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16.アズ・ポーン4

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「あなたー」
「なにー?」
 襖ごしに、海田先生と、たぶん奥さんが声をかけ合った。
「入っていい?」
「いいよ」
 襖が開いた。そこから、ひょこっと顔を出した人がいた。
 理紗さんだった。
「あらあー。紘一くん! そうよね?」
「はい」
 客間に入ってきた。僕の横まで歩いてきて、腰を下ろした。
 まじまじと顔を見てくる。はずかしくなった。
「大きくなって! 大きくなってはいない?」
「身長は、十八の頃と変わりません」
「でも、大人びたわねえ。……あれっ?
 あなた、いくつ?」
「三十です」
「若く見えるわねえ……。すごく」
「そうですか。理紗さんも、お若く見えます」
「あらあ、そんなことも言えるようになったのー。
 時の流れを感じるわあ」
 にこにこしていた。
「お昼、食べていかない?
 ちょうど、用意ができたところなの」
「あ、じゃあ。はい」
「なつかしいわねえ。
 この人、紘一くんが最初で最後の弟子なの」
「……そうなんですか?」
「そうだよ」
 知らなかった。
 僕が最初の弟子だということは、聞いていた。だから、兄弟子がいないということも。
「そうでしたか」
 最後だったんだ……。
 海田先生は、人気のある棋士だ。今は無冠だけど、三冠を保持していたこともある。入門したい人は、いくらでもいただろう。
 断っていたのかもしれない。もしそうだとしたら、それはおそらく、僕が将棋から逃げたせいだろう。
 僕がプロになれずに挫折したことは、先生にとって、大きな痛手だったのかもしれない。
 弟子を育てる自信をなくしてしまったのかもしれない。
 多くの、才能ある人たちが棋士になる可能性を、僕が奪ってしまったのかもしれない。
 ぜんぶ、僕の想像でしかない。だけど、もしも事実だったとしたら?
 僕は、なんとしても棋士になるべきだったな……。
 でも、なれなかった。
 犠牲にしてしまいそうなものが大きすぎたし、多すぎた。それに、重すぎた。
 僕の夢は、僕が握りつぶした。それが正しいことだと、信じていた。
 じわりとにじんできた。
 熱いものが、頬を流れていった。
「泣かないで。理紗も、そういうことを言わない。
 こういうものは、縁だからね。たまたま、そういう巡り合わせだったんだよ」
「ごめんなさい」
「謝るようなことじゃないだろ。
 僕から言えるのはね、紘一くん。
 君が生きていて、ここにいるだけで、僕は幸せだってことなんだ。
 よく、ここまで辿りついたね」
 あの頃と同じ笑顔だった。
 僕が守りたかったもののうちの、ひとつが、目の前にあった。
 よかった。
 東郷は、この人には、傷ひとつつけられなかった。
 この人と、僕のスキャンダラスな経験を結びつけたりはできなかった。
 僕が守ったんだ。そう思ってても、いいんだろうか?

「泣かないでよ」
「う、ぅー……」
「紘一くん?」
 理紗さんの手が、僕の背中にふれてくる。
 やさしく撫でてくれた。
「あなた。なにか、あったんですか」
「いろいろね。彼のせいじゃない。
 通り魔から狙われて、ひどい目にあっただけだ。
 君は何も悪くない。いいね?」
 言葉にならなかった。
 ひどい醜態だ。みっともない……。
「いい大人になったね。
 ここまでの道のりを、僕が見られなかったのは、残念だけど……。
 これからも、師匠と弟子だから。仲よくしてください」
「はい……」


 お昼をごちそうになってから、海田先生の家を出た。
 しばらく、車の中で、ぼうっとしていた。
 夢みたいだった。現実感がない。

「行かなくちゃ……」
 ハンカチで顔を拭いた。
 たぶん、ぐちゃぐちゃになってる。こんな状態で、運転しないといけないのか。
 それでも、キャンセルする気にはならなかった。
 歌穂ちゃんが待ってる。早く会いたかった。

* * *

「……えぇー?」
 呼び鈴を押しても、応答がない。ドアも開かない。
 どうしちゃったんだろう。
 いないとは思わなかった。歌穂ちゃんは、連絡なしに約束をキャンセルしたことなんて、一度もない。
 合い鍵を使って、中に入った。

 リビングにはいなかった。静かだった。
 寝室にいた。
 ベッドの上で、寝ころんでいた。猫みたいに。
「ごめんね。勝手に入っちゃった」
「さわのさん」
 声がおかしい。顔色も悪い。
 ぼろぼろになっていた。
 昨日の歌穂ちゃんとは、まるで違っていた。
「どっ、どうしたの……」
「かぜです」
「わかるけど。ひどい」
「あたしも、やばいと、おもう。
 あたま、いたい」
「あー。かわいそうに……。
 いつから、こんな感じだったの?」
「よる。きのうの」
「そうだったんだ。
 どうして、僕を呼んでくれなかったの? 夜でも、来たよ」
「きのうも、あってるし……。じゃましたく、なくて」
「邪魔?」
「じゆうなじかんが、ひつよう」
「それって、僕のこと?」
「そう」
 泣きそうになった。僕のことなんか、ほんの一部しか知らないはずなのに。
 僕の本質に関わるようなことを、ちゃんとわかってくれていた。
「歌穂ちゃん……」
「めが、あかい。ないたの?」
「ううん」
「ふうん……」
 薄目で、僕を見た。見すかしてるような目つきだった。
 色っぽい。そう思った自分に引いた。
 だめだ。しっかりしないと……。
 そういう目で歌穂ちゃんを見てることを、歌穂ちゃんには知られたくなかった。
 まだ二十一才の女の子だ。妹たちよりも、二つも年下だ。
 年齢のことを考えたら、少し冷静になれた。
「泣いたよ。ちょっと、なつかしい人たちに会えて。それで」
「そうなの」
「うん」
 歌穂ちゃんには、かなわないなと思った。
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