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ふぁいなる・がーる 前編
しおりを挟む重く引き摺る足音がだんだんと近づいてくる。
廃納屋の中、ささくれた板壁と壊れて放置されたままのトラクターの間に身を潜めていたアマンダは恐怖を押さえ、じっと我慢した。
今にも崩れそうな納屋の板壁は隙間だらけで、あちこちから満月の光が差し込んで薄明るい。今彼女の隠れている場所だけが辛うじて濃い影が溜まっていた。
その領域からはみ出ないよう、さらに身を縮め、アマンダは闇と同化した。
じゃりっと小石の踏む音が間近に聞こえたと同時に、頭上の隙間から差し込んでいた光が遮られた。
汗と脂の饐えた臭いに混じって、生臭い血臭も漂って来る。
――あいつが覗いている。どうか見つかりませんように。
アマンダはぎゅっと目を閉じて祈った。
マイケルの白いバンは砂埃の舞う道路をミラーレイクキャンプ場に向かってひた走っていた。
山深い針葉樹の森にあるミラー湖の畔は今若者の間で話題になっているキャンプ場だった
バンの運転席にはマイケル、助手席にはメアリーが座し、後部座席にはトムとケート、最後部席にはアマンダとジョシュが乗っていた。
メアリーからキャンプに誘われた時、アマンダはふと残酷な殺人鬼の登場するホラー映画を思い出した。
若い男女、恋愛、キャンプといえばホラーの鉄則。
――でも映画は映画、あんなのただの作り物。
なので、参加を断った理由はそれではない。
ただ面倒臭かっただけ、そしてもう一つ理由が――
だが、結局メアリーに強引に参加させられた。
キャンプの計画はトムに片思い中のケートの想いを成就させるためにメアリーとマイケルが画策したものらしい。
明るくてお節介焼きのメアリーはアマンダの幼なじみで、親友だった。
でもそう思っているのはメアリーだけ。
――幼なじみは事実だけど、わたしは彼女を親友だなんて一度も思ったことない。むしろ大っ嫌いだ!
それが誘いを断ったもう一つの理由。
メアリーは幼い頃からアマンダの持っているものを片っ端から横取りした。
絵本にぬいぐるみ、本屋CD、洋服に靴にバッグにコスメ。物だけじゃない。子どもの頃からの歴代ボーイフレンドまでもすべて横取りした。
――ま、別にいいんだけどね。すぐ寝返る男子なんてこっちからお断りだし。
そんなメアリーだが、アマンダに対して悪意を持っているわけではなかった。どういう心理が働いて横取りするのかわからないが、二人が親友同士だと心底思っているらしく、それがよけいに腹立たしかった。
今までに何度も彼女と距離を置こうとしたが、うまくいった試しがない。
メアリーが嫌悪するような女子と友人になってみたりもして距離を取っても、いつの間にかその子が離れ、メアリーがそばに戻っていた。
――彼女が自分の意志でわたしの前からいなくならない限り、これからもずっと一緒なんだわ。
アマンダはマイケルの後頭部を睨んだ。
――あんたがしっかりメアリーをものにしないからいつまでもわたしから離れないのよ。この筋肉バカ!
マイケルとメアリーの関係はいまだ友達以上恋人未満なのだという。
――は? 信じられないんですけど? あのメアリーがまだマイケルと寝てないなんて。よほど本気なのか、逆に大嫌いなのか。とにかく彼に頑張ってもらってわたしから離してもらわなきゃ。
「――ってわけなの、うふふ」
ケートの甘ったるい声が耳に届いて、アマンダは我に返った。いつもとは明らかに違う、恋する乙女の声だ。
――クラスで成績がナンバーワンのケートでもこんな声出すんだね。
アマンダはケートとトムの様子を交互に見ていたが、話しているのは彼女ばかりで、トムはまったく興味がなさそうに窓外を眺めていた。
――彼ってすごくハンサムなんだけど、無表情だと冷たい感じがして怖いわ。ケートのメンタル大丈夫かしら? ひやひやしちゃうわ。マイケルもメアリーも助けてあげればいいのに。
何度話しかけても振り向かないトムに、ケートは目を伏せて座席に沈み込んだ。
――ちょっとぉ、二人ともここまでお節介焼いたんだから、もう少しフォローしてあげなよ。
アマンダはメアリーに視線を送ったが、スマホに夢中で後部座席の状態に気づいていない。
――わたしがフォローできればいいんだけど、こういうの苦手だし。
メアリーの話だとトムは最後までこのキャンプ行きを断っていたらしい。ケートを紹介すると言ってもなおだったという。
結局来たのはマイケルがやけにしつこく説得したからだとメアリーが笑っていた。
トムが来なければキャンプの計画が頓挫する。きっとマイケルはメアリーとの距離を一気に縮めるため、どうしてもキャンプに行きたかったのだろう。
ところで、アマンダには一つ疑問があった。
――なぜ自分が参加させられたのか?
