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確かに彼女に恋をしろとは言った。しかしまさかその相手に僕を選ぶとは。なかなかどうして、奇特な女性もいたものだ。
恋をしろ、その相手が僕であれば……、それは頭の片隅にあった願望であって期待などしていなかったんだが。事実は小説より奇なり。成る程、今なら頷ける。
名残を惜しむように彼女は何度もこちらを振り返った。堪らず追い掛けてしまいそうになる足を踏み止めるのに苦労した。
……分かってはいた、別れが近付くに連れて彼女が顔を曇らせ、縋るような目で僕を見ていた事を。それでも手を伸ばさなかったのは理性によるものか、はてまた度胸の無さか。
夜の闇に小柄な後姿が吸い込まれていくのを最後まで見届ける。強く抱き締めたら折れてしまいそうな程に細く小さな身体……。角を曲がって、その姿は完全に見えなくなった。
何事もなさそうだな。無事に家路に着いたと見込んでその場を去る。
めかし込んだ彼女は常に僕を頬を赤らめ潤んだ目で見つめていた。誰に見せるでもない物語を僕にだけ書いて見せた。誘いの言葉をかければ手を叩いて喜んだ。実に分かり易い。自分で言うのも何だが、これに気付かない程に僕は愚鈍な男ではない。されど勝手な勘違いもしていたくはない。あの口づけは僕の大きな賭けだった。結果、何もかも僕の勘違いでなかった事が証明された。
胸がゾクゾクする。僕はやっと、やっとこの命を散らす機会を迎えたのかもしれない。ただぼんやりと過ごしてきた、何かをやり残している、その何かがなんだかも分からず生きてきた。形の一切見えぬ何かを欲して生きてきた。しかしそれはもう見つかったも同然だ。彼女を手に入れるまで散って堪るか、となれば逆の発想だ、彼女を手に入れる事が出来たら僕は、心置きなく散れる。
是非また会いましょう雪村水姫さん。僕は貴女を手に入れたい。
こんなに帰路を足取り軽く歩いたのはいつ振りだろうか。しかし、家路に到着し玄関戸を開くとそこは冷え冷えとした薄暗い空間が待っていた。
嗚呼、そうか、此処が僕の家か。
先程まであんなにも美しい女性が頬を赤らめながら隣を歩いていた事が幻だったのではないかと錯覚する程に冷淡な空気が身体を突く。堪らず夢見心地が消えかけた。が、どうやら僕の夢見心地は相当に重度なのか不思議と気分は未だ上機嫌。この空間においても消えぬ高揚。はてこれはどうしたものか。僕の身体に彼女の香が僅かながら残っているせいだろうか。
なんだか今日はまだ眠れそうにない。
先日はこんな気分のまま原稿に取り掛かり、あんな柄にもない物語を書くに至ったわけだが――――今日は何を綴る気分でもなし。居間にて畳の上に寝転がり蝋燭の明かりを頼りに彼女から預かった原稿に再度目を通す事にした。
出だしこそ僕に見せる事を意識してか一文字一文字を丁重に書いているが、物語が佳境へと差し掛かるとその文字が急激に乱れ始める。この辺りから彼女が物語に没頭して夢中で筆を走らせたこと、想像に難くない。実に微笑ましい。彼女が小さな身体を丸めて懸命に机に向かっていた情景まで目に浮かんでくる。
僕も一応は作家の端くれ。彼女が何故に物語を書きそして僕にだけ見せたのか、その理由はぼんやりと察しているつもりだ。
これは暗に、自分を見せたい、理解して欲しいという遠回しの要求。
一見遠慮がちに見えて実に積極的かつ情熱的な女性だ。僕に手紙をよこしてきた時点でなかなかに積極的であることは予想していたけれども。
今頃、彼女は家の中でどうしているだろう。どうか気を病まずにいて欲しい。何を心苦しく思う必要もない。なにせ僕は孤独には慣れている。貴女に自由が利かない事も承知の上、僅かだろうと僕こそ貴女に会いたいから赴いた。それだけだ。
ああ、これが惚れた弱みというヤツか。
別れ際、貴女は、『私に貴方様は救えませんか?』、と言ったね。
