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第1章

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 あの日からずっと、水の音が……来未の声が頭から離れない。

 夢の中で、来未は遠くへ流されていく。
 流されながら来未は、助けてと私に必死に手を伸ばすのだ。私も一生懸命来未へ手を伸ばすけれど、届かない。
 来未はどこまでも、どこまでも流されていく。

「私はあのとき……必死に助けを求める来未の手を離した……」
 あの光景は、いまだに鮮明に焼き付いたまま、私を責めたてる。
「あのとき私は、たしかに来未の手を一度掴んだ。それなのに私は、来未の手を、すがりついてくる彼女の手を離しちゃった……」

 その事実は、私と来未しか知らない。
 海上保安庁の人も、来未のママも、家族すら知らない。言えない。

 怖くて、とても口になんてできなかった。
 これは、今この世界で私しか知らない真実だ。

「来未はきっと、私が手を離したことを恨んでる。私がちゃんと握っていれば、来未を引きあげていれば、来未は、私と一緒に助かったかもしれないんだから」

 夢の中で、来未はいつも苦しそうに顔を歪ませて、海の底に沈みながら溺れ死んでいく。
 来未が波に呑み込まれたあとのそんな光景を見た記憶なんてないのに。私の脳は勝手にその映像を作り出しては、リピート再生する。

「……夢の中でいくら手を伸ばしても、来未は遠くへ行ってしまう。私を責めたてるみたいに、手だけを海面に出して」

 分かってる。手を離した私が悪いんだ。来未はきっと私を恨んでる。だから、今も夢に出てくるんだ。

 最近は来未のことまで忘れたいと思うようになってしまった。

 だって、眠れないから。
 苦しくてたまらないから。

「命で償うしか、もう私には選択肢なんて残されてないんだよ」

 呟くように言うと、
「……ダメだよ」
 綺瀬くんが私の手を両手で包む。
「死んじゃダメ。だって、君が自殺したら、君は彼女をもう一度殺すことになる」
「……もう、一度?」
「そうだよ。だって、死んじゃった人は、生き残った人の思い出の中でしか生きられないんだから」

 とても寂しそうな声をしていた。

「ねぇ、よく思い出してみて。君の親友は、君に恨み言を囁くような人だった? 君を責めるような人だった?」
「それは……」

 ふと思い出す。
 そういえば、この人も大切な人を失っているのだと。
 遠くを見つめるその横顔は、悲しいほど美しい。もしかしたら綺瀬くんも今、遠くにいるその人のことを想っているのだろうか。

「……苦しくないの? 綺瀬くんは、その人を思い出して」
「……苦しいよ。でも、俺にはもう想うことしかできないから。なにがあっても、忘れたくないって思うんだ」
 悲しげに笑う綺瀬くんに、言葉を失う。

 でも、たとえそうだとしても。
「……私は、綺瀬くんみたいにはなれないよ」

 私には、亡くなった来未をそんなふうに想い続けることはできない。
 だって、
「私は、そんなに強くないもん」
「水波……」
「……話、聞いてくれてありがとう。……りんご飴も」

 じゃあね。
 そう言って立ち上がり、石段へ向かう。すると、一度離れたはずの手が、パッと掴まれた。

 振り返ると、今にも泣きそうな顔をした綺瀬くんと目が合う。
「な、に……?」
「強くないよ、俺だって。だからここにいるんだ」

 掴まれた手に、ハッとする。綺瀬くんの手は、かすかに震えていた。

「本当は俺も、君と同じ。ひとりが寂しかったんだ。寂しくてたまらなくて、死のうかと思ってた。そうしたら、君を見つけた。君を助けたのは……似たもの同士だったから」
「え……」
「本音を言うよ。本当は、俺が水波を助けたのは、俺のため。君に、そばにいてほしいって思ったんだ。……俺も今、寂しくて死にそうだったから」

 顔を上げて綺瀬くんを見て、私は息を呑んだ。綺瀬くんは、静かに涙を流していた。

「えっ……ちょっと……」

 私は慌ててポケットからハンカチを取り出す。
「はは。ごめん。なんか急に涙が出てきちゃった。……まったく、男が泣くなんて情けないよな」
 片手で乱暴に涙を拭いながら、綺瀬くんは力なく笑った。

「……そんなことない。泣きたいときは、だれにだってあるよ」
「……ん」

 はにかんだ綺瀬くんは、今にも消えてしまいそうで。私は、思わずその手を握り返した。

「……いいよ、いる」
「え?」

 綺瀬くんが驚いて顔を上げる。私は潤んだ声でもう一度言った。

「私が、そばにいるから」

 言いながら、唐突に思った。

 きっと、私はこんなふうにだれかに寄り添ってほしかったんだ。お互いを心から欲しがって、寄り添い合えるだれかに。

 私はきっと、ずっとこの人を待っていた。

 いつの間にか、私は綺瀬くんの手を握ったまま眠りについていた。
 綺瀬くんのとなりは、優しい香りがしてあたたかな毛布に包まれているような心地がして。
 事故の後初めて、私は来未の夢を見ることなく、ぐっすりと眠った。
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