恐怖日和

黒駒臣

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いきのとびら

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「おまんは絶対にいきのとびら開けたらあかんで」
 それは小さい頃から祖母に言われ続けた言葉。
 幼いわたしには何のことか、まったくわからなかった――

                 *

 物心ついたときには祖母と二人暮らしだった。わたしには両親がいなかったからだ。二人とも死んだと聞かされていたが、その死にはどんな経緯があったのか教えてはくれなかった。
 祖母は優しい人で常に柔和な表情をしていた。しかし、時々無表情になり、いきのとびらを開けるなとわたしに言い聞かせた。
 その顔がとても怖かった。だから、それがどこのどういう扉なのかわからなかったが、決して開けてはいけないものなのだと幼いなりに理解した。

                 *

 わたしが小学生になってからも祖母はその言葉を言い続け、学年が上がるたびに言う回数が増えていった。
 低学年の頃は幼い頃と同じく、ただ「はい」とだけ返事をしていたが、高学年になってくるといきのとびらというものがどんなものなのか知りたくなってきた。
 押し入れの襖のことではない、座敷の襖でも、台所の扉でも、便所の扉でもない。そんな名前の扉など、どこにもないことを知ったからだ。
 いきのとびらとは何なのだろう。どこの扉なのだろう。なぜ、開けてはいけないのだろう。好奇心でいっぱいだったが、無表情の祖母を前にすると根掘り葉掘り聞くことはできなかった。
 いろいろな扉を探してみたが、結局、いきのとびらが何なのかわからなかった。 

                 *

 中学生になった時、そんな扉などないのだと知った。ない扉をどうして開けるなと言うのか、その理由はわからなかったが、彼女は相変わらず「いきのとびらを開けるな」と言い続けた。
 小学生の頃よりもっと回数が増え、いい加減うんざりしていたわたしは適当に聞き流すようになった。いらいらしている日には無視することもあった。
 そんな時には必ず、「はい」と返事するまで祖母は付きまとった。
 その執拗さが怖くなると同時にわたしは祖母を完全に嫌いになった。

                 *
 
 高校生になった時、夜の繁華街でナンパされた男のもとに入り浸り、わたしはあまり家に帰らなくなった。鬱陶しい祖母といるより、彼といるほうが何倍も楽しかったからだ。一人暮らしの彼の部屋から高校に通い、もちろん彼と寝た。
 たまに家に帰ると祖母はわたしに付きまとい、あの言葉を執拗に繰り返した。
「うるさいなぁ。わかっとるって何回言わすん? 
 じゃ、いっぺん訊くけどな、いきのとびらってなんなん? どこの戸のことゆうとるん? 
 開けんとこ思ても、どこのことやわからんかったら気ぃ付けようないわ。
 ええかげん、やめてぇっ」
 ある日我慢できずにキレて怒鳴ってしまった。
 祖母は黙りこみ、皺に埋もれた小さな目の白っぽい瞳でわたしをじっと見た。何も言わず、ずっと、じっと見つめ続けた。

                 *

 高校を卒業すると同時に完全に家を出た。小さい頃から育ててもらったことを思うと罪悪感がないではなかったが、もう耐えられなかった。
 すでに付き合っていた彼とは別れていたので、自分でアパートを見つけるとひとり暮らしを始めた。アルバイトを掛け持ちしてなんとか生計を立てた。
 祖母には居所を知らせなかった。身勝手な孫をどう思っていたのかわからないが、探して連れ戻されることはなかった。
 わたしはどんなに生活が困っても、祖母を頼ることだけはしなかった。
 半年ほど経ったとき、アルバイト先の工場で新しい恋人ができた。主任をしている彼には奥さんと子供がいたが、そんなことは気にならなかった。
 今が幸せなら良かった。
 わたしが幸せならそれで良かった。

                 *

 家を出て三年目の冬に祖母が死んだ。
 世話をしていたという近所のおばさんがどこで調べたのか、わたしの携帯電話に連絡してきた。
 彼女が葬儀を執り行ってくれるというので正直ほっとしたが、後の相談もあるため出席して欲しいと言われ、祖母には悪いが面倒くさいと思った。
 だが、唯一の肉親なのだから仕方ないことだ。
 自分がやらなければならないことを赤の他人がやってくれているのだから文句は言えない。
 皺の奥の小さな目を思い出す。今でもぞっとするが、こんなに早く逝ってしまうなら一度でも会っておけばよかったと後悔した。でも、それはそれでたぶん後悔したに違いないだろう。

