恐怖日和

黒駒臣

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黒蟲

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 行きつけの居酒屋でひとり呑みしているのは登也だけだった。
 周囲のテーブルはみな四、五人のグループで賑やかに飲み食いしている。
 みんな楽しそうだ。ちぇっ、せめて彼女でもいたらなあ。でも、いたらいたで、イタリアンとかフレンチとか予約しなきゃいけないんだろうなあ。そういうの面倒くさい――って、こんなんだから彼女できないんだろっ。
 心の中で自分をツッコミながら、目の前のオムレツに箸を伸ばす。中身はポテトサラダだ。この居酒屋で初めて口にして好物になった。
 レモン酎ハイを片手に舌鼓を打つ。
 ふと黒いものが目の端を過ぎったような気がして視線を下に向けた。床の隅を這っていた黒い虫がすっと隣テーブルの影に隠れた。
 えーっ。まさかG? うそだろ。うわあ、やだやだ。
 しかめっ面をしていると、そのテーブルにいた男と目が合った。
 さっきは気付かなかったが、その男もひとりで呑んでいる。
 登也は気まずさを隠すために軽く会釈した。
「いらっしゃっせー」
 店員の威勢のいい声がしてグループ客が入ってきた。カウンター席しか空いていないので迷っているようだ。
 するとさっきの男が皿とグラスを持って立ち上がった。
「ここどうぞ」とその客たちに席を譲ると登也のテーブルに移ってくる。
「すみません。相席していいですか」
 男が登也の顔色を窺う。
「いいですよ。ひとりでテーブル席陣取ってるのも気兼ねするし、逆によかったです」
 登也が笑うと男も目尻を垂らした。
 和田と名乗った男は出張でこの町に来たという。近くのビジネスホテルにあさってまでいるらしい。
 年齢がほぼ一緒で、意気投合して話が弾んだ。
 人がよさそうで屈託のない和田を幼なじみぐらいに感じ始めた頃にはだいぶ酔いが回っていた。
 こういう優しげな顔は女にモテるんだろうなあ。彼女もいるって言ってるし、きっと仕事にも有利だろうなあ。
 彼女もおらず、睨んでもいないのに「その目は何だっ」と上司からよく怒られる登也はうらやましく思った。
「――というわけでさ――ねえ聞いてんの?」 
 和田の目が据わっている。
「えっ、ああ、聞いてる。聞いてる」
 慌てて言いつくろい、煮魚をほじった。
 急に和田が顔を近づけてきた。
「俺さ、きょうは最高の日なんだよ」
 と、ひそひそアルコール臭い息を吐く。
「えっ?」
 登也は顔を上げた。
「どうしよ。話しちゃおうかなあ。ねえ聞きたい? というか聞いてくれる?」
「お、おう。いいよ」
 その返事に和田は顔をほころばせ語り始めた。

