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六、諜者の資格
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北条時政は眉根に皺を寄せ、険しい眼を庭の松の小枝の先に置いていた。
若宮(現在の鶴岡八幡宮)の南端を西に伸びる横大路が突き当たる所から、道は南に小町大路、北に金沢街道と分かれる。金沢街道は大蔵御所の南沿いに東に伸び、鎌倉最古の寺である杉本寺から十二所へと続く。その杉本寺から南に下った釈迦堂谷にある一町(約一一〇メートル)四方の時政の館は、初夏を迎えようとする陽光を余すところ無く受けていた。程よい陽の温みを体に感じながら、しかし時政は苦い薬でも飲んだような顔をしている。牧ノ方が母屋の座敷に入って来たのにも気付かず、時政はじっと松の小枝の先から眼を離さないでいた。
「何をそんなに難しく考えておられます」
その声に振り向いた時政は、牧ノ方を認めると組んでいた腕を解き庭から縁に上がった。
「女には解らぬことだ」
言いながら座敷の板間に入り、菅(すげ)の円座にどっかと胡坐(あぐら)を組んだ。六十を越したとはいえ、時政はまだまだ脂ぎった精力的な面構えをしている。その鋭い眼差しを、牧ノ方は女盛りの落ち着いたしなやかさで受け止めた。
「女ならばこそ解ることもありましょう」
口元に笑みを浮かべ、やんわりと諭(さと)すような口調だった。
「ふむ………」
「頼家はまだ子供です」
「何だ。察しておったのか」
「女の勘を侮(あなど)るものではありません」
「ほほう。怖いな」
「怖いですとも、女は。でも、私は政子ほどではありませんよ」
「それはどうかな」
「まあ、そんなこと仰(おっしゃ)って。試してご覧になります?」
「脅かすな。儂は板東武者だぞ。京育ちの頼朝殿とは違う。妻はお前一人でよい」
「ほほほ。怖い妻が何人もいれば、殿方は戦どころではありませんものね」
牧ノ方は時政の後妻である。政子の継母になるが、同い年ということもあってか最初から政子とは反りが合わない。
こういう事があった。
政子が頼家を産んだ直後のことである。牧ノ方が頼朝の浮気を政子に告げ、夫婦不和を煽(あお)った。牧ノ方としては、うろたえる政子を見て溜飲を下げたかっただけかも知れない。頼朝の浮気相手は土豪の良橋太郎入道の娘、亀ノ前という。慎ましい清楚な女性で、京の雅(みやび)を知る頼朝の好みであったらしい。しかも政子と結婚する以前に馴染みのあった女性で、政子が懐妊すると再び関係を持ったのだった。そのことが政子の怒りに火を着けた。
牧ノ方の思惑通り、夫婦喧嘩が始まった。ところが、この喧嘩は並の喧嘩ではなかった。怒り狂った政子は牧宗親(むねちか・牧ノ方の父)に命じ、亀ノ前を引き取っていた飯島(現在の鎌倉市材木座)の伏見広綱を襲わせたのである。屋敷を壊された広綱は、亀ノ前を連れ命からがら鐙摺(あぶずり・現在の葉山町)の大多和義久のところに逃げ込んだ。
頼朝も黙ってはいない。が、こちらの方の腹いせは政子にではなく、牧宗親に向けられた。呼びつけた宗親の髻(もとどり)を手ずから切って落としたのである。御家人を束ねる平氏追討の総大将としては何とも情けない限りだが、恐妻家の男としては他に怒りを持って行きようが無かったのだろう。
宗親は娘婿の北条時政に泣きついた。父親が恥辱を受けた、と牧ノ方も時政に訴える。時政は手勢を率いて伊豆の本領に戻り、一時は謀反かと騒然となった。息子の義時が鎌倉に残っていることが判明し、ひとまず事態は収まった。
それでも政子の怒りは鎮まらない。致し方なく頼朝は伏見広綱を遠江(とおとうみ・現在の静岡県西部)に配流した。夫婦喧嘩のとんだとばっちりである。
「育ちが違えば、ものの考え方も違う。政子は板東の子だ。都の風雅などとは無縁の、一本気なところがある。だが頼朝殿は妾を何人持とうが、それを当たり前のように思っている。一緒になれば苦労するのは眼に見えておったわ」
「だから結婚に反対なさったのですね」
「政子に押し切られてしまったがな。子が出来たのだ。仕方無かろう」