                 *
 
 粉雪の舞う葬儀の日、わたしは祖母の家に帰った。
 あばら家の引き戸は取り外されて、狭い座敷の奥に用意された小さな祭壇が見えた。写真の祖母が静かにほほ笑んでいる。
 葬儀の時間まではまだ間があった。座敷に上がるわたしを手伝いに来ていた近隣の住人たちが冷たい目で見ている。それは覚悟の上だった。恩知らずの孫娘なのだから当然だ。
 連絡をくれたおばさんは電話では人の良さそうな優しい声をしていたが、実際は詮索が好きそうなおしゃべりな女でこの世で最も嫌いな人種だった。
 部屋の片隅で小さく座るわたしにお茶を持ってきて、そのまま隣に尻を落ち着けた。
「おばあちゃんも最後までかわいそうな人やったなぁ。一生懸命育てた孫さんと死に目にも会えんて」
「いろいろすみませんでした」
 わたしはうつむいたまま小さく頭を下げ、気のない謝罪をした。
「おばあちゃん、ほんま苦労したんやで。娘さんが殺されんかったら、もっと違うた人生やったろうに」
「えっ?」
 うつむいたままやり過ごそうとしていたが、思わず顔を上げてしまった。
「あれ? 知らんかったん。こりゃ、すまんことゆうてしもうた。おばあちゃん隠しとったんやなぁ、うちいらんことゆうてしもうたわぁ」
 うっかり口を滑らせてしまったような仕草をしているが、目は意地悪く光っていた。
「娘さんって、母のことですか?」
「いやぁ、どうしょう。そやけどもうゆうてもええやろかぁ。ええよねぇ、おばあちゃんも亡いようなったし、あんたもほんまのこと知っときたいやろぉ」
 周囲の視線がわたしに集中する。
「ごたくはいいんで、早く教えてもらえますか?」
「ご、ごたくて――あんたもきっついなぁ。まあええわ。
 そうや、あんたのお母さんのことや。お母さんはな、だんなさんとあんたゆう娘いてんのに、おんなじように奥さんと子供いてる男ん人と不倫して――ダブル不倫ゆうやつやな。
 で、えらい揉めちゃがしてな、相手の男ん人に殺されたんや。
 そんで、あんたのお父さんがな、あんな女の血ぃ引いた娘いらんゆうて、小さいあんたをおばあちゃんとこへ捨ててったんや。自分の血ぃも入ってんのにねぇ、よっぽど腹立ったんやろなぁ」

 葬儀が終わるとわたしはそそくさと祖母の家を出た。
 あとのことはすべておばさんに任せた。その代わり、残った土地家屋その他の財産をすべて彼女に預けた。
 いくらあるのか知らないが、赤の他人が迷惑がらずに遺骨まで引き取り、すべての処理をしてくれるというのだから、貧家なりにも結構な額があったのかもしれない。
 そうでないのなら本当に親切な人なのだろう。わたしにはそう思えなかったが。
 母の死のことも含めて、もうどうでもよかった。
 あのおばさんとももう関わることはない。
 それより今夜は彼が部屋に来る日だ。今、わたしの心を占めているのはただそれだけだ。
 ようやくアパートに戻った。窓に明かりが点いている。
 彼がわたしを待っているのだと思うと、下腹がぎゅっとなった。
 バッグから鍵を取り出し差し込んだが、ロックされていない。そんなわずかな時間も惜しんで待っているのかと思うと笑みがあふれる。
 わたしは彼の名を呼びながら思いきりドアを開けた。
 入ってすぐ横のキッチンに立っていたのは彼ではなく、知らない女だった。
 いや、知っている女だ。
 わたしはこの女を彼の携帯の待ち受けで見たことがある。
 かわいい娘と一緒に写っている美しい母親。一見弱く儚げに見えるが、芯の強そうな眼差しを持つ彼の妻。
 声を上げる間もなくその女に腹を刺された。
 わたしの包丁で。愛のこもった料理を作るための道具で。
 ねじ込まれた刃の冷たさが体の奥深くに感じた。
 膝が折れ、体が傾く。いっそ倒れてしまいたかったが、それは許されなかった。
 髪を鷲掴みにされると寝室まで引きずられた。ぶちぶちと髪が抜けていく。
 力任せにベッドの横に引きずり倒されたとき、髪が束になって引き千切れた。頭皮が刺された腹よりも痛い。生温かいものが額から頬に流れてくる。
 倒れ込んだわたしの目に映ったのは、床に散らばるずたずたに裂かれた毛布やシーツの切れ端だった。細かく切り刻まれているのを見て、悋気の深さがわかる。
 起き上がることができないわたしの全身に女は容赦なく蹴りを入れた。それだけでは飽き足らず顔を何度も踏みつけてくる。
 この華奢な女のどこにこんな力があるのか。
 荒い息遣いとぎりぎりと歯噛みする音だけが聞こえていた。
 目がかすみ、だんだんと手足が冷たくなってくる。
 突然女の動きが止まり、あたりはしんと静まりかえった。
 わたしはもう死んだのだろうか。
 そう思ったとき、ストーブのタンクを取り出す音が聞こえた。
 ここまでしてもまだ憎しみは収まらないらしい。女はわたしの体に灯油をかけ始めた。特に下半身へ念入りに。
 カチッと耳慣れた音がした。ライターの音だ。
 テーブルの上にはいつも新聞と彼の煙草を用意している。わたしがプレゼントしたライターも。
 腹の上に火のついた新聞が落ちてきた瞬間、炎が燃え広がった。
 揺らめく熱気の向こうで逃げていく女の背中が見えた。
 喪服が一瞬で溶け、髪が燃え、血が泡立ち、皮膚が焼け爛れていく。絶叫が喉を衝き、痛くて動けなかった体が熱さでのたうち回る。
 目の前に見たことのない扉があった。それが音も立てずに勝手に開く。そこには炎の燃え盛る闇の空間があった。
 わたしのまとう炎よりも赤い、濃い血のような色をした炎に焼かれ、ひとりの女が身悶えしていた。振り乱した髪の間から見え隠れしている顔は見たことがなかったが知っているような気もした。
 そう、わたしに似ている――
 ああ――
 いきのとびらが何なのかわかった。
 それは簡単に越えてはいけない域のことだったのだ。
 焼かれている女はきっと母だ。母は扉を開けた報いを受け、死してなお今も業火に焼かれ続けている。
 その扉をわたしも開けてしまった。祖母があんなに注意してくれていたのに。
 血のような炎がわたしの体に燃え移る。
 わたしも永遠にこの炎に焼かれ続けていくのだろう。
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