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【前編】千年の祈り、あるいは想い(うらみ) 

第6話 本

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 談判の夜から一夜。
 王宮の離れには、サフィヤと数名のエスピリカが隠密に寝泊りしていた。
 エスピリカの存在はまだ公にしておらず、王宮でも限られた者しか彼らがそこにいることは知らなかった。
 トルマーレ王とエスピリカ族長が手を結んだ後、地上へ随伴するエスピリカは、長い間使われていなかった王宮の離れの一つを与えられた。

 銀色の月が微笑む刻。
 わずかに窓が開かれた一室をタンザは認めた。
 窓の下の夜から一夜。
 王宮の離れには、サフィヤと数名のエスピリカが隠密に寝泊りしていた。
 エスピリカの存在はまだ公にしておらず、王宮でも限られた者しか彼らがそこにいることは知らなかった。
 トルマーレ王とエスピリカ族長が手を結んだ後、地上へ随伴するエスピリカは、長い間使われていなかった王宮の離れの一つを与えられた。

 銀色の月が微笑む刻。
 灯りはないが、わずかに窓が開かれた一室をタンザは認めた。
 隠密を守るため、離れへの不用意な出入りは禁じられている。窓の下、茂みに身を隠し、彼はそっと窓へ近づいた。
 耳をそばだてるが、室内からの物音は聞こえない。
 いっそ今ここで声かけたく思ったが、かける言葉が見つからず往生するばかりであった。
 すると―――。
 澄んだ水のような声がタンザの耳をくすぐった。

「いるんでしょう、タンザ」

 己が名をぶ、懐かしい声。最後に聞いた声よりか低くはなっていたが、聴覚はこれを確かに“彼”だと言った。

「……ああ、ここにいる、」

 ――――サフィヤ。
 自身で発した言葉なのに、どこか遠くから響く声のようだった。

 本当は今この瞬間、タンザは窓を開け放ちたかった。

「その、ずいぶん会っていなかったな。ほかのエスピリカはどうした?」
「ありがたいことに、それぞれに部屋を割り振っていただいたよ」

 お互いの姿は見えず、ささやき声だけで会話する。
 不用意に接触しているのを誰かに見られるわけにはいかなかった。

「きみが元気にしてたか、ずぅっと気になってた。陛下より僕ら|《エスピリカ》へお達しがあったときは驚いたけれど、嬉しかった……もしかしたら、きみとまた会えるかもって」
「俺も、談判の随伴ができると決まって、王国への忠誠より真っ先にお前を思い浮かべてしまった。……近衛兵候補失格だな」
「近衛兵候補にまでなっていたんだね。お父様と同じ、兵士になったのだね」
「親父のことまでよく覚えているな」
「……言ったでしょう、タンザは特別だって」

 『だって、タンザは特別だから』――。
 あの日の会話がよみがえる。あの日から10年も経ったとは。
 話したい事は無数にあるはずなのに、何故か言葉が出てこない。けれども、ぎこちない空気がどこか心地よかった。

「本を、返しに来た。ずいぶんと遅くなってすまない」

 あの日貸してくれた、大切な本。大きな秘密が詰まった、二人の思い出。タンザは窓へ向かってそれを差し出した。

「………! まさか、ずっと持っててくれたのかい?」
「当たり前だ。お前の大事なものだろう。ずっと返したかったが、できなかった」

 月明りに照らされた手が、そっと本を受け取る。心なしか、その手は震えていた。

「ありがとう……大事にしてくれて」

 澄んだ水のような声が震える。水面《みなも》に水滴が落ち、波紋が広がっていくような声だった。

「ねえタンザ。きみの顔を見たい。もう一度、僕の目を見て……」
「……そろそろ見廻りの兵が来る」
「少しで構わない。どうか、きみの顔を見せて」
「………ッ」

 タンザは窓を叩き割って部屋に飛び込みたい衝動をかろうじてこらえた。
 雲が動き、あたりは一層薄闇に包まれた。
 ―――雲が月を隠す、この間だけ。
 まるで月の目を忍ぶかのように、タンザはゆっくりと立ち上がった。

「タンザ……!」

 暗闇の中でも、双つの蒼玉は輝いていた。
 光をまとったかのような髪は、わずかな星明りで銀色に光っていた。

「タンザ……! ずっと会いたかった‥‥! あれから、古井戸が埋め立てられて、地上に行けなくなって……」
「ああ、そうだったな。あの時、俺たちが会っているのを感づいた者がいたらしい」
「やっぱり、そうなんだね。いつか、そうなるんじゃないかと思っていたよ」
「……俺もそう思っていた。けど、それでも、それでも俺はサフィヤとずっと―――」

 いっしょにいたかった―――。
 最後の言葉は、見廻りに来た兵士により遮られた。灯りをこちらへ向け、離れを気にしているのが分かった。
 タンザは瞬時に身を隠し、事なきを得た。

