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スイートホーム
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ある住宅地の一角に幽霊屋敷とウワサされる古い空き家があった。
庭に立つ半透明の老人を夜な夜な通行人が崩れた垣根の隙間から目撃するという。
よくある友達の友達が見たというパターンだが、ウワサは拡散され、大きく育っていく――
**
「どっか、いい場所ないかな」
エイジは首筋をぽりぽりと掻きながら浮かない表情でつぶやいた。手にはコンビニの袋を力なくぶら下げている。
「んなとこ、どこにもないよ」
ババクンもコンビニ袋を指に引っ掛け、ふてくされた顔でエイジを振り返る。
「ねえねえ、さっきの見た? あの店員の顔。ああいうのを目むいて鼻むいて怒るっていうのかな」
チャメは笑っていたが二人と同じくやはり元気はない。
「俺らみたいなんがたむろする店が流行ってるってこと知らねえんだよ、あのクソ店員。集客してやってるみたいなもんなのにさ」
そう吐き捨てダンダはペットボトルのコーラをぐびぐびと飲み干し派手なげっぷをした。
中学二年生のエイジたち四人組は小学校時代からの仲良しグループだった。
放課後コンビニに立ち寄って駐車場の片隅でダベろうとしていたところを店員に見咎められ敷地から追い出されたところだ。
四人は世間から見て普通の良い子ではない。だが、手の付けられないワルというのでもない。
同じ学年に万引きを注意され店員を殴って逃げたワルがいるが、それに比べるとかわいい少年たちである。
「ああ、ほんと、どっかないかな。オレ達みんなで集まれて、大人たちにうるさく言われない秘密基地みたいな場所。そんなとこあったらさ、女子も誘ってあんなことやこんなこと。むふふ――」
「おいエイジ、お前バカか。そんな都合のいい場所どこにもねえし、俺たちが誘ってついてくる女子なんかよけいいるか」
ダンダはエイジのにやけた顔に水を差した。
「まあ、そうだろうけど――夢を壊さないでくれよ」
「ねえねえ、エイジの夢ってそんなでいいの?」
「じゃあ、チャメの夢ってどんなだよ」
「えー。僕の夢? うーん。わからん」
「おれも女子と仲良くするっていうの夢だなあ――」
「ババクンも? 二人ともそれが夢って悲しすぎるよ」
チャメが憐れむ。
「ははは、お前ら勝手に言っとけ。俺は彼女いるからな」
三人は一瞬、羨望の眼差しでダンダを見た後「ウソつけっ!」と同時に叫んでツッコミを入れた。
それを笑ってかわしダンダが叫ぶ。
「もう、これからどこ行くよっ!」
***
背が低く痩せた初老の男がいた。おまけに貧相な顔立ちで、勤めていた会社では貧乏神とあだ名されていた。
その男が退職金でマイホームを手に入れた。
何を作っていたのかいまだ把握していない部品工場で毎日油にまみれて働き、上司に嫌われ同僚や後輩たちに無視され続けても定年退職するまで働きぬいた。
退職金は男にとって文字通り汗と涙の結晶であった。
もちろん大した額ではない。だが、中古の小さい家を購入することはできた。
男は自分がやっといっぱしの人間になれたと大満足した。
**
それぞれの家にはいつも誰かしらいて、好き勝手に集まり騒げる場所はなかった。
エイジの母親はイラストレーターで常に在宅している。世間一般の大人たちに比べると寛容なほうだが、年甲斐もなく少女趣味全開で、むさくるしい中二男子が四人も自宅に集まることをよしとしなかった。
娘が欲しかったと堂々と嘆き、息子にかわいい彼女ができるのを楽しみにしていたが、最近は顔を見るとため息をついてダンダたちを家に招くと露骨に嫌な顔をした。
ババクンの両親は学習塾を経営していた。よってみんなが集まると有無を言わせずまず勉強をさせる。必然、誰も近寄りたがらない。
チャメの母親は専業主婦でご多分に漏れず、かわいい一人息子を溺愛していた。
