虹色浪漫譚

オウマ

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 あれから三日経った。誰かにこの絵を見せたくて、そして今私がどんなに嬉しい気持ちか話したくてウズウズとしていたところに水姫ちゃんが遊びにやって来た。よっしゃいい時に来てくれましたあああ!
 早速部屋に引きずり込んで井ノ原様に頂いた絵を見せ、そして語りたくて語りたくて仕方のなかったあの日の井ノ原様とのことを話した。とても素朴で、優しくて、澄んだ目をしていたと。夜に見た印象とまた違ってとても爽やかな殿方であったと。そして、私なんかのことを可憐だと言ってくれたと。水姫ちゃんはそれをウンウンと頷き、微笑みながら聞いてくれた。
「もうっ、とにかくとっても素敵な人だったんだよ~!!」
「分かった分かった、それはもう分かったって。まあ、良かったじゃないか! いやしかし本当に綺麗な絵だ。オメーこんなに美人だったかあ?」
 水姫ちゃんが再び絵をまじまじと見ながら言った。……ああ、まあ、うん。凄く美化して描いてもらっちゃったよね私……。
「あの時は、暗かったからね……。嗚呼、幻滅されたかも……」
「おいおいおい、冗談だって。灰は可愛いよっ」
「いやいや、私なんてどーせ鼠をデカくしたような女……。だから銀次さんから見向きもされず……」
 何故だか幼少の頃から私は『鼠』と、あだ名付けられてきた……。特別出っ歯でもないのにだ。いいんだ、それはつまり顔そのものが鼠って事なんだ。分かってるんだ……。
「鼠をデカくしたよーな女ってアンタ、そんなこたねーって! どんな妖怪だよ!」
 いいんだ、否定してくれるな水姫ちゃん……。そんな必死に否定されると余計に辛い……。
「鼠だから相手にされない……。おのれ銀次!! 自分は栗のくせに!!」
 あの脳天にピョコンと出た髪、あの頭の形は栗だ!! フガーッ!!
「待て!! 落ち着け灰、んなこと言ったら俺は猿をデカくしたよーな女だからあの巨大なオッサンにすら相手にされないっちゅー事に!!」
「お猿さん? それは可愛らしい!!」
「猿、可愛いか……?」
 水姫ちゃんが肩を落としてお茶を啜る。何を嘆く事があるだろう? 私は鼠、水姫ちゃんは猿。どーりで昔から並んで歩いてると水姫ちゃんばかり可愛い可愛いと言われていたわけだ。猿って可愛いもんね。いいなあ。……ん? 何だろうか、水姫ちゃんが急に目を輝かせて何か言いたげな顔。
「灰。あのさ。俺も報告しておくよ。あのね、こっちも全然負けてねーぜ!」
 おお、そうだ、そうだった。水姫ちゃんは結城哉代さんって人と会ってきたんだっけ。
「ああ、どんな方だったの?」
 大事な大事な井ノ原様の絵を再び壁に飾り直しながら聞くと、待ってましたとばかりに水姫ちゃんが身を乗り出した。
「それがよー!! 士郎めの百万倍は素敵な方だったんだよー!! なんかもう全てが想像以上でさ!! 見て驚きのそれはそれは優しげで知的で儚げで背が高くて線の細い聡明で綺麗な方で!! あんな旦那が欲しかったよ俺は!! いやホント素敵な殿方だったがにゃ!!」
 な、なんという熱弁ぶりだ……。旦那様を呼び捨てだわ日本語の崩壊具合からして彼女の興奮度がよく分かる……。
「そんなに想像通り? やっぱり作品って、造る人の魂が……」
 って、何をニヤケているのか私! しゃんとなさい!
「うん。て、ことは結城様も病んでるのかな……。あのね、結城様の作品は病んでる人にしか響かないように書いてるんだって。だから俺は大病を患ってるとのことだ」
 ――え?
