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顧問2年目06月
顧問2年目06月 1
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6月になった。
梅雨の時期らしく、毎日雨の匂いが漂う日々が続いている。湿度が高い分、気温以上に暑さを感じ、不快な季節だ。
校内では中間試験の返却も終わり、そろそろ年度のイベントも見え始めた時期である。
新しい学友も出来始め、また新しい環境にも慣れた頃でもあり、一番楽しい時期なのかもしれない。
これからの学校生活に胸が高まり、期待に膨らみ始める。そんな時期だった。
しかし、そんな思いをするのはおそらく生徒たちだけだ。
教師たちは年度始めの忙しさが落ち着いた時期でもあり、これからのせわしないイベント続きの日々に備えて休める時期でもあった。
ある日の昼休み。
また校長に呼ばれたため、立成は校長室に立っていた。
「やあ、立成先生。またお忙しいところすまないね」
微笑む校長。皺が刻まれた目元に年齢が現れている。立成よりは背が低いものの、中肉中背の男で、妙齢の紳士といった印象だ。着ているスーツも、立成はよくわからないがきっと高価なものなのだろう。相変わらず室内は厳かな調度品に溢れていて、ここが本当に学校かどうかも怪しく思えてしまう。
「いえ、大丈夫です」
「再来週は高校総体があるよね。・・・もう、私が言いたいことはわかるかね?」
「え、えぇ。以前お話を伺ったことと同じこと・・・・ですよね?」
「そうです」
先月の始め。校長室に呼び出されて、校長本人から言われたこと。さすがに忘れることはなかった。
「かつて昔はベビーブームなんかで教室が足りない時代もありましたが、今や完全な少子化社会です。かつてはこの学校も1学年に10クラスもありました。今や6クラスにまで減っています」
「はぁ」
「それは仕方ないことです。日本全体の問題だ。我々教師の力ではどうしようもない。ただね、この学校に通ってくれる生徒たちには、少しでも良い思い出の学舎だったなと、そんな思いを持って外に羽ばたいてほしいのですよ」
「そ、そうですね」
「そのためにはね、やはり生徒たちの出会いというか、多くの人間と触れ合って、高め合い、そして成熟した精神を育んでもらいたい、そう私は願っているのです」
「は、はい」
「なのでね、立成先生。何度も言ってしまって恐縮だけれども、君の部活の生徒、えーと・・・筒井くん、だっけ?彼が今度の大会、これまで以上に期待しているよ」
「は、はぁ」
その後も校長の話は続いた。
さすが校長まで登り詰めただけあり、その会話術には感心するものがある。だがその一方、どうしても学校経営が根幹にある物言いにも感じ取られる。色々と言葉を変えて話してくるが、結局のところ、学校の評判のためにも、高校総体で結果を出してほしいと言っているだけなのだ。
立成は校長の老いた口許からこぼれる言葉を適度に受け止め、適度に聞き流しながらも、ありがたがっている表情を作り続けた時間だった。
「それでは、失礼しました」
室内に向かって礼をしながら引き扉を閉めた瞬間、肩を下げて息をしていた。
疲れた・・・
緊張もあるが、精神的に参ってしまった。
(結局、学校経営のための口出しじゃねーか。そんなんでこの長話・・・勘弁してくれよ・・・・)
心の中で毒づきながらも、職員室へ戻る廊下を歩く。
貴重な昼休みなのだ。せっかくの憩いの時間が台無しになってしまった。
今から昼食をとったとしても、それだけで休憩時間は終わってしまうだろう。
やれやれ・・・そんなに部活で頑張ってほしいなら休み時間を増やせよ・・・などと心の中で愚痴りながら歩いていたら、前方に見慣れた人影があった。
(あ、あれは・・・)
養護教師の吉沢が廊下を歩いていた。
後ろ姿だかわかる。白衣を着た女性だからだ。いや、白衣を着ていなくても、きっとわかっただろう。
少し姿を見ただけで、立成は胸の高鳴りを感じていた。
どうしたというのだ。
だが、見ただけで嬉しくなった。先ほどまで曇っていた立成の心が。スッと晴れ渡っていた。
唐突に、吉沢と話したくなった。彼女の笑顔を見たくなった。少しでも近くに行きたかった。
思わず声をかけたようとする。少しだけでもいいから、声が聞きたくなる。
しかし・・・
(どうしよう。どうしよう。俺なんかから話しかけていいのか・・・?もし、嫌な顔をされたら・・・吉沢先生ならそんなことしないか?でも、何を話せば良い?・・・くそっ、もういい!!)
