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1.バージン・クイーン1

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 家に帰る前に、駐車場のあるコンビニに寄った。
 紘一こういちにLINEを送った。すぐに既読になった。
 数回メッセージを交わす。いつもの場所で待ち合わせて、会うことに決まった。

 家の近くにあるホームセンターに車を停めた。
 俺が借りているマンションには、紘一が停められる駐車場がない。ここは駐車料金がかからないので、よく利用していた。三階の駐車場に停めて、一階にあるフードコートで会うことが多い。
 スマートフォンと財布と、紘一に渡すものを持って、車から下りた。

「れーいじっ」
 後ろから、声をかけられた。俺にぶつかるように寄ってくる。紘一の肩が体に当たった。
「痛い。紘一」
「ごめーん。勢いが余った。
 見て? あれ、僕の車。めっちゃ、近いじゃん。停めてる間に、礼慈が下りるのが見えてたよ」
「悪かったな。急に」
「いいけど。礼慈から呼びだしてくるなんて、珍しいね」
「ちょっと、話したいことがあって」
「聞きたい。下に行こっか」

 フードコートには誰もいなかった。
 飲みものだけ買って、端の方にあるテーブルに置いた。紘一は、ハンバーガーのセットをトレイに乗せて戻ってきた。
「で? 話って?」
「俺、やばいわ」
「やばい?」
「恋をしている」
「えっ?」
「かもしれない」
「なんだ。紛らわしいなあー。どんな人?」
「六つ年下のデリヘル嬢」
「はあー?」
 バカにしたような返事だった。
「それ、ぜったい騙されてるよー」
「いや……。むしろ、俺が騙してるような」
「どういうこと?」
「変わった子なんだよ。何だか……。浮世離れしてるっていうか。今までに、会ったことのないタイプの子」
「いいけどさ。もう、恋愛はしないって言ってたのに」
「恋愛……なのかな。これは」
 別の何かのような気もしていた。
「部屋に呼んだの?」
「うん。二人でシャワーを浴びて、オーラルセックスをして……。
 うどんを食べた」
「はあ? 最後に、変なのがあったんだけど」
「べつに、変じゃないだろ。お腹が空いてるか訊いたら、空いてるっていうから。
 そのへんにあったうどんを茹でて、二人で食べた」
「ふーん……」
「これ。デートで買ったやつ」
 博物館で買ったクランチチョコを渡した。
「ありがと。……博物館? 行ったの?」
「今日の話だよ」
「うーわ。それもう、ただの恋愛じゃん」
「そう思う?」
「思うよ。いいけどさあ……。大丈夫かなあ」
「どうかな。分からない。でも、笑えたから……」
「笑えた? それは、すごい」
「すごいだろ?」
「礼慈、変わったもんね。あんなに明るくて、人なつっこかったのに。
 変わって、よかったと思う?」
「よかった面と、悪かった面があるな。人は、そうそう変わらないんだなってことも分かった。
 彼女といると、つい笑うことが多くて。言うことが、いちいち……。なんだろう。おかしいんだよな。
 ちょっとずれてる感じが、すごくかわいい。一緒にいると、かわいさの圧が、こう……。ぶわっと襲いかかってくるというか」
「わっかんないなー。会わせてくれたら、わかるかも」
「まだ、そこまでの関係じゃない」
「オーケー、オーケー。礼慈が、その子を紹介したいって言いだしたら、恋愛だと認めてあげよう」
「なんで、上からなんだよ」

* * *

 博物館の次の週は、まったくのノープランだった。
 祐奈に決めてもらおう。それだけ考えて、先週と同じ駐車場で待っていた。

 今日は、窓ガラスを叩かれる前に気づけた。
 手で示すと、そのまま車の前を通っていった。ドアが開いて、助手席に座る。
 黒髪は、後ろでゆるくまとめられていた。
 かわいい服を着ていた。レースが多めで、全体的にふわっとしている。ただ、胸元だけは体にフィットしていた。形のいい、きれいな胸が、レースで飾られた花柄の服の下にあることを、俺は知っていた。目のやり場に困った。
 まとめてしまうと、ただただ、かわいかった。
 触れたいと思ってしまった。それは、胸だけのことではなかった。化粧を薄くした頬に。おそらくリップクリームだけを塗った、赤い唇に。赤いリボンのついた、小さな鞄を持つ白い手に。

