんね」
「病気なの?」
「違うよ。二日酔い」
「酔っぱらってたの?」
問い返す希莉江は呆れ顔である。
「うぅ。恥ずかしい」
叉雷は両手を目元に置いて呻いた。
「どうしたの?」
そのままの格好で急に足を止めた叉雷を、希莉江が不審そうに見つめている。
「いや。何でもないよ」
はっとしたように手を下ろす。叉雷は目にゴミでも入ったかのように瞬きをしている。
「ねぇ。なんでそんなに飲んだのか訊いてもいい?」
「いいよ。――手紙が来て」
「手紙?」
「嬉しい知らせだったんだ。だから、ちょっと調子に乗って呑みすぎた。それだけさ」
「……へぇ」
「地図を見てごらん」
「見てるわ」
歩きながら、ぱらぱらと流し読みしていたパンフレットの三頁目を開いて示す。
「この地図には村の名所も描いてある。ここにある寄り合い所っていうのが、あれ」
道の先にある、掘っ立て小屋に近い平屋を指差す。立て看板には「わが村のよりあい処」と赤らしきペンキで大きく書いてある。
窓の向こうは明るい。賑やかな音楽と歌声らしきものが洩れ聞こえてくる。どうやら、祭り囃子の音のようだ。
「あれは何をしてるの?」
「毎年夏に祭をやるんだ。その準備だよ」
「ふうん」
「ささやかな祭だけどね。おれが小さい頃は七年ごとに大きな祭があったんだけど。今はそれも無くなった」
「聞いたことある。祭の最後に、山頂で花火を打ち上げるんでしょ」
「見たことあるの?」
「無いわ。知り合いの人に聞いたの」
「そうか。花火は今でも上げてるよ」
「お祭には誰でも参加できるの?」
「十年くらい前までは村の人間しか参加できなかったね。今は誰でも参加できるよ」
「観光客も見にくるの?」
「うん。都からは大勢来るよ。登山と併せて宣伝してるせいかな」
「あたし、昨日は村の入り口の目の前にあるホテルに泊まったの」
「うん?」
「白蓮山に登るっていう人をいっぱい見たわ。団体でホテルに泊まってた」
「やっぱりツアー客が多いよ。彩流河を越えなきゃならないからね。たとえ橋を渡り切れても、あれだけ険しい山をガイド無しで登るのは危険だし」
毎年幾人かが山中で命を落とす。叉雷は、哀れな登山家の死体を山男から引き取った経験がある。覆いをかけられ、橇に横たえられた人の体はずっしりと重く、非常に気が滅入る仕事であった。……隣に捺夏がいなければ、無事に村まで運び終えられたかどうか。微妙な所である。
「でもサライは登ったことがあるんでしょ」
「そりゃあね。祭の最後の夜には、必ず村人全員が山に登るし」
「全員参加なの? それって」
「強制だね。行かないと後で怒られる」
「……あたしには無理だと思う?」
あの峰を越えて、宗香へ行けるだろうかと言外に問うている。
「まあ、やってやれないこともないだろうけど。おれならトンネルを抜けるだろうな」
「トンネル? 向こう側まで穴が空いてるの?」
「ああ。だけど、誰でも通れるような道じゃないよ」
「サライなら通れるの? 何で?」
「……。一緒に通れば分かるよ」
叉雷は曖昧な応えを返してくる。
「そう。じゃあ、楽しみにしておくわ」
「おれはこの村が好きだよ」
叉雷が呟く。その顔はなぜか無表情である。意に添わぬ言葉を、無理矢理己に云い聞かせているようにも見えた。
「都の人から見ればみすぼらしいかも知れないけどね。これでも充分豊かな村だと思うよ」
「あたしには、そこら辺のことは分からないけど。少なくとも景色は綺麗だわ。とても」
「明日君は、自分の行く道を決める訳だ」
「……」
「おれに出来るだけのことはするよ。それが、どんな選択であろうともね」
叉雷は量りがたい眼差しで夜空を見上げている。希莉江はつられたように顔を上げて、思わず息を止めた。
