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十一、元重と八尋

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 正月を迎えると、洛中は松拍(まつばやし)で賑やかになる。毎年松の内は声聞師(しょうもんじ)が、新年を寿(ことほ)ぐ祝言を述べ歌舞を演じながら町々を回って来るのである。烏帽子(えぼし)・水干(すいかん)姿で、羯鼓(かっこ・腰に縛り付けて叩く小型の太鼓)・太鼓・鉦(かね)を打ち鳴らし笛を吹く。福寿録などのめでたい曲に合わせ、童形(どうぎょう)の者が花の枝を手にして舞い踊る。声聞師たちは仙洞御所や伏見宮、室町第、公家の邸に参上しては松拍や猿楽を演じるのが常だったが、町に繰り出せば大人も子供も駆け寄って来て、一層正月らしさが盛り上がる。松拍は都の正月の風物詩となっていた。近頃では町内ごとに女房たちが寄り集まり、松拍を演ずるようになった。華やかに仮装した女たちの松拍は評判を呼び、「女松拍」として瞬く間に流行した。
 年の暮れに幕府の出した命により、この年永享九年(一四三七年)正月二日、三条町の女房衆が室町第で松拍を行い、「桂女(かつらめ)の風流」の芸と評される。十一日には錦小路・六角町の六座・四条町の、十四日には六角町糸座・紺座・生魚座の女房たちが室町第で「風流」の限りを尽くして松拍を披露し、将軍や内裏の人々の眼を愉しませた。十四日夜は、式日として観世大夫元重も猿楽を十番演じている。
 松の内が明けると、町は急に静かになる。しんと冷え込む夜の寒さを辛抱しながら、明ける春を待つ。やがて立春を過ぎれば一日ごとに大気が柔らかさを含み、梅の蕾も膨らみ始める。
 節分を越し芽吹きの予感が感じられる二月八日、元重は室町第に赴いた。
 取り次いだ赤松貞村が、元重を座敷まで導いた。
「今日は将軍の機嫌が悪い。どうかな、出直しては」
 貞村は必要以上に元重の傍らにすり寄って歩く。賞玩(しょうがん)するような粘着質の貞村の視線から逃れたい気持ちを押し殺し、元重は頭を振った。
「いえ。今日の内に義教様に申し上げねばならないことがございます」
「何なら機嫌の治まった頃合いに、私の口から申し上げてもよい。義教公は私の言うことなら黙って受け入れてくれる。少し茶でも飲むことに致そう。遠慮は要らん」
 貞村は義教と男色関係にある近習である。それをいいことに横柄な態度を取ることが多く、幕府内では扱いにくい男だという風評が立っていた。以前から色目を使って来ることは感じていたが、元重は取り合わなかった。
「お気遣いは有り難いのですが、直接義教様にお会いしなければなりません。後でお叱りを受けるのは眼に見えておりますから」
「そうか。ならば仕方が無い。またいずれ、お相手願うとしよう」
 貞村は元重を座敷に案内すると、名残惜しそうに奥に消えた。
 やがて現れた義教の顔を見るなり、元重は緊張を強いられた。義教の機嫌が悪い時は、決まって顔色が普段より白い。おまけに眼が中央に寄り気味になる。元重は慎重に言葉を選んだ。
「明日の猿楽能披露の準備が整いました」
「………」
 義教は元重を見下ろしたまま、何も言わなかった。
 元重は、脇に冷たい汗が滲み出るのを覚えた。
「正親町(おおぎまち)のお邸にはいつごろ渡御(とぎょ)なされますか」
 義教の無言が続く。
 元重は言葉に窮した。何を言おうと冷たい視線が返って来るだけのような気がする。部屋の空気が凍りついたまま、しばらく経った。元重は呼吸するさえ許されないのではないか、という思いにとらわれ始めた。
「明日は何日だ」
