恐怖日和

黒駒臣

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ゆきちゃん

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 みなさんは『ゆきちゃん』という怖い都市伝説を知っていますか。
 ゆきちゃんは赤い首輪のよく似合う真っ白なトイプードルなのですが飼い主もなく住む家もありません。
 その犬が新しい家族を探し求めている話です。
 いい話じゃないかって?
 でも、あまりの可愛さにゆきちゃんを連れ帰った家族は必ず不幸になってしまうんですよ。
 ね、怖いでしょ。
 ゆきちゃんは次々新しい家族を見つけては不幸にしていく。
 どうしてそんなことになったのでしょう。
 それにはこんな理由があるのです。

                 *

 ゆきちゃんの一番初めの飼い主は村上家の家族でした。
 まじめで働き者のパパ良助。
 しっかり者のママ美佐子。
 八歳のお姉ちゃん美良(みら)に五歳の弟良実(よしみ)。
 ゆきちゃんと名付けたのは美良です。雪のように白かったからでみんな大賛成でした。
 美佐子は本当は犬を飼うことに反対していました。ちょうどマイホームを購入したばかりだったので、きれいな床や壁を汚されたくなかったからです。
 しっかり面倒みるからという美良や良実の約束にしぶしぶ許した美佐子でしたが、ご多分に漏れずゆきちゃんの世話はすべてママが担うようになってしまいました。
 子供たちは都合のいい時だけ遊んだりおやつを上げたりするだけです。当然ゆきちゃんはママの言うことだけ聞くようになり、話が違うわと小言を言いつつも、美佐子は甘えるゆきちゃんにメロメロでした。
 なんだかんだ言っても明るく楽しい幸せな村上家。
 でも、その幸せが長く続かないことをこの時まだ誰も知りませんでした。

 良助の部署に光代という派遣の若い女子社員が入ってきました。
 光代は理想の相手との結婚を夢見ていました。
 だからタイプの男性を見つけると妻や子供がいようが構わず突き進む女でした。
 仕事ができる上優しくてハンサムな良助にいち早く目をつけた光代は猛烈にアタックを開始しました。
 はじめは戸惑っていた良助でしたが、度重なる誘惑と飲み会での酔いに負けて一線を越えてしまいます。
 それでもまだその時は単なる気の迷いだと深い反省をしていました。
 ですが、誘惑はその後も続き、一回箍が外れた良助は次からは簡単に緩みました。
 数カ月が経ち、さすがにもうだめだと良助は拒絶し始めました。
 でも光代は「奥さんや子供を優先するし、月に一回でもいい、それで満足だから」と潤んだ瞳で囁きます。
 それを鵜呑みにし、約束通り浮気を続けていましたが、月一回が二回になり、週に一回が二回三回と変わっていくのは必然でした。
 なぜなら、光代は理想の結婚のため献身的でけなげな愛人を演じていたのですから。もちろん女性としての魅力にもより磨きをかけていました。
 逆に今までなかった残業がほぼ毎日あるということで不信感を抱き始めた美佐子の顔には険が立ってきました。
 子供が寝静まった後、遅い帰宅の良助を待ち構え、本当に残業なのか問いただし、シャンプーのにおいが違うだの香水の残香がするだのと良助を責め立てました。
 これはもちろん光代の策略です。香水やシャンプーだけでなくワイシャツの内側に擦り付けた口紅や下着の中に忍ばせた艶のある美しい髪の毛など、これで女の存在に気が付かなければバカだと言わんばかりの挑発でした。
 ふたりともそれに引っかかってしまったのです。
 良助は美佐子にうんざりしだし、光代をさらに愛しました。
 妊娠を知らされたのは付き合い始めて一年が来る頃でした。戸惑った良助でしたが産みたいと泣きながら願う光代を愛おしく思い、その願いに頷いてしまいました。