「西東さん。こんにちは」
「こんにちは。それが、いつもの格好?」
「いつもの……うん。私服は、こんな感じです」
「仕事中は?」
「先週の服が、仕事用でした」
「やっぱり」
「ストッキング、履いてないの」
「うん?」
「よくないですかね……」
「いいんじゃないの。べつに。履かないといけない決まりなんて、あった?」
「転んだら、パンツが見えます」
「転ぶ前に支えるから」
「ああ! そういう手がありましたね」
「あるよ。今日は、ノープランで来た。
 どこか、行きたいところはある? 見たいものとか」
「えっ? あ、なんだろ……。海とか、どうですか」
「いいよ」

 湘南か、千葉か。二人で話し合って、千葉に決めた。

「海風ですね」
「そうだな」
 秋の空の下で、房総の海は眩しい光を乱反射していた。
 海を見ながら歩く。
 薄茶色のローファーを履いた足が、砂浜の上でよろけた。とっさに腕を動かして、捕まえた。
 祐奈の重みを右腕に感じた。胸の感触も。ひどく柔らかく感じて、動揺してしまった。
 抱えた体から、バニラのような、甘い匂いがした。
「ありがとう……ございます。男の人の力って、すごいですね。ぜったい、ころぶと思ったのに」
 不自然に思われないように、少しずつ体を離した。右腕から、熱が体に伝播していく。
 祐奈は、不思議そうに俺を見ていた。
「……西東さん?」
「ごめん。胸に、腕が当たった」
「え、あっ。ごめんなさい……」
 至近距離で、目が合った。
 あいかわらず、大きな目だった。透きとおっていた。
 そのへんのホテルに連れこんで、この子とセックスがしたい。それは、強烈な願望だった。強烈すぎて、感じた時には否定していたほどだった。
「帰ろう」
「えっ。あ、はい……」
「ごめん。もっと、見ていたかった?」
「うん。……うん」
「まだ、ここにいたい?」
「うん……」
 心細げに見えた。思わず手を伸ばして、小さな手を取っていた。
 驚いたような顔が、安心したような顔に変わっていくのを見た。
 自分の手の平が熱い。汗をかいているなと思った。
「つないでいい? もう、つないでるけど」
「いい、です」
 そのまま、さらさらとした砂の上を歩いていった。

「今日は、ほんとは……」
「うん?」
「疲れてました? あの。そういう時は、キャンセルしてもらって、大丈夫ですから」
「疲れてるわけじゃない。ただ、いろいろ……」
 言葉にならなかった。
 恋愛はしないと決めておきながら、性欲には常に負けている。今も、もっと深く、祐奈に触れたいという思いと闘っていた。
 あの日の祐奈の姿が、ずっと、頭にちらついている。
 こんなにかわいい服を着て、俺と会ってくれているのに。その下にある、生身の裸を想像してしまうだなんて。どういうことなんだ。
 理不尽な怒りが湧いた。
 どうして、君は、そういう、俺がかわいいと思わざるをえないような服を着てくるんだ。声も、仕草もだ。ひどい。かわいさしかない。かわいさだけでできている生き物みたいだった。
 俺は、君の女の部分に触れて、愛した。熱くて、湿っていた。中から溢れた愛液を、愛おしいと思った。これは、俺の妄想ではなくて、実際にあったことだった。
 君の中に入りたい。君を愛したい。
 バカなことを考えるな。俺自身の声が、頭の中に響く。また、同じことをくり返すのか。
 確かに、バカだ。だが、祐奈は愚かには見えなかった。俺も、あの頃とは違う。
 あの頃と同じようになるとは、限らない……。
 俺の手の中で、小さな手が震えている。なぜ?
 何をしてあげれば、この震えは止まるのだろうか。
 自分で自分に嵌めた枷が、壊れていくのが分かった。