自分は一体何を意識しているのだろうか。
彼女はただの職場の同僚なのだ。それ以上でも以下でもないのだ。そんな彼女に話しかけるのを、なぜ躊躇しているのだろうか。
立成自身が気づいていないが、それは、若人のような淡い恋心のようなものだった。
これまであまりにも女性との交流が無かった立成にとって、愛想よく誰にも優しく接する吉沢は、女性への免疫を付けるための良薬であるものの、あまりにも毒が強すぎた。立成は吉沢の毒気にやられてしまっていたのだった。
もっとも、32歳にもなって、少し会話を下だけの女性に対して思慕の情を持つこと自体がおかしいことではあるのだが・・・
そんなことに全く気付くこともなく、迷いながらもやっと決意した立成。
息を吸い込みむ。止める。渾身の勇気を出してその白衣の背中に声をかけ・・・
「あっ、吉沢センセ~!!」
馬鹿でかい声とともに馬鹿でかい男が唐突に表れた。
体育教師の角田だった。
(何であいつが。こんなタイミングで・・・!)
今日も上下ジャージ姿だ。屋外の授業でもあったのか、そのジャージには汗染みが浮かんですらいる。日焼けした顔にもうっすらと汗が浮かんでいる。そんな、精悍であると同時に、汗臭さも感じてしまう風貌だ。そんな格好であることも気にせず、凄みのある怖い顔を、だらしなく好色そうにニヤニヤさせながら吉沢に近づいてくる。
吉沢の方もそんな角田に対して嫌なそぶりを見せずに、走って角田の元に走っていった。
(何だ、何なんだ・・・)
何もしていないというのに、立成は何だか、より疲れてしまっていた。
職員室へと1人、しょんぼりと戻っていった。
その足取りは重い。
校長からの面倒な長話によろう疲労と、独り相撲ではあるが吉沢と話す機会を逸したことのショックで、牛歩戦術の国会議員のような遅さだった。
そのおかげか、立成が職員室の扉に手をかけたときには、午後の授業のチャイムが鳴っていた。
その日の放課後の部活動。弓道場にて。
部員の生徒が全員が集まっている中、彼らの前に立った立成が話している。
「・・・以上が今度の総体のオーダーだ。2年にとっては初めての、3年の筒井には最後の高校総体だ。あと2週間、気を引き締めて練習するように」
いつもよりかしこまった雰囲気の中、立成は団体戦のオーダーを発表していた。
弓道の団体戦。5人で1チームだ。
制限時間以内に1人4本、合計20本の矢をもち、その的中で順位を競う。
1番手である大前がが川崎。
一番最後の落が筒井。
これだけは変えられなかった。
大前はチームの流れを作る立ち順だ。
そして落。これはチームの大黒柱だ。
他の4人が外したとしても、当ててくれる。そんなことを期待される、期待しなくてはならない、そんなポジションだ。そんな精神的支柱となり得るのは、今の部員では筒井以外あり得ないのだ。
他の3人と補欠2人については、型の安定している者、的中の調子が良いもの、真剣に部活に取り組んでいる者を並べ、適宜交代させるつもりだ。
立ち順については、顧問だから一応、立成から発表した。
しかし、そのオーダーはほとんど決まっていたようなものだった。
筒井や2年の何人かの聞き取りもしたが、普段の部活動の様子を鑑みてもこれ以外にはないだろうというものだった。
立成の発表が終わり、ガヤガヤと騒ぎだす生徒たち。
いつもの部活動の雰囲気が戻っていた。
(あと2週間。頑張れよ)
立成は心の中でつぶやいた。
そして。
高校総体当日。
快晴に恵まれ、いかにも運動日和だ。
去年と同じ会場だ。
久しぶりの大きな弓道場だ。市の小さな弓道場とは大違いだ。
生徒たちは思い思いに過ごしている。
あと30分もすれば、団体戦のメンバーが控え室入りするのだ。
昨年は立成も赴任したばかり、それも未経験の部活の顧問だから、何もできなかった。
今回は顧問になって2年目だ。
経験の無いスポーツではあるものの、もう少し生徒たちの力になりたかった。
試合前の選手たちに、少し声をかけてやろうか。
立成は控え室という名の体育館に向かった。
立のメンバーはそれぞれ思い思いに過ごしていた。
巻き藁を射る者、目を瞑って集中している者、普段通りスマホを弄っている者、談笑している者・・・
それぞれの生徒に話をした。
大した話ではなかった。
今の気持ちはどうだ?、心配するな、何も死ぬ訳じゃないんだ、楽しんでやるんだ、・・・
そんな、ありふれた、ほんとうにありふれたことだけを話した。普段はふざけてばかりの生徒たちなさも、このときばかりはきちんと立成の話を聞いていた。
部員たちは思った以上に落ち着いているようだった。立成との会話もいつも通りだった。声も震えず、
なかなか図太い神経を持っているかのようだった。
だが、筒井が見つからなかった。
川崎に聞いても、どこかに行ったきり戻っていないと。
(大丈夫か、あいつ?)