 いつもより声の調子が一段高い。口元には笑みを浮かべているが、口辺の筋肉が笑みを形作っているに過ぎない。錆びた鉄で作られたような笑みは、怒りの裏返しだということを元重は知っている。震える声を懸命に抑え、元重は答えた。
「九日です」
「何の日だ」
「正親町三条実雅(さねまさ)様のお邸で恒例の………」
「何の日だ、と訊いている!」
 元重の言葉を、義教は頭から叩き潰した。引き攣った笑みが、義教の顔に氷となって張り付いている。
 元重は心臓が跳ね上がり、思わずひれ伏した。
「はい。義教様のご嫡男千也茶丸様のお生まれになられた日でございます」
「そうだ。千也茶丸はいつ生まれた。年月日を正確に答えてみよ」
「はい。三年前の永享六年二月九日でございます」
「その日は千也茶丸誕生を祝って、毎年三条実雅が私邸に招いてくれる。そうして元重、お前が猿楽を演じてくれる。そうだったな」
 有無を言わさない、鉄柱を相手の腹に突き通すような口調だ。
 元重はうな垂れるように頷いた。
 足利将軍家は代々、日野家から正室を迎える。義教が将軍となった時、慣例に習い日野重光の娘宗子(むねこ)を妻とした。二人の間に子は授からなかった。宗子には義資(よしすけ)という兄がいるが、将軍の義兄であることを笠に着て権力を振りかざす言動があった。厳格な義教はこれを許さず、義資を罰し謹慎させていた。側室としていた宗子の妹重子(しげこ)が懐妊し、男子が誕生した。それが千也茶丸(後の義勝)である。千也茶丸誕生を祝うため、九条前関白や西園寺などの廷臣、諸将、僧徒らが義資の邸を訪れた。義資がこれを機に政界に返り咲くだろうと見越してのことだ。ところが、義教は訪問した者たちを厳罰に処した。義資が権力を握っているわけではない。いかに身内であろうと厳正に一線を画す。それが義教の考えだった。処罰された者の数は六十名余り。中には義教の怒りを恐れて逐電(ちくでん)した者さえいる。義教は宮廷内の日野勢力を粛清し、一掃しようと図った。宗子を廃し、権(ごん)中納言三条実雅の娘を正室に迎えることにする。実雅にすれば願っても無い喜ばしいことで、毎年二月九日には千也茶丸生誕地の祝賀の宴を開いているのである。
「だが、お前は去年の猿楽には出なかった」
「畏れながら………」
 元重は深く頭を下げ、詫びようとした。
 だが、義教は一喝した。
「申し開きを聞く耳は持たん! 病気であろうが親の死に目であろうが、だ!」
 義教の瞳がぎゅっと縮まり、一点を凝らして元重を刺している。元重は震え上がった。
「お前にはがっかりだ。目を掛けてやっているのに、その恩義を忘れるか! 犬畜生にも劣るは!」
「も、申し訳ございません」
 元重はひたすら許しを請うた。縮み上がった腹には恐れしか無い。義教の機嫌を取る術(すべ)も持たない。己の是を主張し、非を悔い改める。そんな当たり前のことが義教の前では出来なかった。
 今年に入って、義教の感情の起伏は激しい。正月四日、声聞師の子犬党が室町第を訪れ松拍披露に及ぼうとした。だが、機嫌の悪い義教の命で門番に打ち叩かれ、追い出されている。ところが女松拍が参上した時には、ことのほか上機嫌だった。元重も猿楽能を演じたが、義教は終始にこやかだった。日によって著しく変わる義教に、周囲は鋭利な刃物に触れるように神経をすり減らしている。
「お前の顔は見とうない。明日は正親町に参上するには及ばぬ!」
 そう言うと義教は立ち上がり、元重を残しさっさと退出してしまった。
 翌日、正親町三条邸では実雅が元重の赦免を願い上げたが、義教は首を縦に振らなかった。致し方なく、その日は猿楽無しの宴となった。
