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14.アズ・ポーン3
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僕が使ったお皿は、自分で洗った。
手を洗ってから、ソファーの近くに戻った。
「終わった?」
「うん」
立ったまま山賀を見下ろしてる僕に向かって、意味ありげな視線を寄こしてきた。不穏な感じだった。
そもそも山賀は、どうして、ここに来たんだろうか。
「なに?」
「一局、指さないか」
「えぇー……」
つまり、鞄の中身は将棋盤と駒だってことだ。不意打ちだった。
これまで、山賀から将棋を指そうと言われたことはなかった。僕が奨励会をやめてからは、一度もなかった。
「いや?」
「ずっと、駒にさわってない。今?」
「今だよ」
まあ、いいかと思った。じたばたしても、しょうがないし。
実家に将棋盤と駒を預けて、僕から遠ざけたつもりでいても、実際には、まったく遠ざかっていなかったことは、僕がいちばんよく知っていた。
「いいよ」
軽くうなずいた山賀が、膝の上に鞄を乗せて、ファスナーを開けた。
僕の予想よりも軽そうな盤だった。二つに折られてる。
駒は、ひとつの箱に入っていた。
「携帯用なんだ」
「ああ。だけど、ちゃんとした木だぞ」
「さすが。プロ棋士だね」
ほめたつもりだったのに、いやそうな顔をされた。心外だ。
「椅子を持ってくる」
書斎から折りたたみの椅子を持ってきて、テーブルの前に置いた。
ソファーに座る山賀の正面に、僕が座る格好になった。
今っぽい……と言ったら、おかしいかもしれないけど。
あの頃の山賀の将棋よりも、新しくなっていた。
AIを棋士が取り入れるようになってから、将棋は、新しい次元に突入したように思う。
AIは、人が読む時の数百倍、数千倍の速さで、その局面から生じる駒の動きを、ほぼ完全に読みきることができる。蓄積された膨大なデータの中から、無数のパターンを検討して、もっとも勝ちにつながる可能性のある一手を導きだしてしまう。
そのためにかかる時間は、一瞬だ。
AIについて調べていて、僕が面白いなと思ったのは、その時には微妙だと思われるような手でも、数手先で勝ち筋につながるような一手を、AIが選ぶことがあるということだった。つまり、人には見えていない道筋が、AIには見えているということだ。
僕たち人間は、つい、その場その場で最善と思われる手を追い求めすぎてしまうのかもしれない。よくないと思う手を、わざと指す将棋指しはいない。だけど、それも、これからは変わっていくんだろう……。
今よりも、もっとすごいスピードで。
「負けました。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
感想戦は、省いた。
山賀の顔を見て、いらないだろうなと思ったから。
「どのへんから、見えてた? 勝ち筋」
「見えてないよ。良さそうなところに、指していっただけ」
「天才か」
「そう言われてた時も、あったけどね。ちがうと思うよ」
「そうかな」
山賀の口もとが歪んでいた。悔しさを隠さないあたりは、あの頃と変わらなかった。
「ごちゃごちゃにならない? チェスと」
「ならない」
「沢野と指したって言ったら、うらやましがられるな」
「ないよ。誰が、うらやましがるの?」
「俺の同期の三浦とか。先輩も」
「僕のことなんて、覚えてないでしょ。誰も」
「それが、そうとも言いきれないんだよな」
「……なんで?」
心当たりは、ないわけじゃなかった。
「最近じゃ、ネット将棋にも強い人たちがいるっていうのは、知ってたけどさ。
『Pawn』は、レベルが違うやばさだった」
山賀が、ネット将棋の話を振ってきた。
「そんな人がいるんだ」
不自然にならないように、とぼけたつもりだった。
「あれ、お前だよな」
「……ちがうよ」