立成は少しやきもきしながらも、体育館周辺を歩き回る。会場である弓道場の観客席も見て回る。見つからない。
どこに行ったのか。まだ時間はあるとはいえ、こんなスタンドプレーをする奴ではないはずだが・・・
どういうことだ。これだけ探しても見つからないってことは、
(もう、スマホで連絡するか?でも、あいつこのタイミングで持ち歩くかな・・・)
ほとんど諦めていた。
歩き回って疲れたのもある。
どこか、静かで人のいないところで一旦休もう。
そう思って手ごろな場所を見繕っていたところ・・・
「こんな所にいたのか」
筒井が1人、人影のない廊下で椅子に座っていた。
立成は息を荒くしながら筒井の横に座る。
筒井は何でもない、と言いたげな雰囲気だ。
「試合、緊張しているのか?やれることはやっただろ」
「そうだけどさ」
筒井はそれっきり無言になる。
立成の方を見ようともしない。
「去年のこと、思い出しちゃうんだよね」
「えっ・・・あっ」
そうだ。
1年前の高校総体。ここで、この会場で、筒井は調子を崩し、決勝では1本も中てられなかったのだ。
そして今いる場所。
非常階段の手前の薄暗く狭い廊下。
昨年の決勝戦が終わり、1人で筒井が泣いていた場所だ。立成はそんな筒井の背中を擦り、慰めていたことを思い出した。
立成は改めて筒井を見る。
明らかに顔色が悪い。よく見るとその身体が震えていた。
(こんなになるまで・・・)
プレッシャーもあるだろう。
だが、昨年の大会のトラウマが蘇ってしまったのか。
昨年の新人戦やその後の快進撃を見るに、とっくに克服したと思っていた。
だが、人間というものは、やはりそう簡単に打ち破ることができるものでもないのだ。
どうする・・・?
立成は考えた。
そして、考えた結果が思い浮かぶより先に身体が動いていた。
「えっ・・・」
「大丈夫だ、大丈夫だ」
筒井を抱きしめていた。
いつだったか、立成が筒井に後ろから抱き締められたように。
そして、昨年もこの場所で、筒井にかけた言葉と同じように囁く。
(こいつ、こんなに細いのか)
この半年、散々身体を重ねてしまっているというのに、立成は今更な感想を抱く。
身体を捧げてきた生徒の、その華奢さ。
そんなことを、こんな場面で感じてしまうなんて。
今、立成は、初めて自分から筒井の身体に絡みついた。
性的な欲求や目的などない、完全な庇護欲によるものだった。
自分の身体で感じたことで気づいてしまう。筒井がまだ、少年であるということ。高校生であるということ。
(そうだ。そんな当たり前の事、わかってなかったんだな、俺。高校教師だっていうのに)
立成は自嘲の念に駆られた。思わずこの場にそぐわない笑みがこぼれそうになってしまう。
必死に抑えながらも、立成は言葉を続けた。
「もし、試合の結果が残だったからって、お前のやってきたことが無くなるわけじゃないんだから」
筒井を抱きしめながら言っていた。背中をを支えてやりながらも擦ってやる。
あの時のように。
6月の蒸し暑さがある中での男同士の抱擁は、異性愛者としては少しきついところはあるはずだが、そんなことは全く思わなかった。
筒井は泣いてはいない。
それだけが安心だった。
きっと、大丈夫。そう信じるしかない。
梅雨の時期らしく、毎日雨の匂いが漂う日々が続いている。湿度が高い分、気温以上に暑さを感じ、不快な季節だ。
校内では中間試験の返却も終わり、そろそろ年度のイベントも見え始めた時期である。
新しい学友も出来始め、また新しい環境にも慣れた頃でもあり、一番楽しい時期なのかもしれない。
これからの学校生活に胸が高まり、期待に膨らみ始める。そんな時期だった。
しかし、そんな思いをするのはおそらく生徒たちだけだ。
