虹色浪漫譚

オウマ

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 珍しく仕事が早めに片付いた。先日、椿谷の奥様をしっかりと見ていてくれたお礼にと団子を買って帰る。しかし水姫は出掛けてしまっていた。いつも通り中原さんの家に世話になっていると書かれた置き手紙。団子が硬くなる前に食べてもらおうと届けに向かう。すると中原の奥様が現れ「うちには来ていない」と首を傾げた。ならば灰さんと一緒かと思えば、今日、彼女は婚約者の家に遊びに行っているとのこと。
 では水姫は一体、何処へ行ったのか。
 一緒に探そうかという中原さんの申し出を断り、何か連絡の行き違いがあっただけでしょうと伝え、家に引き返す。
 眠れぬ夜が明けた頃、慌てふためいた使いの者が家に急ぎ飛び込んできた。その口から放たれた一報に、耳を疑った。何かの、間違いだ。そんな事があるはずない。我が妻、水姫が、どこぞの男と海で心中自殺を図ったなど、どうして素直に信じられようか。
 閑散とした港町において、寄り添って歩く艶やかな着物を召した若い女と背の高い男の姿は人目を惹いたらしく。それが幸いしてたまたま海に沈んでいく様を遠目に目撃した者がいた。その者が近くにいた漁師たちに助けを求め、程無く互いの身体を帯で縛り合い寄り添ったまま波間を漂っている二人を引き揚げたのだという。
 半信半疑のまま水姫が担ぎ込まれた病院へ向かった。どうか人違いであって欲しい。しかし医者に案内された病室、そのベッドの上に真っ青な顔をして横たわっていたのは、紛れもなく妻だった。間近に覗き込んで尚も人違いを祈ったが、間違いなく妻だ……。見れば見るほどに、これは俺の妻……。
「水姫……!」
 呼び掛けるが目を覚ます気配はない。
 医者の話によると水姫は酷く大量の水を飲んでおり、一命は辛うじて取り留めたものの未だ意識は戻らないのだという。危険な状態だと、言われた。
 一緒に引き揚げられた男はもう意識を取り戻したというのに、何故、水姫だけ……。
 先に目を覚ました男が水姫の身元を話した為に俺に連絡が届いたのだと医者が言う。
 不思議と、なんの感情も湧かなかった。上の空だったからだろうか。こうして妻の顔を見ていても、どうにも実感が湧かない。
 信じられない、信じたくない、どうしたらいいんだ、頭の中が酷い有り様だ……。一体どうしたらいいのか……。
 一通りの話を終え、医者は一礼をして病室を出て行った。
 ……どうして、こんなことになったのか……。どうして俺は妻を守ってやれなかったのか……。
 ぼんやりとしたまま暫く、眠っている妻の顔を見つめた。
 可愛い顔をしている。
 とても死に急いでみせた女とは思えぬ無垢な寝顔。
 考えれば考える程に自分が情けなかった。俺が、妻をここまで追い詰めたのだ……。他の男に縋りたくなる程に、自ら死を選ぶ程に、俺が追い詰めた……。
 どうしてもっとしゃんと妻を見ていてやれなかったのか。見ていれば水姫の様子がおかしいことに気付けたはずだ、こんなことは絶対に起こらなかった筈だ。
 水姫は、文句一つ言わずにいつも笑ってくれていた、全てはそれに甘えすぎていた俺の責任。
 水姫、すまなかった……。
 胸の中で詫びたところで今更どうにもならないが……。
 隣の病室に足を運ぶことにした。此処に水姫と心中を図った男がいるらしい。顔など見てどうするのか、見ない方がいいのではないか。色々と思う所があるがしかし勝手に足が進んで行く。最早、冷静な判断などつかぬ状況にあったのかも分からない。
 覗き見たそこには、深く目を閉じてベッドに身を沈めている若い男がいた。成る程、端正な顔立ちをしている。整った髪などを見ると人並みの生活をしていることもうかがえる。だが、俺に言わせれば実に貧相で頼りなさそうな優男だ。
 眠っているとばかり思っていた男が俺の気配に目を開き「どちら様で?」と小さく首を傾げた。その問いは無視し、身よりはいないのかと逆に尋ねた。男が無言で首を横に振る。友人はと尋ねても同じ。名前を聞いても同じく首を振る。この男、名前すら名乗れないのか。
 医者が言った通りだ。水姫の身元を話した後、それっきりこの男は貝のように口を閉ざしたと。自分の名前すら言わないのだと。
 一切の気力を失ったような表情。覇気は無く、しかしお前は誰だ言わんばかりの疑心を含んだ嫌な目を俺に向けている。
 こんなに酷い眼は稀だ……。とても健全な人間の目ではない。
 嗚呼、分からない。水姫、お前はこんな男の何処に惚れた。こんな荒んだ目をした男……! お前が命を懸けるに値する男とは到底思えぬ……!
