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十五、そらにたまゆら

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 高梨恭一の葬儀があってからしばらくは、陶子は心がどこかへ行ったみたいだった。
 誰彼となく優しく声を掛けてくれる。中原学校長始め兵頭先生や藤原先生、担当教科の先生たち、用務の竹崎さん、ゴールデン・ウィーク辺りから疎遠になっていたクラスメートたち………。それぞれが掛けてくれる言葉も気持ちも有り難かったが、どこか頭の上の方で鳴っている鐘の音のように聞こえた。
 夏休みも終わろうかという日、都築から連絡があり自宅で会うことになった。父や母には予(あらかじ)め断りを入れ、恭一の許婚であったことを考慮してのことだ。捜査に支障の無い範囲で、都築は恭一の行動や事件の背景などを語った。
「高梨グループが地域総合医療センター建設に絡んでたのは知ってるね」
「はい」
「その中心に前島亘がいたことも?」
「叔母から聞きました」
 千巻薫子の名を出した。
 当然、都築は知っていたようで「なるほど」と頷いた。
「高梨グループは多方面から準備を進めていたんだが、土地取得に関して問題が生じた。建設予定地の一区画を、ある企業がすでに購入していたんだ」
「高梨グループがセンター建設を知る前に、その会社は情報をキャッチして先手を打っていた、ということですか?」
「ああ」
「まともに交渉すると、相当厄介なことになる会社みたいですね」
「なかなか頭の回るお嬢さんだ。その通りだよ。『地面師』と呼ばれている連中だ」
「地面師?」
「平たく言えば土地泥棒だな。ニセの地主を作り上げ他人の土地を売買したり、その土地を担保に銀行から融資を受けたりする」
「それって詐欺じゃないですか。どうやって人の土地を手に入れたり出来るんです?」
 都築は解りやすく説明した。
 あちこちの法務局を回って、不動産の登記簿謄本を閲覧する。当然いろんな不動産屋やインターネットからも情報を掻き集めた上でだ。空き地や未使用の土地、抵当権は付いていない土地をしらみ潰しに調べ上げ、これはという土地があったら登記簿上の所有者の名義を別の人間の名義に移し替える。その手口はこうだ。
 登記所で登記簿閲覧を申し込むと、バインダーで綴じた登記簿原本を渡してくれる。そこから狙った一枚を抜き取り持ち帰る。登記の内容を偽造して登記印を捺す。もちろん印も偽造だ。そうして何気ない顔をして登記所で元に戻す。ただし、電算化されていない旧来の登記所でないといけない、と付け加えた。
 陶子はあきれた。高校生だから登記に詳しいわけでは無い。だが話を聞くだけで、ずさんな管理を突いたやり口だというのは理解出来る。
「でも、本当の所有者が気付くんじゃないですか?」
「気付きそうもない所有者を見つけ出すんだよ、連中は。気が付いたとしても、すでに転売されていたり抵当権が設定されていたりする。そうなったら元の地主は泣き寝入りするしかない」
「今回の場合は?」
「地主は遠方に暮らしている老人だった。しかも土地を相続したのは三十年も昔の話で、抵当権設定の無い更地(さらち)だ」
「それを誰に名義変更したんですか?」
「ホームレスだよ」
「ホームレスに?」
「誰でもいいってわけじゃない。前科があったらバレる。だけど金に困っているヤツはどこにでもいるだろ。一千万の報酬って聞けば、すぐに飛びつく」
「その人にお金渡してニセの地主に……」
「仕立て上げた。新しい地主、住民票、権利証、印鑑登録証、運転免許証。全部ニセもんだ。権利証なんて自治体ごとに形式はまちまちだし、偽造防止の細工も違う。おまけに時代によっては紙質が異なる。現在では流通していない紙だってある。ところが、連中はその当時のものを全て揃えてるんだ。黄ばみとかインクとかも偽造するんだから畏(おそ)れ入るよ」
「裁判所に訴えたらいいじゃないですか」
「ところが、だ。連中はすでに地主相手に裁判を起こしていたんだ」
「裁判を?」
 話があべこべだ。陶子は頭がこんがらがりそうになった。
