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1.バージン・クイーン1
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九月の二週目は、週末まで、気持ちのどこかが浮ついていた。
平日の仕事は、今はそれほど忙しくはない。定時で上がれる日は、スポットでジムに行った。
もう三十だ。まだ三十か? よく分からない。
体を鍛えても、若返ったりはしない。だが、何もしないよりはましだろう。
デートの日になった。
住んでいる部屋の近くにあるという、大きな公園に車を停めた。
LINEでメッセージを送ると、『公園まで行きます』という返事が返ってきた。
車の色とナンバーの一部を伝えた。
どれくらい距離があるか分からないので、車の中で本を読んで待つことにした。
芥川の「蜘蛛の糸」が入った文庫だ。大学の頃に買ったので、もう十年近くそばに置いてあることになる。小口は、かなり黄ばんでいた。文庫の紙は劣化が早いなと思った。
こつんと音がした。運転席側の窓ガラスを、小さな手が叩いている。
ガラスを下ろした。
「ごめん。気がつかなかった」
「いえ。あの、……こんにちは」
「こんにちは。助手席に乗ってくれる?」
「はい」
となりに座った祐奈をあらためて見て、息を呑んだ。先週末に見ていた姿とは、まるで違って見えた。
フルメイクだった。たった一週間で、三つくらい年を取ったように見えた。二十そこそこに見えていたが、思い違いだったのかもしれない。
かわいいというより、美しいというのがふさわしいような顔に見えた。少し残念だった。化粧をしていない素顔の方が、かわいかったなと思った。
俺の部屋に来た時は、白いカーディガンの下は、すとんとした淡い色のワンピースで、足は裸足にサンダルだった。
今日はスーツに近いような、大人の女性らしい格好だった。似合ってはいたが、つまらないとも思った。どこにでもいるOLのように見えた。黒髪は、後ろで一つに束ねられている。隙のない姿だった。
あの日の俺が惹かれたのは、あやうさを体現したような様子の祐奈だった。そのことを、本人からまざまざと突きつけられたような気がした。
「あの……。西東さん?」
「今、いくつ?」
「二十四です」
「二十四か。俺は三十」
「えーっ!」
「驚いた?」
「そんなに……上とは、思ってなかった、です」
「六才差だろ? 大したことない」
「ですかね……」
「いや。やっぱり、離れてるよな」
「でも、お若く見えます。三才上くらい……だと、思ってました」
「そうか」
それも、どうなんだろうなと思った。
「シートベルト。つけてくれる?」
「あっ。ごめんなさい……」
「いいよ。急かしたいわけじゃない。
上野の博物館に行こうと思う。美術館もあるけど。どっちがいい?」
「あ、どっちでも……。西東さんは、どっちがいいですか?」
「博物館。恐竜展が見たい」
二十四の女の子をつれて行くような場所だろうかとも思ったが、自分に正直になった結果が、これだった。
「恐竜展……。いいですね」
予想外の答えが返ってきた。
「ほんと?」
「うん。わたし、たぶん、行ったことあります」
「博物館に? 二つあるけど」
「ありますね。だけど、恐竜展をする博物館の心あたりは、ひとつだけです。わたし、一人でミイラ展に行ったことありますよ」
「あー。あったな」
「ね? 合ってるでしょ?」
にこっと笑った。心臓が跳ねた。あの日の祐奈が、急に目の前に現れたようだった。
二人でうどんを食べた後で、どら焼きを出した時と同じ笑い方だった。
「楽しみです」
「分かった。行こうか」
車で上野駅まで行った。
博物館まで、祐奈と二人で歩いた。
特別展示のチケットを二人分買って、一枚を祐奈に渡した。
「つまらなくない? 大丈夫?」
「ううん。おもしろい……」
恐竜の卵の模型を、腰を屈めて覗きこんでいる。膝丈のスカートの下から伸びている、肌色のストッキングを履いた足から、目が離せなくなった。これは、俺の手が触れて、持ち上げたり、抱えたりした足だった。
「……よくないな」
「え?」
「何でもない」
今日は、何もしないつもりだった。祐奈に対して抱いている感情の正体を見極めたい。そう思っていた。
セックスをしてしまうと、分からなくなる。それが本当に愛情なのか、それとも、その場限りの性欲でしかないのか。本来、分けて考えるようなものではないのかもしれない。それでも、俺は確かなものが欲しかった。