 元重は自宅に引き籠もり、頭を抱えていた。将軍義教に見放されれば、元重は確実に潰される。せっかく手にした観世大夫の地位を失うことになる。いや、元重自身だけではない。観世そのものが、この世から抹殺されかねないのだ。父とも言うべき世阿弥は佐渡に流され、弟とも言うべき元雅はすでにこの世に無い。元能も出家した。観世正統の血筋は絶えたと言っていい。世阿弥や元雅たちを追い込んだのは義教であり、元重自身だ。だが自分は観世を一身に背負って来たという自負が、元重にはある。観世をここで潰すわけにはいかない。しかし、それも将軍義教次第なのだ。今や観世は、存続の危機に立たされている。元重は答えの出ない問いをいく度もいく度も胸の内で繰り返しながら、無為に時を過ごしていた。
 数日後、思わぬ人物から呼び出しが掛かった。怪訝に思いながら、元重は西洞院二条のその邸に出向いた。
 出迎えたのは異様に背の低い小男だった。赤ら顔をくしゃくしゃにして、男は元重に笑い掛けた。
「一度ゆっくりと会ってみたいと思っておった」
「突然のことで面食らっております」
「義教公の逆鱗に触れたと聞いたが」
「はい。私の気が及びませんでした」
「いくら気が及んだとしても、義教公の気紛れには付いて行けん。儂もさんざん酷い目に合った。気を揉んでみても始まらんと思っておいた方がよい」
 赤松満祐は小柄な体を反らし、かっかっと笑い声を上げた。
「何、義教公の機嫌の波の原因は分かっておる。将軍就任以来進めておった九州制圧が、抜擢(ばってき)した大内持世によりこの正月に平定がなった。それはいいのだが、鎌倉の方が思わしくないのだ」
 昨年信濃で紛争が起きた。守護と国人が対立、国人側の支援要請に応え鎌倉公方足利持氏は援軍を出そうとした。信濃は幕府直轄領である。鎌倉府管轄外の信濃に出兵することは、幕府と事を荒立てることになる。執事の関東管領上杉憲実(のりざね)は持氏を制止した。これまで何とか幕府との折り合いに奔走して来た憲実と、将軍義教に歯向かって来た持氏との確執が表面化し、鎌倉府内は両派に分裂する危機的情況に陥っている。
「公方殿が上杉を討伐するのではないか、という風聞が立っていてな。それで義教公は神経を尖らしているというわけだ。観世大夫も、とんだとばっちりを食ったものだな」
「そうでしたか。しかしながら私は去年、正親町の宴席で猿楽能を演じませんでした。義教様にしてみれば、理由はどうあれ許し難いことに違いありません」
 元重がこの一年叱責を受けなかったのは、義教が許していたからではない。元重のことより、政(まつりごと)に専念しなければならなかったのだ。実際、元重が将軍の前で披露した猿楽能の回数は極端に減っていた。義教が何も言わないからと、安易に過ごして来た自分の迂闊さが悔やまれる。
「そう落ち込むことは無い。どうだな、観世大夫殿。この満祐に任せんか」
「お取り成しをして下さるのですか」
「儂は義教公に嫌われておる。まともに願い上げても足蹴(あしげ)にされるのが落ちだ」
「何かお考えが………」
「無くも無い」
 満祐は決して好感の持てる男ではなかった。そのだみ声を聞いていると、ギラギラと脂ぎった思念を感じる。しかし、今の元重には他にすがる相手がいなかった。
「是非にお願い申し上げます」
「赤松は代々歌舞が好きでな。足利義満公がまだ幼少の頃、播磨にお呼びして松拍をご覧に入れたこともある。儂も松拍や猿楽は見ていて楽しい。この件が上手くいけば、今後とも観世大夫殿とは親密に付き合いたいと思っている」
「願ってもないことです。赤松様のお力でよろしくお計らい下さいますよう」
「期待され過ぎても困るが、何もせず日を送るよりはましだろう」
 赤松家を辞した元重は、一日千秋の思いで吉報を待った。
