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1.バージン・クイーン1

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 おそらく書かれたばかりの文章を見つめながら、しばらく呆然としていた。
 祐奈。君は、自ら死ぬために、俺の前に現れたのか?

 日記を掴んで、廊下に出た。あのまま、祐奈の部屋にいたら、眠っている祐奈に向かって怒鳴り散らしてしまいそうだった。

 リビングの椅子に座って、祐奈が起きるのを待っていた。日記はテーブルに置いた。もう、読む気は起きなかった。
 三十分ほど経った頃だろうか。廊下から、近づいてくる気配がした。

「……礼慈さん?」
「君は、死にたかったのか」
 言葉をぶつけた。祐奈が、はっとしたような顔をした。
 俺から視線がずれて、テーブルの上の日記に移る。
「読んだの……?」
「ああ。でも、謝らないよ。
 俺は、君の破滅願望につき合わされたのかな」
「……そうかも、しれません。ごめんなさい」
「謝らなくていい。今も死にたいの?」
「ううん……」
「本当に?」
「……」
 椅子から立ち上がった。

 祐奈を両手で捕まえて、抱え上げる。そのまま、ラグマットの上まで歩いた。
 下に下ろして、座らせた。軽くて、華奢な体は、簡単に押し倒せた。
 ルームウェアの上から、押さえつけるように抱きしめる。
「あっ。だめ……」
「いや?」
「だって。もう、した……」
「あれが、最初で最後のつもりだった?」
「……」
 沈黙は肯定だった。怒りで目がくらんだ。
「だったら俺は、君を抱くべきじゃなかったな」
「ごめんなさい。ゆるして……」
「君は、何に対して謝ってるの?」
「わ、わからないです。もう、なにも、わからないの……」
「ここでいい?」
「いや、ここ、とか、そういう……」
「したくない?」
 返事はなかった。大きな目に、涙がたまっていくのが見えた。

「来て」
 手を引いて、立ち上がらせた。寝室につれていくつもりだった。
「やだ! しない……」
「頼むから。一緒に来て」
「う、うぅー……」
 泣きながら、俺の後をついてくる。かわいそうで、かわいかった。

 寝室に入った。
 しばらくの間、ベッドの前で、しくしくと泣いていた。
 立ったまま抱きしめて、頬にキスをした。
 俺は怒っていた。それは祐奈に対してだけではなく、祐奈をおびやかした社長の男や、見て見ぬふりをしていた職場の人たちに対しても向けられていた。
 その男が人間のくずだということは、祐奈の日記を読んだだけで分かった。だが、社員たちは、どうして、祐奈のために動こうとしてはくれなかったのだろうか。
 この子のために泣いて、それで終わりなのか。一緒になって、訴えてやろうと思う人間はいなかったのか……。
 いなかったから、こうなったのだということは分かっていた。
 出会ってから今までに見た祐奈の姿が、次々と頭に浮かんだ。
 ふとした時に、ひどく傷ついたような様子に見えることがあった。
 人なつっこいくせに、急によそよそしくなったりしていた。
 俺と同じだ。人との距離感が分からなくなっているだけだった。

「おいで」
 引きよせたまま、ベッドに上がらせた。祐奈は抵抗しなかった。

「脱がせていい?」
 黙ったまま、うなずいた。
 自分が脱いでから、祐奈のルームウェアを脱がせた。

 祐奈の体中に、キスをしていった。印をつけるように、唇で触れていく。
 細い腕。白い手の甲。抱えて持ち上げた足の、膝。胸と腹。
 唇にもした。
「いや、いや……。れいじ、さん」
「気持ち悪い?」
「ううん……。ううん……」
「どんな気分?」
「うれしいのと……かなしいのと……。ぐちゃぐちゃに、なってる。
 せんたくきのなかの、ふくみたいに」
 笑いそうになった。……いや。半分笑っていた。
「わ、わらわないで……」
「ごめん」

 コンドームをつけた。
 いっそのこと、避妊せずに抱いてやろうかという考えが頭を掠めた。すぐに、できないと思った。
 俺は、祐奈を愛したかった。責めたいわけでも、苦しめたいわけでもなかった。それに、望まない妊娠をさせたいわけでもなかった。

「いれちゃ、だめっ……」
「どうして?」
「よくなっちゃう。きもちよく、なっちゃう……」
「気持ちよくなって、何が悪いの?」
「……だって。して、よかったら……。また、したく、なっちゃう」
「したらいい。俺は構わないよ」
「いわないで……。そんなこと」
「これからも、何度だってしたい。君は?」
「したい、したいです。でも、だめなの……」
「どうして、だめだと思うの?」
「わたしは、きたない。よごれてます。あなたみたいに、きれいじゃない」
「君は、きれいだよ。俺なんかよりも、ずっと」
「キスだけじゃ、ないの……!」
「……どういうこと?」
「日記には、書けなかった……。
 下着の上から、さわられたの。胸も、あそこも……。
 すごく、いやだった。でも、どきどきして……。ぬれたの。だから、わからなく、なっちゃったの。ほんとうは、そうされたかったのかも、しれないって……」
「そんなものは、ただの生理的反応だ。刺激されたら、反応することだってある。
 気にしなくていい。それは、体だけの話だから」
「……体だけ? ほんとに?」
「本当だよ。泣いて、叫んだのは、君の心だろう」
「あぁ……。そうです。そうでした」
「そうだろう。自分の体に、裏切られたような気がした?」
「うん……。わたし、きたないって。思いました」
「汚くない。きれいだよ」
「……れいじさん」
 どんなに慰めても、祐奈の傷ついた心から、その痛みが消えることはないのかもしれない。そのことは、分かっていた。
 俺にも、消えない傷がある。それは、体の傷のことではなかった。

