凶兆

黒駒臣

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「こっちよ」
 はるかの指さす方向を真綾は保良を引っ張ってひたすら走り続けた。
 農具や刃物を持って徘徊する住人たちやあちこちで発生している激しい殺し合いに巻き込まれないよう、はるかが先導してくれるので安全に進めていた。後は濁流に足を取られずに注意するだけだ。
 激しい茶色の流れには泥や石が混入しているだけではなかった。赤い血が多量に混ざり合い、千切れた手や足、内臓や死体そのものも流れていた。
 さらに殺し合いだけでなく、人が人を食べている、そんな光景も垣根や塀の向こうに見えた。
 雨の紗のおかげで鮮明に映らないのが、せめてもの救いだと真綾は思った。
 だが、そのせいで今どこにいるのかもわからなかった。どこに逃げればいいのか、逃げる場所はあるのか、自分では何もわからない。頼りははるかだけだった。
 やがて集落から離れた場所に来た。
 山道と並ぶ氾濫した川はしもへと流れていくものの、この辺りでも徐々に水嵩が上がってきていたが、はるかがより高い位置へと誘導してくれていたので、濁流が膝より上に来ることはなかった。
 しかもここには住民たちの姿はなく、流れもただの泥水で――かといって土石流の不安は拭えないが――真綾は少しだけほっとした。
 先を行くはるかが山に近づく坂道を指さした。

「な、ちょっと待てや」
 しばらく坂を上ってから、後ろの保良が急に足を止め、つないだ手がくいっと引っ張られた。
「だめだよ。追いつかれるよ」
 周囲を注意深く窺いながら、雨音にかき消されないように真綾は大声で返した。
「もう誰も来ん」
「でもきっと校長先生は追いかけてくるよ。あんたの伯母さんも」
 そう言ったものの、白くけぶる雨の向こうに目を凝らしても影すら見えなかった。
 はるかの選んだルートが効を奏し、うまく撒けたのかもしれない。他の住民たちが追ってくることもなかった。
 でも、わたしたちはいったいどこに向かってるんだろう――
 はるかを信じ夢中になって走ってきたが、心に余裕ができると、村を脱出する道としてはさすがにおかしいような気がしてきた。
 坂道の右側は泥水の流れ落ちていく斜面で、左は鬱蒼とした雑木林で獣道しかなく、このまま進めばあの稜線が重なり合う山の中へと入って行くだろう。
 もしかしてそこに村から出る道があるの? でも山越えしなきゃならないよね? こんな雨の中で?
 真綾は少し先の岩場に立つはるかを見た。
 足元には山から来る激しい泥水が流れているが、川の濁流ほどではない。
 ここで救助を待てっていうこと?
 真綾は保良を振り返った。
「ここってどこなの?」
「このあたりは大昔の墓地があったとこ、ほらすぐそこや」
 保良の指差すほうに目を凝らすと、草むらで埋もれているが開けた場所があって、古い墓石が点在していた。倒れたり欠けたりしている墓が多く、まともに立っているのはほんの数基しかない。黒ずんだ石が雨に打たれ、いっそう黒みを増している。
「お前知らんときたんか? なんか当てがあってここへ来たんちゃうんか。誰か助けてくれる言うてたんちゃうんか」
 怒鳴る保良に真綾は返す言葉がなかった。自分もどうすればいいのかまったくわからないのだ。すべてはるかにかかっている。
 だが。
「こんなとこ、洪水避けられても山崩れ起こるかもしれんで。こっから先、村から出る道もないし」
 保良の言葉に真綾ははるかを振り返った。
 ここで待ってれば救助が来るんだよね?
 そう訊きたかったが訊けず、ただ見つめることしかできない。
 岩場の上で雨に濡れもせず、いつもと同じ佇まいのはるかは淋し気な眼差しで、じっと真綾を見つめ返す。
 一瞬、激しい雨音が無音になった。
「ごめんね。まあちゃん」
 はるかはそう言って、にっと笑う。
 ざああああああ、雨音が蘇った。
「ごめんねってどういう意味?」
 はるかに問いかける真綾の顔を保良が怪訝な表情で覗き込んできた。
「お前誰としゃべっとんや? 助けてくれる言うてたんは誰や?」
 わけを話したくても今はそれどころではない。
 真綾は握っていた保良の手を離してはるかに近づいた。
「ほんと、ごめん」
 くすくす笑うはるかの姿が揺らいで「じゃあね」と言って薄く消えると背後に小さな裸の子供が現れた。
 大倉家の圭吾だった。
「圭吾! お前も助かっとったんやな」
 ほっとした保良の声がした。
 はるかと違い無数の雫を弾く身体が生身の人間だと証明してはいたが、これは圭吾であって圭吾でない。
 現に胡麻粒のような瞳でにたにた嗤っている。
「危ないよって、はよこっち来い」
 異様な目に気づかないのか、保良が声をかけながら近づこうとする。その手を真綾はつかんで止めた。
「なに? あの子も助けな」
「あれは圭吾じゃない」
「は? お前、なに言うてん」
 あはははと圭吾が少女の声で嗤い、
「あんたええ力持っとうさけ、うち欲してなぁ。そやけ、はるかに呼んできてもうてん」
 続けてそう言うと再び嗤った。
「なんや? 圭吾の声とちゃう」
「だから圭吾じゃないって。あの目を見て。あれはナナシの亡霊よ」
 保良が信じられないと言った表情で、真綾と圭吾の姿をしたナナシを交互に見た。
「大倉のおはしらさんか。繁樹がゆうてた――なんや、どうなってんのや」
 その時、山の奥から大きな地鳴りがした。足裏にまで振動が伝わってくる。
 めきめきと木の倒れる音が遠く聞こえて来て、雨と泥のにおいの中にきな臭さも混じり始めていた。
「もう理由を説明しているひまがないわ。どこかもっと安全な場所に逃げないと――」
 真綾は手を伸ばして保良の手を握った。保良も力強く握り返してくる。
 だが、前方の岩場にはナナシがいる。もちろんもと来た濁流の道に戻ることもできない。右にも左にも逃げ道はない。
 ナナシはけたけた嗤った。
「あんたの力、うちのもんになったら百人力や」
「こんなの幽霊が見えるだけで何の役にも立たないわよっ」
「ま、真綾っ、見てみっ」
 保良の空いたほうの手がナナシの背後を指さす。岩場の向こうに見える山の木々が音を立てながらどんどんぎ倒され流れて来るのが見えた。地響きもだんだん近くなってくる。
「あかん、こっちへ来る」
 その声に真綾は力が抜け、自分の手が保良から離れていくのがわかった。もう逃げる気力が湧かない。
「やっぱり来なきゃよかったんだ。こんなとこ」
 母親を思い出して涙が溢れた。
 いったん離れた真綾の手を今度は保良がぎゅっと握りしめた。
「こっちやっ」
 そう叫び、真綾を引っ張って走り出す。獣道に入るつもりのようだ。
「もう無理だよ」
 砕けかけた心がどうしても足を止めてしまう。
「はよっ、逃げるんや」
「わたしはもういい。保良だけ逃げて」
 真綾は握られた手を振り払おうとしたが、保良は離さなかった。
「そんなん言わんと動けっっ、俺は絶対野球選手になるんやっ、そやかいお前もあきらめんなっ」
 力強い声に、真綾は唇をかみしめてうなずく。
 ひときわ大きな地鳴りとナナシのけたたましい嗤い声を聞きながら二人は這うように木立の間の獣道を進んだ。
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