この人にだったら、何をされてもいい――それこそ、殺されても構わないと思えるくらいの――という覚悟が決められるような相手を見つけるには、どうしたらいいのだろうか。そんなことを、ずっと考え続けている。
大きな恐竜の骨格が、天上から吊られていた。
「わー……」
「骨の模型だな。たぶん、本物じゃないよ」
「ここに、本物って」
「ごめん」
「気にしないでください。……だめですね。わたし。余計なことを」
「いや。それは、余計なこととは言わない」
「そうですか?」
「うん」
俺が肯定すると、ほっとしたような顔をした。
「西東さん。わたしね……」
「うん?」
「あっちの展示を、先に見たいの。少しだけ、別行動でもいいですか?」
「ああ……。いいよ。はぐれたら、LINEして」
「はいっ」
俺にうなずくと、人を避けながら歩いていってしまう。意外と足が早いなと思った。
一時間近く経ってから、祐奈と合流した。満足そうな顔をしていた。
「楽しかった?」
「うん。映像、見ました?」
「見た」
「ナレーションが、好きな女優さんだったの。三回見ました」
「三回……」
「あっ。バカにしてますか?」
「ううん。してない」
「ふつうの展示も、見ていきませんか?」
「見たいの?」
「はい。せっかく、このチケットで見られるのに。見ないのは、もったいないです」
「だよな。何か、見たいものある?」
「あります。……どこだったかな。石です。鉱石が、ばーっと並んでる展示」
「ああ。あれか」
「わかるんですか?」
「うん。ついて来て」
少し歩いてから振り返ると、祐奈が、尊敬の眼差しで俺を見つめていた。悪くない気分だった。
昼食は、博物館の中のレストランで食べることにした。
混んでいた。入る前から十分以上は待たされていた。祐奈は、時間のことは気にしていない様子だった。
「こういうの、平気な人?」
「こういうの……って?」
「待たされるのが嫌いな人もいるから」
「ああ……。そうですよね。わたしは、大丈夫です。
これでも、けっこう、頭の中で、いろんなことを考えてるんですよ。うちに帰ったら、なにをしようとか、この前見たテレビ、おもしろかったなーとか。
はんすうするんです」
「はんすうするのか」
「そうです。そうしてると、意外と、あっという間に時間が経ってます」
「分かった。俺もはんすうする」
「ふふっ。してください」
ふと見下ろした視線が、向こうからも捉えられた。黒々としたアイラインが引かれた目は、あの日よりもずっと大きく見えた。日本人形みたいだなと思った。
「……西東さん?」
「もし、俺のことを気にしてくれて、メイクしたんだったら……。俺は、別に素顔でも平気だから」
「えーっ……。そんなふうに言ってくれる男の人って、実在するんですね」
「いるだろう。どこにでも」
「だって。しないと、言われますよ。むしろ、女性から……」
「言われたの?」
「はい。薄化粧でも、『やる気あるの?』みたいな……。先輩から」
「仕事のやる気とメイクって、関係ある?」
「ある……らしいですよ。わからないけど」
「ふーん……」
「あの日は、ごめんなさい……。あわててたから、お化粧する時間がなかったの」
「だからさ。しなくてもいいっていう話の後で、どうして謝るのかな」
「でも、西東さんは、お客さん……」
言いかけて、はっとしたように口を噤んだ。確かに、祐奈の後ろで待っている子供づれの家族には、聞かせたくない話題だった。
「この話は、やめようか」
「ですね……」
上野公園を散歩してから、駅前の駐車場まで戻った。
帰りの車の中では、祐奈はあまり喋らなかった。疲れたのかもしれなかった。
迎えに行った公園の近くで、祐奈を下ろすことにした。
「ここでいい?」
「はい」
「これ。今日の分」
封筒に入れて用意しておいた二万円を、ダッシュボードから取って渡した。
「あっ……。ありがとうございます」
「じゃあ、また。後ろから自転車が来てるから。気をつけて」
「え、あの……」
「なに?」
「なっ、なんでも……ない。あの、次は?」
「来週かな。土日、どっちか空いてる?」
「空いてます」
「どっちがいい?」
「じゃあ……じゃあ、土曜日に」
「いいよ。また連絡する」
「はい……」
祐奈が車から下りた。俺を見つめたまま、歩道で立ちつくしている。
祐奈の後ろを、学生が乗った自転車が何台か通りすぎていった。
