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兄想い
しおりを挟む永瀬晋也は職場の先輩、渡辺の住むハイツの二階を見上げた。
まじめな渡辺が三日も無断欠勤したので、上司から見て来てくれと頼まれたのだ。
連絡するのも無理な、やむを得ない事情でもあったのか。そう様子を窺っていたが、さすがに三日も連絡がないのはちょっとおかしい。
一人暮らしの身で病気か事故などの不測の事態に陥っているのではないか、と上司ともどもみな不安になった。
「若いから大丈夫だと思うが――」
もごもごと言葉を濁しているのは最悪の場合を考えているのかもしれない。
そんな状況の中へ一人で行かされるなんて、と晋也はふと思ったが、自分を可愛がり何かと助けてくれる先輩だ。少しでも恩返ししなければ――
外階段を上って『渡辺』と書かれたプレートの下にある小さなインターホンを押す。
ドアの向こうには何の気配もない。もう一度押し、ドアに耳を寄せて気配を窺うも同じだ。
「せんぱーい」
ノックしながら呼びかけ、もう一度ドアに耳をつけた。
かさこそと微かな音が聞こえた途端、ドアが開いて晋也は側頭部を打ち付けた。
「いったぁ」
「ご、ごめんなさい」
顔を覗かせたのは先輩ではなく可憐な女性だった。
「え、あれ? 先輩の部屋――ですよね」
晋也はしどろもどろになりつつ、ネームプレートを確認した。やはり渡辺と書かれているが、同性の部屋違いなのだろうか。
いや以前、飲み会の後、二人で飲み直そうと連れて来てもらった部屋に間違いない。
ということは、か、彼女ぉ?
戸惑いから驚きに変わった晋也の表情を見て、女性はくすくすと可愛らしく笑い「わたし、妹です」と自己紹介し始めた。
「千弥子と言います。お兄ちゃんがいつもお世話になってありがとうございます」
年齢は不明だが学生ではなさそうだ。衣服の雰囲気が瀟洒で大人っぽい。すらりとした色白の美人で、黒目がちの大きな瞳は自分の好きな女優に似ているな、と自己紹介をしながら晋也は思った。
「僕のほうこそ、いつも先輩にお世話になってます」
「面倒見のいい兄ですから」
うふふと口元に手を当てた笑顔を見て、マジ先輩の妹でよかったと心の中でガッツポーズをとる。
だが、先輩が僕なんかと交際させてくれないだろうなとも思った。
妹がいるなんて今まで教えてくれなかったのがその証拠だ。きっと先輩にとって僕は出来の悪い後輩なんだ。
少々失望しながら、
「あの――先輩は? この間から無断欠勤してるんで様子を見に来たんですが――」
千弥子の肩越しに奥を覗く。確か玄関入ってすぐはダイニングキッチン、右手に浴室やトイレがあり、奥には六畳の和室があったはずだ。
「わざわざすみません――ずっと動けないくらい具合が悪かったらしくて。少しマシになったんでって、わたしに連絡が来て――念のため、今病院に行ってるんですけど――申し訳なかったです。会社に連絡してなかったんですね。知っていたら先に連絡させたんですが」
千弥子が深々と頭を下げた。
「いえいえ。でも水臭いなぁ先輩。いくら動けなくても電話くらいくれてもよさそうなのに――僕ならすっとんで来れるのに――で、病状は?」
「まだ連絡来ないんですよ。でもだいぶ良くなってたみたいですから大丈夫だと思います。永瀬さんもお忙しいでしょうから、もうお帰りになって下さい。帰宅したら連絡させますので――」
「きょうはこのまま直帰してもいいって上司が許可くれてるんで、先輩待ちます。心配ですから」
「でも――いつ戻るかわかりませんし――」
「大丈夫です。ぼくひとり暮らしで、遅くなっても誰も待っていないんで」
ちらりと千弥子に対する迷惑を考えたが、先輩のいない間に自分をアピールをしておこうと、いつになく積極的になった。
「――じゃ、どうぞ」
ようやく千弥子に招かれ靴を脱いだ晋也はダイニングに上がった。きれいに掃除され、前は開けっ放しだった和室の襖も浴室のガラスドアもきちんと閉められている。
ピカピカに磨かれたシンクや整理整頓されたテーブルの上を見て感嘆の声を上げた。
「この前来た時はすっごい汚かったのに、いいなあ先輩はできる妹さんがいて」
「永瀬さんったらお上手ですね。確かに兄は片づけが下手だけど」
くすくす笑うと千弥子は「どうぞおかけになって」とダイニングチェアを勧め、流し台で飲み物の準備に取り掛かる。