「でも、政子が御台所になったお陰で、今では幕府の筆頭。子であろうと利用出来るものは利用して、思うように働けばいいではありませんか」
「筆頭といっても、儂は無位無官だ。頼朝殿が亡くなり家督は頼家が継いだが、儂は外祖父以外の何者でもない」
時政は平家追討が成った後、京都守護職を務めた。だが、それも一年ほどの腰掛けだった。鎌倉に戻った時政は政所・侍所の別当(長官)にも頼朝直轄の関東御分国の国司にも任じられなかった。清和源氏の頼朝にしてみれば、桓武平氏の庶流である北条氏を重要な官職に就けるわけにはいかなかったのだ。それでも頼朝存命中は義父として、それなりに遇されていたからまだよかった。しかし、情勢が変わった。頼朝の死は、幕府内に生き残るための争いを御家人たちの間に生んだ。その淵に北条氏も立たされたのである。時政は焦らざるを得なくなった。
「政子はどうしています?」
「うむ。さすがに危機感は抱いておる。義時と今後の対応を相談しているようだ」
「仲の良い姉弟ですこと。二人して私の悪口でも申しているのでしょう」
少し口をすぼめ、険のある言い方で牧ノ方は言った。
「そう言うな。継母である以上、多少は気心の通わぬこともあるであろうが。問題は比企一族だ。頼家を取り込んでいるからな」
「血の繋がった孫ではないですか。こちらに顔を向けさせることくらい出来ましょうに」
「頼家は儂を祖父とは思っておらぬよ。時政、時政と呼び捨てにしおって。可愛げの無いやつだ」
頼家は比企の館で生まれ、乳母もそのほとんどが比企の者である。比企能員の娘若狭ノ局は頼家の妻となってさえいる。頼家は比企一族に育てられたと言っても過言ではない。頼家が北条氏より比企氏に親近感を抱くのは無理からぬことだった。
「血より濃い繋がりがあろうとは思いません。少なくとも私はそうです」
「頼家は比企の堅牢(けんろう)な砦に守られておる。比企を排除するのは生半(なまなか)ではないぞ。時期を見定めねばならん」
「他にも気になることがおありですの?」
「梶原が妙な動きをしておる」
「景時殿が、ですか」
「政所が発したあの下文(くだしぶみ)を知っておろう」
「頼家の側近は何をしてもお咎(とが)め無しという………」
「そうだ。あれを作ったのは景時だ。頼家の直談(じきだん)を止めて幕政を担う合議の一員でありながら、頼家にへつらおうとしておる。気に入られていた頼朝殿が亡くなったから、今度は頼家に取り入る肚(はら)なのだ。景時の妻は頼家の乳母の一人でもあるからな」
「何か打つ手は無いのですか」
「無いことも、無い」
「それは………」
「阿波を使う」
「阿波を? 政子の妹ですよ。こちらの言うことなど聞きましょうか」
「政子と違って、阿波は従順だ。北条家の命運が懸かっていると言えば、むしろ喜んで働くだろう。まずは梶原だな」
河野全成(こうのぜんじょう・義経の同母兄、幼名は今若丸)の妻である阿波ノ局は、頼家の弟実朝の乳母である。頼家を取り込めない時政は、次期将軍候補として実朝を担ぎ出そうとしていた。この頃からすでに北条時政と比企一族、実朝と一幡丸という対立の構図が出来つつあった。
「阿波だけでは心許(こころもと)ない気がします」
「もう一人が、すでに動いておる」
「誰です?」
「名は言えぬ」
「まあ。勿体(もったい)をつけること」
「手から水が漏れる、ということもあるからな」
牧ノ方が口に手を当て、上目遣いに笑いながら時政に言った。
「先ほど客人が見えましたが、その方かしら。持仏堂に待たせてありますが」
「何だ。もう来ておったのか。なぜそれを先に言わぬ」
「男振りのいい若侍でしたから、ついつい話し込んで。すぐに取り次ごうとは思ったのですけれど。そういうことなら、もっといろいろ聞けばよかった」
「名も聞いたのだろう」
「ええ。確か、中野………」
時政が言葉を遮(さえぎ)った。
「何だ。もうすでに水が漏れているではないか。他言は無用だぞ」
「今夜ご褒美がいただけるなら」
眼を流して言う牧ノ方に、時政は腹の下の内心を誤魔化すように言った。
「早く呼んで参れ」
「約束ですよ」
しなりとして立ち上がり去って行く若い妻に、時政は苦笑を向けた。
やがて、若い男が門の脇の持仏堂の陰から姿を現すのが眼の端に映った。時政の顔付きが、途端に厳しいものになる。