「本物の地主になりすました替え玉を使うんだよ」
「ホームレスのニセ地主を?」
「ああ。替え玉の地主を訴えて自分たちに都合のいい判決を貰ってた。言わば、仲間同士で狂言裁判を演じたわけだ」
「どうしてそんなややこしいことを」
「判決があれば、土地の移転登記が出来るからだよ。雇ったニセ地主がボロを出さないとも限らないし、怖くなって逃げ出すかも知れない。だから二重三重に地固めをして、その土地を自分たちのものにしてたんだ。司法書士や弁護士、それに裁判所だって騙してしまう。頭のいいヤツらだよ」
 悪いことに使う頭の良さを、どうしていいことの方に使わないんだろう、と陶子は思う。そんな人間が世の中にいること自体、納得出来なかった。そのために苦しみに突き落とされ、悲しみに溺れそうになる人間がいる。現に死んだ人間だっているではないか。
 恭一のことが、ふと想われる。
 都築が言葉を続けた。
「連中はそうやって手に入れた土地を、最初は高く売り付けようとした」
 高梨グループが売却してくれるよう話を持ち込むと相当な高額を提示された。初期の段階で頓挫(とんざ)するわけにはいかない。前島自身が乗り込んで交渉した。ところがその企業は一種のダミー会社で、バックに少々怪しい団体が控えていた。前島は団体が提示したある条件を呑み、高梨宏和に無断で話を決めた。前島は買値にわずかの色を付けただけの金額で、その土地を購入したという。
「ある条件って、何だったんですか?」
「医療センター完成の際に、成功報酬として総利益の5%を支払うんだとさ」
「純利益の5%! ものすごい額になるんでしょう?」
「土地を売却するよりもな。それだけじゃない。その団体から高梨グループに役員を入れることも条件に盛り込まれていた」
「それって、その団体が高梨グループを乗っ取る可能性があるってことじゃないですか」
「だから高梨宏和は条件を反故(ほご)にし、契約を破棄するよう前島に指示したんだ。前島は法外な違約金を支払うより連中を利用すればいい、と押し切ろうとした。二人の軋轢(あつれき)は日増しに膨らんでいったそうだ。高梨恭一がこの話を聞いたのは去年の暮れ、帰省した折だ」
 歳が開けた正月に、陶子は恭一と初詣に出掛けている。あの頃すでに恭一は高梨グループの危機を感じていたのだ。その時は実朝の話ばかりで、恭一は一切そのことを口にしなかったが………。
「ところが、だ」
 都築はひと呼吸置いた。
 高校生の陶子にどこまで話していいか、ちょっと考えたのだ。だが、許婚の恭一が亡くなっている。恭一がどう関わっていたか、ある程度は陶子にも知らせておく必要はある。都築は言葉を継いだ。
「高梨グループの資金繰りが思うようにいかなくなった。前島の強引なやり方に銀行が融資を渋ったんだ。バブル崩壊後、銀行側は多大な融資には極力慎重になっている。いくら高梨グループとの取引が長いとはいえ、専務の前島の信用度はまだ低い。銀行側は直接、社長の高梨宏和と交渉させるよう求めて来た」
「恭一さんのお父様の会社、大変な状態だったんだ」
「外から見るのと内実とは大いに違う。そういうことはよくあるだろう?」
「ええ」
 確かに、ものの見方によって見えるものは百八十度違う。それは陶子自身がいろんなことを調べていく上で実感したことだ。
「銀行からの融資話が前島の手から離れた段階で、彼は高梨に見切りをつけた。どこに乗り換えたと思う?」
「そういうことは私には………」
「そりゃそうだろうな。高校生の知る話じゃない。でもな、ここが肝腎なんだ。この後、あんたの許婚が絡んで来るんだから」
「え?」
「あろうことか、その曰(いわ)く付きの団体だよ」
 陶子はまだ、都築の言おうとする意味が解らなかった。
「つまり、だ。前島はその団体と共同戦線を張ったんだ」
「そんなことしたら、高梨グループは………」
「下手すると最悪のコースをたどることになる」
「恭一さんのお父様は黙っていたわけでは無いんでしょ」