「あ、お構いなく。うわ、こんなことなら菓子折りの一つでも持って来るべきだった。先輩甘いものきらいだし、大好きなビールっていうのも遊びに行くんじゃないしと思って――」
気の利かないやつだと思われたくなくて、饒舌に言いわけを並べ立てていた晋也は、マグカップを持ったままじっと見つめる千弥子に気づいて口を閉じた。
うわっ、急に緊張してきた。
「インスタントコーヒーしかないですけど、どうぞ。こんなコップでごめんなさい」
ことっとテーブルに黒いコーヒーの入ったマグカップを置くと向かい側に座る。
「いえ、ありがとうございます」
晋也はカフェオレが好きだが、先輩はブラック派だからミルクはないだろうなとあきらめて口をつけた。せっかく千弥子が入れてくれたのだからここは我慢しないと。
「わたしね、兄のこと大好きなんです」
「へ?」
唐突な千弥子の告白に晋也は素っ頓狂な声を上げてしまった。
ああ兄妹愛ねと思い直し、
「かっこいいですもんね、先輩。その割に彼女いないんだよな」
しまった、一言多かったと思ったが、言ってしまったものは仕方ない。悪口に聞こえていないか、どう言いわけしようか、晋也は思案した。
「わたしのせいなんです。兄に恋人が出来ても邪魔しちゃうから」
「ええ?」
「だってあんな素敵な兄なのに、彼女はみんな嫌ぁな女ばかりなんだもの」
「へ、へえ。僕まだ先輩と付き合ってる女性誰も見たことないんでわからないですけど」
コーヒーが苦くてテーブルに戻す。
「やっぱり兄とつり合う人でないとって思うの。だからわたし、つい邪魔しちゃって」
しなやかな指を口元に当て、くすくすと千弥子は笑った。
「彼女なんかいなくても妹さんがいてくれたらいいですよね。こうやって身の回りの世話してくれるんですから。僕はすごくうらやましいです――って、あれ?」
千弥子を褒めて自分に好意を持ってもらいたいのに、これじゃ兄妹愛が強まる一方じゃないか? 僕はいったい何を言ってるんだ?
緊張し過ぎて、彼女に振り向いてもらうにはどう言えばいいのか、わからなくなってきた。
「そうですよね。わたしがいれば彼女なんていりませんよね。さすが永瀬さん。わかってくれて嬉しいわ」
さすが? 嬉しいわ? これって僕に好意を示してくれてるのか? いやいやなんか違うな。どうすればうまく伝わるんだろう。
頭の中が整理できない。しかもさっきから閉じられた和室のほうから聞こえるどんどんという音が邪魔をして、よけいに考えがまとまらない。
うるさいなあ、静かにしてよ、と心の中で舌打ちした。
焦る晋也に気づきもせず千弥子は、
「ほんと、そう。秀匡さんにはわたしがいればいいのよ」
夢見心地な表情で笑みを浮かべている。
「秀匡さん? どうして先輩を名前で呼ぶんですか。ああ、兄妹でも名前で呼び合うタイプなんだ」
晋也が一人で納得している間も、「そう、わたしがいれば――うふふ」と、こちらの言葉など聞いていない。
「えっとぉ――千弥子さん?」
晋也の呼びかけにも反応せず、視線を遠くに向けたままだ。
どんどん。
また奥から音が聞こえてきて、それでやっと晋也は冷静になった。
何の音なんだ?
ちらっと千弥子を窺うも聞こえた様子はなく、笑みを浮かべたままずっと心ここにあらずな様子だ。
晋也は全神経を耳に集中させ、考えを巡らせた。
以前、先輩からテレビの音量で隣人からクレームが入りトラブったという話を聞いたことがある。でもあれは言い掛かりで、先輩が正論で打ち負かしたと言っていた。
それに、その隣人はとっくに引っ越したとも言っていた。だからこれはクレームの壁どんどんではない。
しかも、壁というより襖を叩いている音に近いような――
ふと目を上げると、千弥子が吸い込まれそうな真っ黒い瞳で晋也を見ていた。
「秀匡さんからわたしのこと聞いたことあります?」
「え? いえ。聞いた事ないです」
千弥子の眉間に少しだけ皺が寄る。
それにどんな感情が含まれているのか、晋也には知る由もないが、妹が想うほど兄は想っていないと寂しさを感じてでもいるのだろうか。
「たぶん僕に話すと自慢の妹さんにちょっかいかけられると思ったんじゃないですか――あ、ぼ、僕そんなすぐちょっかいかける人間じゃないですけど、あの、その――」
そんな晋也の慰めも言い訳も千弥子の耳には届いておらず、
「ひどいわっ。こんなに愛しているのにっ」
いきなり激昂し怒鳴り始めた。
「え、え、千弥子さん?」
どんっ、どんっ!
