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監禁
しおりを挟む黴臭いにおいに万衣子の意識が目覚めた。
先日布団を干したばかりなのに、こんなにおいを放つものがまだ部屋のどこかにあるの?
目を開けずに鼻だけをくんくん働かせ、においの元が自分の被っている毛布だとわかった瞬間、「やだっ」と万衣子は勢いよく身体を起こした。
とたんにくらくらと眩暈がして頭を押さえたが、手入れしているはずの寝具から放たれるにおいが信じられなくて確認を急いだ。
果たして毛布は自分のものではなかった。ふかふかのパッドを敷いた敷布団もない。そもそも自分のベッドではなく、砂埃まみれの床に直接置いたマットの上に寝ていた。
自室でないのももちろんのこと、なにより違うのは動物のように檻に入れられていることだった。
まだぼんやりしていた万衣子だったが、事の重大さに気付くと意識がはっきりしてきた。
そうだ。昨日帰り道で誰かに襲われたんだ。
背後から何かを嗅がされて気を失い、途中で目覚めたものの車に乗せられていたので逃げることができなかった。
もがき暴れてみたが車を止めた男に再び何かを嗅がされ、相手の顔を確かめる間もなく、そこからの記憶がまるでない。
檻の中にバッグなどの持ち物はなかったが、衣服は脱がされておらず、少しだけ安心した万衣子は鉄格子をつかんで引っ張ってみた。
人の力ではびくともしない頑丈なものだ。扉には太い鎖が巻かれ、大きな南京錠ががっちりとかかっている。
まっすぐ立てるほどの高さはなく、広さもマットレスがぎりぎり入る幅しかなかった。マットの隅に蓋つきのバケツとトイレットペーパーが置かれていて万衣子はぞっとした。
板壁の隙間から薄明るい光が差し込み、室内がほのかに見えていた。納屋か山小屋か。
六畳ほどの広さで内装の荒れ具合から、ここが打ち捨てられて長い場所だとわかった。もちろん家電もキッチンや風呂などの設備もないただの小屋だ。
天井には照明も付いていないので頼りの光源は隙間からの光だけだが、それからは今が夜明けなのか、日暮れなのかわからない。
もしこれから夜が始まるのなら――と万衣子は鼻先もわからない暗闇を想像して身震いした。
薄汚いマットの上で毛布を巻き付けて身を縮める。黴臭さなど気にしている場合ではなかった。
いったい誰に拉致られ監禁されたのか。
まったく心当たりはなかった。たまたま自分が選ばれたのか、それとも知らない間にずっと狙われていたのか。
悔しくて歯噛みしながら、相手がどんな奴でも決して屈しないと万衣子は心に誓った。
毛布に包まったまま居眠りをしていた万衣子は眩しさで目覚めた。
長く眠った感覚もなかったので隙間からの光は夜明けのものだったのだろう。今は明るさが増し内部を照らしている。それでも四隅には光が届かず暗いままだった。
暗闇の恐怖は先送りになっただけだが、とにかく今はまだ大丈夫だ。脱出の方法が見つかるかもしれないと万衣子は緩んだ鉄格子がないか、一本ずつ揺らして確かめた。無理だとわかると周囲に何か落ちてないか、例えば南京錠を開錠できるような針金のようなものがないか確かめた。
そして、片隅の影に男が佇んでいることに気付き、万衣子の心臓が跳ねた。
「やあ」
光の当たる場所に出てきた男はそう声をかけうすら笑いを浮かべた。その顔に覚えはない。
「何がやあよっ、今すぐここから出しなさいっ」
激昂する万衣子に男が声を上げて笑う。
「威勢がいいなあ。そういう女好きだよ」
背筋に怖気を這わせながらも怒りを込めて万衣子は男を睨みつけ「だれかぁぁぁぁっ、助けてぇぇぇっ」と声の限りに叫んだ。
「無駄だよ。ここは誰も来ない山奥だ。僕が所有している山地だから通りすがりの人もいない」
落ち着き払う男が癪に触り、万衣子は鉄格子を蹴ったが反動でマットに尻餅をついた。
「ははは、ほんと威勢がいいなあ。でもいつまで続くかな」
男は紙袋を掲げて見せ、
「お腹が空いただろう? ここにサンドイッチが入ってるんだ。もちろん飲み物も入ってるよ。欲しかったら、目の前の鉄格子を舐め上げてよ。アレをするみたいにさ。わかるだろ?」
「はあ?」
薄汚い要求に万衣子はさらに顔を歪めて男を睨みつけた。
「何度も言わせるなよ。なんなら真っ裸になって猫ポーズしてもいいよ。尻を高く上げてさ」
「このっくそ変態野郎っ」
万衣子は男めがけて唾を吐いた。
「いやなら別にいいよ。僕はちっとも困らないから」
男は手から紙袋を落とすと足で踏みつけにじった。
袋が破れ、中から潰れたサンドイッチや紙コップが出てきてコーヒーの良い匂いが漂ってくる。
ぐうっと腹は鳴ったが万衣子はつばを飲み込むことは耐えた。
「じゃあね。明日また来るよ。それまで決心しとくんだね」
男はそう言いながらも動こうとはせず、万衣子の表情を窺っていた。
泣いて許しを請うとでも? ふんっ、そうはいくか。
万衣子は空腹と恐怖に耐え、唇を噛み締めて男を睨み続けていた。
男が出て行ってから何時間たったのだろう。