四人が部屋に集まると大喜びでお菓子や飲み物を用意してくれ一番最適な場所だったが、そのまま部屋に居つき首を突っ込んでくるのでみんなうんざりしていた。
猫なで声でチャメを呼ぶ母親をダンダが特に嫌っていた。
ダンダの家には母親がいない。
だが、たった一間の狭い長屋にはダンダの部屋などなく、酒癖の悪い酔っぱらい親父がいつも大の字で寝ている。
小さな子供たちが遊んでいる公園ではママ友たちが目を光らせているし、四人で集まれる場所はコンビニの駐車場ぐらいしかないのだ。
こうるさい店員がいない時はいいとしても安住の場所ではない。
空き家か空き倉庫でもあれば。
エイジはいつも考えていた。しかも管理の行き届かない簡単に忍び込める場所。
だが、そんな自分たちに都合のいい所がそう簡単に見つかるとはとても思えなかった。
***
夫が相談もなく勝手に購入したマイホームは妻にとって満足のいく『我が家』ではなかった。
今は肥満して身をやつすこともなくなったが、見合い結婚した頃はまだ若さと多少の美を備えていた。そんな彼女は結婚から現在に至るまですべての意味で夫に満足したことがない。親戚に勧められたとはいえ、なぜ結婚してしまったのか後悔の連続で、惰性で離婚しなかっただけで夫に対してずっと信頼も期待も持ってなかった。
そのため、まとまった退職金が出るとは思わなかったし、ましてや一軒家の購入など大それたことをしでかすなど夢にも思ってなかった。
もしそこに考えが及んでいたなら、こんな悪質な物件を買わせはしなかったのに。
夫の購入した中古物件は狭い上に動線の悪い間取りでリフォームも雑だった。さらに日当たりも悪く、家の真横には汚臭と害虫の発生するドブ川があった。
誰も購入しないカス物件をこいつはつかまされたのだ。
自分に相談していたらこんなことにはならなかった。
妻のただでさえ高い血圧が上がる。
身の程知らずが、マイホームなんか夢のままでいいんだ。金だけ持って帰ってくればよかったんだ。そしたら慰謝料ふんだくってさっさと離婚したのに。
怒りと不満が妻の身の内でどす黒く渦を巻いた。
**
昼休憩、エイジは机に突っ伏して眠っていた。弁当を食べた後に来る眠気が気持ちよく、その時間は必ず昼寝をしている。
「ねえねえ、エイジ。僕、きのういいこと聞いたんだ」
隣のクラスからチャメが来てエイジの前に立った。
「何? オレ、眠いんだけど」
「まあ起きてよ。
となりのK町に誰も管理していない空き家があるんだって」
しゃがんだチャメがエイジの机にアゴを載せ、ひそひそ話し出した。
教室にはスマホに興じる女子生徒数人とエイジと同じく机にもたれて眠る男子が三人いるだけで、こちらを気にしている者は誰もいない。
エイジが背筋を伸ばした。
「ふーん。誰情報?」
「ママ――じゃなくて、母ちゃん。その家、幽霊屋敷ってウワサあるんだけど――」
いまさらマザコンキャラは変えられないよと、エイジは心の中でうそぶきながら、「幽霊屋敷? じゃあ、ダメじゃん」と再び机に突っ伏す。
「え? なに? 怖いの?」
嘲りを含むチャメの声にエイジは視線を上げた。
「べ、別に怖くないよ」
「へー、ふうん。ま、今は信用しとくよ。
でね、僕はそれきっと嘘だと思うんだ。子供たちが――僕らみたいなね――不法侵入しないようにそんなウワサ流してんだよ。
だからさ、一度行ってみようよ」
「うーん――」
「ババクンは行くって。
ダンダにはまだ言ってないんだけど。
ねえ、怖いんならいいけどさ、怖くないなら行こうよ」
エイジがゆっくりと起き上がる。
「よし。行くだけ行ってみるか。ダンダはオレが誘うよ」
放課後、ダンダから二つ返事でOKをもらったエイジはいったん帰宅した後、待ち合わせ場所のいつものコンビニへ自転車で向かった。
すでに待っていた三人と合流しすぐK町へと走り出す。
赤い夕日が自転車に乗る四人の影を長く伸ばしていた。