「西東さん。あの……」
「なに?」
「あの、わたしね。しっ、してあげたい……」
「えっ?」
「あの……あの、くちで」
「しなくていい」
 言わせなかった。最後まで聞いていたら、祐奈の手を引いたまま、急いで車に戻って、ホテルの場所を検索していたかもしれない。たぶん。……いや。きっと、そうしていた。
「ごめんなさい」
「俺の方こそ、ごめん。……してほしそうに、見えた?」
「ううん。元気がないのかなって、思って。そんなことで、元気に……ならないですよね」
 そうでもない。心の声は、こっそりしまっておくことにした。

* * *

 四週目の土曜日。
 今日は、銀座をぶらつくとだけ決めていた。歩行者天国沿いにある百貨店に入ると、無料で見られる展示会をしていた。
 キルトの特集だった。二人で、色鮮やかな小物や敷物を見た。祐奈はすっかり興奮した様子だった。
「すごい、すてき。なべしき、かわいい……」
「買ってあげようか」
「えっ。どうして、そんなこと言うんですか」
「どうしてって……。欲しそうだから」
「え、いいんですか。本当に買っちゃいますよ。いいんですかっ」
「いいって。どれ?」
「あ……どうしよう。赤のもいいけど。黄色のこれ、かわいいですね。これ、いいですか」
「いいよ。買ってくる」
 俺についていくか、その場に残るか、迷っているそぶりだった。
「見てていいよ」
 声をかける。軽く頭を下げて、うなずいた。

 鍋敷きの入った紙袋を渡した。祐奈が両手で受けとる。
「ありがとうございます。わー。どうしよう……」
「家で使って」
「ううん。しばらく、飾っておきます」
「鍋敷きを?」
「うん……」
「まあ、いいけど。他のフロアに行く? いったん外に出てもいい」
「あ、じゃあ……。となりの百貨店にも、行きたいです」
「分かった」
 祐奈との三回目のデートは、百貨店巡りになりそうだなと思った。
 日本橋まで歩いてもいいかもしれない。

「西東さん。ここも、展示会をしてます」
「どんなの?」
「『エリザベス朝、イングランドの黄金期』って」
「見に行こうか」
「はいっ。行きたいです」

 七階のイベントスペースに展示があった。エリザベス一世のものと思われる肖像画が、いくつか飾られている。当時の服飾品もあったが、多くはレプリカのようだった。
「家具の写真がありますね。こんな感じだったんだ……」
「意外と質素な気がするな」
「それは、だって。四百年以上前のものですよ。これ」
「現存してることに驚くべきだな」
「ね。そうですよね……」
 壁にかけられた肖像画の前で、祐奈が立ち止まった。
「クイーン・エリザベス……」
「気になる?」
「はい。映画で、見たことがあって……。映画は、少しこわかったです」
「俺も見たような気がする。テレビで。途中からだけど」
「バージンだったとも、言われてますけど。ちがいますよね。さすがに……」
「どうかな。ずっと昔のことだから。想像するしかないな」
「愛人がいたらしいです」
「だったら、バージンじゃないな」
「ですよね」

 エリザベス朝の展示の横に、雑貨が置かれたスペースがあった。
 イギリスがテーマらしい。マグカップ、皿。ノートなどの文房具。セーターもあった。イギリスの国旗のついた小さな旗が、いたるところに飾ってあった。
「イギリスとイングランドって、ちがうんですよね」
「うん。ウェールズ、スコットランド……あと、北アイルランドか。それにイングランドで、イギリス」
「不思議ですよね。もし、日本だったら、東京国、大阪国、北海道国、沖縄国で日本、みたいな……」
 声を出して笑ってしまった。祐奈が、大きな目をさらに大きくして、俺を見上げた。
「……ごめん。日本に置きかえる必要、ある?」
「だって。想像してみた、だけです」
「四つの国に選ばれなかった県から、クレームが殺到するな」
「ですね。それに、四十七個も国があったら、大変ですよね」
「今と大して変わらないよ。国を、都道府県と言いかえてるだけだと思う」
「あー……」

