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14.アズ・ポーン3
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八月七日。立秋の日。
昨日は、歌穂ちゃんに会えなかった。
会う約束をしようと思って、木曜の夜に電話した。「今週は、だめです」と言われてしまった。
毎週末に会っていたから、多少の衝撃を受けた。
今週も、当然歌穂ちゃんがうちに来てくれるか、僕が向こうに行くことになるだろうと思っていた。
大学は夏休みに入ってるのに。あえて土日に予定を入れたのは、僕に会いたくないからだろうかとか、考えても仕方がないようなことを考えてしまった。
日曜日の今日。だめもとで、電話をかけた。
「さわのさん」
頼りない声が聞こえた。えっ?と思った。
元気がない。
「どうしたの? 歌穂ちゃん」
「どうもしないです。ちょっと、しんどくって」
「えぇ……。そっちに、行ってもいい?」
「いいけど。あたし、いま、よゆうがないんで。やさしくできない」
ぞくっとした。投げやりな言葉と声音から、女性の色気のようなものを感じてしまった。
「いいよ。大丈夫」
「……じゃあ、きて」
敬語がなくなってる。本当に余裕がないんだと思った。
すぐに車で向かった。
車は、マンションの来客用の駐車場に停めさせてもらった。
二階にある、歌穂ちゃんの部屋の前まで行って、呼び鈴を押した。
少し間があって、鍵がひらく音がした。
玄関のドアを開けてくれるのを待たずに、僕からノブを引いた。
歌穂ちゃんがいた。明るい色のルームウェアを着ている。
どきっとした。やつれていた。
「歌穂ちゃん……」
だいぶ伸びてきた髪を、後ろでひとつにまとめていた。ほつれた髪が、肩のあたりに落ちている。顔色が悪かった。
「あがってください」
もう、敬語になっていた。
リビングに入って、床に座ってもらった。
僕も、歌穂ちゃんの横に座った。
「大丈夫? しんどいって、体調が悪いってこと?」
「ちがいます。あの、……ちょっと、ショックなことがあって」
「聞いてもいい?」
「いいですけど……」
言いたくなさそうだった。
「ベッドの方がいい? つれていってあげようか」
「いいです。ここで……。体は、なんともないです」
なんともないようには見えなかった。
まるで、弱ってる猫みたいに見えた。
先週の金曜日は、二人で船に乗って、夜景を見ていた。ホテルにも泊まった。
土曜日は、歌穂ちゃんをここに送ってから、二人で街を歩いた。
楽しかった。歌穂ちゃんにとっても、そうだったんじゃないかと思っていた。
たった一週間で、こんなふうに、ぼろぼろになってしまうなんて。
一体、何があったんだろうか。
原因は、僕じゃないような気がした。だとしたら、誰だ?
大学の友達だろうか……。
じりじりとした焦りが、僕を内側から灼いた。
「話してくれる? ゆっくりでいいから」
歌穂ちゃんがうなずいた。
「中学や高校が夏休みになったから、施設の後輩たちに会ってきたんです。今週の水曜日に。
みんなの進路とかが、気になってたから。
なまいきだけど、かわいがってた子がいて……。その子から、言われたんです。
『あたしは、歌穂さんみたいに風俗落ちはしたくないんで』って」
言葉を失った。
「あたし、言ってなかったのに。ソープで働いてる先輩にだけ、話したことがあるから、たぶん、その人から……。
あたしに、あの仕事を紹介してくれた男の先輩は、そういうことを、人に言う人じゃないと思ってるし……。
昨日は、ごめんなさい。
会いたかったけど、沢野さんに、あたりたくなかった」
「いいのに。僕に、ぶつけてくれても。ぜんぜん構わないよ」
「そういうこと、かんたんに言わないでください」
泣きそうな顔をしていた。胸が痛んだ。
「あたし、惜しくなっちゃった……。
あたしが、心をずたずたにされるような思いで稼いだお金を、どうして、あんな子のために使わなきゃいけないのって、思っちゃった……。
大学には、行かないんだって。就職活動もしないみたい。フリーターでいいって。
あたしは、言わなかった。三年遅れで、大学生をやってるって。
デリヘル嬢のくせに大学生になったんだって、ばかにされたくなかった。
その子が、あたしのことをばかにしてるのが、伝わってきたんですよ。顔とか、声から。それが、いちばん、つらかった……。なりたくてデリヘル嬢になる人なんか、いないですよ。どうして、わかってくれないんだろうと思った。
フリーターとして働いて、自立するのが、どんなに大変なことか。
思い知ればいいって、思っちゃった。夜勤のきつさも、なんにも知らないから、風俗で働いてる人のことを、平気で、ばかにできるんだって。
あの子が風俗で働くようになったら、ざまーみろって、思っちゃいそう。よくわかったでしょ?って。人生って、そんなに甘くないんだからねって……」
横から、顔を覗きこんだ。深い目の色をしていた。
歌穂ちゃんの人生は、甘いものじゃなかった。そのことは、出会ってから今までの間に、いやというほど思い知らされていた。
「歌穂ちゃん」
ふっと顔を上げて、僕を見た。
弱々しい表情をしていた。きれいだった。かわいかった。
「そんなことがあったんだね。つらかったね」
僕の言葉がきっかけだったみたいに、大きな目から、涙が溢れていった。
「おいで」