出発直前までわからなかったが、答えは集合した時に出た。
マイケルの親友ジョシュが参加していたからだ。
メアリーたちはケートだけでなく、自分にもお節介を焼くつもりなのだ。
ジョシュはトムと別の意味で窓外を眺めていた。
違う意味というのは、カーブで身体が触れ合う度、耳まで真っ赤になる顔を見せまいとしているのがわかっていたから。
――ジョシュから熱い視線を送られていたことはまあまあ気づいていたわよ。でもね、メアリーがわたしの前からいなくなるまでボーイフレンドも恋人も作らないって決めてるの。
こんな計画を立てておきながら、アマンダがジョシュとカップルになった途端、メアリーがマイケルを保留にし、ジョシュを奪いに来るのが目に見えていた。
――そういう女なのよ、彼女は。
太陽が少し西に傾いた頃、ようやくミラーレイクキャンプ場に到着した。
全員車から降り、深呼吸して身体を伸ばした。
トムがジーンズの尻ポケットから、煙草とマッチを取り出したが、少し考えてもとに戻した。
それほど空気が清々しくておいしい。女心を踏みにじる冷たい彼に不信感を持っていたアマンダだったが、喫煙しなかったことに感心した。
「あ、スマホ使えなくなった」
メアリーが頬を膨らませる。
「だからここは電波が届かないって言っただろ。そんなもんなくても充分楽しめるさ」
マイケルはニヤッと笑い、ベビーピンクのピチピチTシャツと白いホットパンツのナイスバディに視線を這わせた。だが、彼女がスマホを片付け、荷物の中から引っ張り出したフルジップのパーカーを羽織ると、あからさまに残念な表情を浮かべた。
――ああ~もう、見てらんないわ。
アマンダは目を逸らせ、広大な湖の景色を眺めた。
針葉樹に囲まれた湖面は名の通り鏡のようで、透き通る青空とそこに浮かぶ白い雲が映り込み、面白みのない現実を忘れさせてくれる輝きに満ちていた。
嫌々参加したはずなのに、アマンダの心は早くもワクワクしていた。隣に立つジョシュの優しく熱い眼差しも高揚感に拍車をかける。
メアリーが期待に満ちた笑みを浮かべ、こっちを見ていることに気づき、アマンダは目を伏せた。
――横取りなんてしなければ、ほんといい娘なんだけど。でも、もしも、もしもよ、メアリーの悪い癖がすでに直っていたら? もしもマイケルに夢中になって、もうわたしに構わなくなったら? もしそうなったらわたし、ジョシュの熱い眼差しを受け取ってもいいんじゃないかな?
アマンダの心にきゅんと甘酸っぱさが広がった。
だが、それはほんのひと時の間だった。
各々荷物を持って、駐車場からテント設営地まで300メートルほどの鬱蒼とした林道を進む間に悲劇が起こり始めた。
まず、荷下ろしに手間取り、最後尾についたメアリーの凄まじい悲鳴が始まりだった。
大型荷物を運ぶためマイケルとトムはすでに設営地に向かい、ケート、ジョシュ、アマンダの順で低木の茂みに挟まれた林道を進んでいたが、少し離れて前にいたアマンダでさえ何が起きたのかさっぱりわからなかった。
悲鳴に三人が駆け戻ると、メアリーのいた場所には下草に飛び散る血飛沫と転がった薬指と小指があるのみで彼女の姿はなかった。
メアリーの薬指だとわかったのは切断面のぎりぎり上にマイケルがプレゼントした指輪が残っていたからだ。
――後ろでいったいなにが起こったの?
アマンダは悲鳴が漏れそうな口を両手で押さえた。傍らに立つジョシュが震える肩を抱きしめてくれた。
「なにがあった?」
マイケルとトムが走って戻って来た。
がたがたと震えるケートがトムの腕に縋りつく。
その手を煩わしそうに引き離しながら、ふと何かに気づいたトムが「おい、あれ」と地面を指さした。
下草を倒し、何かを引きずった血の跡が森の奥へと続いている。
その何かとはメアリー?
――いなくなればいいって思ったけど、こんな形じゃない。どこに行ったの? 大丈夫なの?