「もちろんだ。息の掛かった部下たちを集めて対策を練ろうとした。だけど、時すでに遅し。その部下たちもかなりの者が前島の傘下に引き抜かれている状態でね。このままだと、高梨グループは前島とその団体の思い通りにされかねない。そこで高梨はプロジェクトを中止し、銀行に融資を断ることにしたんだよ。前島もじっとしてはいない。臨時役員会を開いて高梨を社長の座から引き摺り下ろすよう画策した。高梨と前島の衝突は抜き差しならない所まで来ていたということだな」
「じゃあ、それを聞いた恭一さんは………」
「迅速に行動した。まず君のお父さん千巻慶造に会い、自分の方から君との婚約破棄を申し出た」
「恭一さんの方から?」
 意外な都築の言葉だった。
「ああ。君のお父さんは、力になるから婚約解消は考え直せ、と言った。が、彼は頑として今後一切千巻家との交わりを絶つと宣言したそうだ」
「なぜ………なぜなんですか?」
「君や君の家族を巻き込みたくなかったんだろう」
「そんな………」 
 そうだとすれば、自分は父に対して大変な誤解をしていたことになる。申し訳ない気持ちと同時に、だけど………と思う。なぜもっと強く恭一を説得してくれなかったのか。なぜ体を張って恭一を守ってやろうとしてくれなかったのか、と。
「その後の彼の行動を考えれば、それも頷ける」
「どんなことをしたんです、恭一さんは」
「その団体に乗り込んだ。と言っても、直接じゃない。まともに掛け合って話の通じる相手でないことぐらい誰だって解る」
「じゃあ………」
「SQLインジェクション」
「SQL………?」
「聞いたことは?」
「無いです」
「ハッキングは?」
「それなら知ってます。インターネットを通じてコンピューターに不正アクセスすることでしょ」
「ああ。『SQLインジェクション』は、そのハッキングの一種でね。『SQLインジェクション』というのはプログラム言語なんだが、不正な指令を送って情報を保存するデータベースを操作し書き換えるんだ」
「それを恭一さんが?」
「団体のマザー・コンピューターに侵入して改ざんした」
 何て大胆なことを、と陶子は驚いた。
「高梨恭一という男は、どうにも律儀な人間らしい。しかもソツが無い。高梨グループに関するものは全て消去し、おまけにウィルスまで仕掛けた。起動して操作した瞬間にマザーは不能になる。マザーにアクセスして来るパソコンはどれも感染し情報を消されてしまうウィルスだそうだ」
 陶子は言葉が出なかった。
「恐らく大学の友人の誰かにやり方を習ったんだろうが、プロ顔負けの腕だよ。相当高度な専門知識と技術が無けりゃ出来ることじゃない。彼の専攻は人文社会学科だろ。ハッキングに詳しくない筈だ。実際にやったハッカーは彼の友人だと俺は踏んでるがね」
「恭一さんが大学を辞めたのは、その友人や大学に迷惑を掛けないためなんですね」
 都築は頷いた。
「お陰で、団体は大損だ。これまでの取引記録、今後の予定取引、収支帳簿、秘密文書に至るまで一切がパー。付き合いのあったところの中にはウィルスに感染して損害請求までして来た」
「それはいつ頃のことなんですか?」
「火事があってすぐだ。父親が火事で亡くなった。彼は直感したんじゃないか。父親は殺されたんだと。それで急遽(きゅうきょ)実行を決めた。実際にはさまざまな青写真を描いていたと思う。中には穏便(おんびん)に軌道修正させる方法も考えていたんだろうが、父親の死が一番危険で、一番手っ取り早い方法を選ばせたわけだ」
「何も姿を消さなくったって」
「ああいう連中は情報網が発達していてね。どんな些細なことからでも情報を掴み、全国に発信出来る。どこから足がつくか解らない。実際、高梨恭一を拳銃で撃った男に君は会っているんだよ。覚えてるかな?」
「えっ? どこで?」
「鎌倉だ」
「鎌倉で?」
 頭の中で記憶のフィルターを巻き戻す。列車の中、鶴岡八幡宮、寿福寺、図書館………。観光客に成り済ましていれば、覚えている筈は無い。印象に残っているとすれば、八幡宮の境内で作業をしていた人だろうか。それとも舞殿の結婚式をビデオカメラで撮っていた撮影スタッフ? 小町通りの脇道で後ろから付いて来たオジさんたち? 寿福寺の脇で会った電力会社の人? 図書館でパソコンに向かっていた男の人………?