 一発殴らねば気が済まないと考えていたが、そんな気も失せた。一発でも殴りつけたらそのまま死んでしまいそうな雰囲気をこの男は醸している。不思議と怒鳴り散らす気にもなれない……。
「話せることは全て話した筈ですが」
 怪訝そうな顔だ。俺を警察か何かだと思っているのだろうか。まあいい、否定するのも肯定するのも面倒臭い。
「貴方は、何故自ら死のうと? 何故、心中を考えるに至ったんですか?」
 コイツの気持ちなど分かりたくもないが、とりあえず尋ねてみた。
「言い出したのは僕です。彼女を誰より愛していたから。僕は彼女の全てが欲しかった。……なのに今、彼女の全てを失いそうです……。僕は彼女との約束を違えてしまった……。こんなはずじゃなかったんですよ。誰だ僕らを引き揚げてくれたのは。本当に余計な事をしてくれた……。彼女は、まだ目を覚ましませんか?」
 この男、淡々とした口調で酷いことを言う……。
「ええ、まだ……」
「……そうですか……」
 言うと男は目線を窓の外に向けた。
 ……分からない。水姫は何故こんな男を慕ったのか……。
「手に入れたかっただけなんです……。ですから僕は今、彼女に目覚めて欲しいと真に願っています……。彼女が目覚めたら、もう一度やり直したい……。もっと、確実な方法で……」
 ボソボソと独り言のように語ると男は不意に着物の袖を捲り二の腕をボリボリと掻いた。……なんだ、その腕は? 何が痒いのかと思ったらミミズ張れが出来ている。まるで、凄い力で引っかかれたような……。
「……っ」
 息が、詰まった。容易に想像がついてしまったのだ。この引っ掻き傷の付き方、間違いない。水姫がこの男に付けた傷だ。これは、水姫が、海に身を沈め、苦しい息の中でも必死にこの男に縋り続けていたという、証……。
「殺して手に入れるなんて、間違っている……! どうして死ぬ必要があるのですか……。貴方は彼女と死にたいのではなく、ただ一緒にいたいだけだったのでしょう……!?」
 もう俺は何も言うまい……。妻は、俺ではなくこの男を選んだのだ。
 男が虚ろな目で再びこちらを見た。
「……失礼。質問の意味が、分かりません」
「では言い方を変えます。これから彼女とずっと一緒にいられるとする、それでも貴方はまた同じことを繰り返しますか?」
 ……男の目が一瞬、俯いた。
「やはり質問の意味が分かりません」
「何が分からないんだ? もし、なんの障害もなく彼女と婚約を結ぶことが出来ても同じ事をするのかと聞いているんだ」
「ああ、そういうこと……」
 やっと質問が飲み込めたのか男が一人で頷いてみせる。
「そうですね。ずばり分かりません……。するかもしれませんが、分かりません……」
「分からない、ではなく、はい、か、いいえ、で、答えて下さい」
「はい、か、いいえ、ね……」
 男が大きく溜め息をついた。俺をしつこいとでも思っているんだろう。
「無理です。答えられません。だって彼女はまだ目を覚ましていない……。そんな仮定に思考を巡らす気にはなれません……。無駄です」
「何を言いますか。彼女は必ず目を覚まします。ああ見えて芯はとても強い女ですから……!」
 ひょっとすると、この言葉で俺が誰か察してしまったのだろうか。男の顔色が変わったのが見て取れた。今までになく見開いた目。驚愕の表情といったところだろう。成る程、根本まで頭の悪い人間ではないのだな……。
「貴方は、まさか……。水姫の……」
「水姫を、宜しくお願いします」
 男の言葉を遮り、頭を下げた。男が何を俺に尋ねようとしているかは予想がついた。だからこそだ。俺は名乗りたくなかった。何故かは分からないが、断じて名乗りたくなかった。
 相手は、そんな俺の心情を汲み取ってくれたのだろうか。執拗に何かを追求してくることはなかった。
「水姫を、宜しくお願いします……! 口は悪いが、心の優しい女性です。多少、我が儘なところもあります。しかし貴方への気持ちを命を懸けて証明してみせたんです。どうか、大事にしてやってください……!」
 情けない……。どうしてこんな男に頭を下げねばならないのか……。いや、しかし、これぐらいしても足りないだろう。水姫の将来を思えば……。
「大事に? ……はて、どう大事にすれば良いものか……。散り損なった僕らは一体どうすれば……。彼女は死ぬことを望んでいた。死んで、僕のものになりたがっていた……。僕はそれを叶えてやれなかった。……惨めだ……」
 再び窓の外、浜辺の景色を見つめて男が呟く。
 ……はらわたが、煮えくり返った。この男、やはり正気とは思えん……!
