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ヴォール帝国へ
弟ステファン 1
しおりを挟む 夜半過ぎ、ウルドが眠っているのを確かめ、寝間着の上からジャヒーヤを被ってこっそり部屋を抜け出した。そして昔エイレケのマスダルに襲われた時、万が一のためにと教えてもらった隠し通路を通って神殿の端にある塔の階段を上る。
そこは初めて僕がサイードさんとアジャール山を見たところで、その後カハル皇帝と一足先にアル・ハダールへ帰国するダルガートとの別れの時に三人で景色を眺めた場所だった。
白くて丈の長い寝間着の裾が汚れないように手で持ち、階段を上って塔の外へ出たとたん冷たい風が吹きつけて思わず身を竦ませる。しまった、もっと厚い毛布を持ってくるべきだった。こんな時、昔アジャール山でヤハルが手渡してくれた駱駝の毛布があったらな、と思う。
前の世界のような極端な渇水はなくてもここが砂漠地帯であることには変わりない。昼夜の寒暖の差を肌で感じながら僕は薄掛けをきつく巻き付け、胸壁に乗せた腕に顎を乗せた。
この世界に来てから毎日町で奉仕活動をしてはいたが、こんな風に上から外の景色を見るのは初めてだ。
以前と同じく見渡す限りの砂漠に囲まれているが、ところどころにオアシスが見えるし、神殿の回りには豊かに茂る木々や畑まである。
「本当に新しい別の世界になったんだなぁ……」
そう呟いてぼんやりと景色を眺めた。空には満点の星、そして冴えわたる満月がある。そういえば夜の砂漠で初めてお互いちゃんと告白しあった時も空には綺麗に満月があった。
「サイードさんも元気にしてるかな」
アル・ハダールからの一行にはサイードさんはいなかった。神殿長によれば本国に残っているわけでもないらしい。
やっぱりダウレシュにいるんだ。家族と一緒に。
良かった、と思う気持ちは本当だ。だって家族を守れなかったことをあんなに悔やんでいたのだから、今では牧草も水も豊かになった生まれ故郷で大好きな家族や馬たちに囲まれて生きられることはサイードさんにとって一番の幸せだろう。
僕もなんとか住む場所は確保できているし仕事もちゃんとある。それにウルドだっている。
ダルガートも相変わらず人を寄せ付けない雰囲気バリバリでちょっと遠巻きにはされているみたいだけれど、この間鍛錬から戻った神武官たちがどうしてもダルガートに勝てないと話していたり、通いの下働きの少年が町でごろつきに絡まれた時に彼に助けてもらったと興奮しながら言っていたから、それなりに馴染んでうまくやっているのだろう。
この世界の歴史を改変してしまうというかなり荒っぽい手を使ってしまったけれど、僕が知る限りでは八方丸く収まっているようだ。良かった。うん良かった。
そう思いながら無意識に耳のピアスを触っていたのに気づいて慌てて手をどけた。
最近、いつも気が付くとピアスを弄っていることが多くて困る。こんな高価なものを下級神官の僕がつけているのがバレたら絶対不審に思われるし、下手をすればどこかで盗んだと思われかねない。それにあまり頻繁に触っていたら留め具が外れて落としてしまう可能性だってある。
それでもついピアスに触れたくなる手をぎゅっと掴んで胸壁に顔を伏せた。
「…………会いたいなぁ……」
サイードさんに会いたい。ダルガートのそばにいたい。会えなくて悲しい。話せなくて寂しい。
今みたいに綺麗な夜空と満月の下を三人一緒に神殿に向かって歩いたあの時はあんなに幸せだったのに。
寂しい。でもサイードさんが故郷で幸せに暮らしているならそれでいい。だけどあの時と同じ夜空を一人で見ていると涙が出てきてしょうがない。
駄目だ。泣いたらまた嵐が――――ああ、もう神子の力なんてないんだっけ? ならどれだけ泣いても大丈夫かな。わからない。またしても初めの頃のようにルールがわからなくなってしまって不安でたまらない。
砂漠の塔で、僕も元の日本に帰してもらうべきだったのかもしれない。でもできなかった。
「だって、会いたかったんだ。もう一度、サイードさんとダルガートに」
目の奥がたまらなく熱くて溢れる涙が止まらない。
一人は寂しい。一緒にいたい。ずっと、ずっと三人一緒に。
その時、突然肩を掴まれ胸壁から引きはがされた。肩に食い込む指の力がとてつもなく強い。
「い、痛……っ」
思わず声を上げたがその手は少しも緩まなかった。
「ここで何をしている」
冷たい風の隙間から聞こえてきた声に呼吸が止まる。
「ダ、ダルガー……」
ト、と顔を跳ね上げ名前を呼びそうになって慌てて唇を噛んだ。だってこの世界ではお互いの名前さえ知らないのに、親し気に呼び捨てになんてしたら絶対に不快に思われる。
それでもつい食い入るように彼の顔を見つめてしまうのだけは止められなかった。
懐かしい、大好きな人の顔がすぐ目の前にある。
黒々とした眉やがっしりとした顎、そして硬く引き結ばれた口元から漂う獰猛な気配と、それとは裏腹に感情の読めない冷ややかな目。
初めて会った頃はこの目が怖くて仕方がなかった。でもあの時でさえ今の彼と比べればたいそう僕に好意的な態度だったのだとわかる。それくらい今僕を見下ろしている彼は、まるで夜中にうろつくコソ泥でも見るような冷めきった目をしていて……
そこで、今自分が頭に何も被っていないことに気がついた。いけない、耳のピアス……!