***
新居に移り、一国一城の主となった男は自分の価値が上がったと思い込み、今まで逆らえなかった妻に横柄な態度をとるようになった。
だが、妻からすれば男の価値などこれっぽっちも上がっていない。むしろ今回のことでマイナスになってしまった。
男はそのことにまるで気付いていなかった。
**
K町に着くころには夕日が沈み、空が濃い紫色に染まりかけていた。
「お前、塾さぼったのママにばれないか」
エイジは先頭を走るチャメに訊いた。
「大丈夫。ママ――じゃねぇ――母ちゃんは塾に行ってるって信じてるし、塾には休みますって電話したから。僕、どっちからも信用されてるからね。バレないよ」
チャメはしたり顔でエイジを振り返る。
「へいへい。チャメちゃんいい子でちゅもんねー」
笑って茶化すエイジを今度は並走するダンダが心配した。
「エイジは? こんな時間にいなかったら怒られるんじゃね?」
「へーき。オレんとこ放任だもん。まあ女の子だったらもっとかまわれてんだろうけどね。
ところでババクンは?」
ダンダの事情はわかっているので、エイジは斜め前のババクンに訊いた。
「黙って出てきたよ。きょうはふたりとも忙しいから気付かないんじゃないかな」
振り向きもせず素っ気なく答える。
ババクンはこういうこと訊かれるの好きじゃないよなとエイジは思い出した。
チャメの自転車がきゅっと鳴って止まる。
「あそこだよ」
指さすほうに崩れかけた垣根に囲まれる古い一軒家があった。
「なあんだ普通の家じゃん。幽霊屋敷っていうから蔦がびっしりの洋館かって思ってた」
「ほんとだ。マジふつー」
エイジとダンダは自転車にまたがったまま家を眺めて笑った。
「本当に人、住んでないのか?」
ババクンの問いにチャメが大きく頷く。
「よしっ。もう少し暗くなるまでどっかに待機だ。ここにチャリ止めるわけにいかないから置く場所探そう」
自転車をユーターンさせ今度はエイジが先頭に立って勢いよく漕ぎ出した。
「さっきさ、スーパーあったじゃん。そこへ行こうぜ」
ダンダが後に続き、ババクンとチャメが賛成した。
***
居丈高に振る舞う夫への怒りがついに頂点に達した。
ある夜、狭いリビングに置かれた安っぽいソファの上で「茶を入れろ」とふんぞり返る夫の一言で妻のスイッチが入った。テーブルに置いていたガラスの灰皿を雑誌を読む夫の頭めがけて思いきり振り下ろす。
安っぽいくせに重量だけある灰皿はソファセットと共に居間に置くのがステータスだと考える夫自身が購入したものだった。
**
「もういい頃かな」
エイジが顔を上げた。
近くにあるスーパーマーケットの駐輪場で待機することにした四人は携帯ゲームで時間を潰していた。
きょうは偵察だけのつもりなのでおやつを購入しなかったが、もしあそこを秘密基地にするならコンビニでなくここを利用しようと四人で決めた。
見かけない少年たちを不審に思ったのか、店員がガラス越しに注視している。
咎められる前に自転車を置いたまま幽霊屋敷へと急いだ。
点在する街路灯が夕闇の中で灯り始め、小さな羽虫を集めていた。
まだ遅い時間でもないのに幽霊屋敷の周囲はやけにひっそりしている。
通行人もなく人目がないのはいいが、なぜだか落ち着かない。
悪いことをしようとしているからかな。
エイジはふっと笑った。
「何? 何笑ってんの?」
チャメが普通のテンションで訊いてくる。
「しっ」
エイジはあたりを窺い幽霊屋敷の門の中にチャメを引っ張り込んで身を隠した。
続いてダンダたちも素早く中に入ってしゃがみ込む。
「声デカ過ぎ。お前バカか」
ダンダがチャメの頭を小突く。
「ごめん、ごめん。てへっ」
「てへ、じゃないよ。
ところでさ、門に鍵がかかってないってことは人の出入りがあんのかな。不動産屋とか」
エイジが眉をひそめた。もしそうなら基地にしても常にびくついていないとならない。
「でもこんな時間に来ねぇだろ」
