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14.アズ・ポーン3
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「歌穂ちゃん。歌穂ちゃん……」
僕の胸に顔を押し当てて、声もなく泣いている。かわいそうだった。
体が疼く。欲しいと思う心は、自覚しないように努めた。
歌穂ちゃんの細い指が、僕の胸を探る。心臓の位置で、止まった。
五分もしないうちに、泣きやんだ。
歌穂ちゃんが、両手で、頬の涙を雑に拭いた。
「はなして」
僕の腕の中から、逃げたそうなそぶりをした。
「えーっ……」
余韻も何もない。
僕のために泣いてくれた時の方が、ずっとつらそうだった。
「もう、いいの?」
「いいです。泣いてても、体力がなくなるだけだし」
ドライだった。それに、強かった。
「みっともないところを見せちゃって、ごめんなさい。
お茶、飲みませんか」
「うん。いただこうかな」
お茶と、コーラが出てきた。
コーラのペットボトルを自分で開けて、コップに注いだ。
「歌穂ちゃんも、コーラ?」
「うん」
「入れておくよ」
「ありがとう……」
まだ、どこかぼうっとしたような顔をしていた。
歌穂ちゃんの手にコップを渡してみたら、僕が入れたコーラを、ぐびぐびと飲んだ。
飲み終えてから、けほっと、小さな咳をした。
「大丈夫?」
「だいじょうぶです」
僕もコーラを飲んだ。甘いはずなのに、ひどく苦く感じた。
「ごはんとか、食べてる?」
「たべてます」
「お昼は?」
「……今日は、さぼった」
「昨日は?」
「わすれました」
「食べなかったんだね」
歌穂ちゃんの視線が泳いだ。
「ずっと、食べられなかったの?」
返事はなかった。
少ししてから、「おこらないで」としょげたように言った。かわいかった。
「怒ってないよ。心配してるだけ」
「わかってます。
ちょっと、横になってもいいですか?」
「うん」
「あたしが寝たら、帰っていいですから」
「いいけど……。鍵がないよ」
「作りました。遅くなって、ごめんなさい」
「えっ」
「机の、一番上の引き出しの中……。出してもらって、いいですか」
「うん」
寝室の机の、薄い、横長の引き出しを開けた。
真新しい鍵が入っていた。
ナイトの駒の形のキーホルダーがついていた。
鍵の他には、タロットカードのデッキがひとつ。カラフルなクリップ。シャーペンがひとつ。ボールペンがふたつ。
鍵だけ手に取って、引き出しを閉めた。
「ありがとう。これは、僕がもらっていいのかな」
「そのつもりです」
「歌穂ちゃんの了解なしに、入ってもいいってこと?」
「いいですけど……。いきなり来ても、なにも変わらないですよ」
「冗談だよ。勝手に入ったりしない」
「あたしは、勝手に入ってますよ。沢野さんの部屋に」
「それは、僕が了承してることだから」
歌穂ちゃんが、寝室の灯りを落とした。カーテンが開いているから、それほど暗くはならなかった。
ベッドに上がる。やせた、華奢な体が横たわっていく。
その様子を、立ったままで、呆けたように眺めていた。
「こっちに、きて」
「……うん」
近づいて、ベッドのそばに座った。
歌穂ちゃんは、僕の方に顔を向けている。
髪は、ほどかれていた。黒い髪に、ふれたいなと思った。
「あんなに、夢のためにって、がんばってきたのに。
もう、どうでもいいやって、思いそうになってる……。
あたしは、自分が幸せになったら、かつてのあたしと同じ境遇にいる子たちのことは、どうでもよくなってしまったんでしょうか」
「そうじゃないよ。それは、違うと思う」
「あたしの夢は、本当に、誰かのためのものだったんでしょうか」
「……どういうこと?」
「あたしのためのもの、だったのかも。
『夢があるから』、『夢のため』と思うことで、自分をだまして、生活の糧にしていた仕事に対して感じていたやましさから、あたし自身の目を、そらそうとしていたのかもしれません」
