上 下
202 / 206
18.アズ・ポーン5

1-3

しおりを挟む
「ねえ。ちゃんと食べてる?」
「……うん」
「やせたよね」
「そうでも……」
「ごはん、食べに行く?」
「いいです。はやく、歌穂に、電話してあげてください」
「うーん……。祐奈ちゃんのことも、心配だよ。
 今日は、歌穂ちゃんのところに泊まる?」
「ううん。沢野さんと歌穂が、仲なおりしてくれれば、わたしはいいです。
 礼慈さんのところに帰ります。
 ちゃんと……話を、しないと」
「わかった。こうしよう。
 僕は今から、歌穂ちゃんと電話をする。その後で、祐奈ちゃんを礼慈の部屋まで送って、それから歌穂ちゃんの部屋に行く。それでいい?」
「は、はい」
「そんな顔で、電車に乗せられないよ……。悪い人に、つれて行かれそうで」
「そんなことには、ならないです……」
「だといいけど。
 ちょっと、ここで待っててね。電話してくる」

 寝室に入った。
 歌穂ちゃんに電話をかけた。
 後悔していた。
 もっと早くに、僕から、こうするべきだったんだ。
 会いに行ってもよかった。
 歌穂ちゃんに拒まれるのが恐くて、相互理解するための努力を放棄した。
 勝手に。一方的に。

 呼びだし音がとぎれて、通話になった。
「僕だよ」
「……沢野さん」
「ごめん。不安にさせちゃったね。
 ちゃんと、本当のことを話すから。これから、そっちに行ってもいい?」
「……はい」
「好きだよ」
「ばかっ」
「ごめんね。傷つけちゃったね。仲なおりしよう」
「ばかって、言って、ごめんなさい」
 涙声だった。切なくなった。
「いいよ。僕は、ばかだった」
 認めてしまえば、もう、なにも恐くなくなった。
 こんなに、ばかになるくらいに、君のことを愛している。
 ずっと前から。
 君が、ナイトの駒を握りしめながら、僕のために泣いてくれた時から。
「一時間くらいで、つくはずだから。待ってて」
「はい」
 歌穂ちゃんの声は、多少とがっていた。

「どうでした?」
「『ばか』って、言われたよ」
「そうですか……」
 祐奈ちゃんが笑った。かわいい笑顔だった。
「ねえ。礼慈は、いるの? あの部屋に」
「今日は、いません。会社の……大事な集まりがあって、行かないといけないって」
「なるほどね。だから、今日だったんだ」
「そうですね……。平日だと、遅い時間になっちゃうし。
 歌穂と会っていないんだったら、土日か祝日でいいかなって、思って」
「『いいかな』って、思ったんだ」
「……うん」
「ありがとう。祐奈ちゃん……」
 うっかりすると、泣きそうな感じだった。
 僕と歌穂ちゃんのことよりも、祐奈ちゃん自身のことで、憔悴しきってるはずだった。
「ごめんね。僕が悪かったよ」
「それは、歌穂に言ってください。わたしは、関係ないですから」
 ぶっきらぼうな言い方だった。まるで、歌穂ちゃんが、祐奈ちゃんに乗りうつったみたいだった。
「トイレとか、大丈夫?
 今から、車に乗るけど」
「……借りたいです」
「いいよ。どうぞ」

 祐奈ちゃんを、礼慈のマンションの前で下ろした。
 お礼を言われた。泣きはらした顔が、それでも、気高くて、きれいで、どきっとした。
 祐奈ちゃんには、他にもまだ、僕の知らない顔がありそうだった。
 僕は、礼慈の恋人としての祐奈ちゃんしか知らない。もし、どこかで、礼慈よりも先に祐奈ちゃんと出会っていたら、祐奈ちゃんのことを好きになったかもしれない。
 祐奈ちゃんと歌穂ちゃんは、どこか似ているから。
「今日は、ごめんなさい。また……」
「うん。次は、もっと、楽しいことで会おうね。みんなで遊ぼうよ」
「はい……」

* * *

 マンションの部屋の外に、歌穂ちゃんがいた。
 ドアの前に立って、僕を待ってる。
 駆けだしていった。

「歌穂ちゃん!」

 足より先に、手が伸びていた。
 僕の胸に、体ごと飛びこんできた。弾丸みたいだった。
 撃ち抜かれた。
 泣いていた。泣きじゃくっていた。
「ごめんね! ごめんなさい」
「……なんで、だめになったの?」
「だめになんて、なってないよ。嫉妬してただけ」
「えっ?」
「祐奈ちゃんに」
「……はあ?」
「とにかく、中に入れて」

 部屋に入ってから、あの日に僕が感じた気持ちについて、説明した。
 歌穂ちゃんは、しぶい顔をしていた。
 十回くらい、「ばか」と言われた。べつに、腹は立たなかった。
 ただただ、かわいいだけだった。
 抱きしめて、キスをして、謝り続けた。
 許してもらえた。うれしかった。


 今は、リビングの椅子に座っている。
 コーラを飲んで、ポテトチップスをつまみながら、二人で話をしていた。
 離れていた期間がそこそこあったこともあって、いくら話しても、お互いに、話がつきることはなかった。
 僕を見る歌穂ちゃんは、にこにこしている。かわいかった。
「歌穂ちゃん?」
「ううん。なんだか、うれしくって。
 あなたとこんなふうに過ごすことは、もう、ないかもしれないって、思ってたから」
「……ごめんね。ほんとに」
「ビール、飲む? あたしには、飲めないから。
 あなたが飲んでくれないと、困るの」
「そうだね。いただきます。もっと、後で」
「泊まってくれるの?」
「うん」
「あなたの服とか、捨ててやろうかと思ったこともあったけど。
 思いとどまって、よかった」
「……そうだね」
「また買い直すなんて、無駄だから。いやなの」
 僕以外の男が着れば、無駄にはならないけど。心の中で思ったことは、口には出さなかった。他の男が出入りするのは、いやだなと思ったから。そうしてもいいんだなんて、歌穂ちゃんに思わせてしまうのもいやだった。
しおりを挟む

処理中です...