ダンダは腰をかがめたまま玄関のドアノブをそっと回した。さすがにドアはきちんと施錠されている。
ダンダはその姿勢のまま垣根と家屋の間を通って庭に向かった。チャメが同じ姿勢で後ろに続き、ウエストポーチから小振りの懐中電灯を出してダンダに渡す。
あまりの手回しの良さにエイジとババクンは顔を見合わせた。
***
男の頭頂部は妻の一撃で陥没した。
頭を押さえ呻いていた男は幾度も殴られ、脳と脳漿をぶちまけて血まみれになりながら息絶えた。
死体は妻によってリビングの掃き出し窓から庭へ、血の跡を付けながら引き摺り出された。
**
こじんまりした庭は雑草が蔓延り荒れ放題だった。
垣根の所々が破損し穴が開いていたので通行人に見咎められないかとエイジは心配になった。
だが、さっきから人っ子一人通らず、隣近所に見つかった気配もないのでひとまず安心した。
「なんだ、ほんとに普通の空き家だな。チャメが言ったとおり、近所のババアか不動産屋のおっさんが幽霊話を盛ってたんだな」
ダンダが閉められた掃き出し窓から中を覗き込みながら鼻で笑った。ここもきちんと施錠されている。
「はい、これ」とチャメがウエストポーチからガムテープを取り出し、ダンダに差し出す。
「ガラスに貼って割るとあんまり音がしないんだよ。テレビでやってた」と、しれっと言う。
「おいおい。お前が一番しつけのいい坊ちゃんなんだぞ。末恐ろしいな」
ダンダは懐中電灯を咥えると、受け取ったガムテープをクレセント錠周囲のガラスに貼った。
チャメはダンダの言葉を気にする様子もなく、再びポーチを漁り、今度は小振りのハンマーを出してきた。
開いた口が塞がらないような顔でダンダはガムテープと交代にハンマーを受け取り、テープで囲んだガラスを叩く。
「こいつらマジで怖いんですけど」
滑らかに作業する二人を見てババクンがつぶやいた。
エイジも同感だ。
静かな庭にガラスの割れる音がしたが、テープのおかげか聞き咎められるほどではない。
事実、近隣から何の反応もなく、それを確認してエイジは指で丸を作った。
ダンダが尖った部分に注意しながらガラスの穴に手を突っ込んだ。クレセントを解錠し、サッシをゆっくり開ける。きいぃと軋む音がしたが気になるほどもない。
淀んだ空気がふわりと流れ出し、かびと埃と何か得体のしれない臭いがしていたが、興奮している四人は気にも留めなかった。
***
なぜ妻が夫の死体を庭に放り出したのか。
それは夫をマイホームから永遠に追放するという、殺してもなお殺し足りない夫への嫌がらせだった。
だが、烈しい怒りと殺人、さらに庭までの短い距離とはいえ肥満と高血圧症の身で行った死体の運搬が心臓に負担をかけた。
部屋に戻りサッシに錠をかけ、ガラス越しに惨めな夫を眺めてほくそ笑んだ直後、急性心筋梗塞を発症した妻は胸を押さえ悶えながらソファの横に倒れ込んだ。
子供もいない。親類もいない。まだ新聞の購読も開始していないし、近所づきあいも始まっていない。
故に姿の見かけない夫婦を周囲の誰ひとり気にする者はなく、いつまでたっても中で起こっていることは気付かれなかった。
**
「お前さ、手慣れてない?」
躊躇せず作業を行う親友が知らない人間のような気がしてエイジは少しだけ怖くなった。
ダンダは咥えていた懐中電灯を手に取り「俺もテレビで見たんだよ」と、靴を履いたままさっさと家に上がり込んだ。
ババクンとチャメが後に続く。
戸惑いを振り払ってエイジも中に入った。
見つかったらすぐ逃げられるよう、掃き出し窓は開けたままにしておいた。
街灯の明かりで仄かに浮かび上がる部屋はリビングだった。ソファセットにキャビネット、テレビがそのまま残っている。
「家具、置きっぱ――」
何もないただの空き家だと思っていたエイジは驚いた。
ダンダは黙って懐中電灯を照らしながらあちこち物色している。
やっぱり手馴れてるとエイジは困惑したが、もう気にしないことにした。