庭に放っている犬が吠え掛けた。その声に止まり木の鷹が羽を叩いて叫び、横に二、三歩跳ねた。
男はひと声「かっ!」と犬を威嚇(いかく)した。
犬は後退(あとじさ)りはしたが、吠えることは止めなかった。
男は縁先まで来ると、時政に目礼した。顎(あご)で上がるように促した時政は、男が円座に坐るや否(いな)や待ち兼ねたように口を開いた。
「どうだ、五郎。頼家は」
「三幡姫様の入内の準備に追われております」
頼朝の長女大姫は長く患(わずら)っていた。京から実全法印という修験者が遣わされ祈祷を行ったが効き目が無い。頼朝が後鳥羽上皇の後宮にするべく上洛させたが、その道中で大姫は亡くなった。法印が祈り殺したのではないか、と噂が立った。頼朝は大姫に続き次女の三幡姫を入内させようとしたが、今度は頼朝自身が亡くなった。その遺志を頼家は継ごうとしていたのである。
「心構えだけは見上げたものだが」
「と言いますと………」
「向こうがその気になるまい。なったとしても、いいようにあしらわれるか取り込まれる恐れがある。あの頼家ではな」
「合議制になされたというのも?」
「幕政を任せられると思うか、まだ尻の青い子供に」
頼朝亡き後、御家人たちは動揺していた。自己の利益を守るために力に任せた要求をする者の出て来ることが予想される。台頭する御家人の中には、従来の有力御家人の間に割り込もうと狙う者もいる。そういう御家人たちを抑え束ねるのは、若い頼家では無理だ。幕政の混乱は何としてでも避けねばならなかった。
反幕派公卿の中心人物である土御門通親の暗殺を謀ったとして、三人の左衛門尉が流罪に処せられた。この朝廷の処罰を受ける形で、頼家は三人の所職を改易した。だが、有力御家人たちはこの処分を逆手に取った。頼朝が行った政治は絶対に改変してはならないという「不易(ふえき)の法」を破ったという理由で、頼家の政務直談を停止したのである。
替わって十三人の宿老の合議制により裁定を下すことにした。十三人の宿老とは北条時政・義時父子、大江広元、三善康信、中原親能、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元、梶原景時、二階堂行政である。
これに激怒した頼家はすぐさま対抗策を打って出た。側近五名以外は特命が無い限り自分の前に出てはならない、またこの五名がいかなる狼藉を働こうとも敵対してはならない、という命令を下したのである。
「ですが………」
「何だ」
「言うなれば、合議制にしたというのも頼朝公の『不易の法』を破ったことになりはしないかと………」
むっとして、時政は五郎を睨んだ。
五郎は、今言った言葉を忘れたように首を巡らす。
「まあ、私にはどちらでもいいことですが」
一見ふてぶてしく見える態度だが、五郎に悪気は無い。実際、どちらでもいいことだった。五郎は頼家の側近だが、頼家に忠誠を尽くすつもりは無い。時政や他の宿老のことは頭の上の話で、命ぜられればそのように動くだけのことだ。五郎にとっては頼家も宿老も選ばれた人間たちで、自分とは住む世界が違う。選ばれた人間たちの悶着や右往左往は、傍目には面白い。だから頼家の身近に居ながら、時政の手とも足ともなれるのである。
時政は、渋い顔のままで言った。
「その方は儂の言う通りに動いておればよい。政務のことに口は挟むな」
「挟むつもりはありません。それなりの報酬さえ頂ければ」
「務めが終わればな」
「楽しみにしております」
時政にしたところで、合議制が頼家を抑え込む方便であることは百も承知なのだ。十三名の宿老の合議によって幕政の舵取りをすることは、頼家の母親である政子も承認している。ただ時政にとって大事なことは、この宿老たちの中で北条氏が生き残ることだった。そのためには、力のある者を追い落とす必要があった。
十三名の宿老は文治派官僚と武士団に大別される。時政は、武力を持たない官僚は頭から外していた。問題は武士団だ。誰もが頼朝と共に危地をくぐり抜けて来た戦友だったが、決して互いに仲が良いわけではない。ことに梶原景時は、その讒言癖(ざんげんへき)から皆に毛嫌いされている。また頼家を抑え込む合議の一員でありながら、頼家の権限を強化する政所下文を発してもいる。二股(ふたまた)を掛ける者は自らその身を裂くことになるだろう。景時を葬り去るのは案外容易(たやす)いかも知れない。だが一番の難敵は、安達盛長を含む比企一族だった。比企は頼朝・頼家二代にわたり、その後ろ楯になっている。時政は嫌でも神経質にならざるを得なかった。