僕が激しく動揺したのにすぐに気づいたダルガートの視線がわずかに逸れて僕の耳を見る。
「こ……これは駄目……っ!!」
思わず力任せにもがいて耳を押さえ、しゃがみ込もうとした。けれど暴れる僕の両腕をいとも容易く捕らえたダルガートの手はまるで鋼鉄の枷のようでびくともしない。
どうしよう。これを取り上げられたらと思うと怖くてますます涙が止まらなくなる。ああ、嫌だ。こんな風に泣くのが嫌で、強くなりたくて、二年半の間ずっと自分を鍛えてきたはずなのに。
その時、悔しさと情けなさに伏せた頭の上でダルガートの声がした。
「ここで何をしていた。大祭の間、塔の上は立ち入りを禁じられていることを知らぬはずはなかろう」
声は同じ。
でも話し方が違う。
また泣きたくなるのを必死にこらえる。
「……ただ、景色を見ていただけです」
「このような夜更けに?」
「日中は自由になる時間などないので」
半ばやけくそ気味にそう答える。すると僕の腕を握る手から少しだけ力が抜けた。
「確かにその通りだ」
一瞬、ダルガートがあの少し意地悪そうな、皮肉げな笑みを浮かべて言ったような気がして思わず顔を上げる。けれど夜でも目深に被ったままのシュマグの下の表情はよくわからなかった。
彼が神殿の警護につく時の黒い革の鎧に白い衣を纏った姿なのに気づく。そうか、今夜も彼は夜番なのか。それでこんな時間に塔の上にいる僕に気が付いて不審に思い、問いただしに来たのだろう。
するとダルガートが僕の寝間着を見下ろして言った。
「部屋に戻れ」
それだけ言い置いて踵を返す。え、それだけ? ピアスのことは? 驚いて思わず両耳に触れた拍子にまた冷たい風が吹きつけ、羽織っていたジャヒーヤが飛ばされてしまう。
「あっ」
するとこちらに背を向けていたにも関わらず、まるで後ろにも目があるようにダルガートがそれを捕まえた。そして僕に差し出す姿に、昔同じようなことがあったと思い出す。そう、カルブの儀式でアジャール山に登った時に。あの時もこうやって風に飛ばされたシュマグを捕まえてくれて、そして。
それが限界だった。
「……ッ、う゛、う゛~~~~~~っ!」
とうとう我慢できずにその場にしゃがみ込む。
好きだ。やっぱりダルガートが好きだ。例え僕のことを覚えていなくても、あんな冷たい目で見られても、まるで見知らぬ他人のように扱われてもどうしても好きでいることをやめられない。
泣いちゃ駄目だ。きっとおかしなやつだと思われる。情けない男だと嫌われる。だけど致命傷になるほど深い傷から流れる血が止められないのと同じように、涙が後から後から溢れてきてしまう。
彼と最後にゆっくり話をしたのはイスタリアの太陽の光溢れる石造りの回廊だった。彼はそこで、僕やサイードさんのように家族を思い誰かのために自分を犠牲にしようとする感情にはまるで縁がなかったと言っていた。
そのくせ、彼はこうも言ったのだ。「貴方もサイード殿も、私とはあまりにも違う人間だ。だからこそ貴方がた二人を大事に思う」と。それが愛でなくて一体なんだというのだろう。
今思えば、彼が心に思っていることを自分からあそこまでたくさん話してくれたのはあの時が初めてだった。あれが最初で最後になってしまうのだろうか。
自分に気を許すなと言っておきながら、レティシア王女とサイードさんの話を聞いてショックを受けた僕を支えてくれて、灼熱の砂漠を突っ切って僕たちを助けに来てくれた。