 いまだ見えない女の宣戦布告に負けるわけにはいかない。
 毎晩遅くとも必ず帰ってくる夫の良心を信じ、美佐子はまだ強気でいました。
 子供達に悟られないよう何事もないふりで毎日を過ごし、近頃パパは全然遊んでくれないと嘆く美良や良実にパパは一生懸命お仕事しているんだからと言い聞かせました。
 ゆきちゃんだけが良助が帰ってくる度に鼻をすんすんと鳴らしそばに寄りつこうとしませんでした。きっと何かを感じていたのでしょう。
 わたしと良助には子供たちがいる。
 それだけが美佐子の心のよりどころでした。
 寝取り癖のある女は男を自分のものにしたとたん、きっと飽きて『ぽいっ』だ。
 そう信じて、その日の来るのを待っていました。
 ですが、良助の態度が日に日に変化していくのを感じずにはいられませんでした。
 美佐子は自分を嘲笑う女の声が聞こえるような気がしました。
 ついに良助から離婚を言い渡される日がやってきました。相手の女に子供ができたというのです。
 美佐子の希望は完全に断たれました。
「家はお前にくれてやるよ」
 そう言って良助は茫然自失の美佐子に無理やり離婚届を書かせると「手続きは全部こっちでやっておくから」と冷たく言い放ち荷物を持って出て行きました。
 光代という女に壊されたのは家庭だけではありませんでした。美佐子の心も破壊されたのです。
 ゆるぎない幸福のもとにいると信じていたのに、いとも簡単に壊れてしまった。これからは何を信じて生きていけばいいのか。
 悲しすぎて悔しすぎて、子供たちを心の支えに生きていくという選択肢は頭の中に浮かびませんでした。
 美佐子の選んだ道は一つ。
 美良と良実に睡眠薬入りの食事を食べさせ、二人がソファーで眠ってしまうと延長コードを使って一人ずつ絞め殺しました。
 そして自分もドアノブを使って首を吊りました。
 残ったのはゆきちゃんだけでした。

 ゆきちゃんはすべて見ていました。
 ママがお姉ちゃんとお兄ちゃんと遊んでいる。
 最近ちっとも遊んでもらえてなかったので、わたしも遊びたいとくんくん甘えてみたけれど、ママがおおんおおんと叫びながら目からお水をいっぱい出してゆきちゃんのほうを見てくれません。
 首をかしげて見つめているとようやくママが気付き、ゆきちゃんににっこり微笑みました。
「ゆきちゃん、ママね、ほんとはこんなことしたくないんだよ。パパが悪いんだ。パパとあの女が」
 ママが何を言っているかゆきちゃんにはわからなかったけど、すごく悲しくてつらい気持ちはなぜか伝わってきます。ママのそばに行って頬のお水をなめてあげました。
「ありがとうね。ゆきちゃん。ゆきちゃんだけだよ。ママの気持ちわかってくれるの」
 そう言って頭をなでてくれました。手のひらには赤い線の痕が付いていました。
「ゆきちゃん。見て。美良も良実もこんなになって。悔しいね。かわいそうね。パパのせいなんだよ。あいつらがわたしたちをこんなにしたんだ。
 美良。良実。ママもすぐ行くからね」
 そう言った後、ママはまた目から水をいっぱい流し、遠吠えする隣のジョンみたいな声を出しました。
 ゆきちゃんはパパとパパからにおっていた嫌な臭いを思い出しました。
「ゆきちゃん、もしパパに会ったら恨みを晴らして。お願いよ。絶対パパとあの女を許さないで」
 ママはリビングの外側のノブに輪にしたコードを引っ掛け、上から通してドアを閉めました。
 そしてぶら下がったその輪に首をかけて座りました。
「ゆきちゃん、ごめんね、一人ぼっちに、して――」
 ママの顔が赤く染まり始め紫色に変わっていきます。ブランコをしながら足を激しくばたばた動かしています。
 遊んでくれるの? 
 ゆきちゃんはママの脚に合わせてジャンプしました。
 とても嬉しくて何度も飛びました。
 しばらくするとママがお漏らししました。
 おしっこを失敗するとゆきちゃんはこっぴどく叱られます。だからママを不思議そうな顔で見ました。
 でも、ママはブランコのままもう動きませんでした。
 ゆきちゃんは寝床に戻り、前足をそろえた上に顎を置いてため息をつきました。
 おなかすいたな。
 体を起こし、もう一度ママのそばに行きました。
 ママはまだブランコをしています。
 おなかすいたよ。おやつちょうだい。
 くーくー鼻を鳴らしても、ママの手を前足でかいてもママは動きませんでした。
 お姉ちゃんやお兄ちゃんのそばで鳴いてみましたが二人とも起きません。ゆきちゃんはあきらめて寝床に戻りました。
 しばらくじっと我慢していましたが、お腹が減ってたまりません。
 その時、はっとおやつのありかを思い出しました。
 あの棚のカゴだ。
 急いでキッチンまで走っていくと棚の上にカゴが見えました。
 自慢のジャンプ力で何回も飛びつき、やっとカゴをひっくり返すことに成功しました。
 ご褒美でしかもらえないおいしいおやつまで袋を引き裂いて全部食べてしまいました。
 満たされた後はゆっくり眠りました。