毒々しい広告灯の無い地上から見る暗闇。
――無数の光。青白い炎の群は煌々と瞬く。
そこにあったものは、満天の星空だった。
「ふぁー。だるい」
思わず欠伸が洩れた。
叉雷〔さらい〕に家は無い。実家は近くにあるのだが、今はそこを出て一人暮らしをしている。古びた木造の二階建ては、サトという老婆が旅人向けに営業している宿だ。叉雷は、ここの二階に生活の拠点を置いている。
木の扉を押して外へ出る。五月の空は綺麗に晴れていた。
「よっ」
叉雷が捺夏〔だっか〕に声をかける。
「オィーッス」
捺夏は待ちかねたように両手を挙げて叉雷を迎えた。
叉雷の仲間たちは既にそれぞれの場所へと散ったらしく、捺夏だけが件の少女とともに叉雷を待っていた。捺夏は相変わらず茫洋とした顔をしているが、隣に立つ少女はぶすーっとした顔で叉雷を睨みつけてくる。
「ようこそ。淵沼の村へ」
やや胡散くさい笑顔を作りながら云う。
「あたし、観光しに来たんじゃない」
少女は素っ気ない声で応える。
「なるほど。色々訳があってここへ来ているんだな」
叉雷は独り言のように云った。
「自己紹介しよう。おれは叉雷。屋号は秋一屋。叉雷と呼んでくれて構わない」
一気にくだけた調子で名乗る。
「で、君は?」
少女は数秒の間叉雷をまじまじと見つめていたが、やがて渋々唇を開いた。
「希莉江〔きりえ〕」
「キリエさんか。上の名前は?」
「いいでしょ、そんなこと」
少女――希莉江は苛々したように応える。
「あたし、騙されたの。ここの、この村の、いい加減な男どもにねッ!」
「分かった。その話は後でゆっくり聞こう。
おれはこの村の若長だ。君が村人に金品を支払ったと云うなら、その代価を求めるのは当然のことだからな」
「その言葉、忘れないから。あたし」
「……」
責任を感じているのか、捺夏は珍しく無口である。
「君の家はどこだ?」
叉雷は唐突に尋ねる。
「あたし? あたしの家は……」
希莉江は云い淀んだ。
「君、家出してきたんだろ」
叉雷は断定的に云ってのける。
「もう帰りなさい。この村には、君が楽しめるものなんか何一つないんだから」
「あたしは遊びに来たんじゃないッ!」
間髪入れずに希莉江が叫んだ。
「年は幾つだ?」
「十六」
十六才にしては幼い外見の少女が応える。もっとも、サバを読んでいないという保証はどこにもないが……。
「あれだな。君には、やりたいことがあるのかな?」
「あるわよッ! でなきゃ、なんで家を出たのか分かんないじゃない!」
「やっぱり流れ者だ」
捺夏が肯き――速攻で希莉江に睨まれた。
「うるさいッ!」
「おぉ、こわ」
叉雷の親友である捺夏という青年は、叉雷よりも少し背が高い。彼の性格を一言で云い表すならば、「致命的なまでの無邪気さ」と云うほかないであろう。さらに、捺夏は極度の面倒くさがり屋である。
短く刈り込んだ灰色の髪は、禅寺から逃げ出した若い僧のようでもある。だが実際は、捺夏があまりにも己の髪型に無頓着なので、定期的に叉雷が刈ってやっているだけなのだった。
毎月終わり頃、鋏を打ち鳴らしながら叉雷が捺夏の元を訪ねると、捺夏は多少億劫そうに、自身がどこからか拾ってきた新聞紙を床に広げて、その上に正座をする。叉雷は捺夏と他愛のない世間話をしながら、捺夏の髪を器用に整えてやる。そんな時、色白の捺夏は毛を刈られる羊のように大人しくしている。
今日の捺夏の服装は、色がぼやけつつある藍染めのシャツと乳白色のハーフパンツ――昨夜、風呂上がりの捺夏が寝間着として身につけたもの――である。くたくたの袖の辺りや、首から提げられた猫の顔を象った財布のいかにもなお下がり感が、明るい孤児である捺夏の暮らしぶりを如実に表していた。
「……」