「君に声を掛けて来ただろ?」
「あの電力会社の!」
「他にもいる。至る所で君を監視していたヤツらがね。そういう連中なんだ。どこに紛れ込んでいるか解らない。だから、高梨恭一探しは連中と警察との競争だった」
「警察は私が恭一さんの居場所を知っていると」
「思ったよ」
「いつです?」
「学校で話が済んだ帰り際。ほら、俺が訊いたら『まだ許婚だ』って答えただろう」
「あれで?」
「こちらは二人が婚約解消したことは把握していた。なのに許婚だと強調する。絶対二人は線が繋がっていると、ピンと来た」
「じゃあ、私を尾行してた?」
「悪いけど、そうさせて貰った。尾行は鎌倉に行く前からしていたんだが。だけど、間に合わなかった。済まない」
 都築は頭を下げた。だが、救急車を待って応急処置をしながら搬送しても結果は同じだったろう。仕方の無いことだ。今では都築を責めるつもりも無い。
「それから、片山翠なんだが」
「見つかったんですか、彼女」
「ああ。彼女も団体が送り込んだ家政婦だったよ。高梨宏和の動向をチェックする目的でね」
「じゃあ、あの火事の晩のことは?」
「嘘だよ、高梨恭一が戻ってたなんて。一旦不審な点は無いと証言し、それを覆すことで信憑性(しんぴょうせい)を持たせる。ひょっとして彼が火を点けて父親を死なせた、なんてことが広まれば彼にプレッシャーを掛けることになる。彼が慌ててどこかに何か落とせば、彼に関する情報が飛び込んで来るかも知れない。あの件は今のところ未解決だ。他殺なのか自殺なのか、それとも単なる失火なのか。そのうち供述が進めば解るだろう」
 都築は、今回の事件で地域統合医療センターの竣工(しゅんこう)は遅れることになると言った。かなりの損害はあっただろうが、高梨グループは持ち直すだろうとも言った。団体と手を切らざるを得ないとしても、前島亘は強(したた)かな男だからと。
 都築が帰った後も、陶子は頭の中がスッキリしなかった。恭一のことを思う度に、恭一の残した言葉が頭から離れないのだ。
「実朝は死にたかったんだ………母も叔父も広元も、みんなそれを願ってたから………」
 実朝は死ぬ間際に「広元やある」と叫んだという。大江広元という名前が、妙に気になって仕方が無かった。


 吉本晃と松方沙耶は度々やって来た。とりとめの無い話をしながら、陶子の心の傷が早く癒えるよう気を遣ってくれている。夏休みの最後の日、二人は兵頭先生からのことづけを持って来た。
「ネズミ男が千巻にってよ」
 手紙を渡された。
「まだ言ってる。もう言わないでよ、兵頭先生をそんなふうに」
 受け取りながら、陶子は吉本晃をちょっと睨む。
「まあまあ」
「まあまあ、じゃないって」
「以後、気を付けます」
「本気?」
「ああ。千巻の機嫌が直るんなら」
「解った。はい、直った」
「そんなにすぐに直んのかよ」
 口を尖らせた吉本晃に、沙耶が横から言った。
「ヨッシーの人徳よ。ヨッシーのオトボケは誰でもほっとさせるから」
「それって、ひょっとして褒めてる?」
「褒めてるのよ。兵頭先生も言ってた」