 目が覚めると部屋は真っ暗なままでした。
 電気つけないとだめだよ。
 ゆきちゃんはママに伝えに行きましたが、相変わらずブランコのままです。
 またお腹が空いたゆきちゃんは転がったカゴの中身を探りに行きました。
 さっきたくさん食べたので、もう少ししか残っていません。
 それを食べてしまうと給水機の水を飲んで空腹を紛らわせました。
 ですがやはりそれだけでは足りません。
 ママのそばに走り寄り甘えた声で鳴いてみましたが、どれだけ鳴いても動いてくれません。
 明るくなって暗くなってが何回繰り返されたでしょう。
 ゆきちゃんは数えきれないくらい寝床とママの間を行ったり来たりしました。時々、お姉ちゃんお兄ちゃんにも催促してみました。
 おなかすいた。おなかすいた。おなかすいた。
 ママには何度も何度も飛びついて訴えました。
 すると首がぐらりと動き、ママがゆきちゃんのほうを見ました。
「ゆきちゃんいい子ね。おなかすいたの? じゃ、これを食べるといいわ。
 ほんとにいい子。全部食べていいからね。
 だからわたしたちの恨み、けっして忘れないでね」
 そう言ってにっこり笑いました。

 一週間以上経ち、村上家に異常を感じた近隣の住人らが警察に通報しました。
 ドアを開けた警官たちは奥から流れてくる異臭に家の中で起きていることを瞬時に悟りました。
 リビングには三体の白骨死体がありました。
 ドアにぶら下がった大人の遺体、ソファーには二人の子供の遺体。ほんのわずかに残っている肉から腐敗臭が漂っています。
 ですが、腐敗して溶けたにしては床やソファーの染みが少な過ぎます。
 警官たちは不思議に思い、顔を見合わせました。
 その時、一人の警官の耳に唸り声が聞こえました。
 声のするキッチンに目を向けると、奥の暗がりに小さな生き物がうずくまっているのが見えました。
 一瞬驚いたのですが、白い犬だとわかり警官たちは捕獲しようとしました。
 ですが、犬はすばしこく、手を伸ばした警官の足元をすり抜けて外に逃げ出してしまいました。
 人に懐いた小型犬でも状況が状況だけに人々に危害を加えるかもしれない。
 警官たちは近所中探し回りましたが、どこを探しても村上家の白い犬は見つかりませんでした。

                 *

 これが『ゆきちゃん』の真相です。
 新しい家族を見つけては次々不幸にしていくのはママとの約束を守ろうとしているのかもしれません。
 パパを見つけ恨みを晴らすという約束。
 だからパパとその新しい家族にたどり着くまでは関係のない家族が巻き添えになることは終わらないでしょう。

                 *

 ある家に一匹の白い犬が迷いこんできました。
 あまりのかわいらしさにその家の坊やはたいへん喜びました。
 両親は犬――特に白い犬――があまり好きではありませんでしたが、坊やの喜びように免じて飼ってあげることにしました。
 でもそれから坊やの言動がおかしくなり始めたのです。
 急に奇声を上げて暴れ出したり、息ができないくらい泣き喚くようになりました。
 不思議なことにそれはパパに対してだけでした。
 それまではパパが大好きだったのに――
 しばらくしてママもおかしくなっていきました。パパを必要以上に疑い始めたのです。
 毎日毎日、あらぬ疑惑を作り出しては責め立てました。もちろんパパに身に覚えはありません。
 白い犬が来るまで親子三人で幸せに暮らしていたのに、ママと坊やの顔は鬼面のように面変わりし、二人してパパを冷たい目でじっと見つめるようになりました。
 母子の間にも会話はありません。ただ顔を見合わせて、に~っと不気味な笑顔を浮かべるだけです。
 そのそばには必ず白い犬もいてパパを見つめていました。
 辛くて苦しくて我慢できなくなったパパは電車に飛び込んで自殺しました。
 家にはママと坊やが首を絞められて殺されていました。
 テーブルに白い犬と家族がどうのこうの書かれた意味不明の遺書が残されていましたが、捜査のため家中くまなく調べても犬など飼っていた形跡がなく、警察は心を病んだ父親の無理心中と判断しました。

                 *

 この父親が良助だったのかどうかわかりませんが、これを境にゆきちゃんは現れなくなったとも言われています。
 でも、幸福なあなたを不幸のどん底に陥れようといつか目の前に現れるかもしれません。
 だって幸せを手に入れられなかった可哀想なママのことをゆきちゃんはとても大好きだったのですから。

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