叉雷は口元に手を翳して少女を見やった。何事かを考え込むような様子である。
「そうよ。あたしは家出したわよ。それで? あたし、そのことであんたたちに何か迷惑かけた? かけてないでしょ?」
捺夏に詰め寄る。完全なる逆ギレである。
「まあね」
捺夏は首を伸ばして上空を見上げる。
そこには彼の愛する飛竜がいた。爽やかな風に乗って、青い空を滑るように飛んでいる。真昼の日射しが絽々を照らしていた。逆光の中に、飛竜の姿が浮かび上がる。右へ、左へ――。
風向きに逆らわず、くるくると方向を変えてゆく。時々、捺夏に向けて合図をして見せたりもする。その仕草からは、人に馴れた飛竜に特有の穏やかさが見て取れる。
ホーィ。ホホーィ。ホホホーィ。
絽々は上機嫌で歌っていた。
「君は、宗香〈そうこう〉に乗り込んで何がしたい?」
叉雷は云いながら右手を下へ下ろした。
宗香とは、戦渦のただなかにある隣国の名である。
産業に乏しく、人口は減少の一途を辿る貧国だが、国としての歴史は古い。初代の大王は天文学の祖として崇められた学者であったという。当時、いくつかの村落の集まりでしかなかった牛込〈うしごめ〉地方をまとめ、一つの国とした。今から千年以上も昔のことである。
叉雷は二年前に宗香を旅したことがある。捺夏とともにあるものを捜しに行ったのだ。
春から夏まで、酪農を営む民たちと暮らしていた。朝は遅くに起きて、昼は牛を追い、夜には星を見る。逆側から見上げる白蓮山は美しく、二人は雄大な自然の中で楽しい時間を過ごした。残念ながら、叉雷の捜しものは一向に見当たらず、「もう帰ろうよ」と捺夏が急かすのを宥めながら半年近く待ったが、発見には至らなかった。
「答えによっては、おれが君を連れて行ってあげてもいい」
隙のない瞳が希莉江を正面から見据える。
「あ、あたしを?」
希莉江は己の顔を人差し指で示す。
「ああ。君は、あの竜には乗りたくないんだろ。だったら徒歩で行くしかないよ」
「宗香には入れないって云ってたじゃない。あれは嘘だったの?」
横からの風が希莉江の髪を舞い上げた。
「嘘じゃないさ。ただ、やってやれないこともない」
叉雷は冷静な声で応える。希莉江の後ろに立つ捺夏は、気遣わしげな顔で叉雷と希莉江を見比べていた。
「その代わり、命の保証はしないよ」
人を一気に突き放すような叉雷の言葉が、希莉江の表情を凍りつかせた。
「あたし……」
「君がやりたいことは何だ?」
「あたしは、人を助けたいの」
途方に暮れたように云う。
「はぁ?」
訝しげに捺夏が訊き返した。
「人助けなんてのはさあ、頼まれてもいないのによその国に押しかけてまですることじゃないよ。都人なら、都にうようよいる浮浪者を先に助けてやれば?」
無邪気な口調で云う。希莉江は捺夏に何か云い返そうとしたが、結局何も云えずに口を噤んでしまった。
「キリエさん。君が望むなら、おれが宗香に連れて行ってあげよう」
鋭い眼差しが少女を射抜く。
「……」
希莉江の瞳もまた、叉雷を見ている。
「どうする?」
「叉雷っ。またお前の悪い癖が出てるぞ」
「何のことだ?」
叉雷は捺夏を見つめ返した。
「そんな風に困ってる人を片っ端から助けて回ったら、いろんな人がお前にしがみついてくるよ」
「しがみつきたけりゃあ、しがみついたっていいよ」
叉雷が応える。それは、ある意味投げやりとも取れる言葉であった。
「どうする?」
さらに問う。希莉江は、ぐっと唇を噛んでいる。迷っているのかも知れなかった。
「叉雷ぃー」
捺夏が叉雷を咎めるような声を上げる。
「いきなりそんな風に云ったら、答えられる訳ないよ」
「安心しろ。本人に答えがないなら、連れては行かない。家に戻ってもらうだけさ」