「うーん……」
「どう思いますか」
「歌穂ちゃんは、賢いね。それに、潔いね。
そういうことをちゃんと考えて、言語化できるのは、素晴らしいことだと思う」
「あたしは、自分のことを汚いと思う。あたしが、あの仕事で経験した、全てのことを、あたしにべったりとこびりついて、とれない泥みたいに感じてます」
「どこも汚くないよ。だって、僕は」
「なに? なんですか」
「……僕と、してみる?」
「いいんですか」
「いや、あのね。その言葉は、僕が、歌穂ちゃんに言うべき言葉だよ」
猫みたいな目が、僕を射るように見た。
「僕が心配してるのはね。歌穂ちゃん。
僕としてる時に、歌穂ちゃんが、僕を、客みたいに感じないだろうかってことだよ」
「ああ……。どうでしょうね。わからないです。
ただ、西東さんもですけど……。沢野さんみたいな、かっこいい感じの人は、お客さんたちの中には、ほとんどいないですよ。
いわゆるイケメンっていうんですか。そういう人たちには、いくらでも相手がいますから。
例外は、本物の芸能人の方くらいですかね。あとは……あの、やくざの人、とか」
「……うーん。ねえ、歌穂ちゃん。
僕はねえ、先延ばしにできるなら、いくらでも先に延ばしたいと思ってるよ」
「どうして、ですか」
「まず、若すぎるってこと。それから、君には、性的なものをともなわない愛情が、もっと必要なんじゃないかと思ってる」
「それは……。あたしが、虐待されて育ったからですか」
「うん。それもある。だけどね、僕はたぶん、君とセックスをするために、君を好きになったんじゃない。
君のことを大切にしたいっていう気持ちが先にあって、それとセックスは、イコールじゃない。イコールにはなりえない」
「そう……なんですか」
「一目見て、心が動くなんてことはね。この年になると、めったにないことなんだよ」
「動いたんですか」
「動いたね。女の子の連絡先を自分から訊いたのは、高校生の時以来だよ」
「もてたんですね」
「そうだね。わりと」
僕の胸に顔を押し当てて、声もなく泣いている。かわいそうだった。
体が疼く。欲しいと思う心は、自覚しないように努めた。
歌穂ちゃんの細い指が、僕の胸を探る。心臓の位置で、止まった。
五分もしないうちに、泣きやんだ。
歌穂ちゃんが、両手で、頬の涙を雑に拭いた。
「はなして」
僕の腕の中から、逃げたそうなそぶりをした。
「えーっ……」
余韻も何もない。
僕のために泣いてくれた時の方が、ずっとつらそうだった。
「もう、いいの?」
「いいです。泣いてても、体力がなくなるだけだし」
ドライだった。それに、強かった。
「みっともないところを見せちゃって、ごめんなさい。
お茶、飲みませんか」
「うん。いただこうかな」
お茶と、コーラが出てきた。
コーラのペットボトルを自分で開けて、コップに注いだ。
「歌穂ちゃんも、コーラ?」
「うん」
「入れておくよ」
「ありがとう……」
まだ、どこかぼうっとしたような顔をしていた。
歌穂ちゃんの手にコップを渡してみたら、僕が入れたコーラを、ぐびぐびと飲んだ。
飲み終えてから、けほっと、小さな咳をした。
「大丈夫?」
「だいじょうぶです」
僕もコーラを飲んだ。甘いはずなのに、ひどく苦く感じた。
「ごはんとか、食べてる?」
「たべてます」
「お昼は?」
「……今日は、さぼった」
「昨日は?」
「わすれました」
「食べなかったんだね」
歌穂ちゃんの視線が泳いだ。
「ずっと、食べられなかったの?」
返事はなかった。
少ししてから、「おこらないで」としょげたように言った。かわいかった。
「怒ってないよ。心配してるだけ」
「わかってます。
ちょっと、横になってもいいですか?」
「うん」
「あたしが寝たら、帰っていいですから」
「いいけど……。鍵がないよ」
「作りました。遅くなって、ごめんなさい」
「えっ」
「机の、一番上の引き出しの中……。出してもらって、いいですか」