教師たちは年度始めの忙しさが落ち着いた時期でもあり、これからのせわしないイベント続きの日々に備えて休める時期でもあった。
ある日の昼休み。
また校長に呼ばれたため、立成は校長室に立っていた。
「やあ、立成先生。またお忙しいところすまないね」
微笑む校長。皺が刻まれた目元に年齢が現れている。立成よりは背が低いものの、中肉中背の男で、妙齢の紳士といった印象だ。着ているスーツも、立成はよくわからないがきっと高価なものなのだろう。相変わらず室内は厳かな調度品に溢れていて、ここが本当に学校かどうかも怪しく思えてしまう。
「いえ、大丈夫です」
「再来週は高校総体があるよね。・・・もう、私が言いたいことはわかるかね?」
「え、えぇ。以前お話を伺ったことと同じこと・・・・ですよね?」
「そうです」
先月の始め。校長室に呼び出されて、校長本人から言われたこと。さすがに忘れることはなかった。
「かつて昔はベビーブームなんかで教室が足りない時代もありましたが、今や完全な少子化社会です。かつてはこの学校も1学年に10クラスもありました。今や6クラスにまで減っています」
「はぁ」
「それは仕方ないことです。日本全体の問題だ。我々教師の力ではどうしようもない。ただね、この学校に通ってくれる生徒たちには、少しでも良い思い出の学舎だったなと、そんな思いを持って外に羽ばたいてほしいのですよ」
「そ、そうですね」
「そのためにはね、やはり生徒たちの出会いというか、多くの人間と触れ合って、高め合い、そして成熟した精神を育んでもらいたい、そう私は願っているのです」
「は、はい」
「なのでね、立成先生。何度も言ってしまって恐縮だけれども、君の部活の生徒、えーと・・・筒井くん、だっけ?彼が今度の大会、これまで以上に期待しているよ」
「は、はぁ」
その後も校長の話は続いた。
さすが校長まで登り詰めただけあり、その会話術には感心するものがある。だがその一方、どうしても学校経営が根幹にある物言いにも感じ取られる。色々と言葉を変えて話してくるが、結局のところ、学校の評判のためにも、高校総体で結果を出してほしいと言っているだけなのだ。
立成は校長の老いた口許からこぼれる言葉を適度に受け止め、適度に聞き流しながらも、ありがたがっている表情を作り続けた時間だった。
「それでは、失礼しました」
室内に向かって礼をしながら引き扉を閉めた瞬間、肩を下げて息をしていた。
疲れた・・・
緊張もあるが、精神的に参ってしまった。
(結局、学校経営のための口出しじゃねーか。そんなんでこの長話・・・勘弁してくれよ・・・・)
心の中で毒づきながらも、職員室へ戻る廊下を歩く。
貴重な昼休みなのだ。せっかくの憩いの時間が台無しになってしまった。
今から昼食をとったとしても、それだけで休憩時間は終わってしまうだろう。
やれやれ・・・そんなに部活で頑張ってほしいなら休み時間を増やせよ・・・などと心の中で愚痴りながら歩いていたら、前方に見慣れた人影があった。
(あ、あれは・・・)
養護教師の吉沢が廊下を歩いていた。
後ろ姿だかわかる。白衣を着た女性だからだ。いや、白衣を着ていなくても、きっとわかっただろう。
少し姿を見ただけで、立成は胸の高鳴りを感じていた。
どうしたというのだ。
だが、見ただけで嬉しくなった。先ほどまで曇っていた立成の心が。スッと晴れ渡っていた。
唐突に、吉沢と話したくなった。彼女の笑顔を見たくなった。少しでも近くに行きたかった。
思わず声をかけたようとする。少しだけでもいいから、声が聞きたくなる。
しかし・・・
(どうしよう。どうしよう。俺なんかから話しかけていいのか・・・?もし、嫌な顔をされたら・・・吉沢先生ならそんなことしないか?でも、何を話せば良い?・・・くそっ、もういい!!)