 大病との言葉に胸の奥がヒヤリとした。
「病んでいる……? 水姫ちゃん、何か病を?」
「ああ、違う違う。病んでるったって身体じゃなくて頭がな。確かに結城様の言う通り、もう俺、限界みたいでさ」
「頭……。心の病……。ではその方もなにかしら病んでいるのかな。……やっぱり女の私じゃ水姫ちゃんの寂しさは埋められないか!」
 先日、井ノ原様への菓子折りを探すついでに買ってきたチョコレート菓子を口に放り込む。やれやれ、この寂しがりめ。限界だなんて言われたら私の立場がないだろって。
「いやいや、灰ちゃんといると楽しいしチョコ美味しいっ」
 水姫ちゃんがニッコリ笑ってチョコを頬張る。そりゃあチョコは美味しいだろうよ、って言いたかったけど水姫ちゃんが急に肩を落としてみせたから、やめた。
「……どうしたの?」
「うん……。ずっと黙っていたけど、家にいる時はね、何を食べても味がしないんだ……。ぼんやりしてる時間も多くなった……。あそこは、まるで監獄のようだ……」
 もう嫌だ、という風に首を力無く横に振る。……言葉の意味を理解するのに少々時間が要った。
 信じられない。どうして水姫ちゃんはこんな事になっちゃったんだろう。
 花嫁衣裳を身に纏った水姫ちゃんはとても綺麗だった。あまりに綺麗で、今だって目を閉じればすぐに思い出せる程に眼に焼きついている。私も、あんな風になりたいと思った。それが、どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
 三年前には想像もしていなかった。三年前、両親を同時に病で亡くした水姫ちゃんに選択肢なんかなくて、親戚が持ってきたお見合い話を受けるしかなくて……。「なんかよく分かんないけど結婚する事になっちゃった」と苦笑いしていた彼女に私は「旦那様に精一杯尽くせば幸せになれるよ、頑張れ」と言った、それに対して「そうか。分かった」と明るく答えてみせた彼女は何処へ行ってしまったのだろう。今は何を言っても悲しそうな顔をして首を横に振る。挙句は何を食べても味がしないだって? そんな事って……。
「水姫ちゃん、女の幸せって家庭に入って旦那様に尽くす事なの? 今までそう教わってきたけど私は違うような気がする!!」
「俺も違うと思う。実際、今の俺は死んだも同然だ……。わけも分からぬまま籍を入れられて、尽くせって、そんなの幸せな筈がない!! ……結城様はね、これからは女性の時代だと言ってくれた。そして人妻の俺にもっと恋をしろと。女性は愛に生きるものだって」
「恋を? ……自由に恋をしたら幸せになれるのかな!?」
 あれ、私、なんか妙に燃えてきたゾ。
「俺は、なれると思う!! だから、また結城様に手紙を書いてしまった。あと~、有り余った時間で素人ながら今ね、物語を書いてみてるんだよ。完成したら見てもらおうと思ってるんだ」
 凄いな、結城さんの話になった途端また水姫ちゃんの目が輝き出した。
「それは、恋……?」
 聞くと水姫ちゃんは照れ臭そうに笑った。否定しないあたり決定的だな。そうか、これが恋というものなんだ。
「私も、たとえ報われなくても恋をしてる事で強くなれそうな気がする!! 私も井ノ原様と同じ物を見て分かり合いたい!!」
 なんか、なんか、物凄く燃えてきたー!!
「いいことだ灰ちゃん!! よし、お互い頑張ろう!! 旦那が何だ銀次がなんだ、あっちはこっちを見てねんだ関係ない!! ……俺のこれは、恋、なのかな。またお会いしたい旨と、物語を読んで欲しいと書いた俺は……あの方に恋をしてしまった、の、かな……」
 何を今更、と言いたいところだけど黙っておいた。何処か遠くを見つめる水姫ちゃん。その目は宝石のように輝いている。
「それで水姫ちゃんが生き生きとしてくれるなら私は嬉しいな。相手を想うのは自由だもの!」
「そっか? ……茶店で口にしたコーヒーとチョコレートケーキがとても美味しかった……。俺、思わず、うめぇって叫んでしまって……! なのにあの方、嫌な顔一つしないで下さった……! 本当に楽しい時間だった。俺、間違ってないよね!?」
「間違ってない。心がその人で溢れていたら、どんな状況でもきっと毎日幸せな筈! 恋が水姫ちゃんを救ってくれると教えてくれたんだよ、その方は!!」
「うんっ。……待てよ、それつまり俺って物凄く分かりやすい女って事じゃ? ではこの恋焦がれてしまった心も見破られていたりして? いやああああ、お恥ずかしい!!」
 み、水姫ちゃん、仮にも政治家の奥様なんだから、そんな床をジタバタと転げ回っちゃダメだよ……。でも、これこそ私の知っている水姫ちゃんだ。こうやってなんにでも大袈裟に一喜一憂してみせる水姫ちゃんこそ本当の水姫ちゃんだ。
 ふと、水姫ちゃんの動きが止まった。そして天井を仰ぎ見て「あの方自身は、何に救われるのだろう」と、ポツリ呟いた。
 恋じゃないかと言いかけて口を閉じる。
 だってそれは、水姫ちゃんにとってあまりにも残酷な言葉になるだろうから……。
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