「ところで、比企の者から眼は離してはおるまいな」
「はい。宗員(むねかず)も時員も今のところ、これといった動きはしておりません」
「二人とも比企能員の息子だ。能員が何か意図しているとすれば、必ず頼家を担ぎ出す」
「念には及びません」
「長経に気取られてはないだろうな。お前とは仲が良いそうだが。それに、細野は………」
五郎は可笑しくなって、口の端で笑いを堪えた。
「それほどご心配ならば、ご自分で彼らに問うてみればよろしいのでは」
「いや。その方を信じておらぬわけではない。どこから水が漏れるかも知れぬゆえ。現に………」
言い掛けて、時政は口を閉ざした。牧ノ方の顔が、一瞬眼の奥を掠めたのだ。
「小笠原長経は遊び仲間で、それ以上のものではありません。細野四郎は頼家様にくっつく金魚の糞みたいなもの。居るのやら居ないのやら」
頼家が特別な権限を与えたという近習五名のうち、中野五郎を時政は間諜に選んだ。
比企宗員・時員は問題外だ。細野四郎は頼家一辺倒の側近で、自分をひけらかしたり出過ぎたりすることはないが、生真面目過ぎる。まだまだ子供で使い勝手が悪い。小笠原長経は、父が頼朝直轄の関東御分国九ヶ国の一つ信濃を任されている。頼朝と同族の特別待遇を与えられた「御門葉」の一人だ。「御門葉」は何をするにも他者の目が向けられ目立ってしまう。中野五郎は信濃の国中野郷の領主であり、長経とも繋がりが深い。他の「御門葉」の御家人の動きを察知するには、打ってつけといえる。また遊興や女遊びに長けているだけに目先が利き、利に聡(さと)いところがある。何かと便利なのである。
「ならばよい」
時政は五郎を掴み切れないでいた。のらりくらりしてしるかと思うと、肝心なところは外さずに答える。何を考えているのかは解らないが、言いつけた仕事はきちんとこなす。まるで泥を相手にしているようだ、と時政は思っていた。ただ泥の中から差し出された手には、大なり小なり確かな重さの石が握られている。今のところ、そのほとんどは役に立たない。だが、そのうち光る石も転がり出るだろう。逆にこちらから刷り込んだ石を渡し、向こうに波紋を起こさせることも出来る。諜者とは石の運び役だ。人目につかず石さえ運べば人格は問わない。五郎はその役回りを愉しんでいるふうがあるが、そこから出ない内はいくら愉しんでもよいのである。
「少しお聞きしたいことがあるのですが」
五郎が、普段にない神妙な顔付きで時政に言った。
「女か」
「お分かりになりますか?」
「その方が聞きたいと言えば、女以外にあるまい」
「畏れ入ります。実は、安達景盛の舘に京の女が住み着いているのをご存知でしょうか」
「そうらしいな。白拍子だそうだが。何だ、懸想(けそう)したのか」
「面目ない」
「面目ない、という顔には見えんが」
「どうにかなりませんか」
「それも褒美の内か」
「出来れば」
「さて………」
時政は、しばらく眼を閉じて考えていた。
五郎はその間、所在なく時政の顔を眺めるしかなかっ。平家に押し付けられたお荷物だと思っていた頼朝のお陰で、時政はここまでのし上がって来たのだ。田舎武士の脂ぎった野心がそのまま顔に浮き出ている。
時政がようやく口を開いた。
「景盛のことだがな。こういう噂がある。耳を貸せ」
時政の囁いた話の内容は、にわかには信じ難いことだった。五郎はふううっと息を吐いた。脇の下からは汗が滴っている。
「頼家様はそのことを………」
「知らんだろう。持って行きようによっては、思わぬことになりそうだ。その方の欲しがっている褒美が手に入るかも知れん」
「なるほど。では、どのように計らいましょう」
「策はおいおい考える。下知(げじ)するまで待っておれ」
頷きながら、五郎は胸の奥に躍動し始める疼(うず)きを感じ取っていた。快感を伴う痺れが鼓動に合わせ脈打っている。あの景盛に思い知らせてやることが出来るのだ。期待通り難なくこなす才能も、望み通り何でも手に入れる力量も、決して及ばぬことがあるということを。