「お前だって」
「証拠がない」
「あるよ。書斎か寝室に、パソコンがあるだろ。見せてくれよ」
「ない! ないから!」
「そう、きーきー言うなよ。
どうして、『ポーン』なんてユーザー名にしたんだ?」
「それは……」
大学生になった歌穂ちゃんが、自分はルークじゃなくてポーンだと言ってきた日に、うっかり始めてしまったせいだろう。
「わかる人には、わかるぞ。狙ってた?」
「ううん」
「四月二十九日に、最初の対局があった。
そこから、ゴールデンウィークが終わるまで、毎日何人もと対局してたよな。
五月六日になったら、ぱたっといなくなった。
ログインする時間帯は、平日は午後七時頃から。土日は時間がばらついてる。
カレンダー通りに働いてるやつだって、ばればれだぞ」
「将棋が好きなサラリーマンは、いくらでもいるよ。OLかもしれない」
「俺の師匠は、あっさり負けたって。おかしな話だよな。
プロ棋士よりも強い素人なんて、いるはずがないのに」
「『ポーン』も、プロかもしれないよ」
「棋力がプロ相当なのは、認めるけど。
プロは、あんなふうに派手に遊ばないよ。沢野。
遊べないと言った方が、正しいかな」
山賀は、盤面を崩さなかった。駒に目をやって、また僕を見た。
こわい顔をしていた。
「奨励会の黒い噂を、今年になってから聞いたんだよ。
長年あそこにいて、なかなか上がれない人たちが、星の回し合いをしてたって。
沢野がやめた年に、三段リーグからプロに上がった人の名前を、久しぶりに聞いたよ。調べてみたら、ろくに勝てずに、廃業したみたいだったけど」
「めったなことは、言わない方がいいよ」
「お前が急ぐようにやめた理由が、俺には、ずっとわからなかった。
十八で見切りをつけるなんて、早すぎると思っていた。
もし、誰にも言えないような何かを抱えていたなら、納得がいく。退会してから、チェスで華々しく活躍しておいて、将棋には見向きもしなかったことにも」
「気まぐれなだけだよ」
*作者からのお知らせ*
※実在の団体、人物とは、一切関わりありません。
手を洗ってから、ソファーの近くに戻った。
「終わった?」
「うん」
立ったまま山賀を見下ろしてる僕に向かって、意味ありげな視線を寄こしてきた。不穏な感じだった。
そもそも山賀は、どうして、ここに来たんだろうか。
「なに?」
「一局、指さないか」
「えぇー……」
つまり、鞄の中身は将棋盤と駒だってことだ。不意打ちだった。
これまで、山賀から将棋を指そうと言われたことはなかった。僕が奨励会をやめてからは、一度もなかった。
「いや?」
「ずっと、駒にさわってない。今?」
「今だよ」
まあ、いいかと思った。じたばたしても、しょうがないし。
実家に将棋盤と駒を預けて、僕から遠ざけたつもりでいても、実際には、まったく遠ざかっていなかったことは、僕がいちばんよく知っていた。
「いいよ」
軽くうなずいた山賀が、膝の上に鞄を乗せて、ファスナーを開けた。
僕の予想よりも軽そうな盤だった。二つに折られてる。
駒は、ひとつの箱に入っていた。
「携帯用なんだ」
「ああ。だけど、ちゃんとした木だぞ」
「さすが。プロ棋士だね」
ほめたつもりだったのに、いやそうな顔をされた。心外だ。
「椅子を持ってくる」
書斎から折りたたみの椅子を持ってきて、テーブルの前に置いた。
ソファーに座る山賀の正面に、僕が座る格好になった。
今っぽい……と言ったら、おかしいかもしれないけど。
あの頃の山賀の将棋よりも、新しくなっていた。
AIを棋士が取り入れるようになってから、将棋は、新しい次元に突入したように思う。
AIは、人が読む時の数百倍、数千倍の速さで、その局面から生じる駒の動きを、ほぼ完全に読みきることができる。蓄積された膨大なデータの中から、無数のパターンを検討して、もっとも勝ちにつながる可能性のある一手を導きだしてしまう。
そのためにかかる時間は、一瞬だ。