「あたしは帰らない」
「家には帰りたくない? どうしても?」
「どうしても」
希莉江は何かを振り切るように応えた。
「しょうがないな。君の行き先を決めるのは君自身だ。さあ、どうする?」
真摯に問いかける。叉雷は全く揺らがない。
「あたし……」
紫の瞳は心なしか潤んでいた。
「ちょっと考えさせて。……明日の夜までに必ず決めるから」
やがて、己に云い聞かせるように応える。
「分かった。それでいいよ」
叉雷は軽く肯いて見せた。
「あのさぁ」
堪りかねたように捺夏が声を上げる。
「何だ?」
「おれは、二人とも行くべきじゃないと思う」
捺夏は強い調子で云い切った。
「捺夏」
「どういうこと?」
「だけど、叉雷はあんたを助けるって決めたみたいだから、おれもそれに従うよ」
唇をへの字に曲げながら云う。
「そいつはどうも」
応える叉雷は、声も上げずに笑っている。
「あと、あんたがどこに行くにしろ、あんたの金はもう返せないから」
「なんで?!」
金切り声が空を切り裂いた。この少女は、数秒で沸点に達することが出来るようだ。
「あんた、イフラに前金で渡したろ。あの金は、もう耕作機に化けちゃったんだ。だから返せない。ごめんよ」
申し訳なさそうに謝る。だが、そこはかとなくふてぶてしい態度なのが捺夏らしい。
「こうさくき?! 何それ!」
型番はRK5208。イマムラ電機が昨年九月に世に放った、最新型の耕作機である。
「……」
表現しがたい沈黙が三人の間をたゆたう。
「あんた、生まれはどこ?」
捺夏は無邪気に訊ねる。
「彩泰〈さいたい〉」
希莉江は迷わずこの国の名を挙げた。
「この国には、降魔学(こうまがく)と医学だけしかないとでも思ってたの?」
「何が云いたいの?」
「よく見てみなよ。あんたの後ろを」
混乱する希莉江が振り返る。今さらながらに背後の景色を見渡した。
「あっ」
……畑だ。青々とした田畑が所々に隙間を空けて無限に続いている。正面に見えていた家並みの少なさに比べて、緑の地の何と広大なことか――。
「彩泰は農業大国でもあるんだ。そんでもって、この村には田んぼと畑しかないんだよ。あれが来たから、みんなで大喜びしてる。今さら、『やっぱり返品します』なんて云えない空気だよ」
「あぁ、もう!」
希莉江はその場で地団駄を踏んだ。
「分かったわよ! あんたたちが、あたしに意地悪してた訳じゃないってことはねッ! あたしのお金で、稲でも何でも刈ればいいじゃないッ!」
「……ごめんね」
捺夏が笑う。邪気のない微笑みだった。
「もう、いいわよ」
「じゃあ、おれ行くよ。行き先が決まったら教えてね。だけどおれは、叉雷が行くのも、あんたが行くのも反対だからね」
片手をスタンバイさせながら云う。
「分かった、分かった」
叉雷が捺夏を追いやるような仕草をした。
「じゃあね。――絽々っ」
ヒューイッと指笛を鳴らす。
「帰るよー!」
絽々が捺夏の頭の高さまで下降してくる。
「おぉ、よしよし」
擦り寄せられる白い鼻面を捺夏の手が愛しげに撫でた。
「えいっ」
助走も無しにひらりと飛び乗る。痩身が背に落ちつく間もなく、主を乗せた飛竜は上空を指して舞い上がった。そのまま飛び去ってゆく。
「……」
飛竜の早さに驚いたのか、希莉江は呆気にとられた様子で捺夏たちを見送っていた。
「かわいいなあ」
感心しきった声音で叉雷が云う。
「あれがぁ?」
「君の目は曇ってるな」
柔らかな風が二人の髪を揺らしている。
「あたしダメ。ああいう、つぶらな目の生きものって」
希莉江は顔をしかめている。
「……珍しい子だね」
叉雷は苦笑した。
「そうかな?」
「おれはね、絽々を見る度に大福餅のことを考えるんだ」
「えぇ?」
「好物なんだ。どっちもね」