若宮(現在の鶴岡八幡宮)の南端を西に伸びる横大路が突き当たる所から、道は南に小町大路、北に金沢街道と分かれる。金沢街道は大蔵御所の南沿いに東に伸び、鎌倉最古の寺である杉本寺から十二所へと続く。その杉本寺から南に下った釈迦堂谷にある一町(約一一〇メートル)四方の時政の館は、初夏を迎えようとする陽光を余すところ無く受けていた。程よい陽の温みを体に感じながら、しかし時政は苦い薬でも飲んだような顔をしている。牧ノ方が母屋の座敷に入って来たのにも気付かず、時政はじっと松の小枝の先から眼を離さないでいた。
「何をそんなに難しく考えておられます」
その声に振り向いた時政は、牧ノ方を認めると組んでいた腕を解き庭から縁に上がった。
「女には解らぬことだ」
言いながら座敷の板間に入り、菅(すげ)の円座にどっかと胡坐(あぐら)を組んだ。六十を越したとはいえ、時政はまだまだ脂ぎった精力的な面構えをしている。その鋭い眼差しを、牧ノ方は女盛りの落ち着いたしなやかさで受け止めた。
「女ならばこそ解ることもありましょう」
口元に笑みを浮かべ、やんわりと諭(さと)すような口調だった。
「ふむ………」
「頼家はまだ子供です」
「何だ。察しておったのか」
「女の勘を侮(あなど)るものではありません」
「ほほう。怖いな」
「怖いですとも、女は。でも、私は政子ほどではありませんよ」
「それはどうかな」
「まあ、そんなこと仰(おっしゃ)って。試してご覧になります?」
「脅かすな。儂は板東武者だぞ。京育ちの頼朝殿とは違う。妻はお前一人でよい」
「ほほほ。怖い妻が何人もいれば、殿方は戦どころではありませんものね」
牧ノ方は時政の後妻である。政子の継母になるが、同い年ということもあってか最初から政子とは反りが合わない。
こういう事があった。
政子が頼家を産んだ直後のことである。牧ノ方が頼朝の浮気を政子に告げ、夫婦不和を煽(あお)った。牧ノ方としては、うろたえる政子を見て溜飲を下げたかっただけかも知れない。頼朝の浮気相手は土豪の良橋太郎入道の娘、亀ノ前という。慎ましい清楚な女性で、京の雅(みやび)を知る頼朝の好みであったらしい。しかも政子と結婚する以前に馴染みのあった女性で、政子が懐妊すると再び関係を持ったのだった。そのことが政子の怒りに火を着けた。
牧ノ方の思惑通り、夫婦喧嘩が始まった。ところが、この喧嘩は並の喧嘩ではなかった。怒り狂った政子は牧宗親(むねちか・牧ノ方の父)に命じ、亀ノ前を引き取っていた飯島(現在の鎌倉市材木座)の伏見広綱を襲わせたのである。屋敷を壊された広綱は、亀ノ前を連れ命からがら鐙摺(あぶずり・現在の葉山町)の大多和義久のところに逃げ込んだ。
頼朝も黙ってはいない。が、こちらの方の腹いせは政子にではなく、牧宗親に向けられた。呼びつけた宗親の髻(もとどり)を手ずから切って落としたのである。御家人を束ねる平氏追討の総大将としては何とも情けない限りだが、恐妻家の男としては他に怒りを持って行きようが無かったのだろう。
宗親は娘婿の北条時政に泣きついた。父親が恥辱を受けた、と牧ノ方も時政に訴える。時政は手勢を率いて伊豆の本領に戻り、一時は謀反かと騒然となった。息子の義時が鎌倉に残っていることが判明し、ひとまず事態は収まった。
それでも政子の怒りは鎮まらない。致し方なく頼朝は伏見広綱を遠江(とおとうみ・現在の静岡県西部)に配流した。夫婦喧嘩のとんだとばっちりである。
「育ちが違えば、ものの考え方も違う。政子は板東の子だ。都の風雅などとは無縁の、一本気なところがある。だが頼朝殿は妾を何人持とうが、それを当たり前のように思っている。一緒になれば苦労するのは眼に見えておったわ」
「だから結婚に反対なさったのですね」
「政子に押し切られてしまったがな。子が出来たのだ。仕方無かろう」
「でも、政子が御台所になったお陰で、今では幕府の筆頭。子であろうと利用出来るものは利用して、思うように働けばいいではありませんか」
「筆頭といっても、儂は無位無官だ。頼朝殿が亡くなり家督は頼家が継いだが、儂は外祖父以外の何者でもない」