逆に問う。僕は、貴女の羽になる事が出来るだろうか。
恋をしろ、その相手が僕であれば……、それは頭の片隅にあった願望であって期待などしていなかったんだが。事実は小説より奇なり。成る程、今なら頷ける。
名残を惜しむように彼女は何度もこちらを振り返った。堪らず追い掛けてしまいそうになる足を踏み止めるのに苦労した。
……分かってはいた、別れが近付くに連れて彼女が顔を曇らせ、縋るような目で僕を見ていた事を。それでも手を伸ばさなかったのは理性によるものか、はてまた度胸の無さか。
夜の闇に小柄な後姿が吸い込まれていくのを最後まで見届ける。強く抱き締めたら折れてしまいそうな程に細く小さな身体……。角を曲がって、その姿は完全に見えなくなった。
何事もなさそうだな。無事に家路に着いたと見込んでその場を去る。
めかし込んだ彼女は常に僕を頬を赤らめ潤んだ目で見つめていた。誰に見せるでもない物語を僕にだけ書いて見せた。誘いの言葉をかければ手を叩いて喜んだ。実に分かり易い。自分で言うのも何だが、これに気付かない程に僕は愚鈍な男ではない。されど勝手な勘違いもしていたくはない。あの口づけは僕の大きな賭けだった。結果、何もかも僕の勘違いでなかった事が証明された。
胸がゾクゾクする。僕はやっと、やっとこの命を散らす機会を迎えたのかもしれない。ただぼんやりと過ごしてきた、何かをやり残している、その何かがなんだかも分からず生きてきた。形の一切見えぬ何かを欲して生きてきた。しかしそれはもう見つかったも同然だ。彼女を手に入れるまで散って堪るか、となれば逆の発想だ、彼女を手に入れる事が出来たら僕は、心置きなく散れる。
是非また会いましょう雪村水姫さん。僕は貴女を手に入れたい。
こんなに帰路を足取り軽く歩いたのはいつ振りだろうか。しかし、家路に到着し玄関戸を開くとそこは冷え冷えとした薄暗い空間が待っていた。
嗚呼、そうか、此処が僕の家か。
先程まであんなにも美しい女性が頬を赤らめながら隣を歩いていた事が幻だったのではないかと錯覚する程に冷淡な空気が身体を突く。堪らず夢見心地が消えかけた。が、どうやら僕の夢見心地は相当に重度なのか不思議と気分は未だ上機嫌。この空間においても消えぬ高揚。はてこれはどうしたものか。僕の身体に彼女の香が僅かながら残っているせいだろうか。
なんだか今日はまだ眠れそうにない。
先日はこんな気分のまま原稿に取り掛かり、あんな柄にもない物語を書くに至ったわけだが――――今日は何を綴る気分でもなし。居間にて畳の上に寝転がり蝋燭の明かりを頼りに彼女から預かった原稿に再度目を通す事にした。
出だしこそ僕に見せる事を意識してか一文字一文字を丁重に書いているが、物語が佳境へと差し掛かるとその文字が急激に乱れ始める。この辺りから彼女が物語に没頭して夢中で筆を走らせたこと、想像に難くない。実に微笑ましい。彼女が小さな身体を丸めて懸命に机に向かっていた情景まで目に浮かんでくる。
僕も一応は作家の端くれ。彼女が何故に物語を書きそして僕にだけ見せたのか、その理由はぼんやりと察しているつもりだ。
これは暗に、自分を見せたい、理解して欲しいという遠回しの要求。
一見遠慮がちに見えて実に積極的かつ情熱的な女性だ。僕に手紙をよこしてきた時点でなかなかに積極的であることは予想していたけれども。
今頃、彼女は家の中でどうしているだろう。どうか気を病まずにいて欲しい。何を心苦しく思う必要もない。なにせ僕は孤独には慣れている。貴女に自由が利かない事も承知の上、僅かだろうと僕こそ貴女に会いたいから赴いた。それだけだ。
ああ、これが惚れた弱みというヤツか。
別れ際、貴女は、『私に貴方様は救えませんか?』、と言ったね。
逆に問う。僕は、貴女の羽になる事が出来るだろうか。
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