 俺がいる会社に女子社員が五人いてね、なぜかその中の一人に気に入られちゃって――いや、普通なら嬉しいんだよ。
 でも、その人、みんなにお局って陰口叩かれて嫌われてる人なんだよね。
 どうやってあしらったらいいかわかんなくてさ、大学時代の先輩に相談したら、おまえが気のあるそぶりでも見せたんだろう。自業自得だっつって取り合ってくれないんだよ。
 あー、あんたもそんな目で見る? でもね、そんなことするわけないよ。だいぶ年上だよ? 
 まあ、すっげえ美女なら話は別だけど、実際より老けたブスだし。だから、間違っても気のあるそぶりなんか見せないっての。
 じゃなんでって言われても、それはわからん。何を勘違いしたのか、勝手に弁当作って来たり、ディナーの予約されたり――ああ、今思い出しても怖ぇ。
 え? もちろん全部断ったよ。
 そしたらさ、今度は不機嫌になって八つ当たり。俺一人ならいいんだよ。嫌われたほうがマシ。
 でも周りにいる他の女子社員に八つ当たりしまくってさ、その度みんな俺を睨むんだよ。俺が悪いわけじゃないのに――
 で、また弁当作ってきたり誘われたりで、断ると八つ当たりの繰り返し。もうどうしていいかわかんなくてさ、体調が悪くなって朝起きられなくなったのよ。
 具合悪いから休みますって直接上司に電話したら、事情わかってて、すごく心配してくれてさ、ゆっくり休めって三日間休みくれたんだよね。
 安心したとたん、よく眠れるし飯も食えるようになって身も心も軽くなったよ。でも今度は会社に行くのが怖くなってきてさ。調子が良かったのは一日目だけで、二日目からなーんもやる気起きなくなって――夕方までぼんやり寝転んだままでいたんだ――
 そしたら、マンションの廊下からカッカッカってヒールの音が響いてきてね。身体っていうのは正直だね。それ聞いた瞬間、冷や汗がぶわって噴きだして動けなくなっちゃって。
 で、チャイムも鳴らさず、いきなりドアのノブががちゃがちゃ回る音がして――
 そう、正解。
 あの女が俺の部屋まで来やがったんだ。鍵かけといてよかったよ。もちろん居留守だよ。出るわけないだろ。中に入られたらもう終わりだって感じたからね。
 でも、めちゃくちゃドア叩くわ、壊れそうなくらいノブ回すわで怖いのなんの。やっぱりあいつ異常なんだって改めてわかったよ。
 警察呼ぼうかと思ったけど、しばらくしたらあきらめて帰ってった――
 で、もうマジで会社辞めよう、ここも引っ越そうって決心してさ、例の先輩に電話したんだ。手伝ってもらおうって思って。
 ところが、せっかく入った会社なのにそんなことで辞めるなって諭されて。でも俺もう我慢できないし、どうすりゃいいのって泣いてさ。
 そしたら先輩がね、おまえに彼女いないからだろって。押せば何とかなるって思ったんじゃないか、その女。だから彼女作ればあきらめるんじゃないかって。
 だよね、ほんと。簡単に言ってくれるよ。そんなすぐ作れるわけないじゃんね。できるくらいならこんな苦労してないって。
 ははは、わかってくれる?
 でも、そう言ったらさ、なんと、今すぐ彼女を紹介してやるって、その日のうちに先輩の家で会うことになったんだよ。
 それがさっき言った彼女のりっちゃん。先輩の奥さんの後輩だった子で、ものすごくかわいくてふんわりした優しい子なの、会ったとたん向こうも俺のこと気にいってくれてさ。
 で、事情話したら、うちに避難してきなよって言ってくれて。
 んっ、いやいやなんもしないよ。そんなすぐにねぇ。ホントだよぉ。うらやましいって? うん。まあね。フフフ――
 りっちゃん、最高。俺にはもったいないくらいで、かわいいだけじゃなくて気が利くし、家事が得意で料理も美味い。
 俺はりっちゃんの部屋で三日目の一日過ごしただけで元気取り戻してさ、次の日、ちゃんと会社に復帰できたんだ。上司や同僚に、恋人が看病してくれたって大声で自慢したよ。もちろんあいつに聞かせるためさ。
 そしたらあの女どうしたと思う? 
 半日でりっちゃんを探し出して、彼を盗るなって言いに行ったんだぜ。
 信じられないだろ? 
 俺もりっちゃんからそれ聞いて寒気したよ。
 まああいつの思い通りにはならなかったけどね。逆にりっちゃんが俺につきまとうなって返したらしいから。フフ、気のきついところもかわいいよね。
 え? ああ、次の日から会社に来なくなったよ。
 そう。無断欠勤。上司が連絡しても電話に出ないって。
 さあ? みんなは失恋の傷を癒しに田舎に帰ったんじゃないかって――もうこのまま辞めてくれてもいいよなって全員一致。
 で、そのまま二か月は経ったかな。
 俺はりっちゃんと同棲始めて幸せいっぱい。
 でもね、部屋にゴキがいるって大騒ぎするんだよ。怖いんだってゴキブリが。そんなもんどこの部屋にもいるでしょ。なのに退治しないと家出るって脅すんだよ。
 ったくかわいいよね。
 ははは、のろけはいいってか。
 まっ、それは殺虫剤でなんとかなるとして、心配なのはあいつが帰ってきた場合のこと。
 りっちゃんに嫌がらせするんじゃないかって不安でさ。
 ぜったい帰ってくんなって、毎日祈ってたんだよ。
 で、なんできょうが最高の日だって話になるんだけど、ははは、前置きが長くてごめんな。
 ――実はあの女、自殺してたんだよね。
 でしょ。驚くよね。
 今朝ここに来る途中、警察から連絡があったって上司から電話かかってきてさ。
 生まれ故郷の山中で首つってたらしい。二ヶ月は経ってるって言うから会社来なくなってすぐなんだろうね。もう白骨化とかしてたんかな?
 あっ、食ってる最中に悪い、悪い。
 で、俺のせいかってちょっとだけ嫌な気分になったんだけど、それを察した上司がさ、お前が悪いんじゃないから気にすんなって言ってくれて。
 うん。ほんとなんも悪くないよね。
 ね、これでもうあいつに悩まされることはないんだよ。だからきょうは最高の日ってわけ。
 一緒に乾杯してくれる?
 