 満祐からの使者が来たのは、それからわずかな日を経た午後のことだった。「十六日、将軍渡御あり。猿楽を上演されたし」という返事である。
 元重は小躍りして喜んだ。今度こそ失敗は許されない。わずかに残された日を稽古に打ち込み、十六日の上演に備えた。
 当日、満祐に礼を述べた。演ずるのは元重だけではないと知らされた。満祐は元重赦免を約したが、そのためには将軍義教の歓心を得る必要がある。毛嫌いされている満祐が赦免を申し入れても、義教が素直に首を縦に振る筈が無い。そこで義教の気に入りそうな芸人を集め、気分をよくしたところで元重の復帰願いをしようと図ったのだ。
 元重は共演者それぞれの部屋を訪れ、挨拶伺いをした。遊芸人藤寿、手鞠師石阿、名は告げられなかったがもう一人猿楽師がいる。
 藤寿と石阿は去年の一月に室町第で芸を披露している。その時、元重も猿楽能を演じたから二人の顔は見知っていた。藤寿は気さくな七十余歳の老人で若い元重に気を遣わせない。常にほっほっと笑い、とぼけるのが巧みな好々爺である。四十がらみの石阿は無口な男で、眼でものを語るところがあった。人を寄せ付けない雰囲気があるが、それは内気な性格を保護するための装いだと、接していれば自ずと知れる。言葉は少ないが、一緒に居て居心地が悪い男ではない。元重は、もう一人の猿楽師の部屋に声を掛けた。
「失礼致します」
「お入り下さい」
 返って来た女の声に、元重はちょっと驚いた。戸惑いながら中に入ると、二十四、五の若い女が手鏡を側に置いて振り向いたところだった。
「お初にお目に掛かります。私は観世三郎………」
「元重様ですね。お会いするのは初めてではありません」
「は?」
「二年半前になるでしょうか。室町御所で猿楽能を披露した後、元重様の芸を見させて頂きました」
「それでは、あの時の女猿楽の………」
「八尋と申します」
 八尋が両手を揃えて深く一礼をした。慌てて元重も頭を下げた。
「赤松様からお話を伺いました。観世は今、大変なようですね」
 元重は「今の世の最一の上手、神変不思議の達者」と言われている。猿楽能の第一人者であるその元重に、同じ猿楽を演じる者を下に見る気持ちが無いわけではない。しかもそれが自分より十も歳下の若い女であれば、軽んじるのは尚更だろう。しかし窮地に立たされている元重には、すがれるものは藁(わら)であろうともすがりたい。どうあっても観世の復活を為し得なければならないのだ。元重は素直に頭を下げた。
「面目ないことです」
「女だてらに顔を出すのは気が引けるのですが、及ばずながらお力の一助にでもなればと」
「八尋殿はどこで猿楽を修得されました」
「どこだとお思いになります?」
 悪戯っぽい眼を向ける八尋は、元重の言葉を掌の上に乗せて遊んででもいるように言った。嫌味はない。元重は心地よいくすぐったささえ覚えた。
「確か西国の出だと聞きましたが………。田舎じみた芸ではなかった」
「事情があって伏せてはいましたが、本当は西国ではないのです。田舎は田舎ですけれど」
 八尋は、ふふっと笑った。
「それにしても、猿楽能の本道をしっかり踏まえていた。あれほどの猿楽能は生半可な指導では身に付かないが………」
「お分かりになりません?」
「越前や摂津ではないが、近江の匂いを感じた。ですが、大和猿楽の色が濃いように思いましたが」
「さすがに観世大夫ですね。そう、大和の奥の田舎です」
「大和の奥………」
 元重は、はっと息を呑んだ。
「まさか」
「はい。越智観世、と呼ばれています」
「では、元雅の妻女殿か」
 八尋はにこりと笑った。
 元重は深い吐息を洩らした。
「そうでしたか。元雅には気の毒なことをした。観世大夫を私が………」
