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「ただいま帰りました」
待ちわびていた声を聞いていそいそと玄関へ向かう。
「お帰りなさいませ銀次さん。今日はお父様にお食事に呼ばれたのでお邪魔しておりまし……た」
待ちわびていた、しかし帰ってきたこの男の顔を見るなり言葉が詰まった。なんっっっだ、コイツ!! 午前様はまあ許すとして、酒臭さもまあ許すとして、何ですかその口紅ベッタリの顔は!!
「灰(カイ)さん、来てたのかい。いらっしゃい、そしてただいまー。父と母はもう寝てる?」
この人、自分の顔の状況に気付いていないんだな。呑気に大きくあくびしてる。どんだけ最低な男だよっ!!
「はい、二人とも先に寝てしまわれて……」
「そうか。すまなかったね灰さん、待たせてしまって。ちょっと僕は付き合いがありました」
「そのようですね。では私はこれで」
頂いた菓子などを風呂敷に包んで帰り支度を進める。私の不機嫌さなど微塵も察してないのだろう。彼は「ああ、帰るの? 夜道は危ないから送っていきますか?」と、至極呑気な様相だ。しかし玄関を上がってすぐ脇にある姿見鏡を見た瞬間にその表情は一変した。「はうあ!!」と引き攣った声を上げて驚愕の顔で口元に手を当てる。ようやく口紅に気付いたか。
「見送りは結構です。早くそのお顔を洗ったほうがいいですよ? お邪魔しました」
「あ、はい、両親に見つかる前に洗いまーす。おやすみなさいませ」
その場を誤魔化すような苦笑いに背を見送られて屋敷を後にする。
「…………なんだあの男わ!! あんなのと結婚しなきゃいけないの!?」
夜道を歩きながら思わず心のボヤキがそのまま口から出てしまった。でも人通りなんて殆どないからまあいいだろう。あああああ有り得ない有り得ない、あんな男と結婚しなきゃならないなんて有り得ない!! 一体どこをどう敬えというの!? 無理だよ!! あんなのと結婚したら人生終わりだよ!!
「――え?」
何か不意に後ろからこちらに駆け寄ってくる足音が聞こえた。ひょっとして銀次さん? いや、違う。足音は一つじゃない。
「きゃあ!?」
なんだろうと振り返った瞬間に屈強な何本もの腕に身体を掴まれた。
「なんですかアナタ達!? やめて!! 離して!! いやあああああ!!」
抵抗する間もなく路地に連れ込まれる。暗くて相手の顔はよく見えないけど、大柄な男達だ。五、六、いや、五人の大きな男たちが力任せに私の着物に手を掛けてくる。
本能的に、彼らが何をしようとしているのか察して、戦慄した。
「きゃああああ、やめてー!!」
後生です、誰か……!
「何をしているんですか!!」
何処からと聞こえてきた野太き声に男たちの手が止まる。刹那「やめなさい!!」と声を上げて一人の男が駆けてきた。そしてあれよあれよという間に私に覆い被さっていた男たちを投げる殴る蹴る。一瞬でキレイに蹴散らして下さった。
本当に、あっという間だった。
何が起こったのか。逃げ去っていく男たちの真っ黒な背中をぼんやりと目で追いながら頭の中で状況を整理する。
私を助けてくれた、この方は一体……。なんと強い。身体も大きいし。警察だろうか? いや違う、だって着物だ。そうか、通りすがりの人だ。なのに私の悲鳴に気付いて助けてくれたんだ。
「あ、ありがとう御座いました! あの、お怪我はありませんか!?」
慌てて立ち上がって顔を見上げると、その方は眼鏡の奥で優しそうに目を細めて微笑み私の着物に付いた砂利をパンパンと手で払って下さった。
「いえ、大丈夫。俺、武術をやっていましたから。貴女こそお怪我は? 連れはいないのですか? こんな時間に女性が一人で歩くなんて無用心ですよ」
「あ……。すみません!! 助かりました!! あの、後日御礼がしたいのでお名前とご連絡先をお聞きしても?」
「ああ、そんな御礼なんて。でも名乗らないのは失礼ですね。俺は井ノ原(イノハラ)トラオと申します。絵描きをしています。家はあの辺りのー……」
何処か遠くを指差しつつ、しかしそれでは伝わらないと思ったのか首を捻ったのち懐から紙を取り出して何やら万年筆でサラサラと書き始めた。
「はい、これが連絡先です」
渡された紙には暗がりでよく見えないけど、名前と住所らしきものが書いてある。
「あ、ありがとうございます!! 本当に助かりました!! では井ノ原様、後日お伺いいたします!!」
深々と頭を下げ、……本当はもっとちゃんとその場でお礼を言うべきだったのに私ったら恐怖と変な気恥ずかしさが混同してどうかしていたのかな。まるで井ノ原様から逃げるように走り去ってしまった……。もう襲われるのは御免だし銀次のせいでとても帰りが遅くなってしまった。お父様もお母様もきっととても心配している。早く帰ろう。そうだ早く帰ろうって、それしか考えられなかった。
後から後から押し寄せる悔い……。けれど一度走り出した足はそう簡単に止まらない。だ、大丈夫! 後日改めてちゃんとお礼を言えばいいんだ!
「気をつけて帰るんですよ!!」
後ろから井ノ原様の声が聞こえた。
最悪な人を見た後だからか助けていただいたからか、なかなかどうして素敵な人だったなあ。背が高くて、暗くてよく見えなかったけど眼鏡のとてもよく似合う糸目で……。あんな素敵な人の下へ嫁に行くとなれば私は何も悩まなかっただろう――――って、会ったばかりの人を捕まえて何を言ってるんだか!