AIについて調べていて、僕が面白いなと思ったのは、その時には微妙だと思われるような手でも、数手先で勝ち筋につながるような一手を、AIが選ぶことがあるということだった。つまり、人には見えていない道筋が、AIには見えているということだ。
僕たち人間は、つい、その場その場で最善と思われる手を追い求めすぎてしまうのかもしれない。よくないと思う手を、わざと指す将棋指しはいない。だけど、それも、これからは変わっていくんだろう……。
今よりも、もっとすごいスピードで。
「負けました。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
感想戦は、省いた。
山賀の顔を見て、いらないだろうなと思ったから。
「どのへんから、見えてた? 勝ち筋」
「見えてないよ。良さそうなところに、指していっただけ」
「天才か」
「そう言われてた時も、あったけどね。ちがうと思うよ」
「そうかな」
山賀の口もとが歪んでいた。悔しさを隠さないあたりは、あの頃と変わらなかった。
「ごちゃごちゃにならない? チェスと」
「ならない」
「沢野と指したって言ったら、うらやましがられるな」
「ないよ。誰が、うらやましがるの?」
「俺の同期の三浦とか。先輩も」
「僕のことなんて、覚えてないでしょ。誰も」
「それが、そうとも言いきれないんだよな」
「……なんで?」
心当たりは、ないわけじゃなかった。
「最近じゃ、ネット将棋にも強い人たちがいるっていうのは、知ってたけどさ。
『Pawn』は、レベルが違うやばさだった」
山賀が、ネット将棋の話を振ってきた。
「そんな人がいるんだ」
不自然にならないように、とぼけたつもりだった。
「あれ、お前だよな」
「……ちがうよ」
「お前だって」
「証拠がない」
「あるよ。書斎か寝室に、パソコンがあるだろ。見せてくれよ」
「ない! ないから!」
「そう、きーきー言うなよ。
どうして、『ポーン』なんてユーザー名にしたんだ?」
「それは……」
大学生になった歌穂ちゃんが、自分はルークじゃなくてポーンだと言ってきた日に、うっかり始めてしまったせいだろう。
「わかる人には、わかるぞ。狙ってた?」
「ううん」
「四月二十九日に、最初の対局があった。
そこから、ゴールデンウィークが終わるまで、毎日何人もと対局してたよな。
五月六日になったら、ぱたっといなくなった。
ログインする時間帯は、平日は午後七時頃から。土日は時間がばらついてる。
カレンダー通りに働いてるやつだって、ばればれだぞ」
「将棋が好きなサラリーマンは、いくらでもいるよ。OLかもしれない」
「俺の師匠は、あっさり負けたって。おかしな話だよな。
プロ棋士よりも強い素人なんて、いるはずがないのに」
「『ポーン』も、プロかもしれないよ」
「棋力がプロ相当なのは、認めるけど。
プロは、あんなふうに派手に遊ばないよ。沢野。
遊べないと言った方が、正しいかな」
山賀は、盤面を崩さなかった。駒に目をやって、また僕を見た。
こわい顔をしていた。
「奨励会の黒い噂を、今年になってから聞いたんだよ。
長年あそこにいて、なかなか上がれない人たちが、星の回し合いをしてたって。
沢野がやめた年に、三段リーグからプロに上がった人の名前を、久しぶりに聞いたよ。調べてみたら、ろくに勝てずに、廃業したみたいだったけど」
「めったなことは、言わない方がいいよ」
「お前が急ぐようにやめた理由が、俺には、ずっとわからなかった。
十八で見切りをつけるなんて、早すぎると思っていた。
もし、誰にも言えないような何かを抱えていたなら、納得がいく。退会してから、チェスで華々しく活躍しておいて、将棋には見向きもしなかったことにも」
「気まぐれなだけだよ」
*作者からのお知らせ*
※実在の団体、人物とは、一切関わりありません。
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