時政は平家追討が成った後、京都守護職を務めた。だが、それも一年ほどの腰掛けだった。鎌倉に戻った時政は政所・侍所の別当(長官)にも頼朝直轄の関東御分国の国司にも任じられなかった。清和源氏の頼朝にしてみれば、桓武平氏の庶流である北条氏を重要な官職に就けるわけにはいかなかったのだ。それでも頼朝存命中は義父として、それなりに遇されていたからまだよかった。しかし、情勢が変わった。頼朝の死は、幕府内に生き残るための争いを御家人たちの間に生んだ。その淵に北条氏も立たされたのである。時政は焦らざるを得なくなった。
「政子はどうしています?」
「うむ。さすがに危機感は抱いておる。義時と今後の対応を相談しているようだ」
「仲の良い姉弟ですこと。二人して私の悪口でも申しているのでしょう」
少し口をすぼめ、険のある言い方で牧ノ方は言った。
「そう言うな。継母である以上、多少は気心の通わぬこともあるであろうが。問題は比企一族だ。頼家を取り込んでいるからな」
「血の繋がった孫ではないですか。こちらに顔を向けさせることくらい出来ましょうに」
「頼家は儂を祖父とは思っておらぬよ。時政、時政と呼び捨てにしおって。可愛げの無いやつだ」
頼家は比企の館で生まれ、乳母もそのほとんどが比企の者である。比企能員の娘若狭ノ局は頼家の妻となってさえいる。頼家は比企一族に育てられたと言っても過言ではない。頼家が北条氏より比企氏に親近感を抱くのは無理からぬことだった。
「血より濃い繋がりがあろうとは思いません。少なくとも私はそうです」
「頼家は比企の堅牢(けんろう)な砦に守られておる。比企を排除するのは生半(なまなか)ではないぞ。時期を見定めねばならん」
「他にも気になることがおありですの?」
「梶原が妙な動きをしておる」
「景時殿が、ですか」
「政所が発したあの下文(くだしぶみ)を知っておろう」
「頼家の側近は何をしてもお咎(とが)め無しという………」
「そうだ。あれを作ったのは景時だ。頼家の直談(じきだん)を止めて幕政を担う合議の一員でありながら、頼家にへつらおうとしておる。気に入られていた頼朝殿が亡くなったから、今度は頼家に取り入る肚(はら)なのだ。景時の妻は頼家の乳母の一人でもあるからな」
「何か打つ手は無いのですか」
「無いことも、無い」
「それは………」
「阿波を使う」
「阿波を? 政子の妹ですよ。こちらの言うことなど聞きましょうか」
「政子と違って、阿波は従順だ。北条家の命運が懸かっていると言えば、むしろ喜んで働くだろう。まずは梶原だな」
河野全成(こうのぜんじょう・義経の同母兄、幼名は今若丸)の妻である阿波ノ局は、頼家の弟実朝の乳母である。頼家を取り込めない時政は、次期将軍候補として実朝を担ぎ出そうとしていた。この頃からすでに北条時政と比企一族、実朝と一幡丸という対立の構図が出来つつあった。
「阿波だけでは心許(こころもと)ない気がします」
「もう一人が、すでに動いておる」
「誰です?」
「名は言えぬ」
「まあ。勿体(もったい)をつけること」
「手から水が漏れる、ということもあるからな」
牧ノ方が口に手を当て、上目遣いに笑いながら時政に言った。
「先ほど客人が見えましたが、その方かしら。持仏堂に待たせてありますが」
「何だ。もう来ておったのか。なぜそれを先に言わぬ」
「男振りのいい若侍でしたから、ついつい話し込んで。すぐに取り次ごうとは思ったのですけれど。そういうことなら、もっといろいろ聞けばよかった」
「名も聞いたのだろう」
「ええ。確か、中野………」
時政が言葉を遮(さえぎ)った。
「何だ。もうすでに水が漏れているではないか。他言は無用だぞ」
「今夜ご褒美がいただけるなら」
眼を流して言う牧ノ方に、時政は腹の下の内心を誤魔化すように言った。
「早く呼んで参れ」
「約束ですよ」
しなりとして立ち上がり去って行く若い妻に、時政は苦笑を向けた。
やがて、若い男が門の脇の持仏堂の陰から姿を現すのが眼の端に映った。時政の顔付きが、途端に厳しいものになる。
庭に放っている犬が吠え掛けた。その声に止まり木の鷹が羽を叩いて叫び、横に二、三歩跳ねた。
男はひと声「かっ!」と犬を威嚇(いかく)した。
犬は後退(あとじさ)りはしたが、吠えることは止めなかった。
