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16.アズ・ポーン4
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八月の第四週。土曜日。
夕方までは、歌穂ちゃんと一緒にいた。金曜日の夜から、僕の部屋に泊まってくれていたから。
歌穂ちゃんを車で送って、部屋に戻ってきた。
午後五時を少し過ぎていた。
冷蔵庫からビールを出そうとして、やめた。ステンレスのタンブラーに、冷たい緑茶を入れて、持っていくことにした。
ソファーに腰を下ろした。
携帯を手に持ったまま、しばらく、考えこんでいた。
かけてみようか……。
携帯の連絡先の中に、住所と電話番号は入ってる。もちろん、名前も。
僕の携帯の電話番号は、何度か変わった。向こうも、変わってるかもしれない。
それでも、携帯を新しくする度に、連絡先のデータは引き継いできた。
こんな日が来るなんて、思ってなかった。
まだ怒ってると思ってた。僕のことを。
でも、そうじゃなかったのかもしれない。
山賀の言葉を素直に受けとめてもいいなら、今でも、僕のことを気にかけてくれているとしか思えなかった。
思いきって、かけてみた。
呼びだし音が、僕の耳の中で響く。
出るかな。どうだろう。忙しそうな人だから。
「はい」
息が止まりそうになった。
間違いなかった。海田先生の声だった。
「……番号、変えてないんですね」
「誰かな。お名前は?」
「沢野紘一です。ごぶさたしてます」
「紘一くん!」
急に、大声になった。携帯を耳から離した。
「君ねえ、ネットで遊んでるだろう!」
もっと大声になった。絶叫だった。
ひえっと悲鳴がもれた。僕の口から。
「ちょっと! 切らないでよ。話があるんだから」
「怒らないでください」
「怒ってないよ。びっくりはしてるけどね。
『ポーン』だって? いやみったらしい名前だよね。
どうせなら、本名でやればいいのに」
「ごっ、ごめんなさい……」
「まだ弟子のつもりだからね。僕に、一言ないと」
「ごめんなさい」
「泣かないでよ」
「泣いてません」
泣きそうではあった。
海田先生は、僕に大きな影響を与えた人だ。
今の僕の話し方は、海田先生にそっくりだ。電話ごしとはいえ、十二年ぶりに声を聞いて、あらためて実感した。
「アマチュアの大会は? 出てるの?」
「いえ。ネットだけです」
「出なさいよ」
「えぇ……」
「勝てるから。勝っておいで。
何があったの?」
「いろいろ、ありましたよ」
「奨励会の時のことは?」
「それはもう、終わったことだから、いいです」
「よくないよ!」
「いいです。僕は、ただのアマチュア棋士です。ほっといてください」
「だったら、どうして電話してきたの?」
「それは……」
「迷ってるんだね」
「いえ。……ううん」
「一度会おうか。うちに来て」
「えー……」
「お土産はいらないからね」
「はい」
「明日は? 来られそう?」
「……明日?」
「そうだよ」
「お昼すぎまで、だったら……。午後はだめです」
「予定があるの? 何?」
「恋人とデートします」
「それは重要だね。わかった。九時頃においで」
「はあ……。松濤のご自宅ですか?」
「そう。君が知ってる家のままだよ」
「わかりました。お邪魔します」
「車は? 持ってるの?」
「あります」
「だったら、車でおいで。駐車場は、空いてるから。場所わかる?」
「はい」
「じゃあね」
会話してしまった。もっと、ぎこちないやりとりになるかと思っていた。
すらすらと進む言葉のやりとりは、あの頃と、ちっとも変わっていなかった。
* * *
次の日は、六時に起きてしまった。
着がえようとして、服に迷った。
スーツ? 日曜日に?