いつでも僕を少し離れたところから守ってくれて、強くなりたい僕のために剣を教えてくれて。大きくて重い身体に組み敷かれて、抱きしめられて奥の奥まで何度も愛された。
僕をからかう意地悪な言葉が聞きたい。あの腕でぎゅっと抱きしめられて、押しつぶされそうな身体の重みを感じたい。
すると空気が動く気配がして、ダルガートが僕の前に膝をついた。
「なぜ泣く」
こんな時でも冷静で冷淡なダルガートの声が憎らしくて愛おしい。
「……ダルガートが好きだから」
もうどうなってもいい。そんな投げやりな気持ちで答えた。
もう我慢ができなかった。気持ちが悪いと思われても、くだらぬことを言うなと殴られてもいいからはっきりと口に出して叫びたかった。
ダルガートが好きだ。好きで好きで、どうしても思いを断ち切れない。
突然大きな手に顎を掴まれて持ち上げられる。
ダルガートの冷ややかな目が僕を見ている。いや、正確には僕のピアスを。
「……右に鑽玉、左に橄欖玉」
ダルガートが小さく呟く。聞き覚えのないその名を僕はただ黙って聞いた。
「この耳環をどこで?」
「……貰ったんだ。世界で一番大切な人たちに」
何を考えているかまったくわからない黒い目がじっと僕の耳を見ている。息もできずに答えを待っていると、ふいに顎から手が離れてぐい、と立たされた。
「大祭の間は特に警備の目が厳しい。夜間不出の禁を違えるな」
「…………わかりました」
密かに、耳のピアスを見たら全部思い出してくれるのではないかと期待していた。あの砂漠の塔の男がこれは『めちゃくちゃボーナスポイント高いアイテムだし、特殊効果も追加しておいた』と言っていたから。
でもそんな都合よくはいかないようだ。
ジャヒーヤを僕に渡し立ち去るダルガートの背中を黙って見送る。そして一人で階段を降り部屋に戻った。
そこは初めて僕がサイードさんとアジャール山を見たところで、その後カハル皇帝と一足先にアル・ハダールへ帰国するダルガートとの別れの時に三人で景色を眺めた場所だった。
白くて丈の長い寝間着の裾が汚れないように手で持ち、階段を上って塔の外へ出たとたん冷たい風が吹きつけて思わず身を竦ませる。しまった、もっと厚い毛布を持ってくるべきだった。こんな時、昔アジャール山でヤハルが手渡してくれた駱駝の毛布があったらな、と思う。
前の世界のような極端な渇水はなくてもここが砂漠地帯であることには変わりない。昼夜の寒暖の差を肌で感じながら僕は薄掛けをきつく巻き付け、胸壁に乗せた腕に顎を乗せた。
この世界に来てから毎日町で奉仕活動をしてはいたが、こんな風に上から外の景色を見るのは初めてだ。
以前と同じく見渡す限りの砂漠に囲まれているが、ところどころにオアシスが見えるし、神殿の回りには豊かに茂る木々や畑まである。
「本当に新しい別の世界になったんだなぁ……」
そう呟いてぼんやりと景色を眺めた。空には満点の星、そして冴えわたる満月がある。そういえば夜の砂漠で初めてお互いちゃんと告白しあった時も空には綺麗に満月があった。
「サイードさんも元気にしてるかな」
アル・ハダールからの一行にはサイードさんはいなかった。神殿長によれば本国に残っているわけでもないらしい。
やっぱりダウレシュにいるんだ。家族と一緒に。
