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一章 春想月花と市井の龍
六 年始の宴
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年始の宴で曲を弾く、それは改めて考えれば周家を継ぐ人間ならば避けては通れないことだった。上り症ということをいいことに、逃げて回ってばかりだった。
「くそ! また、三の弦が遅れた!」
ばち、と自分の頬をはたく。からからになっている体に、水を流し込む。そして、もう一度琴に向き合う。
羽は練習所の一角を間仕切り、その中に閉じこもった。あれだけの啖呵を切ったのだ。弟子に伝わるのはあっという間だった。
「あの御曹司が年始の宴に!?」
「なんでも、あの曲を弾くとご当主に言ったそうだ」
「まさか! あの御曹司だぞ?」
「正直、戻ってこられただけでも奇跡なのに、今更後継者になる気では?」
「子牙殿が頑ななことをいいことに、御曹司が図に乗っているだけでは?」
「大方、年始の宴で失敗するだろう」
そんな弟子たちの声は想像通りだった。だからこそ、家を追い出される前の羽は子牙に後継者の座を明け渡すことを考えていた。中には、羽が成長したことを期待する弟子もいたが、ほとんどは羽が失敗すると考えていた。それもそうだ、それだけ自分は期待されていなかったのだ。
(でも、ここで退いたら……。俺はきっと後悔する)
誰かのために弾くとは思わなかった。それも、あんなぼろ雑巾のような男のために。
(俺は当主になるんだ。誰もが俺を後継者だと思うくらいに)
きっと、子牙が当主になってしまえば、周家は今まで通りの形で維持されていくだろう。それは、多くの”弾きたい”人々を見捨てることに繋がる。
門前で追い出される志願者を見てきた。
泣きながら懇願する者を見てきた。
己を否定されたと憤る者を見てきた。
それが当たり前だと思っていた。いずれ自分も、不要だと切り捨てられると思っていた。
(でも、本当は違うんだよな。楽っていうのは)
弾きたい。
自分が弾きたいように弾く。
(初めて琴に触れた日みたいだ)
初めて琴に触れた日。初めて一曲奏でられた日。もうあまり覚えていないけれど、心が躍ったのは確かだった。即興で奏でた日も、心が躍った。
「今度は五の弦か! ええっと、七の弦を押さえた指を、こっちに……」
いままでの自分を否定したくない。不要だと切り捨てられた自分に、楽しさを思い出させてくれた人たちのために、自分の全力を使いたい。年始の宴の曲は今までのどの曲よりも複雑で、一瞬の気のゆるみも許されない。一呼吸つくのでさえやっとの曲で、並の楽人では楽譜を読み解くのすら困難だろう。
初代当主が次の当主を選ぶために特別に作らせた年始の曲は、歴代の当主が弾きこなしてきた。もちろん父や祖父もその例外ではない。
(楽譜を頭に叩き込むだけで三日かかった。年始の宴には間に合うけれど……)
楽譜を片手になんども確認する。父や、古参の弟子に助言を乞う事もできるかもしれない。けれど、これは自分自身が言い出したことだから、なるべく自分自身で決着をつけたかった。
――― お前こそ、次期当主に相応しい。
物心ついたころから、父は口癖のように自分に言う。自分が継げなかった当主の座に息子である自分をつかせたい親心は、分かっている。
子牙は間仕切りで囲まれた練習所の一角を見ていた。時折、ぶつぶつと羽が独り言をつぶやいているのが聞こえる。従弟が練習するところはよく見かけていたけれど、間仕切りまでして練習をするところは初めて見た。
(それほど策叔父上に恩になったのだろう。あの人は無欲だから)
羽が年始の宴に出ると当主に言ってから、子牙にも同じ曲を弾くようにと周りが言うようになった。あんな上り症で宴で弾くこともせず、後ろから指図するような少年に跡目を継がせることが気に入らないのだろう。
(羽はだれよりも楽人の才能がある)
