恐怖日和

黒駒臣

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「うわー、やっぱ気持ち悪ィ」
 助手席のマコトが喚く。きょうで四日目だ。
 春休み。家でゲームばかりしているよりはとヨウコは毎日買い物に付き合わせているが、行き帰りの道に死んだ猫がいると言って騒ぐ。道沿いにある民家の門前に横になっているらしい。
 一日目のヨウコの反応は「えー。うそぉ」だった。
 二日目は「見間違いでしょ」
 三日目は「寝てるだけでしょ」
 だが、マコトは絶対死んでいるという。いくら何でも死んだ猫がいれば住人が気付かないはずがない。
 さすがにきょうは確かめたくなった。
「ちょっと見てみる?」
 ヨウコは少し離れた路肩に車を止め、興味津々のマコトと一緒に猫のいる家の前まで行った。
 茶虎の猫が横たわっている。マコトの言った通り、寝ているのではなく死んでいた。その証拠に長々と伸びた身体のあちこちが腐って陥没している。口からべろりと舌が飛び出し、薄く開いた目にもぞもぞと蛆が集っていた。
 なぜ何日も放っているのだろう。ここの住人は何をしているのだろう。
 ヨウコは腐臭を嗅がないよう鼻を押さえ、門の中を窺った。
 たまに見かけるエプロン姿の初老の女性を思い浮かべ、この猫と同じようなことが家の中で起きているのではと心配になった。
 どこに声をかけようか? 事情がはっきりしないのに警察だと大げさ過ぎよね?
 間の悪いことに隣近所は空き家になっている。ここは道路の拡張工事をするため立ち退きが進んでいる地域だった。
 立ち退きを渋っていたこの家ももうすぐ引っ越すと、ヨウコの向かいに住むスピーカーおばさんが聞いてもいないのに教えてくれたことを思い出す。
 あ、そうか。もう立ち退いたんだわ。だから、こんなところで猫が死んでいても放ったらかしなのよ。
 でも――引っ越したにしては空き家っぽくないけど――
 アプローチには花の咲き誇る植木鉢が並び、じょうろや庭帚、塵取りなどが玄関先に置いたままだ。ガラス張りの引き戸や窓にも屋内の家財道具が映っている。
「ね、ママ。この猫死んでないよ」
「死んでるに決まってるでしょ。こんだけ腐ってるんだから」
 だが、いつの間に拾ったのかマコトが木の棒で猫をつつくと、確かに薄い縞模様の腹が息をするように上下に動いた。
「ね。早くお医者さんに連れてってあげよう」
 マコトが猫を抱こうとしゃがみ込んだ。
「ちょ、やめなさい」
 と同時に「痛っ」とマコトが叫ぶ。
 しゃあああああああ。
 猫が頭をもたげて威嚇していた。牙の並ぶ口には粘液が糸を引き、目玉のない目から蛆虫がこぼれ落ちる。
「痛いよぉ、ママ」
 引っかかれたマコトの手の甲には爪の跡がつき、血が滲み出ていた。見る見る傷の周囲が赤黒く腫れてくる。
「やだ、何、これなんなの」
 どうすることもできず、ヨウコはとりあえず持っていたハンカチでマコトの手を包み込んだ。
 早く病院に連れて行かなければ。
 しゃあああ。
 猫が再び威嚇しながら起き上がろうとしている。抜けた毛が糸を引いて地面にへばり付いていた。
 この猫、生きてるの? 死んでるの? でも今そんなことどうでもいい。早く車に戻らなきゃ。
 マコトはかろうじて立っていたが、今にも倒れそうなぐらいぐらぐら揺れている。肩まで上がってきた腫れが襟ぐりから見え、青や赤の血管の筋とともに首から顔にまで達しようとしていた。
 どうしよう、どうしよう。そうだ。きゅ、救急車。
 スマホを取り出そうとバッグを探る。
 突然、玄関からばんっとガラスの叩く音がした。
 引き戸の向こう側に人影が映っている。
 ここのおばさん? 
 ばんばんと激しく叩き続ける異様な影にヨウコは電話をかけるのも忘れた。
 音を立てて上段のガラスが割れ、女性の姿が見えた。薄汚れたエプロン姿の女性の顔は赤黒く膨れ、目は白く濁っている。外に出ようとしているが真ん中の桟が邪魔をして出られないようだ。
 よだれが糸を引き、唸り声を上げこちらへ手を伸ばしている姿にヨウコは総毛立った。
 早くここから逃げないと。
 息子の体を支え、その場を離れようとしたが、すでにマコトの顔は赤黒く変色していた。
「マコト?」
 ヨウコの声にぴくりと反応したマコトは顔を上げた。
「がああああっ」
 白く濁った目を剥いて吼えるマコトにいきなり手を噛まれた。痺れるような激痛が走り、見る見る腫れてくる。
 はじかれたようにマコトが駆け出した。十数メートル先にいる数人の歩行者に向かっていく。
「ま、まって、マコ――マコ――
 が、があああああああ」
 ヨウコはただただ人を噛みたくて噛みたくて仕方がなく、息子の存在をもう思い出すことはできなかった。
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