恐怖日和

海に還る

　　
　　
　ただただ海が見たくなる時ってあるよね。
　失恋したとか、上司にこっぴどく叱られたとか、別にそんなことなくても。
　海の青翠あおみどりに、寄せては返す波の白。
　真っ青な空にぽっかり浮かんだ白い雲。
　来てよかった！　これが恋人と一緒ならなおいいんだけどね。

　ぼっちドライブでこの小さな浜辺に立ち寄った美奈子は苦笑いを浮かべ、砂浜に横たわる流木の上に座った。
　夏も盛りなのに海水浴客は一人も見なかった。
　小さいけど結構きれいな海なのに。もしかして穴場？　よし、今度水着持って来よう。
　そう思いながら、そろそろ帰ろうと腰を上げた。
「紺碧の海原に還りて、ひとり
　悲しむことなかれ
　嘆くことなかれ――」
　詩？
　歌のように口ずさんでいる男性の声が風に乗って流れてきた。ずっと聴いていたくなるほど凛として美しい声に、美奈子は聞き惚れて動けなかった。
　今時そんな人などいないだろうとわかっていても、イメージするのは清潔な白い着流しを着た薄命の詩人。
「さざ波は甘い調べ
　荒波は激しい舞踏
　寄せては還り
　還っては寄せ、きょうもひとり――」
　どんどん膨らむ儚げイケメンのイメージに、美奈子は一目この目で確かめなければ気が済まなくなってきた。
　声は大きな岩場の陰から聞こえてくる。
　あの辺りで海原を眺めながら詩を朗読してるのかな？
　そっと足音を忍ばせ、美奈子は岩陰から向こう側を覗き込んだ。
　いたのは確かに男性だった。なにも穿いていない下半身がそれを証明している。
　だが、ショックだったのはそこではない。
　首から下は筋肉質で整った男性の裸体だが、首から上、つまり頭部が大きなヤドカリだった。
　貝殻部分は被り物なのか、それとも全部頭部なのか、人の顔のように正面を向いた殻の穴に畳み込まれた鋏や脚がそっと開いたり閉じたりしている。そのリズムに合わせあの美しい声が聞こえてくる。
　リンゴの種のような尖った両目がきょろっとこっちを向いた。
　美奈子に気づいたのかどうかわからないが、悲鳴を我慢して一歩一歩後退る。
　岩場から離れると砂浜から逃げるため後ろを振り返った。
「きゃああっ」
　すでに十数人のヤドカリ人に取り囲まれていた。
「紺碧の海原に還りて、ひとり
　悲しむことなかれ
　嘆くことなかれ――
　さざ波は甘い調べ
　荒波は激しい舞踏
　寄せては還り
　還っては寄せ、きょうもひとり――」
　鋏と脚を閉じたり開いたりしながらいっせいに口ずさむ凛とした美しい声に囲まれながら、美奈子は海へと引きずり込まれた。

　紺碧の海原に還りて、ひとり
　悲しむことなかれ
　嘆くことなかれ――