左手を軽く上げて、振って見せた。
なぜか、泣きそうな顔で俺を見ていた。
平日の仕事は、今はそれほど忙しくはない。定時で上がれる日は、スポットでジムに行った。
もう三十だ。まだ三十か? よく分からない。
体を鍛えても、若返ったりはしない。だが、何もしないよりはましだろう。
デートの日になった。
住んでいる部屋の近くにあるという、大きな公園に車を停めた。
LINEでメッセージを送ると、『公園まで行きます』という返事が返ってきた。
車の色とナンバーの一部を伝えた。
どれくらい距離があるか分からないので、車の中で本を読んで待つことにした。
芥川の「蜘蛛の糸」が入った文庫だ。大学の頃に買ったので、もう十年近くそばに置いてあることになる。小口は、かなり黄ばんでいた。文庫の紙は劣化が早いなと思った。
こつんと音がした。運転席側の窓ガラスを、小さな手が叩いている。
ガラスを下ろした。
「ごめん。気がつかなかった」
「いえ。あの、……こんにちは」
「こんにちは。助手席に乗ってくれる?」
「はい」
となりに座った祐奈をあらためて見て、息を呑んだ。先週末に見ていた姿とは、まるで違って見えた。
フルメイクだった。たった一週間で、三つくらい年を取ったように見えた。二十そこそこに見えていたが、思い違いだったのかもしれない。
かわいいというより、美しいというのがふさわしいような顔に見えた。少し残念だった。化粧をしていない素顔の方が、かわいかったなと思った。
俺の部屋に来た時は、白いカーディガンの下は、すとんとした淡い色のワンピースで、足は裸足にサンダルだった。
今日はスーツに近いような、大人の女性らしい格好だった。似合ってはいたが、つまらないとも思った。どこにでもいるOLのように見えた。黒髪は、後ろで一つに束ねられている。隙のない姿だった。
あの日の俺が惹かれたのは、あやうさを体現したような様子の祐奈だった。そのことを、本人からまざまざと突きつけられたような気がした。
「あの……。西東さん?」
「今、いくつ?」
「二十四です」
「二十四か。俺は三十」
「えーっ!」
「驚いた?」
「そんなに……上とは、思ってなかった、です」
「六才差だろ? 大したことない」
「ですかね……」
「いや。やっぱり、離れてるよな」
「でも、お若く見えます。三才上くらい……だと、思ってました」
「そうか」
それも、どうなんだろうなと思った。
「シートベルト。つけてくれる?」
「あっ。ごめんなさい……」
「いいよ。急かしたいわけじゃない。
上野の博物館に行こうと思う。美術館もあるけど。どっちがいい?」
「あ、どっちでも……。西東さんは、どっちがいいですか?」
「博物館。恐竜展が見たい」
二十四の女の子をつれて行くような場所だろうかとも思ったが、自分に正直になった結果が、これだった。
「恐竜展……。いいですね」
予想外の答えが返ってきた。
「ほんと?」
「うん。わたし、たぶん、行ったことあります」
「博物館に? 二つあるけど」
「ありますね。だけど、恐竜展をする博物館の心あたりは、ひとつだけです。わたし、一人でミイラ展に行ったことありますよ」
「あー。あったな」
「ね? 合ってるでしょ?」
にこっと笑った。心臓が跳ねた。あの日の祐奈が、急に目の前に現れたようだった。
二人でうどんを食べた後で、どら焼きを出した時と同じ笑い方だった。
「楽しみです」
「分かった。行こうか」
車で上野駅まで行った。
博物館まで、祐奈と二人で歩いた。
特別展示のチケットを二人分買って、一枚を祐奈に渡した。
「つまらなくない? 大丈夫?」
「ううん。おもしろい……」
恐竜の卵の模型を、腰を屈めて覗きこんでいる。膝丈のスカートの下から伸びている、肌色のストッキングを履いた足から、目が離せなくなった。これは、俺の手が触れて、持ち上げたり、抱えたりした足だった。
「……よくないな」
「え?」
「何でもない」
今日は、何もしないつもりだった。祐奈に対して抱いている感情の正体を見極めたい。そう思っていた。
セックスをしてしまうと、分からなくなる。それが本当に愛情なのか、それとも、その場限りの性欲でしかないのか。本来、分けて考えるようなものではないのかもしれない。それでも、俺は確かなものが欲しかった。
この人にだったら、何をされてもいい――それこそ、殺されても構わないと思えるくらいの――という覚悟が決められるような相手を見つけるには、どうしたらいいのだろうか。そんなことを、ずっと考え続けている。