自分は一体何を意識しているのだろうか。
彼女はただの職場の同僚なのだ。それ以上でも以下でもないのだ。そんな彼女に話しかけるのを、なぜ躊躇しているのだろうか。
立成自身が気づいていないが、それは、若人のような淡い恋心のようなものだった。
これまであまりにも女性との交流が無かった立成にとって、愛想よく誰にも優しく接する吉沢は、女性への免疫を付けるための良薬であるものの、あまりにも毒が強すぎた。立成は吉沢の毒気にやられてしまっていたのだった。
もっとも、32歳にもなって、少し会話を下だけの女性に対して思慕の情を持つこと自体がおかしいことではあるのだが・・・
そんなことに全く気付くこともなく、迷いながらもやっと決意した立成。
息を吸い込みむ。止める。渾身の勇気を出してその白衣の背中に声をかけ・・・
「あっ、吉沢センセ~!!」
馬鹿でかい声とともに馬鹿でかい男が唐突に表れた。
体育教師の角田だった。
(何であいつが。こんなタイミングで・・・!)
今日も上下ジャージ姿だ。屋外の授業でもあったのか、そのジャージには汗染みが浮かんですらいる。日焼けした顔にもうっすらと汗が浮かんでいる。そんな、精悍であると同時に、汗臭さも感じてしまう風貌だ。そんな格好であることも気にせず、凄みのある怖い顔を、だらしなく好色そうにニヤニヤさせながら吉沢に近づいてくる。
吉沢の方もそんな角田に対して嫌なそぶりを見せずに、走って角田の元に走っていった。
(何だ、何なんだ・・・)
何もしていないというのに、立成は何だか、より疲れてしまっていた。
職員室へと1人、しょんぼりと戻っていった。
その足取りは重い。
校長からの面倒な長話によろう疲労と、独り相撲ではあるが吉沢と話す機会を逸したことのショックで、牛歩戦術の国会議員のような遅さだった。
そのおかげか、立成が職員室の扉に手をかけたときには、午後の授業のチャイムが鳴っていた。
その日の放課後の部活動。弓道場にて。
部員の生徒が全員が集まっている中、彼らの前に立った立成が話している。
「・・・以上が今度の総体のオーダーだ。2年にとっては初めての、3年の筒井には最後の高校総体だ。あと2週間、気を引き締めて練習するように」
いつもよりかしこまった雰囲気の中、立成は団体戦のオーダーを発表していた。
弓道の団体戦。5人で1チームだ。
制限時間以内に1人4本、合計20本の矢をもち、その的中で順位を競う。
1番手である大前がが川崎。
一番最後の落が筒井。
これだけは変えられなかった。
大前はチームの流れを作る立ち順だ。
そして落。これはチームの大黒柱だ。
他の4人が外したとしても、当ててくれる。そんなことを期待される、期待しなくてはならない、そんなポジションだ。そんな精神的支柱となり得るのは、今の部員では筒井以外あり得ないのだ。
他の3人と補欠2人については、型の安定している者、的中の調子が良いもの、真剣に部活に取り組んでいる者を並べ、適宜交代させるつもりだ。
立ち順については、顧問だから一応、立成から発表した。
しかし、そのオーダーはほとんど決まっていたようなものだった。
筒井や2年の何人かの聞き取りもしたが、普段の部活動の様子を鑑みてもこれ以外にはないだろうというものだった。
立成の発表が終わり、ガヤガヤと騒ぎだす生徒たち。
いつもの部活動の雰囲気が戻っていた。
(あと2週間。頑張れよ)
立成は心の中でつぶやいた。
そして。
高校総体当日。
快晴に恵まれ、いかにも運動日和だ。
去年と同じ会場だ。
久しぶりの大きな弓道場だ。市の小さな弓道場とは大違いだ。
生徒たちは思い思いに過ごしている。
あと30分もすれば、団体戦のメンバーが控え室入りするのだ。
昨年は立成も赴任したばかり、それも未経験の部活の顧問だから、何もできなかった。
今回は顧問になって2年目だ。
経験の無いスポーツではあるものの、もう少し生徒たちの力になりたかった。
試合前の選手たちに、少し声をかけてやろうか。
立成は控え室という名の体育館に向かった。
立のメンバーはそれぞれ思い思いに過ごしていた。
巻き藁を射る者、目を瞑って集中している者、普段通りスマホを弄っている者、談笑している者・・・
それぞれの生徒に話をした。
大した話ではなかった。
今の気持ちはどうだ?、心配するな、何も死ぬ訳じゃないんだ、楽しんでやるんだ、・・・
そんな、ありふれた、ほんとうにありふれたことだけを話した。普段はふざけてばかりの生徒たちなさも、このときばかりはきちんと立成の話を聞いていた。
部員たちは思った以上に落ち着いているようだった。立成との会話もいつも通りだった。声も震えず、
なかなか図太い神経を持っているかのようだった。
だが、筒井が見つからなかった。
川崎に聞いても、どこかに行ったきり戻っていないと。
(大丈夫か、あいつ?)