ソファの前には大きめのテレビ台が据えられていたが載っているテレビは十四インチの小さなものでチャメが笑う。
「これじゃソファに座ったら見えないね」
チャメの家にあるのは超大型テレビだ。映画を観るのもゲームするのもド迫力だった。
「ふん。おまえは大きいのに慣れ過ぎてんだよ。こんな狭い部屋ならちょうどいいさ」
ダンダが鼻を鳴らす。
ババクンがテレビ台の上を指でなぞった。ごっそりと埃が指先に溜まり、慌ててズボンで拭う。
エイジはソファの上にも埃がたっぷり積もっていると思い「今度、なんか敷くもの持ってこなきゃな。直接座るの気持ち悪いし」とつぶやいた。
「あっ、僕持ってくる」
チャメが手を上げる。
「じゃ、お前、全アイテム担当な」
ダンダは笑いながらチャメの顔に光を当てた。
「もう、まぶしいよ」
チャメが光の輪に目を細めて顔を背ける。
「なあ、これなんだろ」
ババクンがキャビネットの天板をじっと見つめていた。
ダンダが懐中電灯を向けて近づく。
「なに、なに」
チャメも好奇心旺盛に近づいていく。
エイジは二人の間からキャビネットを覗き込んだ。
***
真冬という時期も災いした。
その年の冬は例年にない厳しい寒波で雪の降る日が多く、積雪記録を何度も更新していた。
庭の死体は冷蔵庫内で保存されているように腐敗が抑制される一方、屋内ではエアコンの暖房によって妻の腐敗が進行した。
だが、近隣の住民に届いていたのはいつものドブ川の臭いで、別の異臭に気付いたのは冬も終わりに近づき、暖かい日が続いた頃。
不審に思った隣人が垣根の隙間から男の死体を発見、警察が駆けつけ妻の死体も発見に至り、町内は大騒ぎになった。
**
天板全体に積もった埃の上を手形が無数に付いていた。
「手の跡じゃねえか」
ダンダがつまらなさそうにそっぽを向く。
「うん。それがなんで付いてんのかなと思ってさ」
奇妙に感じているババクンの口ぶりに、
「そりゃ、管理人とか不動産屋とか、いろいろ出入りするからだろ」
ダンダはすでに興味を失い、物色を再開した。
「そうだよ。これがネズミの足跡とか蛇の這った後だったら、ちょっと怖いけどね」
チャメがふふふと笑う。
「キモイこというなよ」
エイジはチャメを肘で突いた。
「でも、ここに入った時、長い間人の出入りがないなって感じなかったか?
なのにこの指の跡くっきりしてるんだよね。上に埃も積もってないし」
ババクンは目線を上げたり下げたりして、手形を何度も確かめている。
「あっ、ほんとだ」
「もう、キモイこと言うなって。怖いだろ」
「やっぱ、エイジは怖がり屋さんだ」
「ち、違うよっ」
小突き合いしている二人にダンダがライトを当てた。
「お前ら、いつまでごちゃごちゃやってんだ」
「ダンダはどう思う?」
「ふん。ふたりともババクンに騙されてんだよ」
「ちょっ、おれ、ここ全然触ってないよ」
ババクンが慌てて否定したが、ダンダはにやりと顔を歪め、エイジもチャメも疑いの眼差しを向ける。
「ほんとだって。信じてよ。そんないたずらなんてしない――ぷっ」
我慢できなくなったババクンが「ったく、ダンダは騙せないよ。この二人なら完璧だったのにさ」と吹き出した。
「ひっどお」
チャメが頬を膨らませる。
「おいっ、これ見ろ」
次にダンダが声を上げた。
「もういいよ」
エイジとチャメが同時にツッコみ、ババクンが笑った。
「見ろって」
ライトがソファ横のカーペットを照らす。浮かび上がるのは人型のどす黒い染みだった。乾いて褪せてはいたが気味の悪さは十分だ。
「うわぁ、キモっ」
チャメがエイジの後ろに隠れた。
「ここが幽霊屋敷っだっつーのわかる気がするな。まあ、これも誰かのいたずらかもしんねえけど」
ダンダがしゃがみ込み、染みを興味深げに眺めている。
「なあ、なんか腐ってるような臭いがしないか?」
エイジがかすかに漂うカビや埃以外の臭いにやっと気付いた。
***
気付くと、男は裸足で庭に立っていた。
なぜこんなところにいるのか全く覚えがない。