 和田はグラスを掲げ、登也のグラスに打ち付けた。

                 *

「ちょっと大丈夫? ホテル、こっちでいいんすよね」
 酔っぱらった和田に肩を貸して暗い路地に入った登也は「ほんとにこっちかな――」と心細げにつぶやいた。
 さっきまでふらふらしつつも道案内していた和田は今では軽い寝息を立てている。
「ねえ、起きてよ」
 登也は見た目よりも重い和田に辟易した。
 示されるままに来た方向は地元の登也でも不案内な場所だった。先を見ても暗がりばかりでホテルらしい建物も看板もない。
 薄暗い街灯の下で躊躇している間に力尽き、和田もろとも膝から地面に崩れ落ちてしまった。
「っ痛いなあ」
 目を覚ました和田がアスファルトに胡坐をかく。
「ごめん。ごめん。怪我してない?」
 登也も並んで座った。
「だいじょぶ。だいじょぶ。ところでここどこ?」
 和田が寝ぼけ眼であたりを見回した。
「ここどこって、こっちじゃないの?」
「違うよ。駅前のビジネスホテ――」
 和田が呑気に大あくびする。
「真逆じゃん。変だと思ったよ」
 登也は立ち上がって尻についた砂を払った。
 かさかさかさ
 先の暗がりから奇妙な音が聞こえてきた。
 かさかさかさ
 目を凝らしても何も見えないが、一匹の黒い虫が和田の足元へ這ってくるのが街灯の光で見えた。
「うわっ」
 登也の声に再びうとうとし始めていた和田が目を開き、次々と足元に集まって来る虫を見てへらへら笑った。
「あっ、これこれ、このゴキブリ。変なゴキブリだっつって、りっちゃんが怖がってたやつ」 
 登也は少年の頃に愛読していた図鑑を思い返す。
「和田さんっ、ぜんぜん違う。これゴキブリじゃないよ。シデ虫だ――」
「しでむし? って何だ?」
「し、死肉を喰う虫だよ」
「しにく?」
 和田はぼんやりと座ったまま、どんどん集まって来る虫をただ眺めている。
 かさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさ
 音が一層大きく聞こえ、ぞっとした登也は後退った。
 路地の暗がりが蠢き、押し寄せた虫の群れが明かりの下で女の姿を形どる。
 それを見上げた和田の身体が驚いたようにびくりと固くなった。 
 女の目からシデ虫が一匹這い出てぽろりと和田の上に落ちた瞬間、女は再び虫の群れに変化し、黒いうねりとなって和田を包み込む。
 かさかさかさくちゅくちゅくちゅ
 黒い塊が乾いた音と湿った音を出しながら蠕動する。
「うっ――」
 登也は口を押さえた。
 巻き添えをくわないうちに逃げなければと振り返った登也の前に女が立っていた。
「ひいっ」
 腰を抜かし、尻を引きずって後退る登也に女が一歩一歩近づく。そのたびにシデ虫がぼろぼろとこぼれ落ちる。
 ブロック塀に行き当たりそれ以上動けなくなった登也に女が顔を近づけてきた。虫が肩や胸元に落ち身体中を這いまわる。
 もうだめだ。
 覚悟して目を閉じると女の中でひしめき合っている虫の音がした。
 かさかさ、きゅきゅ、かさかさ
 それが、
「ヒトニハ、イウナ」
 と聞こえた。
 目を開くと女もシデ虫も和田の姿もなかった。