「貴方は本当に水姫が死を望んでいたと思うんですか!?」
「はい」
 悪びれない顔で男が頷く。
 思わず拳を振りかざしそうになったが、そこは耐えた。
「っ……お前は……!! 水姫の話をちゃんと聞いてやったのか!? 理解してやったのか!? よく思い出してくれ、水姫は貴方に何を求めていましたか!? 死んで得られるものなど何もない!! こんな事になってもそれが分かりませんか!? 水姫はただ、貴方と一緒にいたかった、それだけなのに!!」
「話がよく見えません。貴方は僕にどうしろというんですか?」
 男が拳を強く握ったのが見えた。口では突っぱねているが、僅かながら思う所があったのだろうか。それならまだ救いはある……。
「生きて下さい。そして、水姫を宜しくお願いします。不甲斐ない亭主のせいで苦しんだんです……! その中で貴方を信じ頼りにしたんです……! 貴方に人としての情があるならば、真に水姫を想って下さるならば、どうか! どうか逃げずに、幸せにしてやって下さい。お願いします……!」
「っ…………申し訳ないが、明確な返事をすることは、出来ない」
 絞り出すような声で男が答えた。
 そう、か……。ここまで言って分からないというなら、もう時間の無駄だな……。
「そうですか。……申し訳ない、具合が悪いところを邪魔してしまった……。では、失礼します」
「待って下さい。貴方の話は全てにおいて先を行き過ぎている。全ては彼女次第だ。僕らが今勝手に決めることではない、そう思いませんか? まず目を覚ますかどうかも分からないんだ。それなのに」
「いいえ。水姫は必ず目を覚まします、そしてこれと決めたら一直線なところがあります。二度も同じことを言いたくはないが水姫は命を懸けたのです。どうか信じてやって下さい。あいつは貴方を誰より慕っています。共に死なずとも、貴方はもう、既に水姫の全てを手に入れているのです」
 男に対して言いたいことは全て言った。返事も聞かず心置きなく病室を出る。後ろで男が声を詰まらせ、ベッドの縁を拳で叩いたような音がした。だからなんだ、振り返る必要もないだろう。
 水姫の顔を再び覗き見る。先程と何も変わらぬ可愛い寝顔……。いつまで経っても子供っぽさの抜けぬ顔……。
 お前はもう忘れているかも分からないが、俺は昨日のことのように覚えているんだよ。見合いの席にて、婚約の意味もよく分かってなさそうな幼いお前が不思議そうに俺を見上げて「宜しくお願いします」と、はにかんでみせた顔を。
 歳の離れた娘御のような妻、どう接してやればいいのか分からなかった。
 ……浮かぶのは、言い訳ばかりだな。「この子は口は少々悪いのですが、心は本当に優しい子なんですよ」ってのは、お前の親族の受け売りだ。
 水姫はまだ暫く目を覚ましそうにない。
「すぐ戻ります。妻を宜しくお願い致します」
 医者に一言かけてから病院を一旦後にする。
 どうにも自分が許せない。男に頭を下げただけでは足りない。どうにもこうにも、更に己に罰を与えねば気が済まない。何か、罰を……。これは、何もかも俺の責任なのだから。
 水姫は、悪くない。何故なら、先に裏切ったのは俺だ。幸せにするとの約束を破ってしまった俺が、悪いんだ。
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