待ちわびていた声を聞いていそいそと玄関へ向かう。
「お帰りなさいませ銀次さん。今日はお父様にお食事に呼ばれたのでお邪魔しておりまし……た」
待ちわびていた、しかし帰ってきたこの男の顔を見るなり言葉が詰まった。なんっっっだ、コイツ!! 午前様はまあ許すとして、酒臭さもまあ許すとして、何ですかその口紅ベッタリの顔は!!
「灰(カイ)さん、来てたのかい。いらっしゃい、そしてただいまー。父と母はもう寝てる?」
この人、自分の顔の状況に気付いていないんだな。呑気に大きくあくびしてる。どんだけ最低な男だよっ!!
「はい、二人とも先に寝てしまわれて……」
「そうか。すまなかったね灰さん、待たせてしまって。ちょっと僕は付き合いがありました」
「そのようですね。では私はこれで」
頂いた菓子などを風呂敷に包んで帰り支度を進める。私の不機嫌さなど微塵も察してないのだろう。彼は「ああ、帰るの? 夜道は危ないから送っていきますか?」と、至極呑気な様相だ。しかし玄関を上がってすぐ脇にある姿見鏡を見た瞬間にその表情は一変した。「はうあ!!」と引き攣った声を上げて驚愕の顔で口元に手を当てる。ようやく口紅に気付いたか。
「見送りは結構です。早くそのお顔を洗ったほうがいいですよ? お邪魔しました」
「あ、はい、両親に見つかる前に洗いまーす。おやすみなさいませ」
その場を誤魔化すような苦笑いに背を見送られて屋敷を後にする。
「…………なんだあの男わ!! あんなのと結婚しなきゃいけないの!?」
夜道を歩きながら思わず心のボヤキがそのまま口から出てしまった。でも人通りなんて殆どないからまあいいだろう。あああああ有り得ない有り得ない、あんな男と結婚しなきゃならないなんて有り得ない!! 一体どこをどう敬えというの!? 無理だよ!! あんなのと結婚したら人生終わりだよ!!
「――え?」
何か不意に後ろからこちらに駆け寄ってくる足音が聞こえた。ひょっとして銀次さん? いや、違う。足音は一つじゃない。
「きゃあ!?」
なんだろうと振り返った瞬間に屈強な何本もの腕に身体を掴まれた。
「なんですかアナタ達!? やめて!! 離して!! いやあああああ!!」
抵抗する間もなく路地に連れ込まれる。暗くて相手の顔はよく見えないけど、大柄な男達だ。五、六、いや、五人の大きな男たちが力任せに私の着物に手を掛けてくる。
本能的に、彼らが何をしようとしているのか察して、戦慄した。
「きゃああああ、やめてー!!」
後生です、誰か……!
「何をしているんですか!!」
何処からと聞こえてきた野太き声に男たちの手が止まる。刹那「やめなさい!!」と声を上げて一人の男が駆けてきた。そしてあれよあれよという間に私に覆い被さっていた男たちを投げる殴る蹴る。一瞬でキレイに蹴散らして下さった。
本当に、あっという間だった。
何が起こったのか。逃げ去っていく男たちの真っ黒な背中をぼんやりと目で追いながら頭の中で状況を整理する。
私を助けてくれた、この方は一体……。なんと強い。身体も大きいし。警察だろうか? いや違う、だって着物だ。そうか、通りすがりの人だ。なのに私の悲鳴に気付いて助けてくれたんだ。
「あ、ありがとう御座いました! あの、お怪我はありませんか!?」
慌てて立ち上がって顔を見上げると、その方は眼鏡の奥で優しそうに目を細めて微笑み私の着物に付いた砂利をパンパンと手で払って下さった。
「いえ、大丈夫。俺、武術をやっていましたから。貴女こそお怪我は? 連れはいないのですか? こんな時間に女性が一人で歩くなんて無用心ですよ」
「あ……。すみません!! 助かりました!! あの、後日御礼がしたいのでお名前とご連絡先をお聞きしても?」
「ああ、そんな御礼なんて。でも名乗らないのは失礼ですね。俺は井ノ原(イノハラ)トラオと申します。絵描きをしています。家はあの辺りのー……」
何処か遠くを指差しつつ、しかしそれでは伝わらないと思ったのか首を捻ったのち懐から紙を取り出して何やら万年筆でサラサラと書き始めた。
「はい、これが連絡先です」
渡された紙には暗がりでよく見えないけど、名前と住所らしきものが書いてある。
「あ、ありがとうございます!! 本当に助かりました!! では井ノ原様、後日お伺いいたします!!」
深々と頭を下げ、……本当はもっとちゃんとその場でお礼を言うべきだったのに私ったら恐怖と変な気恥ずかしさが混同してどうかしていたのかな。まるで井ノ原様から逃げるように走り去ってしまった……。もう襲われるのは御免だし銀次のせいでとても帰りが遅くなってしまった。お父様もお母様もきっととても心配している。早く帰ろう。そうだ早く帰ろうって、それしか考えられなかった。
後から後から押し寄せる悔い……。けれど一度走り出した足はそう簡単に止まらない。だ、大丈夫! 後日改めてちゃんとお礼を言えばいいんだ!
「気をつけて帰るんですよ!!」
後ろから井ノ原様の声が聞こえた。
最悪な人を見た後だからか助けていただいたからか、なかなかどうして素敵な人だったなあ。背が高くて、暗くてよく見えなかったけど眼鏡のとてもよく似合う糸目で……。あんな素敵な人の下へ嫁に行くとなれば私は何も悩まなかっただろう――――って、会ったばかりの人を捕まえて何を言ってるんだか!
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