良かった、と思う気持ちは本当だ。だって家族を守れなかったことをあんなに悔やんでいたのだから、今では牧草も水も豊かになった生まれ故郷で大好きな家族や馬たちに囲まれて生きられることはサイードさんにとって一番の幸せだろう。
僕もなんとか住む場所は確保できているし仕事もちゃんとある。それにウルドだっている。
ダルガートも相変わらず人を寄せ付けない雰囲気バリバリでちょっと遠巻きにはされているみたいだけれど、この間鍛錬から戻った神武官たちがどうしてもダルガートに勝てないと話していたり、通いの下働きの少年が町でごろつきに絡まれた時に彼に助けてもらったと興奮しながら言っていたから、それなりに馴染んでうまくやっているのだろう。
この世界の歴史を改変してしまうというかなり荒っぽい手を使ってしまったけれど、僕が知る限りでは八方丸く収まっているようだ。良かった。うん良かった。
そう思いながら無意識に耳のピアスを触っていたのに気づいて慌てて手をどけた。
最近、いつも気が付くとピアスを弄っていることが多くて困る。こんな高価なものを下級神官の僕がつけているのがバレたら絶対不審に思われるし、下手をすればどこかで盗んだと思われかねない。それにあまり頻繁に触っていたら留め具が外れて落としてしまう可能性だってある。
それでもついピアスに触れたくなる手をぎゅっと掴んで胸壁に顔を伏せた。
「…………会いたいなぁ……」
サイードさんに会いたい。ダルガートのそばにいたい。会えなくて悲しい。話せなくて寂しい。
今みたいに綺麗な夜空と満月の下を三人一緒に神殿に向かって歩いたあの時はあんなに幸せだったのに。
寂しい。でもサイードさんが故郷で幸せに暮らしているならそれでいい。だけどあの時と同じ夜空を一人で見ていると涙が出てきてしょうがない。
駄目だ。泣いたらまた嵐が――――ああ、もう神子の力なんてないんだっけ? ならどれだけ泣いても大丈夫かな。わからない。またしても初めの頃のようにルールがわからなくなってしまって不安でたまらない。
砂漠の塔で、僕も元の日本に帰してもらうべきだったのかもしれない。でもできなかった。
「だって、会いたかったんだ。もう一度、サイードさんとダルガートに」
目の奥がたまらなく熱くて溢れる涙が止まらない。
一人は寂しい。一緒にいたい。ずっと、ずっと三人一緒に。
その時、突然肩を掴まれ胸壁から引きはがされた。肩に食い込む指の力がとてつもなく強い。
「い、痛……っ」
思わず声を上げたがその手は少しも緩まなかった。
「ここで何をしている」
冷たい風の隙間から聞こえてきた声に呼吸が止まる。
「ダ、ダルガー……」
ト、と顔を跳ね上げ名前を呼びそうになって慌てて唇を噛んだ。だってこの世界ではお互いの名前さえ知らないのに、親し気に呼び捨てになんてしたら絶対に不快に思われる。
それでもつい食い入るように彼の顔を見つめてしまうのだけは止められなかった。
懐かしい、大好きな人の顔がすぐ目の前にある。
黒々とした眉やがっしりとした顎、そして硬く引き結ばれた口元から漂う獰猛な気配と、それとは裏腹に感情の読めない冷ややかな目。
初めて会った頃はこの目が怖くて仕方がなかった。でもあの時でさえ今の彼と比べればたいそう僕に好意的な態度だったのだとわかる。それくらい今僕を見下ろしている彼は、まるで夜中にうろつくコソ泥でも見るような冷めきった目をしていて……
そこで、今自分が頭に何も被っていないことに気がついた。いけない、耳のピアス……!
