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16.アズ・ポーン4

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「プロになりたい?」
「わからないです。人前に出るのは、苦手です」
「そうなんだよね」
「アマチュアの大会に出られるほどには、ふっきれてません」
「そうか……」
「山賀は、待ってくれてるらしいですけど」
「ああ。いい友達だね」
「今月の十日に、僕の部屋で指しました」
「どうだった?」
「僕が勝ちました」
「すごいね。おめでとう」
「どうかな。油断してたんだと思います」
「その言い方は、山賀くんに対して失礼じゃないかな。彼も、もう七段だろう」
「七段なんだ」
「知らなかったの?」
「六段だと思ってました」
「今年上がったんだよ」
「聞いてないです。そうだったんだ……」
 会った時に、言ってくれればよかったのに。お祝いの言葉もかけていない。
 将棋に関するニュースは、自分から見たり読んだりしないようにしていた。だから、わからなかった。
「……あ」
「なに? どうしたの」
「さっきの話ですけど。脅されてたことは、二人にだけ話しました」
「誰と誰?」
「山賀と、大学時代の友人です。
 脅されるようになった原因については、話してません」
「ふーん。山賀くんには、いつ話したの?」
「今月です。山賀と指した後に」
「つい最近じゃないか」
 海田先生は、鼻で笑った。
「友人には、大学一年の時に話しました。
 名字が近いので、寮の部屋が隣でした。僕が奨励会に入った時の映像を、テレビで見ていたらしくて。ごまかせなかった。
 中学生の時に見たものを、よく覚えてるなーと思いました。鋭いところがあるやつで、人の本質がわかるみたいで……。
 僕が苦しんでることを、なにも言わなくても、わかってるような感じでした」
「いい友達だね。今も、親しくしてるの?」
「はい。大事にしたいと思ってます」
「そうだね。大事にした方がいいよ」
 うなずいた。
 礼慈と出会ったことで、僕の人生は大きく変わった。
 本人には、あまり言いたくないことだけど。事実だった。
 明るくて、さわやかで、堂々としていた。
 ものすごく整った顔だちをしているので、初めて見た時には、僕が知らない芸能人かなと思った。背が高くて、スタイルもいい。
 しかも、誰に対してもやさしかった。
 礼慈のまわりには、いつも人だかりができていた。
 みんな、礼慈に夢中だった。
 僕のことを知っていた礼慈は、なにかと僕を気にかけてくれた。閉じかけていた僕の心は、礼慈の言動にふれる度に、大きく開いていった。
 チェスをするようになったのも、礼慈が原因だ。
 大学にあったチェスサークルに、いきなり僕をつれていった。駒の動かし方もわからない僕に、先輩たちがていねいに教えてくれた。
 誰も、僕のことを特別扱いしなかった。親切では、あったけれど。
 僕が強くなっていくことを、先輩たちは喜んでくれた。チェスに、命を賭けてるような人たちじゃなかったから。
 楽しかった。将棋のことを、忘れそうになるくらいに。
 僕は、死にかけていたところを礼慈に救われた。
 ようするに、そういうことだ。

「一局、指そうか」
「いいんですか」
「いいよ。今の棋力が見たい」

 対局時計は使わないらしい。時間制限は、ないってことか……。
 海田先生と二人で、盤上に駒を並べた。
「飛車角、落とさないんですか」
「落とす理由がないよ。
 言っておくけど。棋士だと思って、指すからね。
 お願いします」
「お願いします」
 先手は、僕がもらった。


 負けた。終盤で、もつれた。
 くやしかった。あと少しで、届きそうだったのに。
「あぶなかったー」
 海田先生が、ふーっと長い息を吐いた。
「師匠としての面目は、保てたかな。どう?」
「先生は強いですよ。あの頃から」
「勝てると思った?」
「中盤までは。このへんがごちゃごちゃっとしたところで、見失いました。
 勝てたかもしれないと思うと、くやしいです」

 海田先生が、初手から並べながら、感想を聞かせてくれた。
「流れが変わったのは、ここだね」
「はい」
「ここで、桂馬を使えばよかったのに。
 桂馬といえば紘一くんだって、当時は言われてたね」
 並べ直してくれた局面で、僕が選ばなかった動きを示された。
「あるだろ。ここ」
「はい」
「わかってたの? こっちを捨てた理由は?」
「なるべく、当時の戦法は避けるようにしていて。
 使ってしまうと、あの頃から、進歩がないような気がして……」
「どうして? どんどん使えばいい。
 文句なく、強かったんだから」
「はあ……」
「ちょっと焦ってたね。そんな感じがした」
「それは、まあ。九段の人と平手で指すなんて、畏れおおくて」
「よく言うよ。僕が負けた時だって、あったからね」
「ありましたかね」
「あったよ。
 そのこともあって、僕は、君のことが忘れられなかった。
 君は、自分のことを過小評価してる。
 その方が、気持ちが楽だったのかもしれないけどね。自分の棋譜、ちゃんと見直したりしてる?」
「してないです」
「そこからだね。わざと負けた時のことは忘れて、壮快に勝てた時の棋譜を並べてみるといいよ」
「わかりました。ありがとうございました」
「また、おいで。次は泊まってもいいよ」
「うーん。はい」
「来たくなさそうだね」
「いえ。そんなことはないです」
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