男は縁先まで来ると、時政に目礼した。顎(あご)で上がるように促した時政は、男が円座に坐るや否(いな)や待ち兼ねたように口を開いた。
「どうだ、五郎。頼家は」
「三幡姫様の入内の準備に追われております」
頼朝の長女大姫は長く患(わずら)っていた。京から実全法印という修験者が遣わされ祈祷を行ったが効き目が無い。頼朝が後鳥羽上皇の後宮にするべく上洛させたが、その道中で大姫は亡くなった。法印が祈り殺したのではないか、と噂が立った。頼朝は大姫に続き次女の三幡姫を入内させようとしたが、今度は頼朝自身が亡くなった。その遺志を頼家は継ごうとしていたのである。
「心構えだけは見上げたものだが」
「と言いますと………」
「向こうがその気になるまい。なったとしても、いいようにあしらわれるか取り込まれる恐れがある。あの頼家ではな」
「合議制になされたというのも?」
「幕政を任せられると思うか、まだ尻の青い子供に」
頼朝亡き後、御家人たちは動揺していた。自己の利益を守るために力に任せた要求をする者の出て来ることが予想される。台頭する御家人の中には、従来の有力御家人の間に割り込もうと狙う者もいる。そういう御家人たちを抑え束ねるのは、若い頼家では無理だ。幕政の混乱は何としてでも避けねばならなかった。
反幕派公卿の中心人物である土御門通親の暗殺を謀ったとして、三人の左衛門尉が流罪に処せられた。この朝廷の処罰を受ける形で、頼家は三人の所職を改易した。だが、有力御家人たちはこの処分を逆手に取った。頼朝が行った政治は絶対に改変してはならないという「不易(ふえき)の法」を破ったという理由で、頼家の政務直談を停止したのである。
替わって十三人の宿老の合議制により裁定を下すことにした。十三人の宿老とは北条時政・義時父子、大江広元、三善康信、中原親能、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元、梶原景時、二階堂行政である。
これに激怒した頼家はすぐさま対抗策を打って出た。側近五名以外は特命が無い限り自分の前に出てはならない、またこの五名がいかなる狼藉を働こうとも敵対してはならない、という命令を下したのである。
「ですが………」
「何だ」
「言うなれば、合議制にしたというのも頼朝公の『不易の法』を破ったことになりはしないかと………」
むっとして、時政は五郎を睨んだ。
五郎は、今言った言葉を忘れたように首を巡らす。
「まあ、私にはどちらでもいいことですが」
一見ふてぶてしく見える態度だが、五郎に悪気は無い。実際、どちらでもいいことだった。五郎は頼家の側近だが、頼家に忠誠を尽くすつもりは無い。時政や他の宿老のことは頭の上の話で、命ぜられればそのように動くだけのことだ。五郎にとっては頼家も宿老も選ばれた人間たちで、自分とは住む世界が違う。選ばれた人間たちの悶着や右往左往は、傍目には面白い。だから頼家の身近に居ながら、時政の手とも足ともなれるのである。
時政は、渋い顔のままで言った。
「その方は儂の言う通りに動いておればよい。政務のことに口は挟むな」
「挟むつもりはありません。それなりの報酬さえ頂ければ」
「務めが終わればな」
「楽しみにしております」
時政にしたところで、合議制が頼家を抑え込む方便であることは百も承知なのだ。十三名の宿老の合議によって幕政の舵取りをすることは、頼家の母親である政子も承認している。ただ時政にとって大事なことは、この宿老たちの中で北条氏が生き残ることだった。そのためには、力のある者を追い落とす必要があった。
十三名の宿老は文治派官僚と武士団に大別される。時政は、武力を持たない官僚は頭から外していた。問題は武士団だ。誰もが頼朝と共に危地をくぐり抜けて来た戦友だったが、決して互いに仲が良いわけではない。ことに梶原景時は、その讒言癖(ざんげんへき)から皆に毛嫌いされている。また頼家を抑え込む合議の一員でありながら、頼家の権限を強化する政所下文を発してもいる。二股(ふたまた)を掛ける者は自らその身を裂くことになるだろう。景時を葬り去るのは案外容易(たやす)いかも知れない。だが一番の難敵は、安達盛長を含む比企一族だった。比企は頼朝・頼家二代にわたり、その後ろ楯になっている。時政は嫌でも神経質にならざるを得なかった。