「それは仰らないで下さい。時の流れです。元雅様が天川に来られたからこそ、私たちは夫婦になれたのですから」
「しかし、元雅は伊勢で客死したと耳にした。志を遂げないまま果てる無念は晴らしようが無い」
「元重様、あなた様がおいでになります。金春大夫貫氏様もご活躍なされています。世阿弥様もいつかはお戻りになられるでしょう。私は私で元雅様の遺志を継ぐつもりです。観世は死んだわけではありません。それぞれが精進を続けていれば、いずれは共に本流の流れに戻ると思っています。ですから、今ここで観世が絶えてしまっては困るのです。私が赤松様に呼ばれ猿楽能を演ずるのも、元重様のためだけではありません」
 本来なら恨まれても仕方がないところだ。だが、八尋は自分の背負わされた悲運を私怨としていない。微力ながらでも、猿楽能大成という夢を追い続けようとしている。八尋の向こうに元雅が、そうして世阿弥がいる。元重は、そう思った。
「元重様は観世の大夫です。将軍様がいかに偉くとも、猿楽能の道を究める者として一歩も引けを取るものではない筈でしょう?」
 そうだ。その通りだ。将軍に媚(こび)を売ってはならない。媚を売れば、芸は卑しくなる。その瞬間に芸は光を失う。今日の舞台の一瞬一瞬に、観世の、今後の猿楽能の真価が問われているのだ。そのことを、元重は名も知られていない若い女猿楽師に教えられた思いがした。元重は真っすぐに八尋を見た。八尋は優しい眼で元重の眼差しを包んだ。

 最初に舞台に立ったのは、石阿である。
 石阿は一礼して立ち上がると、手鞠を掲げ右手の人差し指の上に立てた。手鞠を回転させ重心を捉えれば手鞠は立つ。だが、石阿の手鞠は回っていなかった。右手の指先の上に乗った手鞠は、ゆっくりと頭上に持ち上げられる。直立する石阿の伸ばされた右腕の先に立った手鞠は、今度は腕に沿って降り始めた。腕を微妙に倒しながら滑らせているのである。
 前屈(かが)みになった石阿の体は柳のようにしなり、波のように静かにうねる。その波の上を手鞠は意思を持ったもののごとく、腕から肩に、肩から首の裏を渡り、左腕へと移動した。左腕に渡った手鞠は勢いをつけ、左手の背を走る。と、ひょいと人差し指の頂点に駆け昇る。そうして左腕が真っ直ぐに天を指差すにつれ、速度をゆるめて指先に立った。手鞠は、今度は左手からそろそろと降りて来て、再び体の波の上をゆっくりと左腕、首を渡って移動し右手に収まった。
 見事な芸だった。義教も実雅も、居並ぶ者は息を詰め、石阿と手鞠の動きを見ている。
 石阿が腰に差していた一尺ほどの棒を取り出した。棒の上を手鞠が渡る。手鞠が棒の先に立つ。棒を回転させながら手鞠を操ると、手鞠は棒の上に下にと自在に動く。手鞠と棒が一体となり、まるで二つが密着しているように見えるのである。そのうち、もう一本棒が加わった。一つ増えると途端に石阿の動きが激しくなる。手鞠は棒を中心に糸を張ったように空中を舞う。さらに、懐から出したもう一つの手鞠が動きを複雑にした。二本の棒と二つの手鞠が躍動感溢れる舞を舞わせている。見る者は眼を奪われた。
 石阿は一反演技を置き、棒を納めて手鞠を三つ手にした。手鞠が一つ宙に放り上げられる。降りて来る間に二つ目、三つ目の手鞠が宙に舞う。三つの手鞠が円を描いてくるくる巡る。それが八の字に弧を描き、途中で一つが肩に止まる。止まった手鞠は弾かれて、また円に加わる。すると、また一つが頭に止まる。頭の左右に貼り付きながら移動し、再び跳ねて仲間に加わる。軌道を変えながら、三つの手鞠が変幻自在に空中を闊歩する。見る方も忙しい。石阿の動きと手鞠の動きに、眼が追い切れない。