宴でよい演奏をすることは楽人としては当然のことだ。けれど、それだけでは宴は成り立たない。明かりの数や、食事、舞の衣装に、香や美術品。それらを扱う術を羽は持ち合わせている。
それに、子牙は個人的に羽にこそ後継者になって欲しいと思っている。
「子牙兄ちゃん?」
何か物音を立ててしまっていたようだ。間仕切りの隙間から羽が顔の半分をのぞかせていた。
「坊ちゃんにお夜食です。私もちょうど小腹が空いていたので、一緒に食べませんか?」
「……食べる」
持っていた果実の入った盆を羽に見せると、にょろにょろと隙間から体を出してきた。猫のような動きに、思わず吹き出してしまった。
「子牙兄ちゃんも年始の宴に出るだろ?」
「そうですね……。親戚の中に、坊ちゃんが後継者になることを快く思わないものもいるようですし」
「そうだよなぁ。家を追い出されたくせに、今更何やってんだ、って俺も思わなくもないんだ」
あっけからんと言う。かと思いきや、ふぅと息を深くついた。
「おっさんのため……っていうのが正直腹立つけど、でも、俺にはこれしかないんだ」
羽の中では、策は叔父という感覚が無いのだろうか。
「俺さ。今まで子牙兄ちゃんが全部やってくれるなら、それでいいって思ってた。そこそこの家の娘をもらって、適当に生きていくんだって諦めてたんだ」
諦める。それは子牙もうすうすわかっていたことだ。子どもの頃から、どこか冷めた目で世の中を見ていた。時折見せる表情は、あきらめが多かった。
「けど、このままなら周家はそれまでだ」
「坊ちゃん?」
「周家はこのままだと、弾きたい人を見捨てる家になる。そんな家に俺はしたくない」
「策叔父上のように?」
「おっさんは一生嶺さんの尻に敷かれてて良い」
「ひどい言い方だなぁ! 策叔父上の笛を聞いたとは思えないよ!」
思わず出てしまった素の言葉に、子牙は慌てて口をふさぐ。初めて聞いた砕けた言葉に羽がきょとんとしている。まるで大きな音を聞いた猫のように身を固めている。
「あ、申し訳ありません」
「いや、子牙兄ちゃんのそんな言葉づかい初めて聞いた! なんでその口調で話してくれないんだよ!」
「待ってください、羽……じゃなかった坊ちゃん!」
「あ! 俺のこと羽って呼んだ!」
鬼の首を取ったように顔を輝かせ、体を左右に振る従弟に、子牙は大きくため息をついた。
「……」
「子牙兄ちゃんは俺にとっては兄ちゃんだ。だから、敬語は使ってほしくない」
「……」
冷汗があふれ出す。従弟といえど、同じ屋敷で育ったから、本当のきょうだいのような近さがあった。だからこそ、敬語を使い線引きをしてきたというのに。
(策叔父上の影響……かな)
「分かりました」
じぃ、と目を細めて羽が見つめてくる。
「分かったよ、羽。私はね、お前こそ当主に相応しいと思っているよ。今確信したよ」
何度も繰り返して言ってきたことだけれど、従弟の覚悟を聞いてゆるぎないものになった。
(私は、きっと羽のようには弾けないだろう)
間仕切りから漏れてくる楽の音は、今まで聞いてきた羽の演奏とは別人のようだった。同じ曲を弾けと言われれば、弾くことはできるだろう。けれど、羽と同様に弾けるか、と言われれば弾けないと答える。
「がんばれよ」
「おう! 俺ができる最高の演奏をしてやる!」
そう笑う従弟の顔は見たこともないほど、晴れ晴れとしていた。
年始の宴は、周家の権威を示す絶好の機会だ。夕暮れから始められ、夜半過ぎまで続く。様々な役職の貴族が呼ばれ、宴を好む武将も呼ばれることもある。宰相が来ることもあるが、今回は自邸の宴に参加するとの文が届いていた。
「やっぱり、凄い数だな……」
宴用に作られた広間は、百人がゆうに座っていられる。ひっきりなしに給仕が歩き回り、豪勢に盛られた料理が運ばれていく。その給仕に負けないほど走り回る少年が一人。まだ着替えていない羽は、宴の会場の隅々まで目を配る。
「あ、中央の貴族様方への酒の提供はもう少し後にしてくれ。先ほど酒をふるまったばかりだから」
