上 下
121 / 206
11.スイート・キング5

5-4

しおりを挟む
「うーん……。めんどくさいかもしれないけど、待ってあげてください。
 歌穂は、たぶん、あの……」
「うん?」
「この話、礼慈さんは関係ないから、あっちに行っててくださいっ」
 はずかしいせいもあって、きつい言い方になってしまった。椅子に座っている礼慈さんが、びくっとした。
「ごめん。聞き入ってた」
「わたし、もうしゃべらないです」
「えぇー」
 沢野さんが、悲しげな声を上げた。
「礼慈。退室して」
「お前なあ……。言い方が」
「ごめんって。終わったら、呼ぶから」
「分かった。趣味の部屋にいるから」
 礼慈さんが、スマートフォンを持って、廊下に出ていった。

「それで?」
「……えっ」
「続きを聞かせて」
 まじめな顔をしていた。
「あ、はい。あの、歌穂は、たぶん……。恋をしたことがないです」
「え」
「わたしが知るかぎり、一度も……。わたしと出会う前に、したのかもしれないけど。
 そんな余裕がある人生じゃなかったのは、沢野さんも……知ってますよね。きっと」
「うん。お母さんにベランダに閉じこめられて、そのまま置いていかれたって」
「あの……。あのね」
「うん?」
「歌穂は、言わなかったと思いますけど……。保護された時の歌穂は、服を着てなかったんです」
「……は?」
「なかったの。着せてもらえて、なかったんです。
 この話は、歌穂からじゃなくて、施設の職員さんから聞いた話です。
 小学校には、行っていたみたいですけど。毎日じゃなかったみたい。
 歌穂は、団地の部屋にいる時は、裸にされて、首輪をつけてたの。
 お母さんは、猫を飼ってました。二匹。歌穂は、三匹目の猫みたいに、育てられてたんです」
 沢野さんの顔が、ゆがんだ。苦しそうな顔をしていた。
「歌穂ちゃんは、殴られてたって……」
「殴られたことも、あったんでしょうけど。歌穂は、保護されて、すぐの頃は、そのことを覚えていたらしいんです。でも、だんだん、忘れていったみたいです。
 わたしは、忘れたままでも、いいと思います。
 だってね。歌穂のお母さんは、猫はつれていったのに、……」
 涙があふれて、続きは言えなかった。
 沢野さんの手が、わたしの腕をつかんだ。溺れてる人が、なにかにすがりつくみたいに。
「……ごめん」
「大丈夫です」
 沢野さんの手は、かすかに震えていた。手がほどけて、離れていった。
「ひどいね」
「そうですね」
「僕はね。仕事柄、犯罪を犯した側の――加害者の弁護をすることもある。
 そういう時は、私情は殺すようにしてる。僕個人として、犯行内容に憤ることは、あっても。表には出さない。
 だけど、僕は今、歌穂ちゃんの母親に対して、激しい怒りを感じてる。殺意といってもいい」
「わかりますよ。わたしも、許せないと思います。
 だけどね。歌穂は、かわいいじゃないですか。
 歌穂は、猫が好きなんです。
 きっと、二匹の猫たちは、歌穂にやさしかったんだと思います。
 猫になりたかったんですよ。お母さんから、愛されるために……」
「でも、人間だよ。猫じゃない」
「わかってます。いいじゃないですか。忘れたままでも。
 ……本当は、覚えてるんじゃないかって、思うこともあります。でも、わたしからは、聞かないです。聞くのが、こわいのかもしれない……」
「あー……」
「聞けます?」
「ごめんね。無理。少なくとも、今の時点では」
「ですよね……」
「なんか、……あれだね。セックスをしたいとか思ってる自分が、とんでもないやつに思えてきた」
「あの。それは、また、べつの話だと思います」
「そうかな」
「ただ、歌穂は、あの仕事以外では、誰とも、そういうことはなかったと思います。
 沢野さんに怯えたりしても、許してあげてください」
「うん。怒ったりしないよ。
 つい、手が出ちゃうんだよ。なでたり、キスしたり、したくなる……。
 だって、かわいいから」
「それにつきるんですね」
「そうだね。ねえ、顔を洗ってきてくれない? 悪いんだけど」
「……え?」
「祐奈ちゃんが泣いたのがばれると、僕が、礼慈に殺されると思うんだよね」
「殺さないから」
 礼慈さんの声は、廊下から聞こえた。
「えーっ? いたんですかっ? だめですっ」
「ごめん。歌穂さんの話は、俺にとっては、妹の話みたいな……」
「訳わかんないこと言ってるなー。礼慈の妹じゃないよっ」
「分かってるよ。
 紘一を怒ったりもしない。俺も、人前に出られる顔じゃないし」
「……あっ。泣いてるんですね」
「言わなくていいよ」
 そう思って聞いてみたら、声だけでもわかるくらいの涙声だった。
しおりを挟む

処理中です...