 やがて、一つが石阿の額に止まった。その上にもう一つ、さらに三つ目がその上に乗り、手鞠は三重の塔を形作った。手鞠も石阿も微動すらしない。
 義教が手を叩いて賛辞を贈った。つられるように拍手が起こり、石阿は鞠を手に戻した。
 次に藤寿が腰に羯鼓、両手に小切子(こきりこ・二本の竹の棒の打楽器)を持ち現れた。
 藤寿は足利義満が将軍の頃、有名な連歌師だった。歳は老いたが声は若い。張りもある。小歌を歌い白拍子の舞を舞い、小切子を手に取って回しながら打ち鳴らし、羯鼓を叩く。ひょうきんな所作(しょさ)を随所に交え、笑いを誘った。
 平家物語では独特の渋みの演技で涙を呼び起こし、草歌(そうか)では一変して七五調の長歌を、一字一音八拍子の軽快な調子で華やかに謡い踊った。
 八尋も喝采を浴びた。この日は「井筒」を演じた。母の椿が大好きだったからと、元雅がよく口ずさんでいた能だ。
 井筒(井戸を囲った枠)の側で背丈と髪の長さを比べ合った幼馴染みの在原業平と紀有常(きのありつね)の娘が夫婦となる。心移りを知りながら、夜半に出掛ける夫の身を案じる妻の真情に、業平が再び愛に目覚める話である。時が過ぎ、二人はもうこの世には無い。
 舞台には井筒にひとむらの薄(すすき)が添えられ、秋の寂しさが辺りに漂っている。在原寺を訪れた旅僧が業平と有常の娘を弔うところに、一人の女が現れた。女は井戸から水を汲み上げ、塚に手向けながら仏を念ずる。

 暁(あかつき)ごとの閼伽(あか)の水、暁ごとの閼伽の水、月も心や澄ますらん。
 さなきだにもののさびしき秋の夜の、人目稀(まれ)なる古寺の、庭の松風更け過ぎて、月かたぶく軒端の草、忘れて過ぎし古(いにしへ)を、忍ぶ顔にていつまでか、待つ事なくてながらへん、げに何事も思ひ出の、人には残る世の中かな。
 ただいつとなく一筋に、頼む仏の御手(みて)の糸、導き給へ法(のり)の声。

 僧の頼みに、女は幼い頃や「筒井筒」「風吹けば」の歌などを織り交ぜながら業平夫婦の話を語って聞かせる。僧が女に名を尋ねると、その有常の娘ともまた筒井筒の女とも言われているのは私なのですと告げ、井筒の陰に姿を消した。
 在原寺に留まることにした僧の夢に、女が現れる。若女の面に初冠(ういかんむり)、縫箔(ぬいはく)腰巻に長絹直衣(ちょうけんのうし)の衣姿。夫の形見を身に着けた井筒の女が、業平への思慕の情を述べ舞う「序の舞」の段である。
 八尋の心には亡くなった夫元雅の姿があった。元雅を偲んで謡い、元雅の姿を追うように舞を舞う。

 月やあらぬ、春や昔と詠(なが)めしも、いつの頃ぞや。
 筒井筒、筒井にかけし、
 まろが丈(たけ)、
 生(お)ひにけらしな、
 生ひにけるぞや。

 やがて井筒にその身を映せば、女とも見えない男の姿がある。それは自分の姿であり、また夫の姿である。

 さながら見見えし、昔男の、冠直衣(かむりのほし)は、女とも見えず、男なりけり、業平の面影、
 見ればなつかしや、
 われながらなつかしや。亡婦魄霊(はくれい)の姿は、しぼめる花の、色なうて匂ひ、残りて在原の、寺の鐘もほのぼのと、明くれば古寺の、松風や芭蕉葉の、夢も破れて覚めにけり、夢は破れ明けにけり。

 男と女が身一つになったことで、夫を亡くした喪失感が癒され埋められて、魄霊は朝の光の中に消えてゆく。だが姿形はこの世に無くとも、花が匂いを残すように存在は消えて無くなりはしないのだ。
 井筒の女は八尋自身であった。また「井筒」には失われようとしている観世の脈流復帰の願いも込められていた。舞台の袖で見ていた元重には、八尋の気持ちが痛いほど伝わって来た。
 八尋の猿楽能が終わると、赤松満祐が将軍義教の側に畏まった。
