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二章 遠吼孤虎と栴檀の朋
赤き七の獣の子
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黒塗りになっているところを明かりでいくら透かしてみても、分かるはずはなく、ただ単に「存在を消された楽士がいる」ということしか分からなかった。三人は書府で顔を突き合わせていた。
「名前を抹消されるなんてことあるのか……」
「よっぽどの事情があるんでしょう……」
黒塗りの台帳を見ていた明英が何かに気づいたように顔を上げた。
「この墨、匂いが違うわ。質の悪い炭の匂いがするわ」
「匂いで分かるのか?」
こくりと明英がうなずいた。明英は武将の血筋だからか”感覚”が鋭い。
「ええ。かすかにだけれど……。こんな墨、殿中ではまずもって使われないわ」
「と、言うことは外部の人間がやったって事か……。なんでこんな真似を? 存在が消えた楽士って、どうやって探せばいいんだ」
はぁ、と羽は息をついた。外部の人間が殿中に入り込むだけでも、ありえないことだというのに、その目的が目録の名を消す事なんて、点と点が繋がらない。
(いや、明英は”匂い”があるって言った。ってことは、そう昔の事じゃない。つい最近の――――)
「やめませんか?」
「!!?」
少年の口から出た言葉に、羽は目を向いて振り返った。うつむいたままの澄の表情はうかがえない。
(やめませんか?)
その口調は、すべてを諦めたかのように冷え切っていた。
「調べてくださったことに、感謝いたします。でも、これ以上、分からないじゃないか。楽譜があるわけでも、あるまいし」
「澄……」
「后陛下へのご依頼が果たせないのなら、俺は殿中にいることはできないかもしれません。でも、一度はお言葉を頂いた身、それだけで身に余る光栄です……ですから」
「諦めるのか?」
澄は肯定も否定もしなかった。ただうつむいたまま立ち尽くしていた。
「……なよ」
「羽さん?」
「ふざけるなよ!! お前はまだ元服もしてないんだぞ!! 二つ名だって、この一年、お前ががんばってきた証じゃないか!!」
掴みかかるばかりの声量に澄の体が少しだけ震える。明英は、口の端を少し上げて笑う。
「変わらないわね……」
あの日からずっと。
「あのな! 都から一歩も出ずに生きてきた俺には分からないけれど、俺は父上に連れられて西部地方の惨状を目の当たりにしたことがあるんだよ!!!」
あの頃にはもう、後継者としては絶望的だとは言われはじめていた。けれど、父はそれでも後継者として育てようとしていた。慰問に訪れた町はそれは悲惨なありさまだった。
自然が、こうも人に牙を剥くものかと。美しい街並みを跡形もなく消し去ることができるのか、と。家に来る画家たちも、西には見事な稜線を描く山がいくつもあり、画題にもってこいの街並みもあると言っていた。直接見に行ける日をひそかに楽しみにしていた。
「だから、こうして西部から来てくれたことに、俺は尊敬している! どんな日々があっただろう、どんな絶望がお前に与えられただろう!」
もう、あの頃には人前で十分に楽器は弾けなかったけれど。仮設の天幕の隙間から、家の皆の音楽を聴いていた。
「俺は知っているんだ。あの日、楽を聴いていた人達が”これからだ”って言っていたのを! ”また始めよう”って笑っていたのを!」