「メアリーっメアリーっ」
マイケルが半狂乱になって血の跡を追い始めた。
「行くなっ」
トムが慌てて止めようとしたが、ケートが全身で縋りついてくるのですぐに動けず、その間にマイケルは森の奥に消えていった。
ようやくケートを振り払い、後を追おうとしたが、マイケルの長い絶叫が聞こえた。
咆哮のような叫びは急にぷつっと途切れ、辺りがしんとなった。
なす術もなく、四人はじっと森を見つめていたが、木立の隙間からキャンプハットを目深に被ったアノラック姿の大男がこっちに向かって来ることに気づいた。
ただのキャンパーかと思ったが、なぜか禍々しさを感じ、それは全身が湿ったような赤黒い色をしているからだとアマンダは思った。
――あれは返り血?
近づいて来ると大男の手にしているものがはっきりと見えた。多量の血がこびりついた斧とマイケルの生首。生首からはまだ血が滴っている。
「いやああっ」
ケートが悲鳴を上げて腰を抜かした。
「その娘は頼んだぞっ」
ジョシュがトムにそう叫ぶとアマンダの手を引いて駆け出した。
現実を受け止めることができず、悲鳴を上げる間も腰が抜ける間もなく、ただ恐怖でぼんやりしていたアマンダは強く引っ張られて走っているうちに意識がはっきりしてきた。
振り返るとケートに肩を貸しトムが後をついてきている。だが、スピードを上げることができないようだ。
「ねえジョシュ、手伝ったほうが――」
そう話しかけても、ジョシュは止まらず、だんだん距離が開いていく。
薄情だとは思うが、彼が止まらないことにアマンダは安堵した。
――だって怖すぎる。
気になって、もう一度振り返ると、大男がトムたちに生首を投げつけているのが見えた。ケートが怯えてしゃがみ込んだところへ、すかさず斧が振り下ろされる。
ケートの左半身が血飛沫と臓器をぶちまけながら地面に落ちた。断末魔が響き渡り、続いてトムの悲鳴も聞こえてきたが、彼がどうなったか木立に隠れてアマンダには見ることができなかった
ジョシュは振り返ることも止まることもせず、握った手に力を込め、速度を上げた。
荒い呼吸に混じって嗚咽が聞こえてきたが、それが自身の声だとアマンダはしばらく気づかなかった。
逃げた先にテントの設営地が広がっていた。
いくつかテントが張られてあったが、そこに生存者の姿はない。あたり一面が血に濡れ、異様なにおいを放ち、老若男女の死体が転がっていた。
殆どが四肢や首を切断され、腹を裂かれ内臓を引きずり出されていた。
濃厚な血と糞尿の臭いにアマンダは吐き気を催したが、吐き戻している時間などない。挫けそうな気持ちを奪い立たせ、ジョシュの後に続いた。
彼は隠れる場所を探していたが、ここには低木の茂みかテントぐらいしかない。早く隠れなければケートとトムを襲い終えた殺人鬼がすぐここにやって来る。
「いいもの見つけたぞ」
ジョシュは首のない男の下敷きになっていた大きなサバイバルナイフを死体の下から引き抜いた。そしてアマンダをその真横にあるテントに「ここに隠れて」と押し込んだ。
「怖いと思うけど、ちょっと我慢してくれ」
そう言うと入口の幕を閉め、あたかも初めからそうだったかのように首なし死体をその前に座らせた。
これで殺人鬼を騙せるのかと不安に思いつつもアマンダは身を縮めた。
テントに映るジョシュの影が近づいて大きくなる。
「あなたも早く隠れて」
「いや、ぼくは囮になってやつをここから引き離す。うまく撒いて戻って来るから、絶対ここから出ないで。
アマンダ、愛してる。君を絶対守るよ」
影がすうっと小さく離れ、足音と共に遠ざかっていく。
だが、1分も経たないうちにジョシュの悲鳴が聞こえてきた。
何度も何度も何度も。そして静かになった。
――うそ、生き残ったのは、わたし一人?