「お願い申し上げたい儀がございます」
「三尺入道の願い事を聞き届ければ、後で褒美をくれるのか」
 満祐は、義教の言は耳に入れないようにしている。刺さる棘を気にすれば切りが無い。
「観世大夫のことです」
「それならば答えはもう出した」
「そこを曲げて赦免して下さいますよう」
「分からぬ奴だな」
「観世大夫は世に名人と謳(うた)われております。このまま表舞台に出ないとなれば、宝をみすみす海の底に沈めたも同然」
「三尺入道。お前は頭の中も寸足らずか」
 これには満祐も、さすがにむっとした。
「お言葉ですが………」
「馬鹿者!」
 義教の甲高い叱責の声が飛んだ。
「儂がなぜこの邸にのこのこ出て来たと思う。お前の思惑に乗ってやったのだ」
「では、観世大夫をお赦(ゆる)し下さるのですな」
「ふん。早く元重の猿楽を見せろ」
「左様でしたか。ならばすぐに」
 立ち去ろうとする満祐の背に、義教は皮肉めいた言葉を掛けた。
「えらくご執心だな、三尺入道。観世に恩を着せるとは、その寸足らずの頭で何やら良からぬことでも思いついたか」
 満祐は義教の言葉が聞こえなかったかのように、足早に去って行った。
 元重の舞台は、いつになく熱が籠もっていた。気迫が胸に響くような元重の演技だった。久し振りの元重の猿楽能に堪能した義教は、元重に扇と直垂(ひたたれ)を授けた。元重は拝領した扇を手に、直垂を肩に掛けてひと差し舞った。
 だが邸の主は元重が舞っている最中、座敷に居なかった。控えの間の八尋と会っていたのである。
「で、例の件はどう進んでいる」
「はい。小倉宮様からのご返事はまだです」
「難しいのか」
「宮様の末子の居所は分かっておりますから、良い返事が頂け次第ご報告致します」
「急ぐことは無いぞ」
「実は………」
「どうした」
「宮様ご自身が動かれようとなさっておいでなのです」
「何?」
 小倉宮は二年前に出家しているが、満祐にはその孫を密かに自分の手駒にしておこうという肚(はら)があった。
「いつとは申し上げられませんが、近々」
「そうなると、義昭殿もじっとしてはいまい」
「恐らく」
 満祐はちょっと考え込んだ。
「まずいな」
 満祐はギロリと大きな眼を八尋に向けた。
 満祐には密かな野心がある。三尺入道と罵(ののし)るあの男を足蹴にして追い落とし、国を牛耳る力を得ることだ。それには皇位を継ぐ血脈と足利将軍の血筋、つまり小倉宮の孫と足利直冬の孫の両方を掌中に握っておく必要がある。機会が巡って来さえすれば、実現不可能なことではない。ところが小倉宮自身が後南朝に復活するのであれば、事態は大きく変わってしまう。幕府の侍所所司である満祐は、真正面から小倉宮と対決しなければならなくなるのだ。
「分かった。この件はしばらく不問にしておいてくれ。成り行きを見てから判断せねばなるまい」
 八尋は頷いて、満祐に了承の意を表した。
 舞台では元重の舞が続いている。大きな蝶が思う存分羽を広げ優雅に春を迎える喜びを、元重が全身で表していた。
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故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した 若き日の滝川一益と滝川義太夫、 尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として 天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

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