「うん」
寝室の机の、薄い、横長の引き出しを開けた。
真新しい鍵が入っていた。
ナイトの駒の形のキーホルダーがついていた。
鍵の他には、タロットカードのデッキがひとつ。カラフルなクリップ。シャーペンがひとつ。ボールペンがふたつ。
鍵だけ手に取って、引き出しを閉めた。
「ありがとう。これは、僕がもらっていいのかな」
「そのつもりです」
「歌穂ちゃんの了解なしに、入ってもいいってこと?」
「いいですけど……。いきなり来ても、なにも変わらないですよ」
「冗談だよ。勝手に入ったりしない」
「あたしは、勝手に入ってますよ。沢野さんの部屋に」
「それは、僕が了承してることだから」
歌穂ちゃんが、寝室の灯りを落とした。カーテンが開いているから、それほど暗くはならなかった。
ベッドに上がる。やせた、華奢な体が横たわっていく。
その様子を、立ったままで、呆けたように眺めていた。
「こっちに、きて」
「……うん」
近づいて、ベッドのそばに座った。
歌穂ちゃんは、僕の方に顔を向けている。
髪は、ほどかれていた。黒い髪に、ふれたいなと思った。
「あんなに、夢のためにって、がんばってきたのに。
もう、どうでもいいやって、思いそうになってる……。
あたしは、自分が幸せになったら、かつてのあたしと同じ境遇にいる子たちのことは、どうでもよくなってしまったんでしょうか」
「そうじゃないよ。それは、違うと思う」
「あたしの夢は、本当に、誰かのためのものだったんでしょうか」
「……どういうこと?」
「あたしのためのもの、だったのかも。
『夢があるから』、『夢のため』と思うことで、自分をだまして、生活の糧にしていた仕事に対して感じていたやましさから、あたし自身の目を、そらそうとしていたのかもしれません」
「うーん……」
「どう思いますか」
「歌穂ちゃんは、賢いね。それに、潔いね。
そういうことをちゃんと考えて、言語化できるのは、素晴らしいことだと思う」
「あたしは、自分のことを汚いと思う。あたしが、あの仕事で経験した、全てのことを、あたしにべったりとこびりついて、とれない泥みたいに感じてます」
「どこも汚くないよ。だって、僕は」
「なに? なんですか」
「……僕と、してみる?」
「いいんですか」
「いや、あのね。その言葉は、僕が、歌穂ちゃんに言うべき言葉だよ」
猫みたいな目が、僕を射るように見た。
「僕が心配してるのはね。歌穂ちゃん。
僕としてる時に、歌穂ちゃんが、僕を、客みたいに感じないだろうかってことだよ」
「ああ……。どうでしょうね。わからないです。
ただ、西東さんもですけど……。沢野さんみたいな、かっこいい感じの人は、お客さんたちの中には、ほとんどいないですよ。
いわゆるイケメンっていうんですか。そういう人たちには、いくらでも相手がいますから。
例外は、本物の芸能人の方くらいですかね。あとは……あの、やくざの人、とか」
「……うーん。ねえ、歌穂ちゃん。
僕はねえ、先延ばしにできるなら、いくらでも先に延ばしたいと思ってるよ」
「どうして、ですか」
「まず、若すぎるってこと。それから、君には、性的なものをともなわない愛情が、もっと必要なんじゃないかと思ってる」
「それは……。あたしが、虐待されて育ったからですか」
「うん。それもある。だけどね、僕はたぶん、君とセックスをするために、君を好きになったんじゃない。
君のことを大切にしたいっていう気持ちが先にあって、それとセックスは、イコールじゃない。イコールにはなりえない」
「そう……なんですか」
「一目見て、心が動くなんてことはね。この年になると、めったにないことなんだよ」
「動いたんですか」
「動いたね。女の子の連絡先を自分から訊いたのは、高校生の時以来だよ」
「もてたんですね」
「そうだね。わりと」
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