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知らない森

知らない森

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目が覚めるとそこは森の中だった。
少し湿った土の感触と木の匂いはとてもリアルで、夢ではないと気付くのに多くの時間は必要なかった。
周りをぐるりと見回して、そして私は何もしなかった。
いや、何もする気が起こらなかったのだ。
自分の記憶ではさっきまで一人暮らしのワンルームの布団の上にいた。
目的も無くスマホの画面を眺めては、ただただ過ぎる時間を無駄にしていた。
やる気が起こらない、食欲もわかない、ただ息をしている、仕事を辞めて2か月経った私の日常はそんな感じだった。
その私が何故外にいるのか、考えるのも億劫だった。
土の上に寝転がると、生い茂る木の隙間から青空が見えた。
空を見るの久しぶりだな、と緊張感のない感想しか抱けない。
一応といわんばかりに頬をつねって、引っ張って、痛みがあることは分かった。
耳を澄ますと、風によって揺れる葉の音と、聞いたこともない鳴き声で飛び去る鳥のようなものが上空に見えた。

なにあれ。

さすがにやる気のない私でも起き上がるほど、見たことのない生き物だった。
大きさはカラス程だろうか。翼のようなものを広げて鳥のように羽ばたいていることは間違いない。
しかし、その鳥のようなものはガラス細工で作ったような透明感だったのだ。
そんなものが空を飛んでいるという事実に、ぼんやりとしていた頭は徐々に覚醒した。

ここはどこなの。

周りをもう一度見れば、木の葉っぱも見たことがあるそれとは少し違う気がした。
緑色でギザギザとして、そして泣いている。
いや、泣いているという表現が適切かは分からないが、水がずっと滴っているのだ。
ポタ、ポタ、と落ちる雫は地面へと落ちて、私が座っている地面をしっとりと濡らしている。
もちろん、濡れていない葉もあるがそれはまた別の種類なのだろう。
正直言って、そういう植物が存在するのか否かという知識はない。
もしかしたら水をずっと作り出す植物もあるかもしれないし、私が知らないだけかも。
それでも、さきほどの透明な生き物の異様さを見てしまうと、この植物も異様なもののように映るのだ。
私は先ほどよりも真剣に自分自身に何が起こっているのか考えようとした。
私は部屋にいた、布団の上にいた、外に出ようなんて微塵も思ってなかった。

いや、私はベランダに出た。
鳥の声が聞こえたから。

どこからか逃げ出したような鮮やかな青い鳥がバサバサと羽を散らしてカラスにつつかれているのが見えたから。
その青い鳥を部屋の中へ入れてあげようと手を伸ばし、何かに躓いた私はベランダから外へ。
部屋は3階だった。下はコンクリートだった。
私、死んだのかもしれない。
鮮明になっていく記憶に足先が冷たくなっていくのを感じる。
今の私は裸足で、服装はゆったりとしたTシャツとスウェットで部屋着そのままだ。
そう、ベランダから落ちたときのまま。
深いため息をつきながら震える手で頭を抱え込む。
冷たい足同士を重ね合わせ、身を縮こまらせた。
死んだとしたら、私はどうしてこんなところにいるの。
自分の現状を理解していくにつれ、得も言われぬ不安に苛まれていく。
人はいるのか、何が起こっているのか、私はどうなるのか。
帰りたい、とだけ思わなかった。
帰ったところで何も得られない生活が待っている。
なんのために生きているのだろうと毎日呆然と考えていたそんな日々に戻りたいと本気では言えない。
嫌いだった上司の悪夢で目が覚めるそんな生活は辛かった。
その時、ポツリと雫が顔に当たった。
雫は次第に増えていき、着ていた服が張り付くほどに濡れていく。
それは知っている雨と同じだった。
泥に変わっていく地面に足をとられながら歩き始めた。
せめて屋根があるところに移動しよう。
裸足だから枝を踏んでも痛くて、なるべく草の上を歩くことにした。
野生動物は見当たらない、人の靴跡も見当たらない。
しばらく行くと川があり、その近くに洞窟を発見した。
これで水と屋根だけは見つけられた。
洞窟の中にクマなどの生物がいないことを祈るばかりだ。
洞窟は広くはなかった。7メートルほどの空間しかなく、クマの心配はなくなった。
雨はザーザーと勢いを増して、肌に当たると痛そうな音をたてている。
疲れたな、最近外に出なかったし。
濡れない位置に座って、洞窟の壁によりかかる。
眠れば布団の上だったりしないかな。
そんな薄い期待を裏切るように、目を開けてもそこは洞窟の中だった。
どのくらい寝てしまったかは分からないが、雨はまだ降り続いていた。
外も暗く時間帯もわからない。
ただ、お腹が空いたという感覚は久々だった。
親が送ってくれた袋麺を茹でずにかじりつくほどには料理する気力が失われており、開けるだけで食べられるスナック菓子をネットショップで注文して適当な時間に食べていたそんな日々。
傍から見れば顔をしかめられるかもしれないが、私だってそれが最良の食事と思っていたわけではない。それでも、鍋を出すことも、火にかけることも面倒で動けなかった。
元の生活に戻るメリットは食事だな。
ぼんやりとしながら洞窟の中でじっと雨が止むのを待つ。
このままここにいたら餓死する可能性も否めない。
だってここでは食料を宅配してくれる素晴らしい配達の方々はいないのだから。
そして、時折食料を送ってくれた両親もいない。
元気かな、お母さんお父さん。
親元を離れて一人暮らしを始めた娘は仕事を辞めてベランダから落ちて死んだかもしれません。
じんわりと目に浮かぶ涙は、だんだんと頬を伝い落ちる。
私親不孝で最低だね。
最後に電話したのはいつだった?お母さんはなんて言ってたっけ。
「なんで仕事辞めたの?頑張るって言ってそっちに言ったんでしょ」
私だって頑張ってなかったわけじゃないよ。
「やっぱりあんたには無理だったんじゃない?心療内科?なにそれ、そんなところ行ってるの?」
無理と言われる度に、自信がどんどん無くなって。
私は電話を早々に切ろうとしたんだ。