「ふーん……」
刺々しい空気は既にない。叉雷と希莉江は年の離れた兄妹のようにも見えた。
「今夜の宿は? もう決めたの?」
問いかける叉雷は、数分前とは別人のように優しげな顔をしている。
「決めてない」
希莉江は首をふるふると横に振った。
「それなら、おれの所においで。下宿させてもらってる家が宿屋をやってるんだ」
「……いいわ。これのことでしょ?」
目の前に建つ家を指で示しながら問う。
「そうさ」
「高いの?」
「安いよ。良心的な宿さ」
「じゃあ、ここにするわ」
希莉江はここで初めて笑顔を見せた。
「よし。行こうか」
叉雷が希莉江を促し、先に立って歩き出す。希莉江は小走りに叉雷の後を追った。
「ここじゃないの?」
「こっちは避難用の裏口だよ。ちゃんとした玄関は別にある」
家を回り込むように木の壁に沿って歩く。
左へ曲がると、宿屋の入り口が目に入った。
「忠屋の宿」と書かれた木の看板が庇から吊されている。
叉雷の手が両開きの扉を開いた。
一階にある客用の玄関は落ちついた佇まいで二人を迎えた。幅広の廊下が奥まで続いている。
扇状に並べられた赤いスリッパ群の一足を叉雷が拾い上げ、そのまま希莉江に手渡す。
「どうぞ」
「……ありがと」
叉雷は靴を脱いで裸足となり、慣れた足取りで廊下の右側についた扉へと向かった。
ととととん。軽いノックをして、返事を待たずに扉を開いてしまう。
「紗菜〔しゃな〕さん。ただいま」
そこは小さな部屋だった。広さは六畳ほどであろうか? 右隅には年季の入った本棚があり、棚の一つに大小の招き猫が並んでいる。
叉雷の視線の先には若い女性がいた。まだ三十には届いていないだろうが、叉雷よりは年上のようである。椅子に座り、何か仕事をしていたような様子だ。机上には帳簿らしきものがいくつか広げられている。
「お帰りなさい。何か?」
応える声には西の訛りがある。
黒い髪は長く、頭の後ろで馬の尾のように結ばれている。草色の着物をゆったりと身に纏っていた。薄化粧だが、奧二重の瞳からは女性らしい色気が感じられる。
「お客さん」
叉雷の言葉から少し遅れて、叉雷の脇から希莉江がひょっこりと顔を出した。
「あら。いらっしゃいませ」
紗菜はにこやかに笑う。立ち上がり、壁際の椅子を希莉江の前へと置いた。
「婆様は?」
叉雷が問う。
「お婆さま、まだ寝てはるの」
紗菜が応える。サトは、この宿の従業員である紗菜にとっては雇い主にあたる。
元の場所へと戻った紗菜が本棚に手を伸ばす。革表紙の宿帳を手に取り、それを開いた。
「お客様、こちらにお名前を」
希莉江が椅子に座る。毛筆ペンを手にして「慈恵希莉江」と記した。叉雷は、希莉江の肩越しにその文字を見つめている。
「書いたわ」
宿帳の向きを逆さにして紗菜へ返す。
「お泊まりは何泊のご予定でしょうか?」
希莉江がちらっと叉雷を見上げる。叉雷は「うん?」とだけ応えた。
「とりあえず今夜。明日以降は分からない」
「かしこまりました。お夕飯は六時になっております。では、お部屋にご案内しましょう」
宿帳をぱたりと閉じてから紗菜が云った。
* * *
紗菜が希莉江に宛った部屋は、希莉江自身の予想よりもずっと広かった。
木の床と白い壁が真新しい。設えられた家具類は使い古しのようだが、手入れは丁寧なようだ。何より、全体に清潔感がある。
叉雷と別れてから数時間が経つ。この間に希莉江は夕食を摂った。その時には、希莉江以外の客はいなかった。さらに、一階の奧にある浴室を使って旅の疲れを癒した。
服は花柄の寝間着に替わり、解いた髪が肩や背中へ流れ落ちている。
「……」
希莉江はぼんやりとした顔で考えている。
明日はどうしようか。どこへ行こうか?