「ところで、比企の者から眼は離してはおるまいな」
「はい。宗員(むねかず)も時員も今のところ、これといった動きはしておりません」
「二人とも比企能員の息子だ。能員が何か意図しているとすれば、必ず頼家を担ぎ出す」
「念には及びません」
「長経に気取られてはないだろうな。お前とは仲が良いそうだが。それに、細野は………」
五郎は可笑しくなって、口の端で笑いを堪えた。
「それほどご心配ならば、ご自分で彼らに問うてみればよろしいのでは」
「いや。その方を信じておらぬわけではない。どこから水が漏れるかも知れぬゆえ。現に………」
言い掛けて、時政は口を閉ざした。牧ノ方の顔が、一瞬眼の奥を掠めたのだ。
「小笠原長経は遊び仲間で、それ以上のものではありません。細野四郎は頼家様にくっつく金魚の糞みたいなもの。居るのやら居ないのやら」
頼家が特別な権限を与えたという近習五名のうち、中野五郎を時政は間諜に選んだ。
比企宗員・時員は問題外だ。細野四郎は頼家一辺倒の側近で、自分をひけらかしたり出過ぎたりすることはないが、生真面目過ぎる。まだまだ子供で使い勝手が悪い。小笠原長経は、父が頼朝直轄の関東御分国九ヶ国の一つ信濃を任されている。頼朝と同族の特別待遇を与えられた「御門葉」の一人だ。「御門葉」は何をするにも他者の目が向けられ目立ってしまう。中野五郎は信濃の国中野郷の領主であり、長経とも繋がりが深い。他の「御門葉」の御家人の動きを察知するには、打ってつけといえる。また遊興や女遊びに長けているだけに目先が利き、利に聡(さと)いところがある。何かと便利なのである。
「ならばよい」
時政は五郎を掴み切れないでいた。のらりくらりしてしるかと思うと、肝心なところは外さずに答える。何を考えているのかは解らないが、言いつけた仕事はきちんとこなす。まるで泥を相手にしているようだ、と時政は思っていた。ただ泥の中から差し出された手には、大なり小なり確かな重さの石が握られている。今のところ、そのほとんどは役に立たない。だが、そのうち光る石も転がり出るだろう。逆にこちらから刷り込んだ石を渡し、向こうに波紋を起こさせることも出来る。諜者とは石の運び役だ。人目につかず石さえ運べば人格は問わない。五郎はその役回りを愉しんでいるふうがあるが、そこから出ない内はいくら愉しんでもよいのである。
「少しお聞きしたいことがあるのですが」
五郎が、普段にない神妙な顔付きで時政に言った。
「女か」
「お分かりになりますか?」
「その方が聞きたいと言えば、女以外にあるまい」
「畏れ入ります。実は、安達景盛の舘に京の女が住み着いているのをご存知でしょうか」
「そうらしいな。白拍子だそうだが。何だ、懸想(けそう)したのか」
「面目ない」
「面目ない、という顔には見えんが」
「どうにかなりませんか」
「それも褒美の内か」
「出来れば」
「さて………」
時政は、しばらく眼を閉じて考えていた。
五郎はその間、所在なく時政の顔を眺めるしかなかっ。平家に押し付けられたお荷物だと思っていた頼朝のお陰で、時政はここまでのし上がって来たのだ。田舎武士の脂ぎった野心がそのまま顔に浮き出ている。
時政がようやく口を開いた。
「景盛のことだがな。こういう噂がある。耳を貸せ」
時政の囁いた話の内容は、にわかには信じ難いことだった。五郎はふううっと息を吐いた。脇の下からは汗が滴っている。
「頼家様はそのことを………」
「知らんだろう。持って行きようによっては、思わぬことになりそうだ。その方の欲しがっている褒美が手に入るかも知れん」
「なるほど。では、どのように計らいましょう」
「策はおいおい考える。下知(げじ)するまで待っておれ」
頷きながら、五郎は胸の奥に躍動し始める疼(うず)きを感じ取っていた。快感を伴う痺れが鼓動に合わせ脈打っている。あの景盛に思い知らせてやることが出来るのだ。期待通り難なくこなす才能も、望み通り何でも手に入れる力量も、決して及ばぬことがあるということを。
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