恐怖日和

黒駒臣

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無銭飲食

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 浜谷浩太は刑務所に収監されていた。
 罪状は無銭飲食――

 食糧難の現在、食べ物はすべて配給になり、食事というものが最高の娯楽になっていた。
 だが、レストランでの食事は一部の金持ちにしかできないことになっている。
 それでも多数の低所得者のために大衆食堂があり、頑張って稼げば月に一度、人によっては三カ月に一度外食を楽しめるようにはなっていた。
 浩太は一生懸命、朝晩働いて五カ月に一度しか外食ができなかった。
 その日、やっと貯めた金を持って大衆食堂に出かけ、二時間並んだ後、やっと食事にありついた。
 芳しい薫りのサバの塩焼きに茶碗いっぱいのアツアツの米飯。現在配給でも回ってこない青菜のおひたしにかぼちゃの炊いたん。決して個人では手に入らない本物の味噌を使ったわかめの味噌汁。
 浩太はまず匂いを楽しみ、一つ一つの料理を少し口に含んでは味を楽しみ、次にそれぞれを頬張ってボリュームと食感を楽しみ、最後に米飯に味噌汁をぶっかけて掻き込むという一連の作法で食事を満喫した。
 食事が済んだ後は深々とこうべを垂れ、食べられることのありがたさに感謝し、料金を払って終了。
 浩太は決して安くない五カ月間の汗と涙の結晶を食事に使うことに何のためらいもなかった。働くのはこのためと言っても過言ではない。大半の民衆はそうであった。
 浩太は金を支払い、外に出た。
 いつものことだが入口も出口も客であふれかえっている。ともすれば押し流されそうな人混みの間をうまく抜けつつ、家路に向かおうとした。
 後ろからどんっと激しく人がぶつかってきた。振り向きもせず浩太を追い越し、人混みをうまくよけながら走り去った。さっき自分の隣で食事をしていた男だった。
 たくさんの客の中で彼を覚えていたのは、あまりきちんとした作法で食べていなかったからだ。飯もおかずもいっきに口の中にかき込み、慌てて飲み込んでいた。
 口中に残る味の余韻を楽しみながら帰路につくのも作法の一つだ。
 あんなに慌てて帰って、奴は最後まで作法を守らなかったなと浩太は苦笑した。
 突然、手首をつかまれた。
「お巡りさんこっちです。こいつです」
 大衆食堂の店員が血相を変えて、浩太の手首をつかんだまま叫んでいる。
「何するんですか」
 浩太は手を振り払おうとしたが、体格のいい店員の力から逃れることができない。
 巡査が二人、人混みをかき分けて目の前に来た。
「無銭飲食の疑いで逮捕する」
 浩太はわけのわからないまま、反論することも許されず手錠を掛けられ警察署に連行された。
 稼いだ金を大衆食堂につぎ込んでいた浩太には弁護士を雇う金もなかった。たとえ雇えたとしても貧乏人の言うことなど端から聞いてはもらえないだろう。現にどんなに否定しても刑事も検事も浩太の言い分など聞いてはくれなかった。
 浩太は無銭飲食の罪により無期懲役で投獄された。
 無銭飲食は殺人、放火とともに罪は重く、刑務所内では個室に監禁され一切食事が与えられない。
 生命を維持するため必要最低限の栄養剤を注入され、あとは小さなペットボトルの水が一本与えられるだけだ。
 労働も運動もなく食べることから気を紛らわせることができず、途方もなく長い時間、妄想するのは食べ物のことばかり。鶏肉だけのハンバーグ、こんがり焼けたアジの干物に肉より野菜のほうが多い熱々の豚汁――五カ月間の貯めた金を持ってあの食堂で食べた数々の食事が頭に浮かんでは消えていく。
 とりわけ、最後に食べた塩サバの味はまだ思い浮かべることができた。だが、逆にそれがつらくもあった。
 気が狂うのも時間の問題だと浩太はいつも思っていた。だが、投獄されて三年、精神面保護の薬剤でも投与されているのか、それとも人間そうやすやすと狂うものではないのか、浩太の心は壊れることはなかった。
 いや、もしかしたらもう壊れているのかもしれない。頭の中に浮かぶのは両親でも友達でもない。食べ物だけなのだから。湯気の浮かぶクリームシチューを思い浮かべられても、父と母の顔は思い浮かべられなかった。
 いっそ殺してほしい。
 この刑は死刑より辛かった。

 鍵の開ける音がして軋みながら扉が開く。
 浩太は痩せた体を起こし、目をつむったまま囚人服の袖をまくった。毎朝同じ時間に同じことをする、体だけが自然と動いた。
 だが、いつも注射をする看護師のにおいがしない。バターたっぷりのトーストとコーヒーの残り香。
 浩太は目を開けた。
 数人の看守たちとともに入所した時に見たっきりの所長が立っていた。
 所長が深々と頭を下げた。それにならい看守たちも頭を下げる。
 一分間そうしていた所長は頭を上げると、無銭飲食の真犯人が捕まったことを告げ、もう一度頭を下げた。
 別の食堂で無銭飲食したところを捕まり、三年前の罪も自白したという。
 食堂の店員に面通しさせたところ、おぼろげだが犯人の顔を思い出し、隣で食べていた浩太と勘違いしていたことにも気付いた。
 浩太が犯人とぶつかったことも運が悪かったのだろう。
 話を聞き終えると浩太の目から熱い涙がこぼれ落ちた。

 浩太は毎日大衆食堂に通っていた。
 何を食べても無料にしてくれる特別なパスを店長からもらったのだ。
 浩太は解放されてから体調が整うまでしばらくの間入院していたが、退院すると同時に食堂に通い詰めた。食べられなかった分を取り戻す勢いだった。
 店員たちはみな愛想よく迎えてくれた。
 浩太のためにと衝立で囲んだ個室を作り、浩太はそこでゆっくりと、思う存分好きなものを食べることができた。
 だが、だんだんと楽しみやありがたみが半減してきたことに気付く。
 あまりおいしいと感じなくなってきたのだ。
 あの辛い日々に浮かべた脳内の食べ物が、今は恋しくて仕方なかった。
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