「へえぇ。あのネズミ、いや、兵頭先生がぁ?」
「そうよ。吉本はああ見えて、なかなか人の心を掴むヤツだ。あいつのオトボケは世界を救う。我らが救世主だって」
「ふうん。なあんか嘘っぽいなぁ」
「本当よ。ああいうヤツが教室に一人居ると居ないとでは、授業の盛り上がり方が違う。しかも、オトボケが地だからいいって」
「それって、ひょっとしてケナしてるんじゃ………」
「人のためになる希少かつ貴重な存在じゃないの。立派に胸張んなさいよ」
「あんまり嬉しい気はしないけどな。まあ、いいか」
 陶子は本当に機嫌を直さなくっちゃと、吉本晃と松方沙耶の顔を見て思った。
 兵頭先生からの手紙の封を開けて読む。読み辛い、それこそネズミがチョロチョロ走ったような字だ。だが思いやりの籠もった内容に、陶子は胸の奥がジンとした。
 その手紙の後半部に大江広元のことが書いてあった。恭一の葬儀の時に、陶子が恭一の残した言葉が気に懸かると漏らしたのを耳に留め置いていたのだろう。

………大江広元の名を高梨が口にしていた、と言っていたな。広元に関しては歴史に詳しい千巻の方がよく知っているだろうと思う。しかし俺も気になっていたから、自分なりに調べてみた。
 大江広元は源頼朝が鎌倉に呼んで以来、一貫して幕府の存続を念頭に動いている。だから北条時政と組んだり、時政が政子・義時に追放されると二人と協調路線を取った。「和田の乱」では軍勢の召集や乱後の所領の訴訟に当たっている。文書に義時と共に連署したものが残っているから間違いない。「和田の乱」の残党が公暁の弟栄実を担ぎ出そうとした「栄実禅師の乱」や実朝の次の第四代将軍を朝廷側から出すという「政子と卿二位の密談」は、京都朝廷と深い繋がりを持つ広元が深く関わっている。また「実朝暗殺」の事後処理も義時と広元が当たった。「承久の乱」の時などは、有名な政子の演説後の宿老会議で京都進撃を進言し、それを義時が政子に伝えて幕府軍の作戦としている。つまり広元は、義時とツー・カーだったわけだ。
 そういう広元が幕府の実朝不要論を知らない筈が無い。知らなかったのは実朝自身で、彼は広元を反義時派の「切り札」として合議制に加えた。広元と義時が通じ合っているとは知らずに。
 お坊ちゃんだったんだ、実朝は。それでも鋭敏な実朝は、自分が殺されることを薄々感じ取っていたのだろう。母政子も叔父義時も、自分が死ぬことを望んでいる。ひょっとしたら幕府長老である広元もそうかも知れない、と。
 血の繋がる人間も自分の信じる人間も、周りのみんなが自分の死を望んでいるとしたら、そんな中に置かれた人間の誰が生きたいと思える?
 実朝は自分の中に、自らの死を望む自分自身を見つけたのかも知れない。しかし、自分を信じた広元を最後まで信じようという気持ちだけは捨てることが出来なかった。信じる心を失えば自分自身でなくなる。広元を信じることが実朝のすがれる一縷(いちる)の糸だった。広元を疑う心と、それでもなお広元を信じたい心が実朝の胸の中でせめぎ合っていた。だから殺される時、「広元やある」と叫んだのじゃないのか?