「後方のろうそくはそろそろ換えた方がいい。ついでに窓も少し開けて、籠った空気を入れ替えよう。温石も忘れずに」
「舞手の人達に配る水は足りているか? せっかく殿中の舞手を何人かお呼びしたんだ、思いっきり舞ってほしいからな」
「薪が足りない! 裏手の倉庫から二山取ってきてくれ! 車を使っていいぞ!」
いつもの癖で、指示を飛ばしていく。一介の楽士になるより、宴の段取りを取り仕切る役に徹したらいいのに、と給仕達は思わなくもなかったが、彼が張り切る理由を知っているので、つっこまずにいた。場慣れしているからか、羽の指示は的確で素早い上に失敗を最小限に抑えている。
「いつまで指示を飛ばしているんだ?」
あきれがちに、子牙は羽に声をかけた。従弟はこれから大舞台に臨むはずなのに、いつも通りの裏方ぶりだ。
「まさか、出番をわすれているわけじゃないだろうな?」
「忘れるわけないだろ! 見ててくれよ!」
ばん、と子牙の背を叩いて羽が手を振って駆けだしていく。
「俺がやりたい楽を!」
と、大口を叩いたが、長年積み重ねてきた上り症は消えるわけではない。視線が集まっていると感じれば、指が震え、足の感覚が消える。
(でも、後悔はしていない)
ぐっと、手に力を込める。ぼやけていく感覚を痛みで引き戻す。
――― 期待していたんだ、聴いてくれると。
こんな自分でも、聴いてくれるのだと。聴いてほしかったのだ、誰でもいい、誰かに必要とされたかった。
自分には楽しかないから、奏でることしかできないから。
(それが、いつしか俺にとっての枷になっていたんだ)
宴の会場の中央。よく音が響くように設計された場所で、今から奏でるのは今まで逃げ続けていた難曲。幼い頃は、後ろで聴いていた。けれど、今は自分自身が弾く番だ。
琴に指を延ばす。ここから先は、息をすることも忘れるかもしれない。時間すら止まったように感じるだろう。それは、自分が弾きたいように弾くからだ。
とん、と初めの弦を弾く。そこから先は、羽は没頭した。
流れるような旋律は、まるでこの世の物とは思えないほどの速さだった。速さもさることながら、高い技術を課せられるこの曲は、素人が聴いても難曲だと分かるほどだ。それを弾いている少年は、ただひたすらに琴に向かい合う。こちらのことなど目に入っていないように奏でている。険しい表情を浮かべることなく、頭に浮かんでいる音を丁寧に拾っていく。
弾けないだろうと思い込んでいた弟子たちは、互いに目を合わせて呆然としていた。
これが、あの少年なのか、と。
上り症で何度も殿試に落ち続けている、あの少年なのかと。
父親に失望されたあの少年なのかと。
これでは、認めざるを得ないだろう。それほどの力を示せるのが、この曲だからだ。
最後の音が消えるのを感じた羽は目を開けた。弾き始めてどれほど経っただろう。長く感じたようにも、一瞬にも感じた。
(………たのしかったな)
最初に浮かんだ感情はそれだった。今までは間違いがなかったことだけを確認していたのに、今はそれしか考えられない。自分が奏でたいように奏でた。だから、楽しかった。それ以外の感情はわいてこない。間違えたなんて思わない、だって楽しかったから。
周りの音がだんだん分かってきた。明らかに動揺している。それもそうだ。今まで一曲もまともに披露したことが無いんだから。それなのに、急にこんな曲を弾いたのだから、あっけにとられるのも無理はない。我に返った人から、だんだんと拍手が起きるようになった。まばらに聞こえていた音が、重なり、大きくなっていく。
ワァアアアアアア
ざぁざぁと、さざなみのようにとどろく拍手に今度は羽が驚く番だった。いつもはだれかのため息しか聞こえなかったのに、今は何だ。この大きな歓声は。目を丸くする羽の視界が緩み始めた。
聴いてもらえた。
羽はその場から立つと、駆け出した。
自室に入ると、ばたんと戸を閉じた。熱を帯びた体が、あの歓声を繰り返していく。
(俺は……やったんだ!)
