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5.トリッキー・ナイト2

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「チェスの話に、戻りませんか。ポーンは、将棋の歩と同じですか?」
「似てるけど、ポーンには独自のルールが多いね。初手は二歩してもいい、とか」
「二歩って。将棋では反則ですよね」
「そうだね」
「あたしのイメージは、ルークなんですよね。
 祐奈は、どの駒ですか?」
「歌穂ちゃんは、どれだと思う?」
「クイーンです」
「そうだね。僕も、そう思う」
「これ……ですよね」
 王冠をかぶってるような駒は、ふたつある。そのうちの、小さい方の駒を指さした。
「うん。これがクイーン。
 礼慈は、キングだ。この二人は、これでセット」
 白のキングとクイーンを、沢野さんがテーブルに置いた。たしかに、あの二人に見えた。
 気高くて、強くて、やさしい。
「キングは、クイーンよりも強いんですか?」
「弱いよ」
「えっ?」
「キングは、弱い。でも、最も重要な駒だよ。
 キングを取られたら負ける。
 強いクイーンが、非力なキングを守る」
「そう……なんですか。意外でした」
「キングの動き方は、将棋の玉将と同じだよ」
「クイーンは?」
「飛車と角を合わせた動きだね」
「なに、それ。最強じゃないですか」
「うん。クイーンは、強いんだよ」
「ほんとに、祐奈みたい」
「そうだね」
「あと、残りは……。ビショップですね」
「ビショップは、将棋の角と同じ」
「かなり、共通点があるんですね。将棋と」
「そうだね。元は、同じゲームだと言われてる。
 『チャトランガ』っていう、古代インドのゲーム」
「古代……?」
「紀元前ってことだね」
「そんなに、古いんですか」
「うん。本当かどうかは、わからないけどね」
「ねえ。沢野さん」
「……うん?」
「ご自分が、将棋をあきらめたから。就職できなかったり、大学に行けなかったりしたあたしに、やさしくしてくれたんですか?」
「いやー。それは、たぶん違う。
 『今からでも遅くない』って、言いたかったっていう気持ちは、あるけど」
「遅くない……って?」
「うん。僕はもう、将棋の世界には戻れない。奨励会の年齢制限をこえてるから。
 アマチュアから、別のルートで、プロになる人もいるけど……」
「あるんですか? プロになれるの?」
「ある。プロ編入制度っていうのが。
 今は、この話よりも、歌穂ちゃんの話に戻ろうか」
「……はい」
「僕が捨てた夢とは違って、大学には、入ろうと思えば、いつでも入れる。
 歌穂ちゃんの夢を叶える前に、歌穂ちゃん自身が、もっと人生を楽しんでもいいんじゃないかって……。まあ、大学を楽しいと思うかどうかは、人それぞれだけど」
「沢野さんは? 楽しかったの?」
「うん。礼慈に会えたし。大学の寮で出会ったんだよ」
「そうだったんですね。中学とか、高校とか、かと……」
「お互い、都内に実家はあったんだけどね。
 大学はいくつか受けて、筑波にある大学にも受かった。東京を離れてみたいと思ったのかもしれない。
 山手線に乗らなくていい生活を、したかったのかも」
「それは……。将棋会館のことを、忘れたかったから?」
「うん」
「そう、なんですね」
 胸が切なくなった。
 自分でも、わけがわからないうちに、ぽろっと涙が落ちた。
 あたしの手に、当たった感触があった。握りこんだままの、ナイトに、涙がはねたかもしれなかった。
「あ、ごめんなさい」
「歌穂ちゃん」
 ものすごく真剣な目が、あたしを見ていた。こわかった。
「な、に?」
「僕の話を、ちゃんと聞いてくれて、ありがとう」
「なんで、お礼なんか。あたりまえのことです」
「そう……だね。顔、拭いてもいい?」
「いいです」

 ティッシュを持ってきてくれて、ほっぺたの涙と、目じりを拭いてくれた。
「かわいいなー」
 ひとりごとみたいに、沢野さんが言った。
「かわいくないです」
「そういう返事も、かわいい」
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