「ねぇ、戻ってきたら?」

私は電話を切った。お前には何もできないと言われているようで苦しくて電話を切った。
でも、今思い返せばお母さんの声は優しかったのに。
止まらない涙を何度も手で拭って、顔がぐしゃぐしゃになっても気にしなかった。
ここには誰もいない。そう、誰も助けてくれる人なんかいないのだ。
どんなに悲しくともお腹の空腹は待ってくれず、体力を奪っていく。
餓死するのが怖い。
今までそんなことを思ったことは一度もなかったが、今はそうもいかない。
雨が小降りになり、外に出た。
川が流れていた場所まで戻り、手ですくって飲んでみる。
雨水も混ざっているし、土の匂いもする。
それでも口に何か入れられたことは少しの安心材料だった。
周りの植物に目を向けてみる。
食べられる野草の見分け方なんて知るはずもない。
それでも何か食べなければどうしようもない。
草をかきわけて、小さな赤い実を見つけた。
見た目はブルーベリーほどの大きさで、茎は薔薇のようにとげとげしい。
私は勇気をもってその赤い実を口に入れた。
毒があったらそれまでだ。
噛み潰すと中から液体があふれ、鋭いに苦みに襲われて吐き出した。
飲み込むことが出来ないほどのその苦みは、ゴーヤの苦みを何倍にもした味だった。
嗚咽し、せき込んで、川の水を飲みこんだ。
他の植物も試してみたが結果は同じだ。
辛い物、苦い物、不味い物、口が拒否反応を起こすオンパレードで、最終的に川の水で口直しをした。
食べられるものがどれか分からない。
頑張って口に入れても飲み込めない。
神経毒などに当たらなかったことは幸いだが、空腹のままだった。
川の水を何度も飲んで紛らわそうとした。
しかし、空腹は次第に気持ち悪さに変わって水を飲むこともだるくなった。
人間は確か、水があればすぐに死ぬことはなかったはず。
そうだったとして、長時間の苦しみが待っているということだろうか。
移動して人間を探した方が早いか、私が餓死するのが先か。
移動したとして、水も得られなくなってしまったらどうすれば良いのか。
不安は不安を呼び、そうして動けなくなる。
そう考えると元の生活となんら変わらない気さえしてくる。
私は人が怖くなって外に出られなくなった。
次の仕事でも同じようなことが起こるかもしれないと思って、求人を見るたびに吐き気に襲われた。
そうして、繰り返し見る悪夢のせいにして、布団の上で屍のように生きていた。
行動を起こさない、という意味では今と何も変わってない。
私はどんな環境においても変われないのかな。
自分のダメ人間ぶりに嘲笑しながら、洞窟近くに咲いていた花を齧った。
ぴりぴりと舌が痺れ、意識が遠のいていく。
ああ、毒があったのかな。
そんなことをおぼろげに思いながら私は地面に倒れた。
どのくらいの時間倒れていたか分からない。
それでも雨が当たる感触で目を覚ますことが出来た。
そのまま永眠したほうが楽だった気もしないでもない。
目覚めてしまった私は泥だらけの服を気にする余裕もなく、とにかく水を飲みに行った。
私は少なくとも死にたいわけではないからだ。
川の水は相変わらず雨で増水しており、美味しい山水とは言いがたい。
それでも生命を繋いでくれる大切な水だからと手ですくって飲んだ。

そのとき、視界の端に何かが見えた。

それなりに大きめの川の真ん中に岩がひとつ。
その岩に何かが引っ掛かっているのだ。
鳥のようにも見えるし、トカゲのようにも見えるし、角も見えた。
見たことのないその生き物はぐったりとして川に浸かっている。
あれ、生きてるのかな。
真ん中の岩は少し遠く、息をしているのかどうかは見えなかった。
私には関係ない。
川の水を飲んだら洞窟に戻ろう。
そうして立ち上がると、その生物はさきほどよりも流されそうになっている。
このまま流されたら溺れるかもしれない。
いや、そもそももう死んでるかもしれない。
川の深さは分からないし、助からないかもしれない。
さまざまな理由や憶測は私の足を動かなくさせる。
そうして洞窟へと戻ろうとした瞬間。

キュウ・・・。

あまりに小さな声だった。
あの生物が鳴いたかどうかさえも分からない。
川の音がうるさすぎて鳴き声だったかどうかもあやしい。
それなのに私の足は川に入っていた。
川の流れが速く足がもつれる。
流されれば私だって無事じゃすまない。
一歩、また一歩、岩に近づいてようやく生物の全容が明らかになる。

ドラゴンだ。

映画とか物語で見たことがあるような、まさしくそれはドラゴンだった。
曲線の小さな角、鋭い牙、鋭い爪。
己の体よりも大きいであろう翼。
そして、そのドラゴンの大きさは土佐犬の子犬くらいだった。
ということは、ドラゴンのこども?
そう思いながら馬鹿らしいと思う自分もいる。
ドラゴンて。
鼻で笑ってしまうような単語だが、目の前にいる生物は他に形容しがたいほどドラゴンだった。
私はそのドラゴンを抱えて岸に戻ろうとした。
そこそこの重さのドラゴンは冷たく、息をしているかもわからなかった。
それでも私はなんとか川を渡り、洞窟までたどり着いた。
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