そう思えば思うほど、涙が止まらなくなる。嗚咽が混じる声を上げ、羽は子どものように泣いた。今までの涙とは異なる涙だった。泣いているところを見られなくてよかった。止め方も分からない涙を、羽は流れるままにしておいた。
「くそ! また、三の弦が遅れた!」
ばち、と自分の頬をはたく。からからになっている体に、水を流し込む。そして、もう一度琴に向き合う。
羽は練習所の一角を間仕切り、その中に閉じこもった。あれだけの啖呵を切ったのだ。弟子に伝わるのはあっという間だった。
「あの御曹司が年始の宴に!?」
「なんでも、あの曲を弾くとご当主に言ったそうだ」
「まさか! あの御曹司だぞ?」
「正直、戻ってこられただけでも奇跡なのに、今更後継者になる気では?」
「子牙殿が頑ななことをいいことに、御曹司が図に乗っているだけでは?」
「大方、年始の宴で失敗するだろう」
そんな弟子たちの声は想像通りだった。だからこそ、家を追い出される前の羽は子牙に後継者の座を明け渡すことを考えていた。中には、羽が成長したことを期待する弟子もいたが、ほとんどは羽が失敗すると考えていた。それもそうだ、それだけ自分は期待されていなかったのだ。
(でも、ここで退いたら……。俺はきっと後悔する)
誰かのために弾くとは思わなかった。それも、あんなぼろ雑巾のような男のために。
(俺は当主になるんだ。誰もが俺を後継者だと思うくらいに)
きっと、子牙が当主になってしまえば、周家は今まで通りの形で維持されていくだろう。それは、多くの”弾きたい”人々を見捨てることに繋がる。
門前で追い出される志願者を見てきた。
泣きながら懇願する者を見てきた。
己を否定されたと憤る者を見てきた。
それが当たり前だと思っていた。いずれ自分も、不要だと切り捨てられると思っていた。
(でも、本当は違うんだよな。楽っていうのは)
弾きたい。
自分が弾きたいように弾く。
(初めて琴に触れた日みたいだ)
初めて琴に触れた日。初めて一曲奏でられた日。もうあまり覚えていないけれど、心が躍ったのは確かだった。即興で奏でた日も、心が躍った。
「今度は五の弦か! ええっと、七の弦を押さえた指を、こっちに……」
いままでの自分を否定したくない。不要だと切り捨てられた自分に、楽しさを思い出させてくれた人たちのために、自分の全力を使いたい。年始の宴の曲は今までのどの曲よりも複雑で、一瞬の気のゆるみも許されない。一呼吸つくのでさえやっとの曲で、並の楽人では楽譜を読み解くのすら困難だろう。
初代当主が次の当主を選ぶために特別に作らせた年始の曲は、歴代の当主が弾きこなしてきた。もちろん父や祖父もその例外ではない。
(楽譜を頭に叩き込むだけで三日かかった。年始の宴には間に合うけれど……)
楽譜を片手になんども確認する。父や、古参の弟子に助言を乞う事もできるかもしれない。けれど、これは自分自身が言い出したことだから、なるべく自分自身で決着をつけたかった。
――― お前こそ、次期当主に相応しい。
物心ついたころから、父は口癖のように自分に言う。自分が継げなかった当主の座に息子である自分をつかせたい親心は、分かっている。
子牙は間仕切りで囲まれた練習所の一角を見ていた。時折、ぶつぶつと羽が独り言をつぶやいているのが聞こえる。従弟が練習するところはよく見かけていたけれど、間仕切りまでして練習をするところは初めて見た。
(それほど策叔父上に恩になったのだろう。あの人は無欲だから)
羽が年始の宴に出ると当主に言ってから、子牙にも同じ曲を弾くようにと周りが言うようになった。あんな上り症で宴で弾くこともせず、後ろから指図するような少年に跡目を継がせることが気に入らないのだろう。
(羽はだれよりも楽人の才能がある)
宴でよい演奏をすることは楽人としては当然のことだ。けれど、それだけでは宴は成り立たない。明かりの数や、食事、舞の衣装に、香や美術品。それらを扱う術を羽は持ち合わせている。
それに、子牙は個人的に羽にこそ後継者になって欲しいと思っている。