窓枠に手をかけて窓の向こうを見る。
白い峰が遠くに見えた。山裾にあるこの村からはそう離れていない筈だが、あまりにも山が高いためにそう感じるのだろう。
「あたしは自由だ」
呪文のように呟く希莉江は、白い上掛けのかかった寝台の上で両足を投げ出している。叫び過ぎたせいか、希莉江の声は嗄れていた。
希莉江は、ある日突然住んでいた家を出た。
理由はあった。人知れず冷たくなって横たわる死体のような、無惨な理由が――。
この国の都の南側で、裕福な呉服商に仕える女がいた。それが希莉江の母である。母の名は冬花といった。
希莉江は使用人の娘として十四年前に生まれた。父親は異国からの流れ者だったとしか知らない。
幼い頃の暮らしぶりは悪くなかった。希莉江の母親は飴細工のように優しかった。彼女の期待に応えるためならば、苦手な勉強すら厭わなかったほどである。ただ、希莉江の父親が異国で名を馳せた拳闘士であったとか、喧嘩っ早く、気性は荒く、まるで野生の狼のようであったなどと母親から聞かされる度に、希莉江は母親と自身の違いに気づかざるを得なかった。年を追うごとに病弱になってゆく母親に代わり、希莉江が侍女として働き始めたのは七才の秋のことである。
母親の身分が実質的な奴隷であり、主人である呉服商が望めば体を許さなければならないと知ってから、希莉江は熱砂の上を彷徨う旅人のように自由を渇望した。
あたしは嵐でありたい。希莉江は、雷鳴の轟く日に、着の身着のままで外へと――殆ど衝動的に――飛び出していったりするような子供だった。
並外れた、とまでは行かないが、希莉江の器量は人並み以上のものであった。まだ年若い呉服商の若旦那は、希莉江が十才になる前から彼女を傍らに置いて離さなかった。幸い何かを奪われた訳ではないが、明らかにそれと分かる視線を浴び続けることは、希莉江にとって決して愉快なものではなかった。
呉服商には娘が二人いた。年は、それぞれ十一才と九才である。彼女たちが希莉江よりも平凡な容姿を持って生まれたことで、希莉江の立場はより厳しいものとなった。「奥方様」だけではなく、娘たち自身も希莉江を疎んじているのを肌で感じつつ、希莉江は悪意の中に全身を浸しながら生きてきた。
外出するのにも呉服商の許可が要った。何をするにも、主の機嫌を伺わなければ実現しない。九才で初等学校を出た後の希莉江は、中等学校にはやらされず、だだっぴろい屋敷の中に完全に囚われることとなった。
いつからか――と訊かれれば、生まれた時からとしか応えられない。希莉江の心は自由を求めていた。いつか、あたしはここを出て自由になる……。
希莉江の母親が病に倒れたのは数年前のことだ。看病も虚しく天に召された母親を発見したのは、ほかならぬ希莉江であった。
人知れず冷たくなって横たわる死体。それが希莉江に与えた衝撃は云うまでもない。
その日の夜に家を出た。希莉江は風になり、未だ全容を知らぬままの都から流れた。母親が残した金と、主から気まぐれに贈られた貴金属の全てを手にして。
……あたしはもう、誰にも縛られたくない。
これまで保身のために抑えてきた希莉江の本来の気性が開放され、彼女は文字通り嵐となって行き先のない旅を始めた。
しかし、あれほど望んだ自由の身になってから、初めて彼女は気がついたのである。
希莉江には、帰る場所などどこにもないのである。希莉江が愛する者もいなければ、愛してくれる者も既に亡い。
こうして少女は、自由とともに虚無を得た。
希莉江は、自分が考え得るありとあらゆる思いつきを実行することで、何とかこれまでの日々を乗りきってきた。
有名な理容室に行き、切ることを禁じられて腰の下まで伸びていた髪を切った。都風の服を買い込んで、若者たちの盛り場で注目を浴びたこともある。甘い菓子。色とりどりの氷菓を盛り合わせたデザート。流行の玩具や文具。目につく物は全て手に入れた。
だが、何をしても、何を買っても、希莉江の心が満たされることはなかった。
戦場に行きたいと思ったのは、死に場所を求めてのことかも知れない。だが、自ら死を選ぶことは怖ろしくてできなかった。貧民窟の住人ですら自殺するだけの覚悟があるのに、それが出来ない自身を希莉江は臆病だと感じていた。……実際には、希莉江が健やかな心を保っていられたというだけのことなのだが。
希莉江は今、アンバランスの極致にある。生と死の境が曖昧で、どちらにでもすぐに転がり落ちてしまえるのだろう。
こつ、こつ。乾いた音が希莉江を現実へと舞い戻らせた。
「……誰?」
億劫そうに応えながら体を起こす。
「おれ」
