ある男の物語

三枝麻衣

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罪人

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 鐘の音が聞こえる。音は余韻よいんを残しながら、一定の拍子ひょうしで鳴り続ける。青銅せいどう打音だおんは、重く、硬い音を響かせて木霊する。
 かすみがかった白い雲を突き抜けて、鐘は変わらぬ音を鳴らし続ける。高らかに、おごそかに。
 鐘の音は、静かに刻み続ける。新たに生まれいづるその時を。訪れる死の眠りにつくその時を。神が罪人を裁くその時を。
 
 …賑やかな街の通りから外れると、曲がりくねった畦道が再び姿を現した。訪れた人を出迎えるように、僅かな花と深緑の木々が風に揺れている。
 数歩先の西側にある池のほとりが、鏡となって訪問者の姿を映し出す。鈍色にびいろの全身鎧が、透き通る水面みなもに反射して揺れる。兜で覆われた容貌ようぼうが、近寄りがたい雰囲気をかもし出していた。
 かかとを鳴らして、鎧は進む。重苦しい鐘の音と具足の無機質な音は、共鳴するかの如くほぼ同時に伝わった。
 鎧は、導かれるように教会へと向かった。石段を上って、木製の門扉もんぴの前まで来ると、金輪かなわで出来た取っ手を掴んで開く。
 軋ませて開くと、木製の簡素な長椅子が何列か見えた。足を踏み入れると、中央に祭壇が見える。背には十字架があり、ステンドグラスからは美しい日の光が差し込んでいる。
 鎧は扉を閉めると、中央に進んで行った。祭壇の正面まで向かうと、椅子に腰掛けることなく、その場にがくりと座り込む。毅然きぜんとした様子は一変し、力なく膝をつき、暫し項垂うなだれた。
 …どれほどの間があっただろうか。変わらず鐘の音が響く中、鎧は緩慢かんまんな動作で兜を外した。脱ぎ捨てるようにして、両手から兜は転がって落ちる。
 外された兜から現れたのは、純朴じゅんぼくそうな青年の顔だった。整った輪郭に薄い眉、長く日に当たっていない為か、肌は青白い。癖毛の無い流れる肩程までの金髪が、項垂れた青年の横顔を僅かに覆っていた。高い鼻が髪の間から覗く以外に、青年の表情は見えない。
 全身を震わせ、そのまま両手を組んで祈る。握り締められた指は、強さのあまりに赤くなっていた。

「…神よ…どうか、僕を…裁いてください…!」

 鐘に導かれた青年は懇願し、搾り出すような声で語った。

「僕は、ヨダイ帝国の兵士です…サント帝国との戦争から、逃げてきました…。
 あの日…皇帝陛下の御前ごぜんに、みなが呼び出されて…サント帝国の食糧庫を狙えと命じられました…。
 新兵の僕は、ただ命令に従うだけで…分からなかった…。
 兵糧ひょうろうを奪うんだと思って…それで、敵を降伏させようとしたんだと思って…!
 そしたら…み、皆…食糧庫を狙った後に…じ、城下を…!
 し、知らなかったんだ、分からなかったんだ!
 隊長は、皇帝陛下の命令だとしか繰り返さなかった!
 お前達の前では言わなかった、俺にだけそう命じたって…そう言って!
 み、皆…市民を…こ、子供まで殺した!
 そんなことするくらいなら、し、死んでやるって…思ったのに…思ったのに…
 隊長が僕の…く、首に、剣を……気付いたら、僕は…僕は…」

 たどたどしく言葉を紡ぎ、途切れた。思い出した青年の震えが、大きくなる。両手を組んだまま、前のめりにうずくまる。
 年端としはもいかない、甲高かんだかい子供の泣き声が耳にこびりつき、離れなかった。突如とつじょとして襲った戦火に逃げ惑い、恐れおののく人々の悲鳴が、鮮明に思い起こされた。
 こんなのは間違っていると、隊長に直訴じきそする己と、冷酷な、おぞましい目で睨む隊長。他の兵士に呼びかけようときびすを返した瞬間、首筋に当てられた鋭く冷たい刃の感触。硬直し、微動だに出来ない己を殺そうと引かれる剣。痛痒いたがゆ裂傷れっしょうと、僅かに溢れ出てくる血液…死への恐怖と生存本能から、体が動いた。
 断片的な記憶が嵌め込まれ、繋がり、一つとなって甦る。
 最初に殺したのは、命乞いをしてきた妊婦だった。自分はいいからお腹の子は助けてと、泣きながら懇願した妊婦の心臓に、容赦なく剣を突き立てた。手に初めて伝わった肉の感触は、手に残ったまま離れない。その時に己は何かを叫んでいたが、何であるかは定かでない。兎角とかく、後で拾われても困ると、妊婦の大きな腹を斬ったことだけは憶えていた。
 次に殺したのは、その旦那らしき男性だった。殺された妻子への憎悪を募らせて、棍棒を手に持ち襲いかかる男性を避けて、妊婦の血が残ったままの剣でその背を斬り捨てる。流れるようにして、傍でへたりこむ老人と泣きじゃくる孫らしき子供を、その兄弟か友人らしき少年を、次々と斬っていった。
 つんざく人々の怒号と悲鳴、増えて行く血溜まり、何処からか上がった火の手に燃え盛る街…阿鼻叫喚の地獄絵図は、我に返り罪悪感に苛まれる青年の中で、悪夢となって繰り返された。
 …涙に声を詰まらせながら、青年は許しを乞う。