大きな恐竜の骨格が、天上から吊られていた。
「わー……」
「骨の模型だな。たぶん、本物じゃないよ」
「ここに、本物って」
「ごめん」
「気にしないでください。……だめですね。わたし。余計なことを」
「いや。それは、余計なこととは言わない」
「そうですか?」
「うん」
俺が肯定すると、ほっとしたような顔をした。
「西東さん。わたしね……」
「うん?」
「あっちの展示を、先に見たいの。少しだけ、別行動でもいいですか?」
「ああ……。いいよ。はぐれたら、LINEして」
「はいっ」
俺にうなずくと、人を避けながら歩いていってしまう。意外と足が早いなと思った。
一時間近く経ってから、祐奈と合流した。満足そうな顔をしていた。
「楽しかった?」
「うん。映像、見ました?」
「見た」
「ナレーションが、好きな女優さんだったの。三回見ました」
「三回……」
「あっ。バカにしてますか?」
「ううん。してない」
「ふつうの展示も、見ていきませんか?」
「見たいの?」
「はい。せっかく、このチケットで見られるのに。見ないのは、もったいないです」
「だよな。何か、見たいものある?」
「あります。……どこだったかな。石です。鉱石が、ばーっと並んでる展示」
「ああ。あれか」
「わかるんですか?」
「うん。ついて来て」
少し歩いてから振り返ると、祐奈が、尊敬の眼差しで俺を見つめていた。悪くない気分だった。
昼食は、博物館の中のレストランで食べることにした。
混んでいた。入る前から十分以上は待たされていた。祐奈は、時間のことは気にしていない様子だった。
「こういうの、平気な人?」
「こういうの……って?」
「待たされるのが嫌いな人もいるから」
「ああ……。そうですよね。わたしは、大丈夫です。
これでも、けっこう、頭の中で、いろんなことを考えてるんですよ。うちに帰ったら、なにをしようとか、この前見たテレビ、おもしろかったなーとか。
はんすうするんです」
「はんすうするのか」
「そうです。そうしてると、意外と、あっという間に時間が経ってます」
「分かった。俺もはんすうする」
「ふふっ。してください」
ふと見下ろした視線が、向こうからも捉えられた。黒々としたアイラインが引かれた目は、あの日よりもずっと大きく見えた。日本人形みたいだなと思った。
「……西東さん?」
「もし、俺のことを気にしてくれて、メイクしたんだったら……。俺は、別に素顔でも平気だから」
「えーっ……。そんなふうに言ってくれる男の人って、実在するんですね」
「いるだろう。どこにでも」
「だって。しないと、言われますよ。むしろ、女性から……」
「言われたの?」
「はい。薄化粧でも、『やる気あるの?』みたいな……。先輩から」
「仕事のやる気とメイクって、関係ある?」
「ある……らしいですよ。わからないけど」
「ふーん……」
「あの日は、ごめんなさい……。あわててたから、お化粧する時間がなかったの」
「だからさ。しなくてもいいっていう話の後で、どうして謝るのかな」
「でも、西東さんは、お客さん……」
言いかけて、はっとしたように口を噤んだ。確かに、祐奈の後ろで待っている子供づれの家族には、聞かせたくない話題だった。
「この話は、やめようか」
「ですね……」
上野公園を散歩してから、駅前の駐車場まで戻った。
帰りの車の中では、祐奈はあまり喋らなかった。疲れたのかもしれなかった。
迎えに行った公園の近くで、祐奈を下ろすことにした。
「ここでいい?」
「はい」
「これ。今日の分」
封筒に入れて用意しておいた二万円を、ダッシュボードから取って渡した。
「あっ……。ありがとうございます」
「じゃあ、また。後ろから自転車が来てるから。気をつけて」
「え、あの……」
「なに?」
「なっ、なんでも……ない。あの、次は?」
「来週かな。土日、どっちか空いてる?」
「空いてます」
「どっちがいい?」
「じゃあ……じゃあ、土曜日に」
「いいよ。また連絡する」
「はい……」
祐奈が車から下りた。俺を見つめたまま、歩道で立ちつくしている。
祐奈の後ろを、学生が乗った自転車が何台か通りすぎていった。
左手を軽く上げて、振って見せた。
なぜか、泣きそうな顔で俺を見ていた。
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