僕が激しく動揺したのにすぐに気づいたダルガートの視線がわずかに逸れて僕の耳を見る。
「こ……これは駄目……っ!!」
思わず力任せにもがいて耳を押さえ、しゃがみ込もうとした。けれど暴れる僕の両腕をいとも容易く捕らえたダルガートの手はまるで鋼鉄の枷のようでびくともしない。
どうしよう。これを取り上げられたらと思うと怖くてますます涙が止まらなくなる。ああ、嫌だ。こんな風に泣くのが嫌で、強くなりたくて、二年半の間ずっと自分を鍛えてきたはずなのに。
その時、悔しさと情けなさに伏せた頭の上でダルガートの声がした。
「ここで何をしていた。大祭の間、塔の上は立ち入りを禁じられていることを知らぬはずはなかろう」
声は同じ。
でも話し方が違う。
また泣きたくなるのを必死にこらえる。
「……ただ、景色を見ていただけです」
「このような夜更けに?」
「日中は自由になる時間などないので」
半ばやけくそ気味にそう答える。すると僕の腕を握る手から少しだけ力が抜けた。
「確かにその通りだ」
一瞬、ダルガートがあの少し意地悪そうな、皮肉げな笑みを浮かべて言ったような気がして思わず顔を上げる。けれど夜でも目深に被ったままのシュマグの下の表情はよくわからなかった。
彼が神殿の警護につく時の黒い革の鎧に白い衣を纏った姿なのに気づく。そうか、今夜も彼は夜番なのか。それでこんな時間に塔の上にいる僕に気が付いて不審に思い、問いただしに来たのだろう。
するとダルガートが僕の寝間着を見下ろして言った。
「部屋に戻れ」
それだけ言い置いて踵を返す。え、それだけ? ピアスのことは? 驚いて思わず両耳に触れた拍子にまた冷たい風が吹きつけ、羽織っていたジャヒーヤが飛ばされてしまう。
「あっ」
するとこちらに背を向けていたにも関わらず、まるで後ろにも目があるようにダルガートがそれを捕まえた。そして僕に差し出す姿に、昔同じようなことがあったと思い出す。そう、カルブの儀式でアジャール山に登った時に。あの時もこうやって風に飛ばされたシュマグを捕まえてくれて、そして。
それが限界だった。
「……ッ、う゛、う゛~~~~~~っ!」
とうとう我慢できずにその場にしゃがみ込む。
好きだ。やっぱりダルガートが好きだ。例え僕のことを覚えていなくても、あんな冷たい目で見られても、まるで見知らぬ他人のように扱われてもどうしても好きでいることをやめられない。
泣いちゃ駄目だ。きっとおかしなやつだと思われる。情けない男だと嫌われる。だけど致命傷になるほど深い傷から流れる血が止められないのと同じように、涙が後から後から溢れてきてしまう。
彼と最後にゆっくり話をしたのはイスタリアの太陽の光溢れる石造りの回廊だった。彼はそこで、僕やサイードさんのように家族を思い誰かのために自分を犠牲にしようとする感情にはまるで縁がなかったと言っていた。
そのくせ、彼はこうも言ったのだ。「貴方もサイード殿も、私とはあまりにも違う人間だ。だからこそ貴方がた二人を大事に思う」と。それが愛でなくて一体なんだというのだろう。
今思えば、彼が心に思っていることを自分からあそこまでたくさん話してくれたのはあの時が初めてだった。あれが最初で最後になってしまうのだろうか。
自分に気を許すなと言っておきながら、レティシア王女とサイードさんの話を聞いてショックを受けた僕を支えてくれて、灼熱の砂漠を突っ切って僕たちを助けに来てくれた。
いつでも僕を少し離れたところから守ってくれて、強くなりたい僕のために剣を教えてくれて。大きくて重い身体に組み敷かれて、抱きしめられて奥の奥まで何度も愛された。
僕をからかう意地悪な言葉が聞きたい。あの腕でぎゅっと抱きしめられて、押しつぶされそうな身体の重みを感じたい。
すると空気が動く気配がして、ダルガートが僕の前に膝をついた。
「なぜ泣く」
こんな時でも冷静で冷淡なダルガートの声が憎らしくて愛おしい。
「……ダルガートが好きだから」
もうどうなってもいい。そんな投げやりな気持ちで答えた。
もう我慢ができなかった。気持ちが悪いと思われても、くだらぬことを言うなと殴られてもいいからはっきりと口に出して叫びたかった。
ダルガートが好きだ。好きで好きで、どうしても思いを断ち切れない。
突然大きな手に顎を掴まれて持ち上げられる。
ダルガートの冷ややかな目が僕を見ている。いや、正確には僕のピアスを。
「……右に鑽玉、左に橄欖玉」
ダルガートが小さく呟く。聞き覚えのないその名を僕はただ黙って聞いた。
「この耳環をどこで?」
「……貰ったんだ。世界で一番大切な人たちに」
何を考えているかまったくわからない黒い目がじっと僕の耳を見ている。息もできずに答えを待っていると、ふいに顎から手が離れてぐい、と立たされた。
「大祭の間は特に警備の目が厳しい。夜間不出の禁を違えるな」
「…………わかりました」
密かに、耳のピアスを見たら全部思い出してくれるのではないかと期待していた。あの砂漠の塔の男がこれは『めちゃくちゃボーナスポイント高いアイテムだし、特殊効果も追加しておいた』と言っていたから。
でもそんな都合よくはいかないようだ。
ジャヒーヤを僕に渡し立ち去るダルガートの背中を黙って見送る。そして一人で階段を降り部屋に戻った。
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