恐怖日和

黒駒臣

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薄紫色の女

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 重く垂れ込めた雲からぽつぽつと雨粒が落ちてきて電車の扉にいくつもの線を引き始めた。
 エアコンが入っているにもかかわらず効きが悪くて蒸し暑い。
 のどが渇き、立ちっぱなしの足の指が引きつり出した。
 もうすぐ駅に到着する。
 あと少しの辛抱だと祐明は自分に言い聞かせた。
 かんかんかんと警報機の音が近づいてきた。
 駅近くの踏切の音だ。
 祐明はほっとし、すでにびしょぬれになった雨の滴る窓を眺めた。
 踏切を通過する時、薄紫色のワンピースを着た女が遮断機の前に立っているのが見えた。ふと気になったのは傘を差していなかったからだ。
 せっかくおしゃれしているのに雨に降られて――
 以前、おしゃれをしてショッピングに出かけた妻の奈美子と娘の晴海が土砂降りに合い、ずぶ濡れで帰ってきたことを思い出す。迎えに行かず呑気にテレビを見ていた祐明は奈美子だけでなく、まだ小学三年生の晴海からもこっぴどく叱られたことまで思い出し、苦笑を浮かべた。
 ホームに到着した途端、さらに雨足が強くなった。駅から自宅まで徒歩で十五分ほどかかる。
 この雨じゃ、スーツどころか下着にまで染み込んできそうだ。小降りになるのを待つか――
 祐明はそう考えながら、他の乗客とともにホームに降りて跨線橋の階段を上っていく。
 駆け足で下りてくる人の群れを避けて上っていると人々の間に薄紫色の肩がちらりと見えた。
 さっき踏切にいた女性?
 同じ色だったのでそう思ったものの、あの踏切からここにたどり着くのは女性の脚では至難の業だ。
 不可能ではないかもしれないが、あの位置で踏切を待っていたのだから遮断機が開いて渡れば駅と反対の方角へ行くことになる。わけあって戻ってきたのかもしれないが、そう考えるよりもよく似た色の服を着た別人と考えるほうが自然だ。
 振り返ってじっと見ていたが、ホームへ駆け下りた人々の中に薄紫色の姿はもうなかった。
 死角に入ったまま、すでに電車に乗り込んだのか。
 祐明はそれ以上興味をなくし、跨線橋を渡った後、今度は改札に向かって階段を下った。
 足早に追い抜いていく若い男の肩がぶつかる。
「あ、すんません」
「いえいえ」
 祐明が顔を上げると男の向こう側に薄紫色がちらっと見えた。また死角で全身が見えず、彼の長い脚の間でひらひら揺れる薄紫色の裾だけが見えている。
 なんで毎回全体が見えないんだ? なんかイライラするな――
 こう何度も遭遇すると尾行されてるんじゃなかろうかと勘繰ってしまう。
 だが、自分は尾行されるような人間ではない。
 通り過ぎてったんだから尾行でもないけどな――
 いやいやそうじゃなくて、いったいどういうことだ?
 考え込みながら、IC乗車券で改札を通り抜ける。
 前から歩いて来る男の後ろに、またも薄紫色の肩が見え隠れしていた。
 祐明は足を止めて男が通り過ぎるのを待ち、思い切ってその背後を確かめた。
 だが、薄紫色の女どころか誰もいない。
 ああ、これは見てはいけないものだ――
 思い起こせば、踏切に立っていた女の顔は滲んだようにぼやけていた。なのになぜか目が合った気がした。
 ふと気になったのは傘を差していなかったからではなかったのだ。
 祐明は薄紫色の女から逃れるため無心になり、構内をあっちこっちぶらついた。斜め上に視線を当て人の向こう側を見ないようにし、必死で歩き続けた。
「痛えな、おっさんっ」
 ぶつからないよう注意していたが、とうとうガタイのいい若者にぶつかってしまった。
 だが、どんっという衝撃が憑きものを落としたのか、頭の中がすっきり晴れたように感じた。
 若者の背後やこっちを見遣りながら通り過ぎていく通行人の死角に視線を向けても薄紫色の女は見えない。
「いやぁ、ありがとう、ありがとう」
 逃れられたことが嬉しくて、つい出てしまった感謝の言葉に面食らったのか、若者は「ちっ」と舌打ちを残して去ってしまった。
 やっと帰宅の途につけると、祐明は出口を目指した。
 雨のせいで出入口付近は人々でごった返している。
 その中に奈美子の横顔が混じっていた。
 おっ、迎えに来てくれたんだな――
「奈美――」
 手を上げかけたが、薄紫色の肩が見えてその手を途中で止めた。
 奈美子の死角に見えたのではない。彼女のTシャツが薄紫色なのだ。
 あんな色のTシャツ持ってたか?
 見覚えのない色をまとった奈美子が祐明に気づき、滲んだようにぼやけた顔をぐにゃっと歪め「迎えに来たよ」と笑った。
 その瞬間、駅構内の喧騒が消え、耳元でギギギィィィッと電車のブレーキ音が響いた。

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