短い応えが帰ってくる。希莉江は丸い取っ手のついた扉の前まで歩き、内側からそれを開いた。
「サライ」
なぜか爽やかな石鹸の匂いがする。希莉江は驚いたように叉雷を見上げた。
「やあ」
叉雷はベージュの部屋着に着替えている。薄茶の髪の色が水に濡れて濃くなっていた。
「ちょっと出ようか」
「出るって、どこへ行くの?」
「散歩さ。村を案内するよ」
叉雷の声は人を安心させ、同時に浮き立たせるような不思議な響きをしている。
「行く?」
「うん。着替えるから、下で待ってて」
希莉江は迷わず肯いていた。
「じゃあね」
叉雷は外から扉を閉め、使い慣れた階段とは別の螺旋階段を下っていった。
「紗菜さん。ちょっと出てきます」
事務室に顔を出すと、紗菜はくつろいだ姿で本を読んでいた。
「あら。遅うなる?」
分厚い本に栞を挟んでから顔を上げる。
「いえ。一時間くらいかな?」
「そしたら、閉めておきますから。鍵は?」
「大丈夫です」
手に持つ鍵の束を示す。丸い銀の輪につけられた二つの鍵は、実家と宿のものだろうか。
「あっ。そうだ」
「何か?」
「紗菜さん。あの子の宿代、おれが半分持ちますから」
「あらっ」
紗菜は驚いたように目を丸くする。
「どうも、捺夏が迷惑かけちゃったみたいなんで。あの子には云わなくていいですから」
「うちはええですけど。はぁ、驚いてもうた」
「どうして?」
怪訝そうに叉雷が訊ねる。
「叉雷さんの恋人かしら、と」
「まさか。もしそうなら全額払いますよ」
叉雷は力無く笑う。寄りついてくる娘には不自由しない叉雷だが、実は、決まった相手と長続きした試しが無い。
「充分もててはるのに。ねぇ?」
「ははは」
叉雷の唇から虚ろな笑いが洩れた。
「おれは待ってるんですけど。なかなか」
包帯の巻かれた腕を上げ、頭を掻いている。
叉雷の背後で扉が開いた。
「サライ」
髪を後ろで一つにまとめた希莉江がそこに立っていた。荷物は無く、薄い黄緑色のワンピースだけを着ている。
「行こうか」
「行ってらっしゃい」
紗菜は胸の前で手を振って叉雷たちを送り出した。
スリッパを履いた希莉江と、裸足の叉雷は木の廊下をぺたぺたと歩いてゆく。
「あそこに何か置いてあるけど?」
希莉江は玄関の手前で何かを見つけたようである。
「パンフレットだね」
叉雷が応える。
「去年作ったんだ。中に村の地図が載ってるよ」
「一部もらうわ」
希莉江は手を伸ばして縱置きのラックから薄い冊子を抜き出した。
昼間通った玄関から外へと出る。空は既に暗くなっていた。
街道へと続く通りに並ぶ家々に灯りが点っているのが見えた。
希莉江は宿の前から見える風景をきょろきょろと見回している。
「どうしたの?」
叉雷はてれんとした部屋着の下のポケットに両手を突っ込んでいる。
「こっちの方が家が多いわ。灯りも多いし。裏口の方は畑ばっかりだったのに?」
「一応こっちが都側だからね。山に近づくと、どんどん建物が減るよ。君は、都から街道を通ってきたの?」
「そうよ。馬車を借りたわ」
「……贅沢な旅だなあ」
叉雷は嘆息している。
「じゃあ行こう。畑を見てもしょうがないから、こっち側を歩くよ」
叉雷が云う。希莉江は無言で肯き返した。
「虫が鳴くのを聞かせられなくて残念だよ」
希莉江の速度に合わせて歩き始める。
「虫? 何で?」
「梅雨を越えると凄いよ。大合唱。もう寝てられないくらい鳴くね」
希莉江は相槌の代わりに叉雷を見上げた。
「都はここから真南にあるんでしょ? 山は北の方角にあって、山の手前に大河があるわ」
「よく知ってるね」
「当たり前でしょ。あたしは、あの山を越えて宗香に行くつもりだったんだから」
この村から都までの道程は、馬の足で二日。人の足では五日ほどかかる。
「南側の畑や田んぼは、どこまで続いてるの?」
「河の手前まで。いや、待てよ。最近始めた茶畑は山の斜面を利用してるか」
「あんなにだだっ広い土地を誰が耕すの? 人はそれほど多くないように見えたけど。それとも、他の村から人を雇ってるとか?」
「ああ。出稼ぎに来てくれる人は多いよ」
「それにさっきから、全然人に会わないわ。夜には出歩かないの?」
「暗いからね。野良仕事でくたびれてるし」
「サライも?」
「おれは畑は耕さない」
「じゃあ、どうやってお金を稼ぐの?」
「蛇の道は蛇ってことさ。村の雑用係を請け負う代わりに、毎月給料がもらえる」
「いい身分じゃない」
「まあね。これでも苦労してるんだけど」
「分かるわ。なんか疲れてる感じがするもの」
「……」
叉雷はばつが悪そうな顔をする。
「おれ今日はちょっと調子が悪くて、当たりがきつかったかも知れないな。ごめんね」