立成は少しやきもきしながらも、体育館周辺を歩き回る。会場である弓道場の観客席も見て回る。見つからない。
どこに行ったのか。まだ時間はあるとはいえ、こんなスタンドプレーをする奴ではないはずだが・・・
どういうことだ。これだけ探しても見つからないってことは、
(もう、スマホで連絡するか?でも、あいつこのタイミングで持ち歩くかな・・・)
ほとんど諦めていた。
歩き回って疲れたのもある。
どこか、静かで人のいないところで一旦休もう。
そう思って手ごろな場所を見繕っていたところ・・・
「こんな所にいたのか」
筒井が1人、人影のない廊下で椅子に座っていた。
立成は息を荒くしながら筒井の横に座る。
筒井は何でもない、と言いたげな雰囲気だ。
「試合、緊張しているのか?やれることはやっただろ」
「そうだけどさ」
筒井はそれっきり無言になる。
立成の方を見ようともしない。
「去年のこと、思い出しちゃうんだよね」
「えっ・・・あっ」
そうだ。
1年前の高校総体。ここで、この会場で、筒井は調子を崩し、決勝では1本も中てられなかったのだ。
そして今いる場所。
非常階段の手前の薄暗く狭い廊下。
昨年の決勝戦が終わり、1人で筒井が泣いていた場所だ。立成はそんな筒井の背中を擦り、慰めていたことを思い出した。
立成は改めて筒井を見る。
明らかに顔色が悪い。よく見るとその身体が震えていた。
(こんなになるまで・・・)
プレッシャーもあるだろう。
だが、昨年の大会のトラウマが蘇ってしまったのか。
昨年の新人戦やその後の快進撃を見るに、とっくに克服したと思っていた。
だが、人間というものは、やはりそう簡単に打ち破ることができるものでもないのだ。
どうする・・・?
立成は考えた。
そして、考えた結果が思い浮かぶより先に身体が動いていた。
「えっ・・・」
「大丈夫だ、大丈夫だ」
筒井を抱きしめていた。
いつだったか、立成が筒井に後ろから抱き締められたように。
そして、昨年もこの場所で、筒井にかけた言葉と同じように囁く。
(こいつ、こんなに細いのか)
この半年、散々身体を重ねてしまっているというのに、立成は今更な感想を抱く。
身体を捧げてきた生徒の、その華奢さ。
そんなことを、こんな場面で感じてしまうなんて。
今、立成は、初めて自分から筒井の身体に絡みついた。
性的な欲求や目的などない、完全な庇護欲によるものだった。
自分の身体で感じたことで気づいてしまう。筒井がまだ、少年であるということ。高校生であるということ。
(そうだ。そんな当たり前の事、わかってなかったんだな、俺。高校教師だっていうのに)
立成は自嘲の念に駆られた。思わずこの場にそぐわない笑みがこぼれそうになってしまう。
必死に抑えながらも、立成は言葉を続けた。
「もし、試合の結果が残だったからって、お前のやってきたことが無くなるわけじゃないんだから」
筒井を抱きしめながら言っていた。背中をを支えてやりながらも擦ってやる。
あの時のように。
6月の蒸し暑さがある中での男同士の抱擁は、異性愛者としては少しきついところはあるはずだが、そんなことは全く思わなかった。
筒井は泣いてはいない。
それだけが安心だった。
きっと、大丈夫。そう信じるしかない。
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