上 下
8 / 10

8

しおりを挟む
 こっそりと向かったのは、あの公園。東屋に入り、小さく息をつく。
 ……落ち着く。ようやく、息が吐けたような気がした。
 日陰が落ちた東屋の中は、少しだけ寒い。紅葉を過ぎ、色褪せた公園はどこか物悲しい空気を漂わせている。
 まるで、私の心みたい。
 小さくため息を着いたときだった。
「花野?」
 ふと、風の囁きのようなひそやかな声が聞こえた。見ると、東屋の入口に蓮見くんが立っていた。
 驚いていると、蓮見くんは小さく微笑み、東屋に入ってくる。
「突然倒れたから驚いたよ。それに、保健室覗いたらいないし……まぁ、なんとなくここかなって思ったから、先生に言って僕が迎えに来たんだけど。いてよかったよ」
 蓮見くんは怒ることもなく、穏やかな口調でそう言いながら、私のとなりに腰を下ろした。
「身体はどう? 学校を抜け出す元気があるなら、大丈夫そうだけど」
 熱? ……そうか。朝からなんとなく身体が重いと思っていたのは、熱があったからか。
 と、思っていると、蓮見くんが制服のジャケットを脱いだ。私の視線に気付いた蓮見くんが、笑う。
「走ってきたから、暑くて」
 よく見れば、蓮見くんは額に汗を滲ませていた。
『ごめん、迷惑かけて』
 私はスマホを見せながら、蓮見くんに頭を下げた。
「いいよいいよ。気にしないで!」
「…………」
 私はもう一度、ぺこりと頭を下げた。
 ……さっき、倒れる直前につい思ってしまったこと……彼は聞いただろうか。
 俯いたままでいると、蓮見くんがぽつりと言った。
「死にたいって思うとき、僕もあるよ」
 顔を上げると、蓮見くんは悲しそうに笑って、私を見ていた。
「好きだった人の心の声を聞いちゃったときとか。……この力があると、どうしたって見たくなかった部分まで見えちゃうからね。だから、僕は一生、人を好きになることはできないんだろうなって思ってた」
「…………」
 彼は、心の声を聞くことができるという。たぶんそれは、嘘ではない……のだと思う。
 まれに変な態度をとることがあったし、クラスであぶれている感じはないのに、クラスメイトと距離を取っているようなところがあったから。
 それに――私も、ある日突然自分の声を失った。だから、突然なにか不思議な力を授かることも、あるのだと思う。
「でも、花野に出会って気付いたことがあるんだ。……僕は今まで、いったいだれを好きだったんだろうって」
 顔を上げると、蓮見くんは優しく微笑んだ。
「僕たちは、相手のほんの一面しか知らない。それなのに勝手に心の声に絶望して、イメージと違ったって悲観してたのは僕。相手はなにも悪くないのにね」
 結局、相手をちゃんと見ていなかったのは自分のほうだった。そう言う蓮見くんの横顔は、とても寂しそうだった。
 きっと、彼はこれまでたくさん悲しい思いをしてきたのだろう。私では想像もつかないくらいの想いをしてきたはずなのに。それでも、蓮見くんは、そんなふうに思えるのか……。
 ……すごいなぁ。私とは、大違いだ。
 私は目を伏せた。
 スマホに文字を打つ。
『お母さんのこと、聞こえたよね?』
 訊ねると、蓮見くんは少しだけ戸惑うような態度を見せた。
「……うん。自殺だったって」
『私が中学生のとき、お母さんは自殺した。お母さんが死んだのは、私のせい。私がお母さんの心を壊して、殺した』
「……さっき、宮本から聞いたよ。花野のお母さんは鬱病うつびょうを患ってたって」
『お母さんが病気になったのは私のせい。私の子育てがしんどかったから。私がお母さんに負担をかけたの』
「だとしても、花野に責任はない。お母さんが亡くなったことは、花野が責任を感じることじゃないでしょ」
 それは違う、と私は首を振る。
『私は、だれにも必要とされてないの。お母さんじゃなくて、私が死ぬべきだった』
 蓮見くんが息を呑んだような音がした。
『私は勉強も運動も得意じゃないし、人にも好かれない。……なんの価値もない人間』
「そんなことない!」
 そんなことある。
「私なんて、生きてたって意味がないの!」
 強く叫んだ。
 すると、蓮見くんは私の声に一瞬驚いた顔をして、息を呑んだ。
 しかし、すぐに私をまっすぐに見つめ、
「そんなことないよ!」
 と強く言った。
 蓮見くんが私の肩をぐっと掴む。
「僕は花野に救われたよ。だれかの本心に臆病になって、人間不信になってた僕がもう一度人に興味を持てたのは、花野がいたからだ。……それだけじゃない。花野といると、僕は音を聞くことが怖くないんだ。どんな音にもずっとびくびくしてたのに……それなのに今は、花野の心の声が聞こえたらいいのに、って思っちゃうくらいで……」
 ハッとして顔を上げる。
「僕はきっと、花野に会えていなかったら、今もみんなを拒絶したまま、人に興味を持てずにいたと思う。ずっと耳を塞いでた僕の手を取ってくれたのは、花野だよ」
「……私が?」
「花野といると不思議なんだ。花野のとなりは、言葉はないのにいつも音やカラフルな景色で溢れてる。この公園も」
 そう言って、蓮見くんは公園を見渡した。
「ここ、近所だし行き慣れた場所だったのに、花野と一緒だと音も色も匂いも、流れる時間自体ももうぜんぜん違うんだ。……僕、花野のおかげで少しだけ前向きになれた。心の声も、ちょっとずつ違うニュアンスの声が聞こえるようになって……ぜんぶ、花野のおかげ。だから、ありがとう」
「蓮見くん……」
 蓮見くんはにこりと微笑んで、言った。
「それにしても花野の声、初めて聞いた」
「あっ……」
 そういえば、と喉を押さえる。いつの間にか、声が出ていた。母を失った日に失ったはずの声が。
しおりを挟む

処理中です...