「入れるよ」
「だめ……。あっ、ん……」
「もう、入った」
「や、あん……。ひどい」
「ごめん。どう感じる? 正直に言って」
「……いい。きもち、いいです。あったかい……」
「動いていい?」
「うん。……どうして、あなたは」
「え?」
「ぜんぶ、きいてくれるの? わたしが、そうしてほしかったみたいに」
「臆病だからだと思う」
「……そうなの?」
「うん」
「あ、あん……っ」

 動くのをやめて、祐奈を見た。
 俺を見る目が潤んで、宝石のように輝いている。
 かわいかった。

「こわかっただろ……。ごめんな」
「あっ、あん……。あなたの、せいじゃない……」
「君のせいでもない。そうだろう」
「ちがう。わたしに、わるいところが……だから」
「君は、何も悪くない」
 祐奈の顔が歪んだ。
 まるで、「くやしい」と言っているような顔を見て、安心した。
 怒れるうちは、まだ大丈夫だと思った。
「わるくないのに、どうして……」
「運が悪かった。それだけのことだよ」
「……それだけ?」
「うん」
「うれしい、です。そういうふうに、だれかに、いってもらいたかったの……」
「うん。動くよ」
「んっ……。はい……」

 足を抱えて、深く沈みこんだ。
 腰を使って、何度も抜き差しをくり返す。
「いい? 痛い?」
「ん、うん……」
「どっち?」
「……どっち、も」
「ごめん」
 祐奈の中が、さらに濡れてくるのを感じていた。

「あっ、あ……。いっちゃう、いく、……しんじゃう」
「死なないで」
「うっ、うん……。わかってる。わかって、ます」
「本当に?」
「れいじ、れいじさん。あなたの……」
「うん?」
「あなたの、これで、わたしを」
 殺して……。ほとんど息だけの声で、そう続けた。
 全身が熱くなった。

「祐奈」

「君は俺のものだ」

「こうやって、何度でも……。君を殺してやるから」

「だから――死なないでくれ。頼むよ」

 俺の目から涙が落ちて、祐奈の頬を汚した。
 本当は、俺が守ってやりたかった。
 俺の知らないところで、何度、泣いたのだろうか。
 その涙に触れて、慰めてあげたかった。
 祐奈を襲った、全ての苦痛を、かわりに引きうけてやりたかった。
 暗い絶望の中から、この手で掬い上げてやりたかった。

「生きていて」

 手をつないだ。強く。強く。
 ここに、つなぎとめなければ……。
 祐奈を誘い続ける死から、もっとも遠い場所に。

「れいじ……さぁ、んっ」

 命の火が燃える。触れ合った胸の奥に、祐奈の鼓動を感じる。
 生きている。俺も、祐奈も。


 体を離した。コンドームを外して、捨てた。

「ごめん。痛かった?」
「うん……。でも、だいじょうぶ」
 祐奈が、ゆっくり体を起こした。
「あのね。きもちよかった、です……」
「よかった」
「わたし、おかしいですか」
「おかしいけど。それは、セックスに関することじゃなくて……」
「なんですか」
「君の言動だよ。洗濯機のくだりは、めちゃくちゃ面白かった」
「ひ、ひどい……。正直な感想です」
「だから、それが面白かったんだって」
 ぷーと膨れている。かわいかった。
「服を着よう」
「……ですね」