「……そろそろ戻る。これ以上は怪しまれそうだ」
「そっか。分かったよ。今日きみに会えて、ほんとうによかったよ」

 頭上の窓から、返したはずの本が差し出された。

「また、この本を貸すから明日、返しにきてくれるかい」
「おい、サフィヤ……」
「きっと、返しにきてね。待っているから」

 差し出されたそれを拒むことができず、彼はまた受け取った。

「頃合いを見て、また返しに来る。子どもの頃より、王宮勤めの今のが融通が利くからな」
「……嬉しい、またきみを待つことができるなんて」

 見つかっちゃだめだよ、と、懐かしい、いたずらっぽい笑顔を尻目に、タンザは帰路へとついた。



「この本、持っていて無事だったのかい?」

 その日の夜も、二人は密会をしていた。眠そうな月が、二人を見下ろしている夜だった。

「必死で隠し持ってたからな。トルマーレの裏の歴史を知ってるなんて大人にバレたら処刑じゃ済まなかったろうな」
「……そうだろうね。だから、ずっと心配だった。僕のせいでタンザがひどい目にあってるんじゃないかって。大人たちから何かされてたらどうしようって」 
「あいにく、悪知恵はそこそこ働く方でな。それよりお前こそ大丈夫だったのか? 爺様からもらった大事なものだろう?」

 サフィヤが頭上の窓からふわり笑う声がした。

「僕は大丈夫だよ。おじい様は優しいお方だから。地上の子へ貸してしまったことを話した時も、驚くだけで叱ったりなさらなかったし」
「なっ! それはまずいだろ!」
「僕もそう思ったよ。当時は、僕のせいでタンザがひどい目にあったり、エスピリカが怒られるんじゃないかとすごく落ち込んだ。けど、おじい様は仰ったんだ」

『トルマーレとエスピリカが友情を育んだ。これは千年ぶりの快挙だ。今まで大人が成し得なかったことを幼い子どもがやってのけた。これは素晴らしいこと。
 トルマーレは、エスピリカの敵ではない、友だ。友なら仲違いしても仲直りできるということだ』

「……そんなことがあったんだな」

 ――すげえよ。お前も、お前の爺様も。

「だからね、タンザ。僕たちは火山の異変をどうやってでも食い止めるつもりでいるよ。古の友の役に立ちたいんだから」

 サフィヤがどんな表情で宣言したのか、見なくても分かった。

「サフィヤ、俺は今悔しいんだ」
「悔しい?」
「こんなにも……こんなにもトルマーレを想っている一族、そしてお前と……白昼堂々会えないなんて。今もエスピリカが薄暗い地下を出られないなんて、俺は悔しい」

 耳をかすめるそよ風にすらこの密会を咎められている気がした。しかしサフィヤはもう一度ふふわりと笑った。

「ありがとう。きみは、ほんとうに優しいね」
「優しいのはエスピリカだろ。トルマーレは千年もこんな仕打ちを……」
「タンザ。僕のおじい様――ううん、我が族長が申したように、エスピリカはトルマーレの力になることを望んでいるんだ。それができるなら地下でも地上でも、どこだって構わない。遥か昔、一度はエスピリカを受け入れてくれた国なんだから」
「………したい」
「……? もう一度言って?」
「俺は、サフィヤとトルマーレで暮らしたい」

 数秒間、二人の呼吸が止まった。眠そうな月が唯《ただ》、退屈そうに二人を見下ろしていた。

「……僕もこの月を、君と同じ場所から見上げたい」
「……そうだな」
「少なくとも国王陛下は、エスピリカを嫌ってはいないと思う。そんな気がする」
「読心術か?」
「ふふ、僕は読心術を使えないよ」
「……陛下は、昔俺たちが会っていたことをご存知だ。その上で、俺を近衛兵候補にして、エスピリカへ談判の選抜隊にまでしてくださった」
「……そう。陛下はすべてお見通しだったんだね」 
「……ああ」

 タンザはしばし迷っていた。
 王がエスピリカの歴史――火山神話の真相を知っていたことを、サフィヤへ告げるべきか。
 しかし一兵士という立場上、エスピリカのためにもこれ以上出過ぎた真似はできない。然るべき時に、王の口から語られるのを待とうと内なる決断をした。

「悪い、今日もそろそろ戻る」
「分かった、じゃあまたこれを返しに来て」

 差し出されたいつもの本。何度読んでも新鮮なそれは、四隅がだいぶぼろくなっていた。

「そんなものなくても、折を見てまた来る」
「うん。けど、またきみに貸して、返してほしいから」
「お前なぁ……」

 当たり前のように差し出された、いつもの本。隠し慣れたとはいえ、王宮の敷地内にこれを持ち歩くのはリスクがあった。

「じゃあ、これだけ」

 そう言うと、サフィヤは本を開き、惜しげもなくページの一枚を切り取り始めた。

「お、おい……! 大事なものだろ」
「これを貸すから、また明日返しに来てね」

 差し出されたのは本の挿絵だった。キバや黒い翼なんてない、神秘的で美しいエスピリカが描かれた一ページだった。

 タンザはそれを少し眺めると、兵士服の内ポケットにしまった。

「また来るよ。サフィヤ」
「……待っているよ」

 眠そうな月が、相変わらず二人を見下ろしていた。
 あの月がこの逢瀬を誰かに話すのではないかと、ありもしないことに彼《タンザ》は思いを馳せた。
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