「か…神よ…助けて…助けてください…助けて…。
 帝国は、あれを無かったことにしようと…関わった隊の全員を処刑しています…!
 そして僕も…だ、だから僕は…逃げて…ああ…神様、助けて…!」

 蹲り泣く青年の前に、いつしか一人の神父が現れていた。鐘の音は、止んでいた。
 罪の意識にさいなまれ、嗚咽を漏らす青年の前にかがむと、神父は静かに語りかける。

「…よくぞ、打ち明けてくださいました…」

 声で我に返った青年は、はっと顔を上げた。正面には、濃紺のキャソックに身を包んだ神父が佇んでいた。顔を上げた青年を見つめ、神父は続ける。 

「心優しい青年よ、よくここまで生き、打ち明けてくれましたね。
 私も、風の噂には聞いていました…ヨダイ帝国による市民の虐殺があったと…。」
「…神父様…僕は、どうすれば…さっきも言ったように、帝国は無かったことにしているんです…!
 虐殺に関わった兵士達を、処刑しているんです…!
 僕も追われていて…ここまでやっと逃げてきて…ああ、神様…神父様…!」

 縋るように、再び青年は蹲る。落ち着くように諭し、神父は青年の肩を優しく叩いた。

「この世界に神はいない…祈るくらいなら逃げろ。」

 不意に、その声は響いた。青年の肩がびくりと震え、神父もまた、目前を…出入口の方向を凝視する。
 開け放たれた門扉の前にはもう一人、鎧の男が立っていた。しかし青年と違うのは、最初から兜を外しており、白髪の混じった初老の男性であるとわかることだ。遠くにも見える程、白銀の鎧は汚れており、数多の傷を刻んでいる…歴戦の強者きょうしゃであることは、明白めいはくだった。
 だが、神父が凝視したのは、それだけではなかった。

「…死者よ、ここは貴方のいるべき場所ではありません。
 早々に去り、元の場所へ還りなさい。」

 死者と言う言葉に反応したのか、青年はまたも全身を震わせた。

「言われなくとも、入るつもりはない。」

 淡々とした調子で言い、男は続ける。

「…帝国に関わる者は皆殺しにするつもりだったが、気が変わった。
 ただし一つだけ教えろ、黒髪の長い女と、同じ髪色の男を見なかったか。」
「待ちなさい、貴方は一体…」
「黙っていろ。」

 問おうとする神父を遮り、男は詰問きつもんする。

「答えろ、見たか、見なかったか。」

 …静寂が辺りを包む。一秒二秒の流れが、酷く長く感じられた。こちらが問いたい状況ではあったが、青年にはその余裕も無い。何をされるかもわからない恐怖に怯え、青年は必死に思い出そうとしていた。

「…み、見た…でも、何人かいて…ど、どの人のことかは…」

 暫しの間を置いて、青年はたどたどしく答えた。

「女は深紅のブローチを着けていた、若くはない。
 男はフリルシャツを着ていたはずだ。」

 …思い出そうとした青年の脳裏に、ある親子の姿が浮かんだ。あっと声を上げ、組んだ両手をゆるめて言う。

「見た…確か南西の貴族街に住んでいた…。
 捕らえれば金になるって言って、隊長が向かって…そ、その後は…。」

 首を横に振り、青年は言葉を切った。そうか、とだけ残して、男は背を向ける。瞬間、青年は何かに気付いたように顔を上げた。

「そ、その親子は確か…サント帝国で名を馳せている英雄の…」

 青年の言葉に、神父は僅かに眉を上げた。声をかける間もなく青年は勢いよく立ち上がり、振り返った。そして、いま正に去ろうとするその背を呼び止める。

「ど、どうして僕を見逃す!」

 かすれ、震えた声が礼拝堂の中に響き渡る。男は振り向かない。一歩踏み出し、何か言おうとした青年を見越したのか、男はただこう言った。

「死を望む者を殺せる程、優しくはない。」

 男の真意を知り、青年は目を見開いた。それ以上、何か言うことも出来ないまま、ただ茫然ぼうぜんと立ち尽くす。
 男が立ち去って行く背を…立ち去った後も尚、開け放たれた門扉の向こう側を眺め続ける。やがて、せきを切ったように青年は泣き始めた。崩れ落ち、床に両手を付いて、冷たい石の床に顔を埋める。
 荘厳な雰囲気の中、静寂の空間を慟哭どうこくが切り裂く。その様子を、神父はただ黙って見つめていた。

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