真の闇というものを始めて感じながら万衣子は毛布に包まっていた。月明かりでもあれば少しは違うのだろうが、あいにく外は雨が降っていた。屋根や壁を打ち付ける雨音だけでなく雨漏りしているのか内からも音がしている。檻の中に滴が落ちてこないだけマシだと万衣子は考えることにした。
薄ら寒さに体を冷やしたのか、飲食していなくても便意はやってきた。
さっき我慢できず屈辱に耐えながらバケツに排泄したのだが、さすがに涙が頬を伝った。
あいつ絶対に許さない。
かすかに漂う自分の排泄物の臭いとひもじさの中で万衣子は眠りに落ちていった――
何かの物音で目が覚めた。耳を澄ますと小屋の外で鳥が鳴いている。まだ日は上っていなかったが、壁の隙間からは深海のような青い明かりが見えていた。
夜が明けたとほっとしたと同時に何度目かの便意をもよおし、万衣子はバケツにまたがった。
その時、部屋の隅からカチッと音が聞こえ丸い光が灯り、スポットライトのように万衣子を照らした。眩しさに目を細め、急いで立ち上がろうとしたが、生理現象を止めることができない。
光が揺れ動くと同時に拍手が聞こえた。
「ああ、素晴らしい。君のそんな姿を拝めるのはきっと世界で僕ただ一人だ」
万衣子は用を済ますと唇を噛み締めて下着を上げて毛布に包まった。自分の姿をこの男に晒すのはもう嫌だった。
男は檻の前に来て昨日よりも大きい紙袋を掲げて見せた。
「きょうはおにぎりとお茶だよ。ウエットティッシュや下着の替えも入れてる。ねえ、欲しいだろ」
確かに喉から手が出るほど欲しかった。だが、万衣子は毛布の合わせ目をきつく閉じて返事もしなかった。
「残念だな。じゃこれは持って帰るよ。きょうから仕事が忙しくてね、あさっての朝までもう来れない。死なれると困るから食べ物だけ置いてくよ」
ガサゴソと音がして毛布の上にぽんと何かが載った。
隙間から窺うとコンビニのおにぎりが転がっている。視線を上げるとにやにや笑った男の目とぶつかった。
かっとなった万衣子はおにぎりをつかむと男に向けて放り投げた。
簡単に避けられおにぎりはボールのようにバウンドしながら汚れた床を転がっていく。包装されているため食べられないことはないが、手の届かない場所まで飛んでしまった。男に取ってくれと頼めばどんな変態じみた行為を要求されるかわからない。しまったと後悔しながら万衣子は毛布を閉じた。男が拾い戻してくれることを願ったが、癇に障る声で大笑いして、それでもペットボトルのお茶だけは檻の中に置いて、そのまま小屋を出て行った。
万衣子は泣いていた。
自分から放たれる汚れた髪の臭いや体臭に――
バケツから漏れてくる臭いに――
今までに味わったことのないひどい空腹に――
そして物音がする度に男が来たのではないか、また陰に潜んでいるのではないかと期待していることに――
男に抗えなくなってきている自分が情けなくて泣いていた。
あと何時間したらあの男はここへ戻ってくるのだろう。
ちゃんと食料を持ってくるのか。それを欲したらどんな条件を出されるのか。
万衣子はすんと鼻をすすって顔を上げた。
なんでもいいわ。なんだってする。
鉄格子を舐めろと言われたら舐めるし、裸で踊れと言われたら踊るわ。何か食べさせてくれるのなら――
そうよ。本当の従順になんてならなくたっていい。ふりだけして油断させれば、ここから逃げることができるかもしれないじゃない。
もうあの男に勝った気がして万衣子は笑ったが、大きな口を開けただけで声は出なかった。
*
そろそろ落ちる頃だな。
コンビニの棚からサンドイッチを選びながら男はほくそ笑んだ。一緒に食べようと自分の分もかごに入れる。サラダのパックにオレンジジュース、缶コーヒーも入れ、レジに並んだ。
車にはこの前の清拭セットとともにスケスケのきわどいランジェリーも積んでいた。
身体をきれいにした後、あれを着けて目の前で踊ってもらおうか。その後僕が脱がせていく。上からいくか、下からいくか、楽しみだなあ。
ああそうだ。先にバケツの中身を始末しないとな。あんなひどい臭いの中じゃ楽しめないし。
それにしてもあの彼女がどこまで従順になっているかだ――食べ物を餌にもっともっと屈辱的なことさせてやろう。
笑いが込み上げてくるのを我慢しながら支払いを済ませた男は妄想で夢見心地のまま店を出た。
目の前の駐車場に一台のパトカーが止まり、警官が二人降りてくるところだった。寄りにもよって自車の隣だ。
突然のことに男は一瞬で現実に引き戻された。その表情の変化を警官は見逃さなかったらしい。二人顔を見合わせこっちに近づいて来る。
男は焦りで平静さを保てず、とっさに向きを変えて逃げ出した。
「おい、ちょっと待てっ」
男はますますスピードを上げ、道路を横切った。
周囲を見ている余裕などなかった。
「あぶないっ」
警官の声に信号が赤だと気付いた時は遅かった。
男はトラックに跳ね飛ばされ、頭から地面に叩きつけられた。
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