こんなことなら、もっと逃走しやすい場所に隠れるべきだったとアマンダは後悔した。
今発見され、テントの上から襲われたらひとたまりもない。かといってここから出ても、きっともう間に合わない。
がさがさっと葉音が聞こえ、アマンダはひゅっと息を呑んだ。
幕の隙間から外を窺うと、近くに殺人鬼が立っていた。アノラックがさっきよりももっと赤黒く染まっている。何度も返り血を浴びたせいなのか、自分で塗りつけたのかはわからないが、血濡れたキャンプハットの下にある赤い顔はホラーマスクを被っているように見えた。
殺人鬼が斧を振り回してテントを順番に薙ぎ払い始めた。
――きっと私を探してるんだ。ここまで来たらもうおしまい。
その時、車の走行音が駐車場のほうから聞こえた。エンジンが止まるとドアの開閉音、ポップな音楽や若者の楽しそうに騒ぐ声がした。
何も知らないキャンパーたちがやって来たのだ。
殺人鬼は斧を振る手を止め、ゆっくり林道を戻っていった。
完全に姿が見えなくなってから、無意識に止めていた息を吐き、首なし死体を押しのけてテントを出た。
殺人鬼の隙をつき、駐車場に戻ろうとしていたアマンダは、低木の茂みの中に身を潜めて周囲を窺っていた。枝がTシャツの上から肌を突き刺しても痛みを感じる余裕などない。
救助が期待できないなら、ずっと隠れているだけなのは得策ではなく、奴から完全に逃げ切るにはやはりキャンプ場から遠く離れる、つまり車が必要だと考えたのだ。
マイケルはいつも車に鍵をかけず、サンバイザーに挟んでいることをメアリーに聞いて知っていた。
なので一刻も早く駐車場に戻りたかったが、今戻れば殺人鬼に見つかってしまう。
――とにかく見つからずに駐車場まで行ければ、きっと逃げられるわ。
さっきからずっと男女の絶叫が聞こえてくる。自分だけ助かろうとしていることにアマンダは罪悪感を覚えた。
だが、
――早くここから逃げ出して、この惨状を通報しなければ。あいつをこのまま野放しになんかしておけない。
アマンダは殺人鬼が去るのを辛抱強く待ち続けた。
日がだいぶ傾いた頃、足音がして殺人鬼が茂みの前を通り過ぎ、設営地のほうへと向かっていった。
枝の隙間から少しだけ顔を出したアマンダは、やつの姿がないのを確かめると、茂みから飛び出して急いで駐車場に走った。
林道の途中でジョシュがぶつ切りになって転がっていた。胴から頭部が切り離され、両腕、両脚もばらばらにされている。何度も悲鳴が聞こえていたのは生きながら切断されたのかもしれない。
一撃でとどめを刺されたのではなく、斧を打ちつけられる度に味わったジョシュの恐怖と痛みを思うと涙が零れた。
だが、アマンダは涙を拭い、ジョシュが持っていたサバイバルナイフを探した。上手く扱う自信はないが持っているだけで心強い。
だが、どこを探してもなかった。
――きっと殺人鬼が取っていったんだわ。
アマンダはナイフをあきらめ、先を急いだ。
駐車場には新しいばらばら死体が転がっていた。
次に誰かがキャンプに来たら、ここで惨劇が起こっていることに気付いて通報してくれるに違いない。
そう期待したが、来る保証はないし、それを待っている時間もない。
マイケルの車に急いで駆け寄ったアマンダは、タイヤがすべて切り裂かれていることに気付いて呆然となった。
他の車もすべてタイヤが切り裂かれ、逃げることができなくなっていた。
このキャンプ場で殺人鬼とかくれんぼを続けなければいけないのか。いつ助けが来るとも知れない中で。
――いやだいやだいやだ、たった一人でなんて、そのうちきっと頭がおかしくなる、いやだこわいこわいこわいっ
パニックになりかけたアマンダは背後に殺人鬼が迫っていることに気付かなかった。
「ふうううふうううう」
臭い息遣いに、はっと振り向いた時にはすでに斧が頭上に振り上げられていた。
「きゃあああああああ」
だが、殺人鬼が横に吹っ飛んだ。斧が音を立てて地面に落ちる。
倒れ込んだ殺人鬼の上にトムが圧しかっていた。
一瞬何が起こったのかわからなかったが、トムが生きていて、さらに自分を救ってくれたのはわかった。
しかも、ジョシュの持っていたサバイバルナイフで殺人鬼の脇腹を突き刺している。
トムは暴れる殺人鬼に振り落とされないようしがみついて、肉を抉るようにナイフを捻り、それを何度も繰り返した。
殺人鬼の動きが徐々に弱まり、やがて静止した。
トムがとどめとばかりにナイフを深々と刺し、それをゆっくり引き抜く。傷口から粘り気のあるどす黒い血が溢れた。
俊敏な動きで立ち上がったトムはナイフをベルトに差すとアマンダの手を引いて走り出した。
「これから暗くなる。設営地の奥に廃農場があったからそこで夜を明かそう」
アマンダは頬に流れる安堵の涙を拭いながらうなずいた。
後編につづく
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