部屋に入ろうとしても窓には鍵が掛かっている。
ガラス越しに妻を探したがどこにもおらず、玄関のほうへ回ろうとしたが、なぜか庭から出ることができない。
「おーい」
ガラス越しに妻を呼んでみる。だが、来る気配はない。
「おーい。開けてくれ」
「おーい。おーい」
男は何度も呼びながら、どんどんと窓ガラスを打つ。
ずっと呼び続けても妻は来ず、いつまでたっても男は家に入れなかった――
**
「こんな染み見たからそんな気がするだけだ」
ダンダが笑った。
「ねえ、あれ」
チャメが吐き出し窓を指さす。
誰も閉めていないのにサッシが閉まっていた。だが、チャメの指しているのはそこではない。
窓のそばに男が立っていた。
ダンダが素早く懐中電灯を消しが、もう不法侵入はばれているだろう。
緊迫した空気がエイジの胸を締め付けた。心臓がどくどくと音を立て耳に届く。
だが。
「あのおじさん、なんか変じゃな――」
チャメが言い終わらないうちに男がガラスに張り付いて中を覗き込む。
エイジは咄嗟に悲鳴を押さえた。
チャメもババクンも口を押えている。
男の頭が割れていた。砕けた脳が血にまみれ糸を引きながらこぼれ落ち、半開きの口からは泡状のよだれがとめどなく垂れている。
飛び出た眼球がぐりぐりと部屋の隅々を見回すが、まるで焦点が合っておらず、エイジたちの姿は見えていないようだ。
男はガラスを拳で叩き始めた。
「おーい、開けてくれ。おーい、おーい」
サッシは閉まっているが錠は掛かっていない。
もし男がそれに気付いて入ってきたらと思うと気が気ではなかった。
呼びかけが「開けてくれ」から「開けろ」に変わる。
目玉だけが上下左右に動いて視線が定まらない。
「おい、あのじじい、誰に開けろってんだ」
ダンダが誰にともなく問う。
「おれたち、じゃないよな」
ババクンが答える。
「これ――心霊現象か?」
「そうだろうな」
エイジの質問にダンダが笑った。
部屋に入ってくることもなく、窓を叩く以外なにもしない男への恐怖はだんだん薄れて来たが、近隣の住人に聞かれるとまずい。
「黙らせないとヤベェな」」
そう言うダンダにエイジがうなずく。
心霊現象も怖いが補導されるのはもっと怖い。
だが、数分経っても近所の住人に気付かれた気配も通報された様子もない。
「ここだけの現象か?」
誰にともなく問うエイジに「そうかもな」とダンダがうなずく。
チャメもほっと息を吐き「カメラ持ってくればよかった、ちぇっ」と心底残念そうに舌を鳴らした。
「俺たちマジで心霊現象見てんだな」
ダンダは不敵な笑みを浮かべながら懐中電灯を点け男の顔を照らした。光は雑草だらけの庭に丸い形を映したが、その中に男の影はない。
「うわっ、やっぱ幽霊だ」
たいして怖がってるふうでもなくババクンがつぶやいた。
その時、宙を見る男の目が光をたどり、エイジたちに焦点を合わせた。
拳をいったん止め「お前らは誰だ? わしの家から出ていけっ」と叫び出し、さっきよりも強い力で窓を叩き始める。
「やべっ」
ダンダは慌てて懐中電灯を消したが、男の視線は四人から外れることはなかった。
「どうする?」
エイジは皆の顔を見渡した。
「あのおじさん、なぜかここに入れないみたいだからさ、このままずっとここにいる?」
チャメが怖いことを言い出す。
「やだよ。幽霊にずっと睨まれてるなんて」
ババクンがすぐさま却下した。
エイジもうなずく。
「一気に窓から飛び出て全速力で逃げようぜ」
ダンダが一人ひとりの顔を見て提案した。
「一気には無理だよ。特に最後は危ない。捕まったらどうする?」
エイジが首を振った。
「俺が最後になる。あんな幽霊怖くねえし、捕まったら蹴り入れるさ」
ダンダが頼もしい笑顔を皆に向けた。幽霊に蹴りを入れられるかどうかわからなかったが、笑顔につられエイジたちはうなずいた。
「わかった。オレが窓を開けて先に飛び出す。せーので行くぞ」