歌穂ちゃんが、自分から、倒れこむように近づいてきた。
両腕で、抱きとめた。
昨日は、歌穂ちゃんに会えなかった。
会う約束をしようと思って、木曜の夜に電話した。「今週は、だめです」と言われてしまった。
毎週末に会っていたから、多少の衝撃を受けた。
今週も、当然歌穂ちゃんがうちに来てくれるか、僕が向こうに行くことになるだろうと思っていた。
大学は夏休みに入ってるのに。あえて土日に予定を入れたのは、僕に会いたくないからだろうかとか、考えても仕方がないようなことを考えてしまった。
日曜日の今日。だめもとで、電話をかけた。
「さわのさん」
頼りない声が聞こえた。えっ?と思った。
元気がない。
「どうしたの? 歌穂ちゃん」
「どうもしないです。ちょっと、しんどくって」
「えぇ……。そっちに、行ってもいい?」
「いいけど。あたし、いま、よゆうがないんで。やさしくできない」
ぞくっとした。投げやりな言葉と声音から、女性の色気のようなものを感じてしまった。
「いいよ。大丈夫」
「……じゃあ、きて」
敬語がなくなってる。本当に余裕がないんだと思った。
すぐに車で向かった。
車は、マンションの来客用の駐車場に停めさせてもらった。
二階にある、歌穂ちゃんの部屋の前まで行って、呼び鈴を押した。
少し間があって、鍵がひらく音がした。
玄関のドアを開けてくれるのを待たずに、僕からノブを引いた。
歌穂ちゃんがいた。明るい色のルームウェアを着ている。
どきっとした。やつれていた。
「歌穂ちゃん……」
だいぶ伸びてきた髪を、後ろでひとつにまとめていた。ほつれた髪が、肩のあたりに落ちている。顔色が悪かった。
「あがってください」
もう、敬語になっていた。
リビングに入って、床に座ってもらった。
僕も、歌穂ちゃんの横に座った。
「大丈夫? しんどいって、体調が悪いってこと?」
「ちがいます。あの、……ちょっと、ショックなことがあって」
「聞いてもいい?」
「いいですけど……」
言いたくなさそうだった。
「ベッドの方がいい? つれていってあげようか」
「いいです。ここで……。体は、なんともないです」
なんともないようには見えなかった。
まるで、弱ってる猫みたいに見えた。
先週の金曜日は、二人で船に乗って、夜景を見ていた。ホテルにも泊まった。
土曜日は、歌穂ちゃんをここに送ってから、二人で街を歩いた。
楽しかった。歌穂ちゃんにとっても、そうだったんじゃないかと思っていた。
たった一週間で、こんなふうに、ぼろぼろになってしまうなんて。
一体、何があったんだろうか。
原因は、僕じゃないような気がした。だとしたら、誰だ?
大学の友達だろうか……。
じりじりとした焦りが、僕を内側から灼いた。
「話してくれる? ゆっくりでいいから」
歌穂ちゃんがうなずいた。
「中学や高校が夏休みになったから、施設の後輩たちに会ってきたんです。今週の水曜日に。
みんなの進路とかが、気になってたから。
なまいきだけど、かわいがってた子がいて……。その子から、言われたんです。
『あたしは、歌穂さんみたいに風俗落ちはしたくないんで』って」
言葉を失った。
「あたし、言ってなかったのに。ソープで働いてる先輩にだけ、話したことがあるから、たぶん、その人から……。
あたしに、あの仕事を紹介してくれた男の先輩は、そういうことを、人に言う人じゃないと思ってるし……。
昨日は、ごめんなさい。
会いたかったけど、沢野さんに、あたりたくなかった」
「いいのに。僕に、ぶつけてくれても。ぜんぜん構わないよ」
「そういうこと、かんたんに言わないでください」
泣きそうな顔をしていた。胸が痛んだ。
「あたし、惜しくなっちゃった……。
あたしが、心をずたずたにされるような思いで稼いだお金を、どうして、あんな子のために使わなきゃいけないのって、思っちゃった……。
大学には、行かないんだって。就職活動もしないみたい。フリーターでいいって。
あたしは、言わなかった。三年遅れで、大学生をやってるって。
デリヘル嬢のくせに大学生になったんだって、ばかにされたくなかった。
その子が、あたしのことをばかにしてるのが、伝わってきたんですよ。顔とか、声から。それが、いちばん、つらかった……。なりたくてデリヘル嬢になる人なんか、いないですよ。どうして、わかってくれないんだろうと思った。
フリーターとして働いて、自立するのが、どんなに大変なことか。
思い知ればいいって、思っちゃった。夜勤のきつさも、なんにも知らないから、風俗で働いてる人のことを、平気で、ばかにできるんだって。
あの子が風俗で働くようになったら、ざまーみろって、思っちゃいそう。よくわかったでしょ?って。人生って、そんなに甘くないんだからねって……」
横から、顔を覗きこんだ。深い目の色をしていた。
歌穂ちゃんの人生は、甘いものじゃなかった。そのことは、出会ってから今までの間に、いやというほど思い知らされていた。
「歌穂ちゃん」
ふっと顔を上げて、僕を見た。
弱々しい表情をしていた。きれいだった。かわいかった。
「そんなことがあったんだね。つらかったね」
僕の言葉がきっかけだったみたいに、大きな目から、涙が溢れていった。
「おいで」
歌穂ちゃんが、自分から、倒れこむように近づいてきた。
両腕で、抱きとめた。
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