 甘いと言えば甘い。しかし、それが歌人である実朝の実体だと思う。信じる人がいなければ生きてはいけない。信じる心が無ければ歌など歌えはしない。
 高梨は自身を実朝と重ねていたのだと思う。俺たちには知り得ない状況に高梨は置かれていたんだろう。あいつのやったことは褒められることじゃないかも知れない。だが、あいつは見境なく行動するヤツじゃない。それ相応の理由があった筈だ。実朝の純真な歌に惹かれた気持ちも、今となっては解る気がする。
 だけどな、千巻。お前だけがこの世で繋がり得る、信じることが出来た人間だったんだ。あいつの最後の歌をもう一度読んでみろ。高梨恭一という人間の、お前への想いが一杯に詰まった歌じゃないか。「たまゆら」とは勾玉(まがたま)同士が触れ合ってたてる微かな音のことだ。そこから「ほんのしばしの間」という意味で使われる。ほんのわずかな間でも二つの心が触れ合い、微かな音を響き合わせて生きてゆく。それがあいつの願いだったんだ。

 陶子は涙を堪えることが出来なかった。自分は自分の気持ちばかりで、あまりにも恭一のことを知らなさ過ぎた。もっと恭一の悩みや苦しみを分かち合える自分であったなら、恭一も違う生き方が出来たに違いない。そう思うと、一層悲しく辛い。もう恭一は戻って来ないのだ。けれども、恭一の残してくれたものが沢山ある。それは誰も持ち得ない自分だけの宝だ。その宝は大切に持ち続けなければならない。なぜなら、自分は恭一と一緒に生きていくべき人間なのだから。
「あーあ。ネズ……いや兵頭先生、また生徒泣かしちゃった」
 吉本晃の努めて明るく跳ねる声が頭の上でした。
「生徒イジメはオレの趣味なんだ、ヒャッヒャッヒャッ」
 兵頭先生の声色(こわいろ)で言う。
「ううん。これで最後。泣くのは、ね」
「そうよ。今だけ一生分、泣いたらいい。だって、私のライバルが泣き虫じゃ勝負になんないもの」
 松方沙耶の声も、少し鼻に掛かっている。
「もう、大丈夫。私、負けない。うん、大丈夫」
 陶子は自分に言い聞かせるように、朗らかに言い切った。
 そうだ。恭一さんに報告しなくっちゃ。私、ひとりじゃないからね。楽しい友だちも優しい先生も、いっぱいいっぱい仲間がいるんだって。

 陶子が大学進学のために長野を発つ日が来た。
 母と薫子叔母、兵頭先生、松方沙耶、吉本晃が駅に見送りに来てくれた。案外さっぱりとした気持ちで、みんなの顔を見ることが出来た。それぞれが心の中に抱いている思いを、表に出さなかったからかも知れない。そうだとも、別れじゃないんだ。出発なんだ。だから、胸の詰まる涙は要らない。
 列車がホームを静かに滑り出す。陶子はシートを少し倒し、背を傾けた。心地よい疾走感が恭一のいる場所へ真っ直ぐ運んでくれているような気がする。
 実朝は死にたかったんだ。母も叔父も広元も、それを願っていた………。そう恭一は言った。
 恭一は実朝と自身を重ねていたのだろうか。恭一も実朝のように、死を望んでいたのだろうか。恭一の行動を振り返ると、死を覚悟していたようにも思える。そこまで恭一を追い込んだのは、父親の死だけではないような気がする。もしかしたら継母の佐和子や叔父の前島亘と上手くいっていなかったのかも知れない。けれども今となっては、そんなことはもうどうでもいい。恭一は決して実朝なんかじゃない。自分の中の恭一は、恭一以外の誰でも無いのだから。
 陶子は静かに眼を閉じた。そうして恭一が送ってくれた最後の歌を、小さく口に乗せてみた。

往く果ての空にたまゆら
  信濃路を想ふ心や見せむ恋風

 これから向かう見知らぬ町の空に、恋風が爽やかに吹いている。触れ合う心を微かな音に乗せて───そんな光景が見えるような気がした。

       ── 完 ──
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