どんなに打ちのめされても、それでも笑って前を向いていた人々の姿のなんと美しい事か。幼い自分には、新鮮に映った。都ではまずみられない顔だったからだ。
「それは、俺じゃないですよ?」
「そんなことは分かってる! でもな、俺はあの遠吼孤虎を否定されたのが嫌なんだよ! お前だって、あんなに悔しそうな顔をしていただろ!」
「…………」
それは、と澄が口を開こうとした時、どんどんと書府の扉が叩かれ、誰かが転がり込んできた。
「羽!!」
「子牙兄ちゃん!? どうしてここが?!」
「子牙お義兄さま!?」
「子牙さん?」
息を切らしながら走って来たらしい子牙は三人の顔を順番に見て、はぁ吐息をついた。
「澄、あなたの稽古場が……」
「おれの稽古場が?」
子牙に連れられ、三人が目の当たりに下のは荒らされた室内だった。稽古場の広さはそれほど広くない。羽たちの暮らしている寮の個室を二つ繋げたくらいの広さだ。それなのに、足の踏み場もないくらいのごみがあふれている。どこから持ち込んだのか、野菜の切れ端まであった。鼻を突くようなきつい香の臭いまでする。
暑さも大分やわらいだ時期でよかった。盛夏の頃だったら、たった一刻でも腐敗臭がしたに違いない。
「なによ、これ……」
武将の血が騒ぐのか、”不道理”の匂いを感じているようだ。羽たちがあっけにとられている中、澄は中に入っていく。そして、壁に書かれた文字に手をふれる。朱墨を煮詰めた濃い朱色の文字で、それは書かれていた。
――― 赤き七の獣の子よ、吉風の蝙蝠に会え。
「これを見て、お前はあきらめるのかよ」
楽士、いや、楽人にとって稽古場は命に代えても守るところだ。それを汚されたのだ、怒らないものがいるか。たとえ他人の物であっても、汚されたのならば血相を変えるのが稽古場だ。
(誰だよ……こんなこと! 楽人どころか、人の風上にも置けねぇ!)
たしかに、澄は最年少に近い早さで二つ名を獲得した。それに対して邪心を抱く者がいない訳じゃない。だけれど、稽古場を汚すことは、己の楽人としての矜持すらもなげうつ行為だ。
「諦める、といえば羽さんはどうしますか?」
「お前の気が変わるまで説得し続けてやる」
ぷっと、背後で二人分の笑い声が聞こえたけれど、聞こえないふりをする。
「…………。考えさせてください」
自分の稽古場を荒らされたのにもかかわらず、澄は今までの顔を崩さず、すっと踵を返した。
次の日の夜、澄が姿を消したとの知らせが入った。
「名前を抹消されるなんてことあるのか……」
「よっぽどの事情があるんでしょう……」
黒塗りの台帳を見ていた明英が何かに気づいたように顔を上げた。
「この墨、匂いが違うわ。質の悪い炭の匂いがするわ」
「匂いで分かるのか?」
こくりと明英がうなずいた。明英は武将の血筋だからか”感覚”が鋭い。
「ええ。かすかにだけれど……。こんな墨、殿中ではまずもって使われないわ」
「と、言うことは外部の人間がやったって事か……。なんでこんな真似を? 存在が消えた楽士って、どうやって探せばいいんだ」
はぁ、と羽は息をついた。外部の人間が殿中に入り込むだけでも、ありえないことだというのに、その目的が目録の名を消す事なんて、点と点が繋がらない。
(いや、明英は”匂い”があるって言った。ってことは、そう昔の事じゃない。つい最近の――――)
「やめませんか?」
「!!?」
少年の口から出た言葉に、羽は目を向いて振り返った。うつむいたままの澄の表情はうかがえない。
(やめませんか?)