かといって、あまりくだけた服で行くのも、常識を疑われそうでいやだった。
襟つきの白いシャツに、下は格子柄のスラックスにした。上着は、いらないだろう。いるかな。薄手のジャケットを持っていこうか。
僕の部屋から、車で十五分くらいだった。
こんなに近いのかと思って、びっくりしていた。
車は駐車場に停めさせてもらった。
海田先生の家は、大きい。立派な門がある。
玄関の前まで行って、呼び鈴を押した。
からからと音がして、玄関の引き戸が開いた。土間には、若い女性が立っていた。
お手伝いさんだろうか? 海田先生には、お子さんはいなかったはずだ。
「こんにちは。沢野です」
僕を見て、「どうぞ」と招いてくれた。
「お邪魔します」
客間に通された。広い。畳敷きの和室だった。
襖が閉まっていった。
「紘一くん。よく来たね」
「こんにちは……」
「こんにちは。座って」
「失礼します」
畳に膝をつく。正座をした。
目が合った。そらしたくなったけど、我慢した。
海田先生は、若々しかった。
僕より十五才年上だから、もう四十五になってるはずだけど、そんなふうには見えなかった。
畳にあぐらをかいて座っている。その近くに、将棋盤と駒台と駒が置いてあるのが、目に入ってしまった。
海田先生の後ろにある床の間には、日本画が掛けてあった。
それほど大きくない額の中に、大輪のひまわりが描かれた絵が収まっている。夏の絵だなと思った。
夕方までは、歌穂ちゃんと一緒にいた。金曜日の夜から、僕の部屋に泊まってくれていたから。
歌穂ちゃんを車で送って、部屋に戻ってきた。
午後五時を少し過ぎていた。
冷蔵庫からビールを出そうとして、やめた。ステンレスのタンブラーに、冷たい緑茶を入れて、持っていくことにした。
ソファーに腰を下ろした。
携帯を手に持ったまま、しばらく、考えこんでいた。
かけてみようか……。
携帯の連絡先の中に、住所と電話番号は入ってる。もちろん、名前も。
僕の携帯の電話番号は、何度か変わった。向こうも、変わってるかもしれない。
それでも、携帯を新しくする度に、連絡先のデータは引き継いできた。
こんな日が来るなんて、思ってなかった。
まだ怒ってると思ってた。僕のことを。
でも、そうじゃなかったのかもしれない。
山賀の言葉を素直に受けとめてもいいなら、今でも、僕のことを気にかけてくれているとしか思えなかった。
思いきって、かけてみた。
呼びだし音が、僕の耳の中で響く。
出るかな。どうだろう。忙しそうな人だから。
「はい」
息が止まりそうになった。
間違いなかった。海田先生の声だった。
「……番号、変えてないんですね」
「誰かな。お名前は?」
「沢野紘一です。ごぶさたしてます」
「紘一くん!」
急に、大声になった。携帯を耳から離した。
「君ねえ、ネットで遊んでるだろう!」
もっと大声になった。絶叫だった。
ひえっと悲鳴がもれた。僕の口から。
「ちょっと! 切らないでよ。話があるんだから」
「怒らないでください」
「怒ってないよ。びっくりはしてるけどね。
『ポーン』だって? いやみったらしい名前だよね。
どうせなら、本名でやればいいのに」
「ごっ、ごめんなさい……」
「まだ弟子のつもりだからね。僕に、一言ないと」
「ごめんなさい」
「泣かないでよ」
「泣いてません」
泣きそうではあった。
海田先生は、僕に大きな影響を与えた人だ。
今の僕の話し方は、海田先生にそっくりだ。電話ごしとはいえ、十二年ぶりに声を聞いて、あらためて実感した。
「アマチュアの大会は? 出てるの?」
「いえ。ネットだけです」
「出なさいよ」
「えぇ……」
「勝てるから。勝っておいで。
何があったの?」
「いろいろ、ありましたよ」
「奨励会の時のことは?」
「それはもう、終わったことだから、いいです」
「よくないよ!」
「いいです。僕は、ただのアマチュア棋士です。ほっといてください」
「だったら、どうして電話してきたの?」
「それは……」
「迷ってるんだね」
「いえ。……ううん」
「一度会おうか。うちに来て」
「えー……」
「お土産はいらないからね」
「はい」
「明日は? 来られそう?」
「……明日?」
「そうだよ」
「お昼すぎまで、だったら……。午後はだめです」
「予定があるの? 何?」
「恋人とデートします」
「それは重要だね。わかった。九時頃においで」
「はあ……。松濤のご自宅ですか?」
「そう。君が知ってる家のままだよ」
「わかりました。お邪魔します」
「車は? 持ってるの?」
「あります」
「だったら、車でおいで。駐車場は、空いてるから。場所わかる?」
「はい」
「じゃあね」
会話してしまった。もっと、ぎこちないやりとりになるかと思っていた。
すらすらと進む言葉のやりとりは、あの頃と、ちっとも変わっていなかった。
* * *
次の日は、六時に起きてしまった。
着がえようとして、服に迷った。
スーツ? 日曜日に?
かといって、あまりくだけた服で行くのも、常識を疑われそうでいやだった。
襟つきの白いシャツに、下は格子柄のスラックスにした。上着は、いらないだろう。いるかな。薄手のジャケットを持っていこうか。
僕の部屋から、車で十五分くらいだった。
こんなに近いのかと思って、びっくりしていた。
車は駐車場に停めさせてもらった。
海田先生の家は、大きい。立派な門がある。
玄関の前まで行って、呼び鈴を押した。
からからと音がして、玄関の引き戸が開いた。土間には、若い女性が立っていた。
お手伝いさんだろうか? 海田先生には、お子さんはいなかったはずだ。
「こんにちは。沢野です」
僕を見て、「どうぞ」と招いてくれた。
「お邪魔します」
客間に通された。広い。畳敷きの和室だった。
襖が閉まっていった。
「紘一くん。よく来たね」
「こんにちは……」
「こんにちは。座って」
「失礼します」
畳に膝をつく。正座をした。
目が合った。そらしたくなったけど、我慢した。
海田先生は、若々しかった。
僕より十五才年上だから、もう四十五になってるはずだけど、そんなふうには見えなかった。
畳にあぐらをかいて座っている。その近くに、将棋盤と駒台と駒が置いてあるのが、目に入ってしまった。
海田先生の後ろにある床の間には、日本画が掛けてあった。
それほど大きくない額の中に、大輪のひまわりが描かれた絵が収まっている。夏の絵だなと思った。
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