 俺がルームウェアに袖を通そうとする様子を、祐奈がじっと見ている。
 右の脇腹の傷を見ているのかと気づいた。
「これ……」
「気になる?」
「あ……。うん」
「この傷は、刺された跡なんだよ」
「刺された……?」
「刃傷沙汰ってやつ」
「……そう、なの。
 痛かった? 入院したの?」
「少しだけ。死ぬような傷じゃなかった。でも……。
 そうだな。心が傷ついたかな」
「そう……」
 祐奈の手が、俺の傷にふれる。やさしく撫でられた。
「あまり、詳しくは話したくない」
「いいです。それで……」
「ざっくり言うと、行き違いがあって、女性に刺された。
 痴情のもつれが原因だよ。みっともない……。
 もう恋愛はいいと思って、女性を金で買うようになった」
「ああ……。そうだったんですね」
「俺を軽蔑する?」
「ううん。……だって、わたしも、自分を売ってしまったから」
「あの仕事に偏見はなかった?」
「あんまり……。どうせするなら、仕事としてやりたいって思ったの。個人的にするんじゃなくて……」
「根が真面目なんだな」
「あの。少し前に、歌穂から連絡があって」
「歌穂さんって、祐奈の友達だよな」
「うん。歌穂が、わたしに、あの仕事を紹介してくれたの。
 わたしが、……あの、男の人と、したことがないって、歌穂は知ってたの。
 歌穂がいろいろ教えてくれて、わたしから、『やりたい』って言ったの。でも、歌穂は、初めから、わたしには向いてないって、思ってたみたい」
「分からないな。向いてないのに、どうして君をデリヘル嬢にしたの?」
「した、わけじゃないと思う。説明するね。うまく話せるか、わからないけど……」
「いいよ。ゆっくりで」
「ありがとう。……わたしがここに来る前に、電話で予約したこと、覚えてる?」
「うん。昼頃だったかな」
「ちょうど、歌穂が事務所にいる時だったの。それで……。わたしに、連絡が来た。
 『仕事が入ったから、行ってくれる?』って」
「待って。俺の電話で、どうして、祐奈に連絡が行くの?」
「それは……。歌穂は、礼慈さんと仕事で会ってたの」
「えっ?」
「覚えてない?」
「ごめん」
「そう……。何度か、会ったことがあるって。べつに、指名されてるわけじゃないって、言ってたけど。
 歌穂はね。自分でも仕事をするけど、だいぶ、ランクが上で……。予約してくれた人のところに、誰を派遣するのかを決める権限があるんだって。
 デリヘルのお客さんの中には、ひどい人もいるけど、礼慈さんはちがうって。いつも、あの……する前に、ちゃんと訊いてくれるって。いやがることは、なにもしない人だって。
 歌穂は、礼慈さんがいい人だって、わかってたから。記念に、一度仕事をさせて、それで、やめるように言おうと思ってたんだって。
 わたしは、バージンだったけど。礼慈さんなら、むりやりしたりはしないと思って、安心して、送り出したんだって」
「……あー」
「わたしは、そんなことは、なにも知らずに、ここに来たの。だから、あなたがやさしくしてくれて、すごく、うれしかった……。
 仕事じゃないような、感じがしたの。むしろ、わたしが、お金を払わないといけないような……」
「それで? 俺と会った後で、歌穂さんにも会った?」
「うん。お金を、渡さなきゃいけなかったから。
 事務所に行って、『やっぱり、やめる』って、言ったの。歌穂は、なんだか、ほっとしたような顔をしてた。どうして歌穂が安心したのか、その時には、わからなかった。
 この前、歌穂に会った時に、訊きたかったことを訊いたの。ちゃんと答えてくれた。
 あの仕事をして、もらえるお金は、本当は一万円なんだって。わたしは新人だったから五千円だったけど、それは、最初の一回だけだよって、言われて……。
 つまり……わざと、わたしに言わなかったの。
 歌穂は、続けるべきじゃないって、思ってたみたい。
 一万円だったら我慢できても、五千円だったら我慢できないかもしれない。もし、一万円がほしくて、心を殺してでも、あの仕事をしたいと思うようになってしまったら、それは、お金の力に負けたことになるから。絶対に、そんなふうになっちゃいけないって」
 言葉がなかった。
 デリヘル嬢と呼ばれる人たちのことを、バカにしていたつもりはなかった。
 だが、俺が想像していた人物像と、祐奈が話す歌穂さんの姿は、やはり、かけ離れていた。その事実こそが、俺が抱えていた偏見の証だった。

「礼慈さん?」
「歌穂さんに会って、お礼が言いたい」
「えーっ。ほんとに?」
「本心だよ」
「うれしいです。歌穂は、わたしにとって、大事な友達だから……。
 歌穂が言ってました。あの仕事をしてると、心がすり減っていく気がするって。でも、歌穂には、どうしても叶えたい夢があって、短い時間で稼げる仕事は手ばなせないって。あと少しで、貯金が目標の額に届くから、そうしたらやめるんだって言ってた……。
 わたしは、歌穂はすごくがんばってると思う」
 祐奈の話を聞いているうちに、歌穂さんがどのデリヘル嬢だったか、ぼんやりと分かったような気がしていた。
 髪が短くて、さっぱりした感じの子がいた。かわいいというよりは、かっこいいタイプの女性で、俺の好みとは違っていた。
「俺と歌穂さんが、その……したことは、気にならない?」
「少しは、気になるけど。わたしと出会う前のことだから。
 ……ねえ、礼慈さん。わたしが初めてここに来てから、誰かと……した?」
 不安そうに問いかけてくる。
「してない」
「……うれしい」
 本当に嬉しそうだった。俺の、デリヘル嬢を呼ばないで耐えるという限定的すぎる禁欲は、間違ってはいなかったらしい。しかも、自慰はしていたので、実際のところは禁欲でも何でもなかった。

「体を流しに行こう。行ける?」
「あ、うん」
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