 祐奈が、300ピースのパズルの箱を手にとった。絵で描かれた、イギリスの農村の風景らしい。
「パズルが好き?」
「はい」
「買ってあげる。貸して」
「あっ……」
「他のパズルがいい?」
「ううん。でも、あの……」
「俺が買いたいだけだよ。気にしなくていい」

 レジの列に並ぼうとすると、後ろから祐奈がついてきた。ジャケットの肘を、白い手に掴まれた。
「どうしたの」
「わたし、わたし。西東さんに、買わせようとしたんじゃなくて……」
「分かってる。大丈夫だよ」
 左腕と脇腹の間に、するりと祐奈の手が入ってきた。俺の腕に手が絡む。驚いた。
「い、いやですか」
「ううん。びっくりしただけ」
 見下ろして、見つめた。祐奈が俺を見つめ返す。かわいかった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
 店員に呼ばれて、レジカウンターまで進んだ。

「ごめんなさい。ありがとうございました」
 会計の後で、また礼を言われた。
「いつも、こうなんですか」
「そうでもない。……なかった、と思う」
 年を取ったからだろうか。それとも、俺が変わっただけなのだろうか。
 祐奈が欲しいと望んだものは、何でも叶えてやりたいと思ってしまっている。危険な兆候だなと思った。
「あの、あのね……」
「うん?」
「西東さんは、よく、人から誤解されませんか」
「どうかな。最近は、そうでもない」
「最近? じゃあ、昔……じゃない。もっと、若い頃は?」
「わりと、あった。人との距離感が、よく分からなかったから」
「そう……だったんですね」
「今も、おかしい? 距離感」
「ううん。ううん……」
 祐奈が首を振る。束ねずに下ろした黒髪が、動きに合わせて揺れた。
「あの。わたし、お手洗いに」
「行っておいで」
「はい。……ここに、いますか?」
「いるよ。待ってる」
「わかりました。ちょっと、ごめんなさい」

 百貨店巡りの後は、銀座の街をあてもなく歩いた。
 途中で昼食を食べて、また街をさまよう。楽しかった。
 祐奈は、よく笑った。つられて、俺も笑った。
 いろんな話をした。

 夕方になる前に、すっかり道を覚えてしまった例の公園まで、祐奈を送っていった。
 封筒に入れた二万円を渡した。両手で受けとってから、少しも嬉しくなさそうな顔で、封筒を見つめていた。
 それは、初めて会った日からそうだった。口では礼を言っても、顔の表情に喜びはない。
 身動きもせずに、俺のとなりで黙りこんでいた。
「白井さん?」
「……あのね、西東さん」
「うん?」
「あの、わたしの……わたしの、部屋に」
「うん」
「ごめんなさい。なんでもないの。帰ります」
 おびえるような顔をして、早口で言った。俺が何か言う前に、助手席から下りて、歩いていってしまった。
 走るように去っていく。
 長袖の、赤いワンピースを着た後ろ姿が、残像のように心に残った。

 公園の駐車場に停めた車の中から、ずっと、祐奈の姿を目で追っていた。
 部屋に誘われそうになったのだということは、分かっていた。まだ行けないな、と思った。
 俺を、あの小さな口で、愛そうと思ってくれたのかもしれない。だが、俺は、それに耐えられないだろうと思った。きっと、止まれなくなる……。
 祐奈の体を貪る自分を想像しようとして、やめた。ひどく生々しく、詳細に思い描いてしまいそうだったからだ。

「……まいったな」

* * *

 十月になった日の金曜日。
 夜遅くに、紘一から電話がかかってきた。

「なに?」
「なに、じゃないよ。かわいいデリヘル嬢の子のこと、聞かせて?」
「特に進展はない」
「またまたー。デートは? してるの?」
「週一だけ。明日もある」
「うわっ……。相性、よさそうじゃん。どうなの?」
「分からない。最近は、もうつき合ってるような気分になってる。勝手に」
「こわいなー。好きだって、言った?」
「言ってない」
「言いなよ」
「分かってる」
「分かってないよ。なあなあにしてると、また……」
「うん」
「ごめん。僕が言うことじゃ、なかった。とにかく、ちゃんとしなよ」
「ありがとう。がんばる」
「うん。がんばって」
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