エイジが素早く窓に駆け寄り「せーのっ」とサッシを引いた。だが、びくとも動かない。後ろに続いていた三人がぶつかり重なって、「何やってんだっ」とダンダが声を荒げた。
「あ、開かないんだっ」
確かに錠はかかっていないのに一ミリの隙間も開かない。
男がエイジの目の前に立つ。ガラスを隔てているとはいえ割れた頭と血まみれの顔がまともに見えて脚が震えた。
「わしの家から出ていけぇぇ」
血の泡を飛ばし叫びながら窓枠に手をかけるが男にも開けられず、再び叫んでガラスを叩く。
男の目がダンダの割ったガラスの穴に気付いた。
タコのように柔らかく頭を変形させ、少しずつ中に入ってくる。
穴の縁に削られこぼれ落ちる脳が筋を引きながらガラスを伝い、引っかかった眼球はずるずる神経を伸ばしぶら下がる。それでも男は入ろうともがいている。
エイジは呆然として目を離せないでいた。
「おいっ」
ダンダの声で我に返る。
同じように放心状態だったチャメもババクンも正気に戻ったようだ。
「こうなったら玄関から逃げようぜ」
そう言いながらダンダが急いでリビングのドアに向かい、エイジたちも後に続いた。
だが、ダンダが開けたドアの向こうには真っ黒に腐敗した死体が立っていた。
顔や手足がぱんぱんに膨らみ、強烈な腐臭を発散させている。さっきから漂っていた臭いだった。
染みだらけのスカートを穿いたその死体は黒い体液を滴らせよろよろとリビングに入ってきた。
「まだ生きてたんかっ」
握りしめた分厚いガラスの灰皿をぶんっと振り下ろす。
先頭にいたダンダがとっさにそれをかわし、真後ろにいたエイジの脳天に凶器が落とされた。
陥没した頭から血を噴き出し、エイジは悲鳴を上げる間もなく仰向けに倒れた。
「死ねっ出ていけぇぇ」
叫んで灰皿を振り回す女を左右に交わしながらダンダが女の注意を引く。その隙にチャメとババクンは倒れたエイジを引きずってリビングから廊下に出た。
声を上げて泣くチャメと蒼白になったババクンはそれでも手を緩めず、玄関に向かう廊下を血の線を描きながらエイジを引きずって進んだ。
ダンダは廊下に飛び出ると同時にドアを閉め、女が出てこないよう全身で押さえた。
がんがんと灰皿を打ち付ける激しい音が中から響く。
玄関に到達した二人は扉を開錠し、エイジを外に引きずり出した。
それを見届け、ダンダがいっきに走り出てくる。
扉を閉める瞬間、灰皿を振り上げた女がリビングから出て来るのが見えた。
衝撃がくるのを覚悟しながら扉を押さえていたが、何分経っても静かなままで、ダンダはそっとその身を離した。
「外まで、追い、かけて、こない、ね」
意識がないままのエイジに寄り添うチャメがダンダを見上げる。
「ああ、きっと家の中だけの問題だったんだろ」
吐き捨てるようにそう言うと、ダンダは大きなため息をついてエイジを見下ろした。
「おい見ろ」
エイジの頭部には何の異常もなかった。陥没もしていなければ出血もない。
「あれ? 大丈夫だ」
チャメが涙をぬぐって笑顔を浮かべた。
「ただの心霊現象だったんか?」
ババクンもほっとする。
だが、名を呼び軽く頬を打ったり肩を揺すったりしてもエイジはまったく目覚めない。
チャメがまた泣き始めた。
「とりあえずここから離れようぜ」
ダンダとババクンがエイジを肩に担いで門を出た。
近隣の家々は来た時と同じでひっそりと静かなままだ。
「触らぬ神に祟りなしか――」
最初からこの家のウワサは真実だと示されていたのだ。
ダンダはそう思った。
閉店間際のスーパーでは見慣れぬ少年たちが無断で置いた自転車が問題になっていた。
そこへ戻って来た少年たちを店長が注意しようとした。
だが、一人が意識不明の重体だと知り、すぐ警察に通報し救急搬送の要請をした。
**
あれからひと月――
エイジは目覚めないまま原因不明の意識障害でまだ入院していた。
一人息子に何が起こったのかわからない両親は憔悴していたがダンダ、チャメ、ババクンの三人は何も語ろうとはしなかった。
