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一章:迷い込んだのは人ならざる物の住む世界

9:お狐様はマイペース

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「っ……」

 唇をなぞられる感覚に、渉は先ほどの心地よさを思い出す。そして、渉の唇をなぞるその行動すら色香を纏わせる男に渉は、ドキリとした。

(何もかもが、絵になる……!顔が良いってずるい……!)

 男の行動にドキマギする渉をよそに男は説明を始める。

「交わりと言うものは、深ければ深いほど隠せるのだ。名を交わす。口づけを交わす。体を重ねる。とな……。お主の気質は、名を知るだけでは隠せそうになかったゆえに、唾液を介したのだ」
(そうなんだ……)

 突然、口づけられて驚いたが男の行動に意味があった事を知り、男が酔狂で唇を重ねた訳では無い事に胸をなでおろす。

「だが、普通であれば、神に連なる者や怪性の類は人の子の存在へと干渉することが出来るゆえ……尋ねられても気軽に名乗るのではないぞ」

 柔らかく笑う男に一瞬見惚れた渉だったがその言葉にハッとした。

「え、あ……お、俺……!さっき……!」
(この人に普通に名乗ってた!?)

 男に名乗った事を思い出し、渉は青ざめ、泣きそうな表情を浮かべる。

「そうだな。それくらいの危機感は持った方が良かろう。だが、安心せい。我がお主の名を縛る事はせんよ。参拝する時は、願いと共に名と住み家を述べよと言うだろう?先の名乗りはその程度のものだ」

 男の言葉に渉は、ホッとしたように肩を落とした。

「だが、常々気をつけるのだぞ。先の存在のようなものに名を知られたら影響を受ける。我がしたように唇を重ね、体液を混ぜるのも避けよ」
「し、しない!するわけがない!あ、あんなのとなんて!」

 あの黒い靄《もや》と唇を重ねるイメージを浮かべて、渉は必死に首を横に降る。

「あれは分かりやすく異形であったが、人に近い姿をしている者もおるのだ。人に化けたモノノケが人を喰らう話などどこにでも転がっているだろう?」

 男の言葉に渉の脳裏にいくつかの昔話が過る。山姥であったり、鬼であったりだ。

 それを思い出し、そういう存在が実在するなら……気をつけるに越したことはないと必死に頷いた。

「良い子だ」

 頷く渉に男は、笑みを浮かべて、渉の頭を撫でる。その手付きは、幼い子供を撫でるようなもので、渉に口づけたり、唇をなぞった時のような色香はなかった。

「さて、あまり長居する場所ではないし帰るとするか」
「あ、うん……って、わぁあああっ!?」

 帰ると言う男の言葉に頷いた渉を、男は横抱きに抱える。

「な、なんでっ!」
「歩けぬのだろう?」
「うぇっ……!?」

 抱えられた事に驚いた渉だったが、事もなさげに言った男の言葉に変な声をあげた。

「うぁ……ぅ……そ、そうだけど……」

 黒い靄《もや》の接近で抜けた腰は、未だに力が入らず、男の言葉通り立つ事ができなかったのだ。

「だろう?現世に戻るだけではなく、家まで送り届けてやろう。どこに住んでおる?」
「えっと……」
(住所を教えても良いんだろうか?でも、さっき大丈夫って言ってたし……大丈夫だよな?)

 名乗りはしたが、さすがに住所は……と、思った渉だったが、先ほどの男の言葉を信じて、住所を口に出す。

「えっと……四丁目の米盛《よねもり》荘……ってアパートの二〇三号室……」
「あいわかった。確かに、そちらへ送り届けよう」

 渉の言葉に頷いた男は、男を見上げる渉の額へと口づけを落とす。

「っ!?」
「現世との境界を渡るのは、酔う事もあるからな。しばし眠ると良い」

 突然の額へのキスに驚いていた渉だが、その男の言葉と共に目蓋が重くなっていく。

「まっ……」
(待って)

 まだ話していたい。と、思った渉は男へと呼び掛けようとするも襲いくる睡魔に勝つ事はできず、その目蓋を閉じる。

 目蓋を閉じる直前。渉が見たのは優しく笑う男の笑みだった。
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