「子牙兄ちゃん?」
何か物音を立ててしまっていたようだ。間仕切りの隙間から羽が顔の半分をのぞかせていた。
「坊ちゃんにお夜食です。私もちょうど小腹が空いていたので、一緒に食べませんか?」
「……食べる」
持っていた果実の入った盆を羽に見せると、にょろにょろと隙間から体を出してきた。猫のような動きに、思わず吹き出してしまった。
「子牙兄ちゃんも年始の宴に出るだろ?」
「そうですね……。親戚の中に、坊ちゃんが後継者になることを快く思わないものもいるようですし」
「そうだよなぁ。家を追い出されたくせに、今更何やってんだ、って俺も思わなくもないんだ」
あっけからんと言う。かと思いきや、ふぅと息を深くついた。
「おっさんのため……っていうのが正直腹立つけど、でも、俺にはこれしかないんだ」
羽の中では、策は叔父という感覚が無いのだろうか。
「俺さ。今まで子牙兄ちゃんが全部やってくれるなら、それでいいって思ってた。そこそこの家の娘をもらって、適当に生きていくんだって諦めてたんだ」
諦める。それは子牙もうすうすわかっていたことだ。子どもの頃から、どこか冷めた目で世の中を見ていた。時折見せる表情は、あきらめが多かった。
「けど、このままなら周家はそれまでだ」
「坊ちゃん?」
「周家はこのままだと、弾きたい人を見捨てる家になる。そんな家に俺はしたくない」
「策叔父上のように?」
「おっさんは一生嶺さんの尻に敷かれてて良い」
「ひどい言い方だなぁ! 策叔父上の笛を聞いたとは思えないよ!」
思わず出てしまった素の言葉に、子牙は慌てて口をふさぐ。初めて聞いた砕けた言葉に羽がきょとんとしている。まるで大きな音を聞いた猫のように身を固めている。
「あ、申し訳ありません」
「いや、子牙兄ちゃんのそんな言葉づかい初めて聞いた! なんでその口調で話してくれないんだよ!」
「待ってください、羽……じゃなかった坊ちゃん!」
「あ! 俺のこと羽って呼んだ!」
鬼の首を取ったように顔を輝かせ、体を左右に振る従弟に、子牙は大きくため息をついた。
「……」
「子牙兄ちゃんは俺にとっては兄ちゃんだ。だから、敬語は使ってほしくない」
「……」
冷汗があふれ出す。従弟といえど、同じ屋敷で育ったから、本当のきょうだいのような近さがあった。だからこそ、敬語を使い線引きをしてきたというのに。
(策叔父上の影響……かな)
「分かりました」
じぃ、と目を細めて羽が見つめてくる。
「分かったよ、羽。私はね、お前こそ当主に相応しいと思っているよ。今確信したよ」
何度も繰り返して言ってきたことだけれど、従弟の覚悟を聞いてゆるぎないものになった。
(私は、きっと羽のようには弾けないだろう)
間仕切りから漏れてくる楽の音は、今まで聞いてきた羽の演奏とは別人のようだった。同じ曲を弾けと言われれば、弾くことはできるだろう。けれど、羽と同様に弾けるか、と言われれば弾けないと答える。
「がんばれよ」
「おう! 俺ができる最高の演奏をしてやる!」
そう笑う従弟の顔は見たこともないほど、晴れ晴れとしていた。
年始の宴は、周家の権威を示す絶好の機会だ。夕暮れから始められ、夜半過ぎまで続く。様々な役職の貴族が呼ばれ、宴を好む武将も呼ばれることもある。宰相が来ることもあるが、今回は自邸の宴に参加するとの文が届いていた。
「やっぱり、凄い数だな……」
宴用に作られた広間は、百人がゆうに座っていられる。ひっきりなしに給仕が歩き回り、豪勢に盛られた料理が運ばれていく。その給仕に負けないほど走り回る少年が一人。まだ着替えていない羽は、宴の会場の隅々まで目を配る。
「あ、中央の貴族様方への酒の提供はもう少し後にしてくれ。先ほど酒をふるまったばかりだから」
「後方のろうそくはそろそろ換えた方がいい。ついでに窓も少し開けて、籠った空気を入れ替えよう。温石も忘れずに」
「舞手の人達に配る水は足りているか? せっかく殿中の舞手を何人かお呼びしたんだ、思いっきり舞ってほしいからな」