いじめや喧嘩によるものだと周囲は疑っていたが、エイジの母親は四人の仲がよかったのを知っているので、ダンダたちを責めることはなかった。
だが、彼らが一様に口を閉ざしていることには困り果てていた。
その後――
チャメは一変して暗い性格になり、常に何かに怯えていた。
心配する母親と口もきかず学校を休みがちになり、やがて完全に部屋に引きこもった。
登校拒否になって三日目、異変に気付いた父親が施錠されたドアを蹴破って突入、ロフトベッドの柵に紐をかけ縊死している息子を発見した。遺書はなく、なぜ自死したのか理由は誰にもわからない。
ババクンは両親や他の誰とも口をきくことはなかったが、それ以外は学校を休むこともなく普段通りの生活を送っていた。
だが、チャメが自殺した二日後、悲鳴を上げながら何かから逃げるように路上に飛び出し、トラックに撥ねられ死亡した。
ダンダも以前のような活発さが消え、あの日から学校を休んだまま日々ぼんやりとしているだけだった。
真相を知りたくてエイジの両親が何度も訪れたが問いかけても返事はなく、チャメの自殺やババクンの事故死を知らせても何の反応もしなかった。
彼の父親は息子に無関心のまま毎日飲んだくれていたが、ある日包丁で腹をえぐられ死亡しているのが見つかった。その日からダンダの行方はわからない。
警察が重要参考人として捜索している中、隣県の海面で漂うダンダの衣服を発見、押収したが、ただそれだけで生死はいまだ不明である。
彼らの身に一体何があったのか誰も知る術はなく、この先も永遠にわからないまま――のはずだった――
**
ダンダが行方不明になってから数カ月後、唯一生き残ったエイジが突然意識を回復し、泣き叫び暴れ狂った。
彼の両親が病院に駆けつけた時はすでに鎮静剤を投与され興奮状態は収まっていた。
二人は担当医と看護師長に立ち会ってもらい、ダンダたちの末路を内緒にしたままで、一体何が起きたのか訊き出そうとした。
固く口を閉ざすエイジだったが、両親の説得でやがてぽつぽつと話し始めた。
その告白は両親にも担当医たちにも信じられないものだった。
夢か妄想か。
何かドラッグでも使用したのだろう。きっとダンダが勧めたに違いない。
母親は勝手に決めつけ憤慨し、チャメやババクンに申しわけないと思いつつもエイジが生き残ったことを喜んだ。
だが翌日、ダンダの件で事情聴取に来る刑事の到着を待たず、頭が割れるように痛いと訴え、エイジはそのまま絶命した。
両親の落胆は大きく、担当医に原因の追究を頼んだが、説明のつけられない事象が増えただけだった。
エイジの頭部は外傷もないのに頭蓋骨が陥没し、脳の一部が破壊されていたのである。
救急搬送された際やもちろん入院中にも何度も検査が行われ、意識障害以外の異常はなかった。
にもかかわらず、硬いもので殴打されたような損傷が内部にあるのだ。
医師たちは両親の了承を得てこの理解不能な死因を伏せ、エイジの死を病死とした。
真相を知る一握りの関係者は幽霊屋敷の累を恐れて決して口を開くことはなかった。
だが、どこからどう漏れ出たのか、エイジたちの件はウワサになり広まった。
そして年月が流れ――
*
誰も住んでいない荒れ果てた一軒の小さな空き家。
この家は幽霊屋敷と呼ばれ、様々なウワサが流れていた。
夜な夜な老人が窓を叩いている――
血に濡れた灰皿を持った女が仁王立ちしている――
家に入り込んだ少年たちが全員不審死を遂げた――
酒を持ち込んでどんちゃん騒ぎをした若者が互いを殺し合った――
眠る場所を求めたホームレスが灰皿を振り回して町の人々を襲った――
新しいウワサが生まれるとしばらくは誰も近寄らない。
だが、恐怖が風化し忘れ去られるとまたここに誰かがやって来て新しいウワサが一つ生まれる。
そうやって幽霊屋敷は大きく育っていく。
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