「病気なの?」
「違うよ。二日酔い」
「酔っぱらってたの?」
問い返す希莉江は呆れ顔である。
「うぅ。恥ずかしい」
叉雷は両手を目元に置いて呻いた。
「どうしたの?」
そのままの格好で急に足を止めた叉雷を、希莉江が不審そうに見つめている。
「いや。何でもないよ」
はっとしたように手を下ろす。叉雷は目にゴミでも入ったかのように瞬きをしている。
「ねぇ。なんでそんなに飲んだのか訊いてもいい?」
「いいよ。――手紙が来て」
「手紙?」
「嬉しい知らせだったんだ。だから、ちょっと調子に乗って呑みすぎた。それだけさ」
「……へぇ」
「地図を見てごらん」
「見てるわ」
歩きながら、ぱらぱらと流し読みしていたパンフレットの三頁目を開いて示す。
「この地図には村の名所も描いてある。ここにある寄り合い所っていうのが、あれ」
道の先にある、掘っ立て小屋に近い平屋を指差す。立て看板には「わが村のよりあい処」と赤らしきペンキで大きく書いてある。
窓の向こうは明るい。賑やかな音楽と歌声らしきものが洩れ聞こえてくる。どうやら、祭り囃子の音のようだ。
「あれは何をしてるの?」
「毎年夏に祭をやるんだ。その準備だよ」
「ふうん」
「ささやかな祭だけどね。おれが小さい頃は七年ごとに大きな祭があったんだけど。今はそれも無くなった」
「聞いたことある。祭の最後に、山頂で花火を打ち上げるんでしょ」
「見たことあるの?」
「無いわ。知り合いの人に聞いたの」
「そうか。花火は今でも上げてるよ」
「お祭には誰でも参加できるの?」
「十年くらい前までは村の人間しか参加できなかったね。今は誰でも参加できるよ」
「観光客も見にくるの?」
「うん。都からは大勢来るよ。登山と併せて宣伝してるせいかな」
「あたし、昨日は村の入り口の目の前にあるホテルに泊まったの」
「うん?」
「白蓮山に登るっていう人をいっぱい見たわ。団体でホテルに泊まってた」
「やっぱりツアー客が多いよ。彩流河を越えなきゃならないからね。たとえ橋を渡り切れても、あれだけ険しい山をガイド無しで登るのは危険だし」
毎年幾人かが山中で命を落とす。叉雷は、哀れな登山家の死体を山男から引き取った経験がある。覆いをかけられ、橇に横たえられた人の体はずっしりと重く、非常に気が滅入る仕事であった。……隣に捺夏がいなければ、無事に村まで運び終えられたかどうか。微妙な所である。
「でもサライは登ったことがあるんでしょ」
「そりゃあね。祭の最後の夜には、必ず村人全員が山に登るし」
「全員参加なの? それって」
「強制だね。行かないと後で怒られる」
「……あたしには無理だと思う?」
あの峰を越えて、宗香へ行けるだろうかと言外に問うている。
「まあ、やってやれないこともないだろうけど。おれならトンネルを抜けるだろうな」
「トンネル? 向こう側まで穴が空いてるの?」
「ああ。だけど、誰でも通れるような道じゃないよ」
「サライなら通れるの? 何で?」
「……。一緒に通れば分かるよ」
叉雷は曖昧な応えを返してくる。
「そう。じゃあ、楽しみにしておくわ」
「おれはこの村が好きだよ」
叉雷が呟く。その顔はなぜか無表情である。意に添わぬ言葉を、無理矢理己に云い聞かせているようにも見えた。
「都の人から見ればみすぼらしいかも知れないけどね。これでも充分豊かな村だと思うよ」
「あたしには、そこら辺のことは分からないけど。少なくとも景色は綺麗だわ。とても」
「明日君は、自分の行く道を決める訳だ」
「……」
「おれに出来るだけのことはするよ。それが、どんな選択であろうともね」
叉雷は量りがたい眼差しで夜空を見上げている。希莉江はつられたように顔を上げて、思わず息を止めた。
毒々しい広告灯の無い地上から見る暗闇。
――無数の光。青白い炎の群は煌々と瞬く。
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綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
書籍化確定です。詳細はしばらくお待ちください(o´-ω-)o)ペコッ
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2024/12/26……書籍化確定、公表
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
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