その口調は、すべてを諦めたかのように冷え切っていた。
「調べてくださったことに、感謝いたします。でも、これ以上、分からないじゃないか。楽譜があるわけでも、あるまいし」
「澄……」
「后陛下へのご依頼が果たせないのなら、俺は殿中にいることはできないかもしれません。でも、一度はお言葉を頂いた身、それだけで身に余る光栄です……ですから」
「諦めるのか?」
澄は肯定も否定もしなかった。ただうつむいたまま立ち尽くしていた。
「……なよ」
「羽さん?」
「ふざけるなよ!! お前はまだ元服もしてないんだぞ!! 二つ名だって、この一年、お前ががんばってきた証じゃないか!!」
掴みかかるばかりの声量に澄の体が少しだけ震える。明英は、口の端を少し上げて笑う。
「変わらないわね……」
あの日からずっと。
「あのな! 都から一歩も出ずに生きてきた俺には分からないけれど、俺は父上に連れられて西部地方の惨状を目の当たりにしたことがあるんだよ!!!」
あの頃にはもう、後継者としては絶望的だとは言われはじめていた。けれど、父はそれでも後継者として育てようとしていた。慰問に訪れた町はそれは悲惨なありさまだった。
自然が、こうも人に牙を剥くものかと。美しい街並みを跡形もなく消し去ることができるのか、と。家に来る画家たちも、西には見事な稜線を描く山がいくつもあり、画題にもってこいの街並みもあると言っていた。直接見に行ける日をひそかに楽しみにしていた。
「だから、こうして西部から来てくれたことに、俺は尊敬している! どんな日々があっただろう、どんな絶望がお前に与えられただろう!」
もう、あの頃には人前で十分に楽器は弾けなかったけれど。仮設の天幕の隙間から、家の皆の音楽を聴いていた。
「俺は知っているんだ。あの日、楽を聴いていた人達が”これからだ”って言っていたのを! ”また始めよう”って笑っていたのを!」
どんなに打ちのめされても、それでも笑って前を向いていた人々の姿のなんと美しい事か。幼い自分には、新鮮に映った。都ではまずみられない顔だったからだ。
「それは、俺じゃないですよ?」
「そんなことは分かってる! でもな、俺はあの遠吼孤虎を否定されたのが嫌なんだよ! お前だって、あんなに悔しそうな顔をしていただろ!」
「…………」
それは、と澄が口を開こうとした時、どんどんと書府の扉が叩かれ、誰かが転がり込んできた。
「羽!!」
「子牙兄ちゃん!? どうしてここが?!」
「子牙お義兄さま!?」
「子牙さん?」
息を切らしながら走って来たらしい子牙は三人の顔を順番に見て、はぁ吐息をついた。
「澄、あなたの稽古場が……」
「おれの稽古場が?」
子牙に連れられ、三人が目の当たりに下のは荒らされた室内だった。稽古場の広さはそれほど広くない。羽たちの暮らしている寮の個室を二つ繋げたくらいの広さだ。それなのに、足の踏み場もないくらいのごみがあふれている。どこから持ち込んだのか、野菜の切れ端まであった。鼻を突くようなきつい香の臭いまでする。
暑さも大分やわらいだ時期でよかった。盛夏の頃だったら、たった一刻でも腐敗臭がしたに違いない。
「なによ、これ……」
武将の血が騒ぐのか、”不道理”の匂いを感じているようだ。羽たちがあっけにとられている中、澄は中に入っていく。そして、壁に書かれた文字に手をふれる。朱墨を煮詰めた濃い朱色の文字で、それは書かれていた。
――― 赤き七の獣の子よ、吉風の蝙蝠に会え。
「これを見て、お前はあきらめるのかよ」
楽士、いや、楽人にとって稽古場は命に代えても守るところだ。それを汚されたのだ、怒らないものがいるか。たとえ他人の物であっても、汚されたのならば血相を変えるのが稽古場だ。
(誰だよ……こんなこと! 楽人どころか、人の風上にも置けねぇ!)
たしかに、澄は最年少に近い早さで二つ名を獲得した。それに対して邪心を抱く者がいない訳じゃない。だけれど、稽古場を汚すことは、己の楽人としての矜持すらもなげうつ行為だ。
「諦める、といえば羽さんはどうしますか?」
「お前の気が変わるまで説得し続けてやる」
ぷっと、背後で二人分の笑い声が聞こえたけれど、聞こえないふりをする。
「…………。考えさせてください」
自分の稽古場を荒らされたのにもかかわらず、澄は今までの顔を崩さず、すっと踵を返した。
次の日の夜、澄が姿を消したとの知らせが入った。
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