「薪が足りない! 裏手の倉庫から二山取ってきてくれ! 車を使っていいぞ!」
いつもの癖で、指示を飛ばしていく。一介の楽士になるより、宴の段取りを取り仕切る役に徹したらいいのに、と給仕達は思わなくもなかったが、彼が張り切る理由を知っているので、つっこまずにいた。場慣れしているからか、羽の指示は的確で素早い上に失敗を最小限に抑えている。
「いつまで指示を飛ばしているんだ?」
あきれがちに、子牙は羽に声をかけた。従弟はこれから大舞台に臨むはずなのに、いつも通りの裏方ぶりだ。
「まさか、出番をわすれているわけじゃないだろうな?」
「忘れるわけないだろ! 見ててくれよ!」
ばん、と子牙の背を叩いて羽が手を振って駆けだしていく。
「俺がやりたい楽を!」
と、大口を叩いたが、長年積み重ねてきた上り症は消えるわけではない。視線が集まっていると感じれば、指が震え、足の感覚が消える。
(でも、後悔はしていない)
ぐっと、手に力を込める。ぼやけていく感覚を痛みで引き戻す。
――― 期待していたんだ、聴いてくれると。
こんな自分でも、聴いてくれるのだと。聴いてほしかったのだ、誰でもいい、誰かに必要とされたかった。
自分には楽しかないから、奏でることしかできないから。
(それが、いつしか俺にとっての枷になっていたんだ)
宴の会場の中央。よく音が響くように設計された場所で、今から奏でるのは今まで逃げ続けていた難曲。幼い頃は、後ろで聴いていた。けれど、今は自分自身が弾く番だ。
琴に指を延ばす。ここから先は、息をすることも忘れるかもしれない。時間すら止まったように感じるだろう。それは、自分が弾きたいように弾くからだ。
とん、と初めの弦を弾く。そこから先は、羽は没頭した。
流れるような旋律は、まるでこの世の物とは思えないほどの速さだった。速さもさることながら、高い技術を課せられるこの曲は、素人が聴いても難曲だと分かるほどだ。それを弾いている少年は、ただひたすらに琴に向かい合う。こちらのことなど目に入っていないように奏でている。険しい表情を浮かべることなく、頭に浮かんでいる音を丁寧に拾っていく。
弾けないだろうと思い込んでいた弟子たちは、互いに目を合わせて呆然としていた。
これが、あの少年なのか、と。
上り症で何度も殿試に落ち続けている、あの少年なのかと。
父親に失望されたあの少年なのかと。
これでは、認めざるを得ないだろう。それほどの力を示せるのが、この曲だからだ。
最後の音が消えるのを感じた羽は目を開けた。弾き始めてどれほど経っただろう。長く感じたようにも、一瞬にも感じた。
(………たのしかったな)
最初に浮かんだ感情はそれだった。今までは間違いがなかったことだけを確認していたのに、今はそれしか考えられない。自分が奏でたいように奏でた。だから、楽しかった。それ以外の感情はわいてこない。間違えたなんて思わない、だって楽しかったから。
周りの音がだんだん分かってきた。明らかに動揺している。それもそうだ。今まで一曲もまともに披露したことが無いんだから。それなのに、急にこんな曲を弾いたのだから、あっけにとられるのも無理はない。我に返った人から、だんだんと拍手が起きるようになった。まばらに聞こえていた音が、重なり、大きくなっていく。
ワァアアアアアア
ざぁざぁと、さざなみのようにとどろく拍手に今度は羽が驚く番だった。いつもはだれかのため息しか聞こえなかったのに、今は何だ。この大きな歓声は。目を丸くする羽の視界が緩み始めた。
聴いてもらえた。
羽はその場から立つと、駆け出した。
自室に入ると、ばたんと戸を閉じた。熱を帯びた体が、あの歓声を繰り返していく。
(俺は……やったんだ!)
そう思えば思うほど、涙が止まらなくなる。嗚咽が混じる声を上げ、羽は子どものように泣いた。今までの涙とは異なる涙だった。泣いているところを見られなくてよかった。止め方も分からない涙を、羽は流れるままにしておいた。
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