                 *

 あれから和田がどうなったのかわからない。実在していたのかさえも定かではない。
 何事もなく日々が過ぎ、合コンで知り合った女性と付き合い始めた登也は幸福に酔いしれ、あの時の恐怖は徐々に薄らいでいった。
 だが、異常なほどゴキブリが嫌いになった。実際に嫌いなのはシデ虫だが、かつての虫好き少年は黒い虫全般がだめになった。
 男のくせにと笑われ、理由を話したくなるが、あの虫女の『声』を思い出すと薄らいだはずの恐怖が蘇ってくる。
 あれは酒に酔って見た悪い夢だ。
 その度、登也は自分にそう言い聞かせた。

「うちはゴキブリいないから安心して」
 初めて来た部屋を見回していると美奈子が笑った。
「べ、別に確認してるわけじゃないよ」
「ねえ、なぜそんなに怖いの? まあ気持ちいいもんじゃないけど――登也さんの怖がり方って尋常じゃないよね」
「いや――その――ゴキブリが怖いわけじゃないんだ――
 実は――その――」
 誰にでも怖いものあるだろと、いつもならそう言い返すところだが、話してみたくなった登也はついにあの夜の出来事を語った。
「――というわけなんだよ。たぶん夢だと思うんだけど」
 照れ笑いを浮かべて美奈子の様子を窺う。
 笑い飛ばしてくれるとばかり思っていたが、彼女の顔から笑みが消えていた。
「へえ、人には言うなって言ったの? じゃあ、しゃべっちゃだめなんじゃない?」
 えっ――
 子供の頃に聞いた雪女の物語を思い出し、体中から血の気が引いていく。
 そうだ、そうだよな。合コンくらいで自分に彼女なんかできるはずない。これは虫女の罠だったんだ。
 和田を消した黒虫の大群を思い出す。
 ぷっと美奈子が吹き出した。
「やだもう、そんなの夢に決まってるじゃない。酔っぱらって道端で眠ったんでしょ。そんなことぐらいでゴキブリが怖いだなんて、登也さんったらおかしい」
 大笑いする美奈子を見て登也は胸を撫で下ろした。
「そうだよね、オレも夢じゃないかって思ってたんだ」
 二人で笑い合っていたらチャイムが鳴った。
「あら、誰かしら」
 玄関に向かった美奈子の来客を迎える声が聞こえてくる。
 ソファに腰を下ろして登也はくつろいだ。
 ずっと怖がっていた自分が馬鹿らしいのとやっと安心できたのとで、にやにや笑いが止まらない。
「田舎から出て来るなんて珍しいわね」
 美奈子が客に話しかけながら戻ってきた。
「そうなのよ。こっちに用ができてね」
「でもちょうどよかったわ、お姉ちゃん。
 じゃーん。こちらはわたしの彼、登也さんですっ」
 いきなりの紹介に登也は慌てて立ち上がって深々と頭を下げた。
「は、初めましてっ。木村登也と言います。よろしくお願いしますっ」
「いつも美奈ちゃんがお世話になってます。姉の美紀子と言います。こちらこそよろしくね」
 優しい声に緊張を解いて登也は笑顔を上げた。
 美奈子の隣に姉だという女が佇んでいる。
 登也を見つめるその目の中でつややかな黒い虫が蠢いていた。
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