怒鳴り声に呼応したように奥の音も大きく響く。
「いつもっいつもっ! わたしを無視してっ! しょうもない女ばっかり彼女にしてっ!」
どんっ、どんっ!
「こんなにこんなにこんなに想っているのにっ!」
どんっ、どんっ! どんっ!
怒りを露わにした千弥子が腕を振り回した瞬間、手に当たったマグカップが床に落ちて割れた。
「ち、千弥子さん、落ち着いてっ!
なんなんだよぉ、もう」
振り回している腕を止めようと立ち上がった晋也は、居酒屋で飲んでいた時の先輩の言葉をふと思い出した。
「俺一人っ子でさ、ずっと弟が欲しかったんだよ。お前まだまだ半人前で頼りないけどさ、弟みたいでなんか嬉しいよ。なんでも相談してくれよ。兄貴が守ってやるから、なんつってな」
一人っ子。先輩は確かにそう言った。
じゃ、この女は誰?
立ったまま固まってしまった晋也は恐る恐る目だけ動かし、千弥子の様子を窺った。
何事もなかったように静かになった千弥子が光のない大きな黒目でじっと晋也を見ている。
やばい――妹じゃないのわかったって気づかれないようにしなきゃ。もしかして先輩、奥の部屋に監禁されているのか? あ、そっか、あの音は助けてくれって合図を送っているんだっ。
晋也は平静を装い、
「えっとぉ――やっぱ帰って来そうもないから、僕もうお暇します」
「もっといてくださいよ。コーヒー淹れ直しますから――あらやだカップが割れてるわ」
イスから降りた千弥子はしゃがんでマグカップの欠片を拾い始めた。撒き散らしたコーヒーをテーブルの箱ティシュを取って丁寧に拭いている。
それを見ながら晋也は後ろ手で襖に手をかけた。
「あー、えーと、先輩にゲーム貸してたんだけど、ついでに返してもらっとこうかな。確か奥の部屋にあったよね」
千弥子は床を拭くのに夢中でこっちを気にしてもいない。
そっと襖を開け、千弥子に注意しながら中を窺った。
和室は突き当りの窓に遮光カーテンが引かれていて薄暗かった。
右側に押し入れ、その横の壁際に26型のテレビが置かれ、先輩の大事にしているゲーム機が台の前に出しっ放しにされている。
和室に先輩の姿はなかったが、
どんっ!
音とともに押し入れの襖が揺れた。
晋也はごくりと唾を飲み込んだ。
先輩はここに押し込められているんだ。
一歩畳に足を踏み入れた時、
「ここは見ちゃあだめよぉぉぉ」
叫びながら千弥子が突進してきた。いつの間にか手には包丁が握りしめられている。
晋也は中に逃げ込んだ。
どんどんどんどんどん!
押し入れが揺れる。
「やっと秀匡さんと一緒になれたのになんで邪魔するのぉぉ!」
千弥子が包丁を振り上げた。
どどどどどん!
わかってます、先輩。今助けますってっ。
晋也は切っ先を避けてしゃがみ込み、とっさにゲーム機を両手でつかむと「先輩、ごめんっ」と、千弥子めがけて振り回した。
赤や黄色の配線が外れ落ち、ゲーム機の角が千弥子の顔面にヒットした。千弥子は倒れ込み、握っていた包丁を畳の上に落とした。
晋也は慌ててそれを拾い、ポケットから携帯を出して110番に通報した。
顔面を血だらけにして悶える千弥子に起き上がってくる気配はない。
晋也は急いで押し入れを開けた。
「もう大丈夫ですよ、先輩――先輩?」
先輩――渡辺秀匡は下段の荷物の間に押し込まれていた。とっくに息絶えているのが見開いた白く濁った目でもわかる。
近付いてくるパトカーの音を聞きながら、晋也は泣いた。
先輩は助けを求めていたのではなかった。晋也に逃げろと警告してくれていたのだ。
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